降霊会などで「私は殺された」とか「前世では○○だった」とかいう主張を聞くと人は丸ごと信じるか全否定するか、ですが、その“幽霊”が嘘つきだ、という可能性についてはどうなのでしょう? 人間には正直者も嘘つきもいますが、幽霊だってそれは同じでしょう。さらに幽霊には現物としての「脳」がないのですから記憶障害もあるのでは?
【ただいま読書中】『幽霊を捕まえようとした科学者たち』デボラ・ブラム 著、 鈴木恵 訳、 文藝春秋、2007年、2476円(税別)
進化論でダーウィンの“共著者”となったウォレスは、「進化」の観点から原始社会は西洋社会より遅れている、と考えていました。しかし、10年ぶりに帰ってきたイギリスには原始社会にも劣る“暗部(スラム、売春宿、ストリートチルドレン、など)”がありました。そこで、自然の物理的側面だけではなくて道徳的側面も科学者は研究するべき、とウォレスは考え、心霊現象を調査することにします。しかし19世紀の科学者は基本的に、心霊現象や超常現象に対しては「全否定」の立場でした。「調べよう」という態度でさえ、許容できない、という立場です。
この時代、原子構造はまだまったくの未知でしたが(というか、まだ原子論が確定していません)陰極線(電子の流れ)が発見され「未知の力(エネルギー)」があるはず、という雰囲気が科学界には醸成されていました。だったら未知の心霊エネルギーがあっても良いではないか、というのが心霊現象研究者の言い分となります。
「地球は神が人類のためにつくった」は「進化論」によって棄却されました。しかし、ニュートンの寒々とした宇宙論(質点としての惑星が、力学の法則に従って延々と回り続ける)の中に生きるのも辛い感じです。だから科学の世界に“温もり”を求めて心霊研究をする科学者が登場したのかもしれません。さらに「錬金術」は「化学」に、「占星術」は「天文学」になりました。ならば、心霊現象や超常現象の研究も同様に「科学」になるかもしれません。
……たしかに「可能性」は否定できません。確率はずいぶん小さいとは思いますが。
テレパシー、予知、サイコメトリー(物に刻まれた記憶を読み取る能力)……様々な実験が「科学的」におこなわれますが、結果はばらばらです上手くいくときもあればまったく外れの時も。そこで研究者は「上手くいかない理由」を説明しようとします。たとえばテレパシーの時には、「同時に同じ風景を見ていてもまったく違った印象を受けることがある(たとえば一人は「きれいなお花畑」、もう一人は「花粉症が苦しい」)。同様にテレパシーで送られたイメージは受けた側が“翻訳”をしているのかもしれない」といった理由づけです。しかしこれを言ってしまうと「何でもあり(事実ではなくて解釈ですべてが決定される)」になってしまうのですが。私が知っている科学的態度では、まずデータに立脚した一般論(仮説)を立てた上で、例外をどう扱うかを考えるのですが、このテレパシー実験では順序が逆転しています。もっとも、心霊研究を批判する者の態度も褒められたものではありません。きちんと研究者の著作を読んで批判するのではなくて、最初から「インチキだ」と決めつけて本を読みもせずにその内容を批判するのですから。もっとも、テレパシー肯定派でさえ、調査をしたら山ほどのインチキを発見するのですから、否定派がそういった態度になってしまうのはわからないではないですが。
ロンドンで切り裂きジャックが活動し、姿を消しました。心霊研究は、相変わらず否定の嵐の中で細々と継続されていました。そして20世紀が到来。科学技術はますます発展します。そして心霊研究者は相変わらず活動を続けていました。
かつて世界は「怪奇」に満ちていました。精霊・妖怪・幽霊などのたまり場だったのです。一神教によってそれらは退場を強いられましたが、科学が一神教を“時代遅れ”にすると、なぜか「怪奇」が復活したかのように、私には見えます。その一部に「科学」が振りかけられているのが笑えますが。ただ、無邪気に笑っていて良いのかどうかはわかりません。本書の著者と同様、私も予知夢や幽霊との出会いに縁がありませんが、だからといってそういったものを全否定して良いのか、その根拠を持っていないのです。というか、そういった「不思議」は、この世に実在していて欲しいなあ。