一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

学びの友との語らい

2007年02月20日 | 思い・日常
昨夜は、学びの友、MさんとOくんと三人でO駅周辺で飲みました。

はじめにMさん行き付けの超穴場的な沖縄料理屋さんで一杯。

Oの町にこんな雰囲気のいい沖縄料理のお店があったとは・・・。

お洒落でシンプル。

月曜日の夜なのに、こじんまりした店内はすぐに客でいっぱいになりました。

まずは近海で獲れた新鮮な刺身に舌鼓。

金目、スルメイカの身がほのかに甘い・・・。

ラフティーもなかなか。

定番のタコライスもさっぱりとしていて美味かったです。

唯一泡盛の『白百合』のインパクトは強烈でしたが・・・

名前と裏腹で全然優しくない・・・仁丹、龍角散を飲んでいるような味でした。

そして、さらにもう一軒。

つぎに行ったのは、当寺の檀家さんがマスターをしているレストランバー。

ここは私の行きつけ。

美味しい洋食とカクテルを出してくれるお店です。


学びの友たちと飲む酒は格別でした。

語らうことで元気が出る。

「よし!頑張るぞ!」という気になる。

勝友とはかくあるべし。

サングラハを通じた掛け替えのない出会い。


ちなみにその前の晩は高校時代の坊さん仲間と飲みました。

M兄晋山式の祝賀会です。

幹事のKちゃん、大変お疲れ様でした。

昔の友と飲むのも「あの頃」に戻っていい感じです。

自分も含めどうしようもない人たちの集まりなんですが・・・

お互いにいいとこもわるいとこも、恥ずかしいとこも知り尽くしているところがいい。


二次会は二手に分かれ、一方は私がネットで調べた韓国居酒屋に連れて行きました(自分の韓流ブームに付き合わせてる?)。

そこで禁断のサンナッチをいただきました・・・。

石屋さんのN氏に教わりました(Nさん、読んでますか~?)。

これが美味なんです。

罪悪感を感じながら・・・。


実は二日酔い続きの毎日・・・暁天坐禅が辛い・・・

体のために今日は晩酌をパスしました。。。


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フランクルの言葉―1

2007年02月20日 | 哲学・思想・宗教
人生はたえず、意味を実現するなんらかの可能性を提供しています。ですから、どんなときでも、生きる意味があるかどうかは、その人の自由選択にゆだねられています。人生は、『最後の息を引き取るときまで』意味のあるものに形づくることができるといってもいいでしょう。人間は、息をしているうちは、そもそもまだ意識があるうちは、人生が出す問いにそのつどそのつど答えていくという責任を担っているのです。それは、人間存在とは意識存在、責任存在にほかならない、という人間存在の重要な根本事実を思い出せば、なんの不思議もないことですが。(『それでも人生にイエスと言う』V・Eフランクル 春秋社)


しばしば人は、実存的な苦悩に目覚めたときに、「人生に意味はあるか?」、あるいは「人生にどんな意味があるのか?」という問いを立てようと試みます。
しかしフランクルは、私たちの人生そのものに、言わばア・プリオリ(先天的・潜在的)に何かの意味が内在しているのではなく、人生の方から私たちに意味を実現するよう、なんらかの可能性を提供しているのだと述べています。
なぜなら、「人生」は、私たちに意味実現の選択を提供せずにはおれない構えを本質的に有しているからです。
その源泉となる人生の構えとはすなわち、人生の「有限性」、「一回性」ということにほかありません。
そもそも、わたしたちの人生が有限でなく一回限りでなければ、「行動・態度を選択する」ということの意味がなくなってしまいます。
私たちはこうした人生の根本的構えにおいて、そのつどそのつど(一瞬一瞬)、体験を通して意味を実現することに責任を担わされた存在(責任存在)であるということを自覚しなければならないでしょう。

まとめましょう。
人生に意味があるのではなく、人生の方が私に一瞬一瞬、そのつどそのつどの意味実現の場を提供しているということです。
意味を実現するか否かは、この私の意識の選択にかかっているということ。
したがって、「つねに自分の人生に責任を持つ」ということ。
こうしたあり方こそは、先述した人生の本質から考えて、まさに私たちの「本来的な生」を開示しているのではないでしょうか。


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