もし聖職者がみな聖人なのだったら、その人は「聖職者」ではなくて「聖人」と呼ばれているはずです。
【ただいま読書中】『幕末武士の京都グルメ日記 ──「伊庭八郎征西日記」を読む』山村竜也 著、 幻冬舎新書、2017年、780円(税別)
心形刀(しんぎょうとう)流剣術に秀で「伊庭の小天狗」と異名を取る伊庭八郎は、元治元年(1864)21歳の時将軍家茂の上洛に警護の一員として随行しました。本書はその時の日記です。その前年に京では新撰組が活動を開始、日本は騒がしくなっていた時代でしたが、日記から見る限り、伊庭八郎は観光と食べ歩きに精を出していたのだそうです。さて、その実態は?
将軍が初めて御所に参内する、という大イベントの警護を務めた日はさすがに大変だったようで、旅宿に戻れたのは「九つ(午前0時頃)」だったのですが、その次のページには「北野天満宮」「金閣寺」「鰻」が登場します。手土産でもらった天王寺かぶの千枚漬けも食べていますが、公式には聖護院かぶの千枚漬けが京都で初めて販売されたのは慶応元年(1865)。つまり伊庭八郎はまだ一般に出回る前の千枚漬けを記録に残した、ということになりそうです。
二条城勤めは「4日に1日の出勤」。ずいぶん余裕ですが、他の本を読んだ記憶では、当時のお城勤めの記録ではこれくらいのペースが“常識"だったようです。ただし当番の時には夜勤になるようで、けっこう不規則な勤務スケジュールにはなります。それでも非番の日が多いから、ぶらぶら出歩くことが増える、ということになるのでしょう。まるで「京都のガイドブックを完全制覇するぞ」と言わんばかりに、連日あちこちに出かけています。夜勤明けでも剣術の早朝稽古には参加するし、エネルギーがありあまっている人だったのでしょうね。
ちょっと変わった食材として「鶴」が登場します。当時は鶴が「家畜」として飼育されていたのだそうですが、どんな味なんでしょう?
食事以外にも書籍とか武具とかけっこうな買い物を八郎は繰り返しています。様々な人々と交流して物のやり取りもしょっちゅうです(もらったらお返しをしなければなりませんから)。足し算をすると結構な額なんですが、部屋住みで定収入はないのに、どうしてここまでお金が使えたのか、不思議です。父親と一緒に赴任していますからすねをかじったのか、剣術の指導で副収入でもあったのか、京への“出張"でお手当をたんまりもらえたのか……このへんの“家計簿"を見てみたいものです。
頂き物の赤貝に中ったらしく寝込んでいたら、病気見舞いに鮑をもらった、というのには笑ってしまいます(しかもその人は、その赤貝をくれた人です)。さらに翌日見舞いに来た4人からもらったのは、煮豆、カステイラ、雪おこし、羊羹……八郎はよほど食いしん坊という周囲の評価だったのかな?
3箇月半の京滞在が終わると、江戸に帰る前に挨拶回り。八郎はきっちりと義理を果たしている様子です。淀川を船で大坂に下る将軍に随行して、途中でくらわんか餅を村人が船で売りに来たことが日記にあります。「公務中」でも食べるものは食べています。大坂では宿舎として大仙寺があてがわれましたが、料理人も手配されていて「京都よりよほど手厚くもてなされた」とあるのには笑ってしまいます。そして大坂でもやることは、参詣と市中見物。ただ、昼食に寿司(当時の大坂なら箱寿司)を食べたら値段が一人一朱とか一朱と百文とか、ずいぶん高いお寿司です(一両を10万円としたら一朱は6000円ちょっとになります)。江戸に海路戻る将軍を天保山で見送り、指定された次の船便の席を先輩に譲り八郎はもう少し上方で過ごすことにします。目的はおそらく「もうしばらく羽を伸ばすこと」だったのではないか、と著者は推定しています。実際、大坂・堺どころか、奈良までの一泊旅行まで八郎はおこなっています。夜は飲み会や天ぷらパーティー。八郎はしっかり羽を伸ばしています。結局徒歩で江戸に戻ることになりますが、途中で何度も道を間違える、というトラブルに見舞われています。弥次喜多でも道を間違えることはなかったですよねえ。しかも、川止めで石部に滞在しているところに「京で事件勃発(池田屋事件のこと)」。引き返して都の治安維持に当たるように命令が。一同は早駕籠で12時間揺られて京に直ちに戻りましたが、お褒めの言葉だけで結局「仕事」はありませんでした。もう一度江戸に帰ろうとして、途中で唐突に日記は終了します。その後戊辰戦争で八郎は左腕を失い、それでも戦い続けて箱館の五稜郭で戦死をしました。初めての上方で仲間たちと談笑しながらせっせと見物と食い歩きをしていた人が、この最後。なんだかとっても“もったいない"と思えて仕方ありません。