子供時代に漫画のページを開いて「この絵が目の前で動いてくれたら」という夢想をした漫画好きは昔は多かったはずです。ところが映画館やテレビで、妙にリアルな動きをするCGアニメなどを見ると、逆に不自然な感じがして仕方ありません。私にとって「漫画の動きのリアル」って何なんだろう、と、子供時代にまで遡って不思議に思っています。
【ただいま読書中】『まんがはいかにして映画になろうとしたか ──映画的手法の研究』大塚英志 編著、 NTT出版、2012年、2600円(税別)
『マンガ家入門』(石森章太郎)では自身の作品「龍神沼」を題材としてストーリー展開やカット割り、クローズアップ、場面展開などが映画用語も駆使して語られていました。
本書では、「映画的手法」の先駆者だった(しかしその言葉を理解できる後輩たちに恵まれていなかった)手塚治虫と、「映画的手法」に自覚的でしかも後進に的確に指導する環境に恵まれていた石森章太郎とがまず取り上げられます。(ついでですが、本書前書きでは「石ノ森」ではなくて「石森」表記です。子供のころからずっと「石森章太郎」で育った私には嬉しい表記です)
戦前からすでに「モンタージュ理論(視点が異なる複数のカットを組み合わせる表現方法)」は、映画以外の世界でも受容されていました。本書には、紙芝居や詩で「モンタアジュ」を取り入れた作品があったことが紹介されます。
しかし、本書に収載された論文は、ずいぶん格調高くまとめられています。「映画とは何か」「映画が漫画に与えた影響は」など学術的なテーマを論じているのですが、映画にしても漫画にしても「映像(映画はそれに音もプラスしている)表現」なので、それを「言語」で論じるのは、ちょっともどかしく感じます。ついでに言うと、映画と漫画の「面白さ」を言語で表現し尽くすことができるのか、というもどかしさも私は感じます。ただ、漫画を題材にした以上「不真面目だ」と批判されないためには、必要以上に「真面目」にならざるを得ないのでしょうけれどね。
もちろん「龍神沼」も解析されています。ただ、すでに作者自身が映画的に解説しているので、二番煎じにならないためには相当な苦心があったはず。ともかく「漫画の一コマ」を「映画のワンカット」に比定して、カメラ位置を想定してそのカメラワークを見る、という手法で「龍神沼」が語られています。別にそんな見方をしなくても「龍神沼」では「動き」や「カット割り」を感じることができましたが、「カメラ」を想定するとそれがさらに生き生きとしたものに変わりました。
映画の「カット」は、フィルムをつなぐ作業から生まれましたが、漫画の「カット」は「コマ割り」や「ページをめくる」作業から生まれたと言えます。ただ、優れた作品だったら、映画でも漫画でも、私の心を刺激する「ツボ」はごく近いところにあるのかもしれません。ただその「ツボ」が「同じ場所」にあるとは限りませんが。