「日本はアジアを欧米列強から解放するために戦争を始めた」という主張がありますが、ヴェトナムを見るだけでその主張の怪しさがわかると私は思っています。日本軍は「解放者」ではなくて「新しい支配者」としてヴェトナムに君臨し、飢饉なのに米を強制的に徴発したため多数の餓死者が出たとヴェトナム側に宣伝され、45年には「8月革命」が起きています。日本とは別の主張がヴェトナムにはあるようですから。
【ただいま読書中】『愛国とは何か ──ヴェトナム戦争回顧録を読む』ヴォー・グエン・ザップ 著、 古川久雄 訳、 京都大学学術出版会、2014年、2800円(税別)
米軍がヴェトナムに本格介入した1965年から撤退した73年までに、投入された砲爆弾は1400万トンで内半分が爆撃機からのものでした(第二次世界大戦で日本本土に投下された爆弾は16万トン、ドイツには202万トンですから、桁違いの多さです)。犠牲者の数も膨大です。米軍の死者は5万8千、負傷者15万3千、行方不明1000人以上。ベトナム人の犠牲者は、アメリカの統計ではサイゴン軍22万、革命側66万6千、南の民間人24万7千、北の民間人6万5千。ヴェトナムの統計では、サイゴン軍22万、革命側110万、南北の民間人200万。
本書は1972年12月のハノイで始まります。3年かけてやっと大詰めにさしかかったパリ和平交渉ですが、南ヴェトナムのグエン・ヴァン・チュー大統領は締結に反対、アメリカ軍はB52戦略爆撃機200機をはじめとして大量に航空機を投入してハノイを攻撃することにします。これで北ヴェトナムに大打撃を与えて協定にサインさせよう、という目論見です。ところが北ヴェトナムではそれを予想して、B52対策のミサイル部隊などをハノイ周辺に重点的に配備していました。ただしミサイル不足は深刻で、工場で組み立てられたものが即座にミサイル陣地に運ばれて発射されていました(レニングラード包囲戦で、戦車工場で組み立てられた戦車にそれを組み立てた工員が乗ってそのまま出撃したエピソードを私は思い出します)。著者は猛爆撃下でもミサイル陣地を巡回し兵士を激励します。12昼夜の爆撃で10万トン以上の爆弾を投下されたハノイやハイフォンなどは大損害を受けますが、米軍もB52を32機失うという損失を受けました(200分の32ですから、大損失です)。この戦いは「空のディエンビエンフー戦」と呼ばれます。そしてニクソン大統領は、10月の合意内容による和平交渉再開を提案します。グエン・ヴァン・チュー大統領は反対しましたが、ニクソンとキッシンジャーは「力」をこんどはグエン・ヴァン・チューに向けてこちらは押し切りました。
著者は単に「軍事力」だけでヴェトナム戦争を見ていません。というか、もし軍事力の比較だけだったら、アメリカ(+南ヴェトナム政府軍)と北ヴェトナム(+ベトコン)では、差が大きすぎて、まともな計算力の持ち主だったら最初から勝負はあきらめるはずです。しかし、国内だけではなくて国外(それもアメリカに反対する国だけではなくて味方の国)まで視野に入れて自分たちの行動を決める視野の広さは、大したものだと私には思えます。軍事・政治・外交・経済そして民族固有の文化、そこまで視野に入れる将軍はなかなかいないのではないでしょうか。
米軍が撤退してヴェトナム戦争は「ヴェトナム化」されましたが、南ヴェトナム政府は必死で攻勢に出ました。北ヴェトナム側は一時守勢に立たされますが、すぐに反撃を開始します。軍事だけではなくて行政での作戦も立てて、2年で南ヴェトナム全土を“解放"する計画です。さらに、ウォーターゲート事件によってその可能性は果てしなくゼロに近いとは言え、アメリカの再介入を防止するための外交と軍事が展開されました。著者は特に道路建設を重視しています。建設には資材と時間が必要ですが、道路の有無で作戦展開のスピードが全然違ってきますから。
北ヴェトナムが南に展開していたのは「三軍(正規軍、地方軍、民兵及びゲリラ)」だそうです。当時の新聞報道では「北ヴェトナム正規軍」と「ベトコン(当時の表記)」の二つの軍形態が報じられていましたが、「地方軍」のことは記事で読んだ記憶がありません。アメリカの州兵みたいなものかな?
著者は「イデオロギー」と「愛国心」を勝利の主因としています。ただこの「愛国」は「侵略者に対するもの」として機能したときにはとても強いけれど、たとえばヴェトナム軍がカンボジアに侵攻したときにはどんなふうに機能したのでしょう? 「国境の向こう」は「愛する祖国」ではないのですから、それほど有効には働かないのではないかな。