何か指摘されて即座に反省する人は、反省すること自体は良いのですが、反射的に反省しているだけなので結局また同じことを繰り返しているように見えます。「反省」という以上、すぐに反応するのではなくてしばらく考えても(何度も省みる時間をかけても)良いのでは?
【ただいま読書中】『トーキョー・レコード ──軍国日本特派員報告(上)』オットー・D・トリシャス 著、 鈴木廣之・洲之内啓子 訳、 中央公論新社(中公文庫)、2017年、1300円(税別)
1941年1月、著者はニューヨーク・タイムズの特派員として東京に派遣されます。著者は遺書を書き、トランクに(もし天皇に拝謁できたときのための)モーニングとシルクハット、(もし刑務所に入れられたときのための)ウールの下着を入れました。船はがらがらでしたが、そこで出会った「中国通」たちは、日本は中国との戦争に疲弊していて、もうすぐ革命が起きるだろう、という意見を持ち、日本の指導者たちは革命よりは戦争を望むだろう、とも予想をします。著者はその予想には懐疑的です。船はサンフランシスコを出港してハワイ真珠湾に寄港してから、横浜に向かいます。著者が到着した日本は、アメリカで予想していたのとは違って、明らかに戦争状態でした。ドイツでの経験から「政府に監督された新聞の記事」を注意深く読んで著者はその確信を深めます。さらに、日本人自身が「自分たちは戦争状態にある」と自覚していることにも気付きます。
アメリカに打つ特電には検閲がかかっていました。この検閲をかいくぐって“真実(あるいは事実)"をアメリカに伝えるために著者は非常な苦心をします。その一つの手は「日本人に語らせる」こと。日本の新聞に報じられた記事をそのまま引用するのですが、たとえば朝日新聞の「ドイツとソヴィエト連邦が戦争を始める危険性を憶測するのは性急である」という記事を送ることで「日本にそのような憶測が存在すること」を伝えるわけです。
仏領インドシナとタイとの領土紛争を日本が“仲裁"しようとしていますが、これは武力外交の一環でした。さらに米・英・オランダをにらんでの「神経戦」が展開されます。日ソ中立条約が締結されます。これで両国は“背後"を気にせずに「戦争」に集中できるわけです。しかしこれは「二つの国」だけの問題ではありません。世界がその「意味」をかみしめています。日本はこんどは「蘭領東インド」を支配下に置くための交渉(というか恫喝)を始めます。著者はそこに「ヒトラーが使った古い手口」を見ます。
著者は1933年からベルリン支局に勤務していて、ナチスの勃興を詳しく見ていました(その報道で40年にピューリッツァー賞を受けています)。“現場"にずっといたので当然ナチスの手口には詳しいわけです。ナチスが内部では日本人のことを「モンキー」と呼んでいることも知っていました。そしてそれを日本人が気にしていないことをいぶかります。
著者は「誰が日本の方針を決定しているのか」とまどいます。政治家や軍人はそれぞれ勝手なことを言っています。政権の責任者も、何かことがあるとあっさり首を切られて交代させられてしまいます。一体誰の言うことを信用したらいいのかわかりませんし、信用したとしてもその人がいつまでそのポストにいるかもわからないのです。
日本では「独ソ開戦は間近」と思われていましたが、それでも6月22日に開戦のニュースが報じられると、皆押し黙ってしまいます(ショックもありますが、うっかり変なことを口走ったら逮捕されるからでもあります)。枢軸国と日本に尽くそうと奔走していた松岡外相の命運は尽きます。讀賣新聞は、ウラジオストックから陸揚げされる英米の援助物資を妨害するためにシベリア出兵を主張します。日本政府と大本営は連絡会議を何度も開きます(方針が決まらないから何度も開く必要がある、と著者は見抜いています)。10日が空費され、やっと御前会議で方針決定。これは国家機密ですから詳しくは発表されませんが新聞は「日本人なら皆わかっていることだから、あらためて公表する必要はない」とします。
7月22日、すべての新聞は一斉に「ABCD連合国」についての非難を再開し、同時に仏領インドシナで緊張が高まっている、と「日本の次の手の予告」を行います。25日に新聞は、仏領インドシナでの交戦の可能性とそれに対する英米の報復について言及します。26日にはフランスのヴィシー政権との交渉で仏領インドシナの“防衛"を日本が請け負ったことが発表されます。これは「ABCD同盟の鉄の包囲網を破り」「日本海軍が南洋に君臨する」偉業と新聞は祝福します。しかし「石油の供給打ち切り」という難題が解決したわけではありません。
著者は「八紘一宇」という“思想"のあまりのわかりにくさに頭を抱え、古事記の勉強を始めます。古代中国や古代日本の歴史の知識と照らし合わせると、著者がそこに見たのは……