一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

「セイセイセイセイセイ」、レイザーラモンHGについての小考察

2006年03月04日 | 哲学・思想・宗教
今コンビニに行ったら、昨年日本のお笑い界を風靡した、レイザーラモンHGが雑誌の表紙に出ていた。

格闘家が集う料理屋を特集した雑誌のようだ。

さて、HGの芸風については、賛否あるところであろう。

だが、好悪の感情はひとまず置いて、彼の強みは「ハードゲイ」という非日常的な役柄をひとつの隠れ蓑にすることにより、公衆上暗黙裡にタブー視される性的表現に対する、大衆の批判を無効化し、過度な嫌悪感を回避することに成功していることにある。

また、性のタブー化による心理的閉塞感を感じる人にとっては、彼が代わりにパフォーマンスすることで、擬似的な開放感を味わうことになり、一方で、性を公衆化することに拒否反応を示さない人にとっては、自身の価値観を時代が肯定しているような感覚になるであろう。

レイザーラモンHGのこうした戦略的芸風は、意図的であるなしに関わらず、従来の芸人が気づけなかった、いわば‘穴’であったと思う。

この‘穴’に彼は見事にはまったのだ。

さて、昨年流行語となった彼の「フーーーー」というお決まりの文句。

意味は不明瞭であるものの、非日常的存在の「ハードゲイ」の役柄だからこそ、笑いを誘うのであろう。
大衆は自分とは明らかに異なる、「ハードゲイ」という仮想的異邦人の言動に新鮮な感慨と、日常的な言語空間における「意味」とのズレに、おかしさを覚えるのかもしれない。

さらに、意味不明なセリフは「セイセイセイセイセイ」というあれである。

「セイ」とは「SAY」なのだろうか?

つまり「言え」ということか?

いや、彼がこの奇異な語を発する時の状況は、むしろ、自分が笑いの中で不利な立場に追い込まれたり、なんらかのツッコミに対する不満を表明しようとする場面で、まさにおもむろに連呼されるのだ。
したがって、この「セイ」を「言え」という意で解することはできない。
では「セイ」とは「静(せい)」なのだろうか。
つまり、ビー クワイエットという意味なのだろうか。
こっちの方がずっと近い気がする。
では、なぜ「セイ・・・・」なのか??
わたしたちの頭は混乱する・・・・・。
それはまさしく意味からの逸脱である。

「フーーーーー」にしろ、「セイセイセイセイセイ」にしろ、共通して言えることは、この言語行為が、結果として日常的意味空間からの脱出に成功していることではないだろうか。
新しい言語が生成している瞬間、わたしたちはある種、高揚した気分を味わうのかもしれない。

そういう意味では、こう言ってしまうのは抵抗はあるものの、身体を使った「詩的言語」と言えなくもない。

HG出現より前に流行した、小川直也が連呼する「ハッスルハッスル」が非常に受けた時期もある。
狙いとしてはHGと共通しているものの、「ハッスル」という語にすでに意味作用が付き纏っており、「意味逸脱」のインパクトはHGのそれに遠く及ばないのではないだろうか。

だが、HGにしろ、そうした決め台詞が、新鮮な輝きを失うのは時間の問題かもしれない。
決まった状況と語が対応してしまうことに慣れると、そこに、ある意味が定着化し、もはや、新鮮な笑いはなくなる。
あるとしても、これまでとは異質な惰性の笑いであろう。だから芸人は大変である。


P.S
ブログネタに詰まってコンビニに行ったら、雑誌の表紙の「HG」を見てパッと当記事の着想が生まれた次第です。
HGでちょっとした哲学(ん、哲学になってないかな?)評論をしてみました。

もうちょっとマシなことに頭を使いたいものですが・・・
たまにはおバカなことを真面目を装って、評論するのも面白いですね。

さて、最近幼稚園の子どもたち(年長)の間では、「フーーーーーー」が人気で困ったものです
やっと「ハッスル」が終わったと思ったら・・・・・
しかし、そうした彼らの行動に眉をしかめることはしたくないなと思いっています。
真似事ではあっても、そこに体を使った表現への意志を感じますので。
と言うとちょっと大げさですが。

それにしても、もすこし、お上品な決め台詞は流行らないものでしょうか・・・

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ありがとうございました




お別れ遠足

2006年03月03日 | 思い・子どもたち
今日は、年長のお別れ遠足で、江ノ島に行って来ました。

年少、年中は休園、保護者は抜きで、年長の子どもたちと教員たちの水入らずの遠足です。


幼稚園と駅の間は徒歩。

行きは東海道線と江ノ電、帰りは湘南モノレールを使いました。

往復の時間がかかるので、江ノ島で過ごす時間はわずか。

島のてっぺんまで江ノ島名物エスカー(実は単なる有料エスカレーター)を使って上がり、展望台に登って、見渡す景色を眺め、はしゃぎ回りました。

お弁当は、芝生の上で食べました。

絶えず、上空を舞うトンビたちがお握りを狙っており、みんなドキドキ。


子どもたちと手をつないで歩く道中には、とても心が癒されます。

ギュッと握ってくる小さな手。

優しい気持ちがコンコンと湧いてくる。

私の思いが伝わるのか、子どももとても幸せそう。

いや、どちらが思いを先に伝えるということではないのでしょう。

恐れとは正反対の感情の交流。

それを「愛」と呼ぶのは少し気恥ずかしいが・・・。

それはまさに同時になされるのだ。

コスモスの奇跡。

幸せな気持ちが握った手を通して、子どもと私の体をグルグルと循環する。

そんなイメージが自然と湧いてきました。


駅からの帰り道、冷たい大粒の雨が降って来ました。

子どもたちは、突然のハプニングにもへこたれず、元気いっぱい。

心配そうに幼稚園で待っていた、お母さんたちは、わが子の無事に安堵の様子。

そして、彼らの頑張りに笑顔を綻ばせていました。

愚痴も、弱音も吐かずに、帰ってきた子どもたちに、自然と拍手がわき起こりました。

子どもたちと教員と、保護者の、温かな思いがひとつになった素敵な遠足となりました。

*写真は境内に咲いたクロッカス

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ありがとうございました


DS復活・・・菜々子を観て

2006年03月02日 | 休憩
松嶋菜々子が、任天堂DSのソフトのCMに出ていた。

DSの看板ソフトともいえる「川嶋隆太教授の脳を鍛える大人のDSトレーニング」の続編である。

最近、かなり評判らしい。

実は、この初代のソフトをやりたいがために、去年思い切ってDSを購入したのだ。

二ヶ月くらい、毎日やって、結果も日に日に目覚しく伸びていた(確かに効き目はあると実感した)ものの、最近はまったくご無沙汰だった。

ここのところ不規則な生活やメンタル面での疲れもあって、なんとなく頭の切れが悪い・・・

もっとも、もともと切れのいい方ではないのだが・・・

DS、脳のトレーニング、復活してみよう。

きっと、脳年齢が元に戻っているだろう・・・。

もしや50代?60代・・・まさか

ちょっと試すのが怖い気もする・・・

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ありがとうございました


如愚如魯(にょぐにょろ)・・・例えば杉野英実氏は

2006年03月01日 | 禅・仏教
「愚直」という言葉が好きである。

当たり前のことを、心を込めて行うこと。

それは、自分のなすべき役割をまっとうに勤めるということであろう。

この自分の役割をしっかりと見定めるのが、けっこう難しかったりする。

時と状況に応じて、役割は絶えず変化するのだ。

役割を、仕事、ひいては修行と言い換えてもいい。

いつだって、この瞬間にも、私は役割、仕事、修行を与えられている。

いや、与えられているというよりも、つねにそれは私と共にあるのだ。

それは、本質的にエゴによる好悪の感情を離れている。

いま・ここ・自己の役割=仕事=修行。

つねに私に、これを見定め、まっとうさせることを望んでいる。

何が・・・?

強いて言うなら、仏が、如来が、全宇宙が、と言えるだろうか・・・。


「如愚如魯(にょぐにょろ)」

行動に意味を求めるかぎりは、それはまるで愚か者の如く見えることであろう。

意味を求めない。

自己に厳然と顕わになっている「当たり前」を黙々と専心に勤める。

この顕わになっているものが、エゴの色眼鏡からはなかなか見えてこない。


カリスマ・パティシエ、杉野英実も言っていた。

「当たり前が一番難しい」と。

銀座の超人気洋菓子店「イデミ・スギノ」を一手に取り仕切る彼は、意外なほど地味な印象を与え、雄勁な古武士の風情さえ漂わしていた。

炯炯とした眼光。

地に足をしっかり根付かせている。

まさに職人。最高の菓子を作ることに全神経を集中している。

そんな杉野氏の姿は、「洋菓子バカ」と言えなくもない。

腕の慢性腱鞘炎に苦しみながら、それでもひたすら走り続ける、洋菓子道一直線だ。

また、なぜ店舗を増やさないか、という問いに対し、彼は、

「私の手を離れたら、私の仕事ではなくなるから」と言っていた。

まさに「他はこれ我にあらず」であろう。

他人の修行は自己の修行ではない(にはならない)。

自己の修行を明らめること。

その中にすでに「愚の如く魯の如し」のまったき修行が包摂されている。

ここに一大事があるのではないか。


如愚如魯   りょう - 書き初めくん - はてなセリフ


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ありがとうございました