今コンビニに行ったら、昨年日本のお笑い界を風靡した、レイザーラモンHGが雑誌の表紙に出ていた。
格闘家が集う料理屋を特集した雑誌のようだ。
さて、HGの芸風については、賛否あるところであろう。
だが、好悪の感情はひとまず置いて、彼の強みは「ハードゲイ」という非日常的な役柄をひとつの隠れ蓑にすることにより、公衆上暗黙裡にタブー視される性的表現に対する、大衆の批判を無効化し、過度な嫌悪感を回避することに成功していることにある。
また、性のタブー化による心理的閉塞感を感じる人にとっては、彼が代わりにパフォーマンスすることで、擬似的な開放感を味わうことになり、一方で、性を公衆化することに拒否反応を示さない人にとっては、自身の価値観を時代が肯定しているような感覚になるであろう。
レイザーラモンHGのこうした戦略的芸風は、意図的であるなしに関わらず、従来の芸人が気づけなかった、いわば‘穴’であったと思う。
この‘穴’に彼は見事にはまったのだ。
さて、昨年流行語となった彼の「フーーーー」というお決まりの文句。
意味は不明瞭であるものの、非日常的存在の「ハードゲイ」の役柄だからこそ、笑いを誘うのであろう。
大衆は自分とは明らかに異なる、「ハードゲイ」という仮想的異邦人の言動に新鮮な感慨と、日常的な言語空間における「意味」とのズレに、おかしさを覚えるのかもしれない。
さらに、意味不明なセリフは「セイセイセイセイセイ」というあれである。
「セイ」とは「SAY」なのだろうか?
つまり「言え」ということか?
いや、彼がこの奇異な語を発する時の状況は、むしろ、自分が笑いの中で不利な立場に追い込まれたり、なんらかのツッコミに対する不満を表明しようとする場面で、まさにおもむろに連呼されるのだ。
したがって、この「セイ」を「言え」という意で解することはできない。
では「セイ」とは「静(せい)」なのだろうか。
つまり、ビー クワイエットという意味なのだろうか。
こっちの方がずっと近い気がする。
では、なぜ「セイ・・・・」なのか??
わたしたちの頭は混乱する・・・・・。
それはまさしく意味からの逸脱である。
「フーーーーー」にしろ、「セイセイセイセイセイ」にしろ、共通して言えることは、この言語行為が、結果として日常的意味空間からの脱出に成功していることではないだろうか。
新しい言語が生成している瞬間、わたしたちはある種、高揚した気分を味わうのかもしれない。
そういう意味では、こう言ってしまうのは抵抗はあるものの、身体を使った「詩的言語」と言えなくもない。
HG出現より前に流行した、小川直也が連呼する「ハッスルハッスル」が非常に受けた時期もある。
狙いとしてはHGと共通しているものの、「ハッスル」という語にすでに意味作用が付き纏っており、「意味逸脱」のインパクトはHGのそれに遠く及ばないのではないだろうか。
だが、HGにしろ、そうした決め台詞が、新鮮な輝きを失うのは時間の問題かもしれない。
決まった状況と語が対応してしまうことに慣れると、そこに、ある意味が定着化し、もはや、新鮮な笑いはなくなる。
あるとしても、これまでとは異質な惰性の笑いであろう。だから芸人は大変である。
P.S
ブログネタに詰まってコンビニに行ったら、雑誌の表紙の「HG」を見てパッと当記事の着想が生まれた次第です。
HGでちょっとした哲学(ん、哲学になってないかな?)評論をしてみました。
もうちょっとマシなことに頭を使いたいものですが・・・
たまにはおバカなことを真面目を装って、評論するのも面白いですね。
さて、最近幼稚園の子どもたち(年長)の間では、「フーーーーーー」が人気で困ったものです
やっと「ハッスル」が終わったと思ったら・・・・・
しかし、そうした彼らの行動に眉をしかめることはしたくないなと思いっています。
真似事ではあっても、そこに体を使った表現への意志を感じますので。
と言うとちょっと大げさですが。
それにしても、もすこし、お上品な決め台詞は流行らないものでしょうか・・・
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ありがとうございました!
格闘家が集う料理屋を特集した雑誌のようだ。
さて、HGの芸風については、賛否あるところであろう。
だが、好悪の感情はひとまず置いて、彼の強みは「ハードゲイ」という非日常的な役柄をひとつの隠れ蓑にすることにより、公衆上暗黙裡にタブー視される性的表現に対する、大衆の批判を無効化し、過度な嫌悪感を回避することに成功していることにある。
また、性のタブー化による心理的閉塞感を感じる人にとっては、彼が代わりにパフォーマンスすることで、擬似的な開放感を味わうことになり、一方で、性を公衆化することに拒否反応を示さない人にとっては、自身の価値観を時代が肯定しているような感覚になるであろう。
レイザーラモンHGのこうした戦略的芸風は、意図的であるなしに関わらず、従来の芸人が気づけなかった、いわば‘穴’であったと思う。
この‘穴’に彼は見事にはまったのだ。
さて、昨年流行語となった彼の「フーーーー」というお決まりの文句。
意味は不明瞭であるものの、非日常的存在の「ハードゲイ」の役柄だからこそ、笑いを誘うのであろう。
大衆は自分とは明らかに異なる、「ハードゲイ」という仮想的異邦人の言動に新鮮な感慨と、日常的な言語空間における「意味」とのズレに、おかしさを覚えるのかもしれない。
さらに、意味不明なセリフは「セイセイセイセイセイ」というあれである。
「セイ」とは「SAY」なのだろうか?
つまり「言え」ということか?
いや、彼がこの奇異な語を発する時の状況は、むしろ、自分が笑いの中で不利な立場に追い込まれたり、なんらかのツッコミに対する不満を表明しようとする場面で、まさにおもむろに連呼されるのだ。
したがって、この「セイ」を「言え」という意で解することはできない。
では「セイ」とは「静(せい)」なのだろうか。
つまり、ビー クワイエットという意味なのだろうか。
こっちの方がずっと近い気がする。
では、なぜ「セイ・・・・」なのか??
わたしたちの頭は混乱する・・・・・。
それはまさしく意味からの逸脱である。
「フーーーーー」にしろ、「セイセイセイセイセイ」にしろ、共通して言えることは、この言語行為が、結果として日常的意味空間からの脱出に成功していることではないだろうか。
新しい言語が生成している瞬間、わたしたちはある種、高揚した気分を味わうのかもしれない。
そういう意味では、こう言ってしまうのは抵抗はあるものの、身体を使った「詩的言語」と言えなくもない。
HG出現より前に流行した、小川直也が連呼する「ハッスルハッスル」が非常に受けた時期もある。
狙いとしてはHGと共通しているものの、「ハッスル」という語にすでに意味作用が付き纏っており、「意味逸脱」のインパクトはHGのそれに遠く及ばないのではないだろうか。
だが、HGにしろ、そうした決め台詞が、新鮮な輝きを失うのは時間の問題かもしれない。
決まった状況と語が対応してしまうことに慣れると、そこに、ある意味が定着化し、もはや、新鮮な笑いはなくなる。
あるとしても、これまでとは異質な惰性の笑いであろう。だから芸人は大変である。
P.S
ブログネタに詰まってコンビニに行ったら、雑誌の表紙の「HG」を見てパッと当記事の着想が生まれた次第です。
HGでちょっとした哲学(ん、哲学になってないかな?)評論をしてみました。
もうちょっとマシなことに頭を使いたいものですが・・・
たまにはおバカなことを真面目を装って、評論するのも面白いですね。
さて、最近幼稚園の子どもたち(年長)の間では、「フーーーーーー」が人気で困ったものです
やっと「ハッスル」が終わったと思ったら・・・・・
しかし、そうした彼らの行動に眉をしかめることはしたくないなと思いっています。
真似事ではあっても、そこに体を使った表現への意志を感じますので。
と言うとちょっと大げさですが。
それにしても、もすこし、お上品な決め台詞は流行らないものでしょうか・・・
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ありがとうございました!
さいきんテレビをほとんど見ないのですが、HGなる人については何となく知っています。
その強烈な“非日常性”、たしかに笑わせられるのも事実。その意味ではいい仕事をしていると言えるかもしれません。
ただしその笑いはかなり神経症的な“寒さ”からくる空虚なものであるように感じます。
非日常性は強烈であるほど、ただの日常になった途端に新鮮さを失い飽きられる。おそらく彼の芸人としての賞味期限も長くはないでしょう。メディアにおける芸人の消費サイクルはますます短くなっているように見えます。
そして表現が先鋭的であるほど、それが飽きられたときには“恥ずかしい”ものになるというのはよくあることです。
自分としては、あの芸(ゲイ)風は社会一般の倫理意識の低下の露骨に戯画的な顕れという意味で、はっきりと嫌悪感を感じますし、またそうした極端に低俗化した倫理レベルのイメージをメディアを通じて若い(幼い)世代に植えつけ再生産しているという意味で、ちょっと大げさなようですが危うさを感じます。
つまりアレのまねをする子供たちとは、幼児期から崩壊した性倫理をいやおうなく強要されているわけですね。薄っぺらくて寒い、大人たちの常識、「ま、人間ってこんなモン」として。
思うに、「お笑い」というのは世の常識化した価値一般のハシゴを外すことで成り立つものだと思います。
よく知らないのですが、昔の落語などはかなり確固とした日常倫理をちょっと外したところにおかしみがあったのだと思います。
健康な精神的風土を信頼したところに成り立った健全な笑い。それはいまからすると牧歌的といえます。
そういう流れが、おそらくぼくらが子供だった頃にテレビで見た、“欽ちゃんの○○”とか“ドリフの~”にはあったような気がします。家族みんなが見て一緒に笑える、といったふうな。ちょっと外して日常の憂さを忘れる、といった感じでしょうか。
まったくの狭い観点からですが、転機はたぶん80年代前半~半ば頃にあったのだと思います。
その象徴というか前衛が、たけしの登場であったと思います。彼の笑いは毒舌と破壊性にあると言われます。何の破壊か。それは常識・価値観・倫理観を外す、というか土台を突き崩す攻撃なのではなかったかと。
たけしが象徴的であるというのは、彼の「北野武」としての映画が彼の内面をよく表現しているからです。
彼の笑いがいちばん脂がのっていたと思われる時期の作品「その男、凶暴につき」は、彼の“たけし”としての笑いに一見ふさわしくないような露骨で殺伐とした暴力が徹底的に描かれますが、しかしそれは彼の攻撃的でニヒルな笑いの性格と、じつは表裏のものではなかったか。
その攻撃性を失った(それは若い時期の特権なのでしょう)いまのたけしは、他の同時代の芸人と同じくもはや笑えなくなってはいないでしょうか。もしくは商売としての惰性の笑い…
時期的にはバブル前夜、伝統的な価値観の崩壊がはっきりしてくる中で、“お笑い”は外すべき社会の縛りがあいまいになってくるのに相応するかたちで、倫理の基盤自体を解体し“笑い飛ばす”する方向に転じたように見えます。
そして現在、ある意味先端的にその倫理の基盤自体の崩壊現象がはっきりしてくる中で、“お笑い”は外すにせよ攻撃するにせよ、もはや「共通の何か」を対象とすることをやめ(というか対象自体を失い)、他者の微妙な差異をあげつらい、神経症的・強迫的に、“咽頭で笑う”まで質の低下をきたしているのではないかと。その差異とは、バカ・グズ・ブス・デブ・ハゲ…要するにそういうことでしょう。ここから差別・いじめにいたるのにあと一歩です。しかし、だからこそ笑えるわけですね。
そういう流れの一過性の現象として、HGはあるのだと思います。彼がすぐに終わるとしても、さらにもうちょっと露骨なのがあらわれるでしょう。というか、売れてナンボのメディアは、もっと刺激的な何かをぼくらに用意してくれるに違いない。
問題は、もはやそれを笑うことができるかどうか…
大変興味深く読みました。
私は半ば無理やり、HGの「フーーーーー」を、過去日本中を風靡したおそまつくんの「シェーーーーー」と、同一線上で捉えようとして意図的に無害化してるかもしれません。
かなり笑えながらもやはり違和感と、生理的な嫌悪感をそこに感じていたのも事実。
type1974さんのように、そこまでHG現象に対して深くは読み取れませんでした。
脱帽です。
時間がないので改めてコメントします。
貴重なご意見有り難うございました。
「お笑い社会学」「お笑い心理学」「お笑い教育学」・・・そんな学問があっても、楽しそうですね。もうあるのかな?
「お笑い教育・心理研究所」・・・
改め「サングラハ教育・心理研究所」のますますの発展を願って、T.B.させていただきました。
宜しくお願い致します。
ついでに、美鈴フォー!
昨日は、色々と有難うございました。
みなさんと一緒の作業も二次会も、とても楽しかったです。
これからがさらに楽しみですね。
昨日はどうもでした!
発送作業も、二次会も楽しかったですね。
サングラハの展開、これからが楽しみです。
さて、「HG」については、昨晩も思いがけず熱い議論になりましたね(笑)
typeさんの言われていることもよく分かります。
確かに「性」をあのように、卑俗な芸で表現するのには、いささか心理的抵抗がある。特にあの腰振りはいただけません・・・。
私もできればHGはちびっ子たちには見せたくないですし。
ですが、反面、彼の芸にどうしても笑ってしまう自分もいます
ん~それも、私のニヒリズム的傾向だったりして・・・
確かに性的な表現あってのHGですが、私はむしろ、彼の意味不明な言語の用法に着目させられるのです。
あの「セイセイセイセイセイ」、こいつがどうやら私の笑いのツボを刺激するようであります
いやはや、そうは言っても「8時だよ~」の頃はよかったですね。お笑いがまだ多様化していなかった。当時は老若男女、誰でも分かりやすい「公式」のようなお笑いだったような気がします。
私は、「俺たちひょうきん族」が、お笑いを変質させた、ひとつのキータームではないかと考えています。あのあたりから、視点が観客本意ではなく、内輪受けの芸人本位に変わってきた。
とんねるず、ダウンタウンなどがその好例だと思います。
最近の志村ケンも残念ながら、その傾向にある。
ホントお笑いがつまらなくなってきた・・・。
ですが、近年放映されている「エンタの神様」などのお笑い番組では、スタイルこそ斬新ですが、観客本位のお笑いが復活している兆しが見えます。
ともあれ、ご指摘の通り、お笑いもまた時代の鏡、社会の縮図であることは間違いありませんね。
今の笑いは確かに、病的な気もします。
良質な笑いが受け入れられる社会にしていきたいものですね。
さて、良質な笑いといえば、おいしい肴と「いいちこ」が欠かせませんね(笑)
今後とも、異議があればどんどん表明してくださってかまいません。そのほうがこちらも勉強になりますので。どうか遠慮しないでくださいね。「ペコリ」も要りませんから(笑)
>HIROさん
昨日は楽しかったですね。
今日もちびっ子たちとの格闘お疲れ様でした。
昨日久しぶりに会って感じました。
HIROさんは、やっぱり爽やかくんだわ~(笑)
だけど、そこには表面的なものではなく、しっかりと苦悩を乗り越えてきた者の深みが感じられます。
さて、機を捉えた、気配りのフォローコメント有り難うございます(笑)
お笑い社会学、これはけっこう面白いかもしれませんね。
昨日も熱論になったし。三○さん、○藤さんの掛け合いも面白かったな~(笑)
それにしても、ああやって、お笑いでもなんでも、真面目に議論できる雰囲気っていいですね。
まさにサングラハの良さだと思いました。
>巨人さん
セ~イセイセイセイセイ!!
やっぱ美鈴さんはいいやね。
朝から癒されます。
飲み物に例えると「三ツ矢サイダー」ってところでしょうか。
って読者の方に変に誤解されないかな・・・
志・フォーーー
分かってくれたかな(笑)
>いいちこさん
こちらこそ、有り難うございました!
発送作業も、二次会もとても楽しかったです。
とても楽しい幸せなひとときをご一緒させていただきました。
これから、言わばサングラハの再スタート!
本当に楽しみです。
どんどん盛り上げて楽しくさせていきたいですね。
私は、全く興味がないのですが、次男坊が好きなんです(笑)
子どもたちと見る「エンタの神様」はなかなかおもしろいものです。
次男の子、HGが好きなんですね(笑)
昨日は、年中さんと散歩していたら男の子が、「オ○ン○ン・フー」と言ってはしゃいでました・・・
「Mちゃん、お母さん悲しまない?」と彼に聞いたら、「ううん全然、だってお母さん(HG)、大好きだもん」って・・・返ってきましたなんと諭していいやら・・・
エンタはいいですね。ちなみに私は、インパルスと陣内智則が好きです。姉貴は桜塚やっくんのスケバン京子が好きだとのこと。あれもちょっと下ネタがらみですね・・・お里が知れてしまいます
>風月さん
記事とコメントのやり取りを評価?してくださいましてありがとうございます(笑)
風月さんは、HGの笑いには反応しないんですね
きっと心が病んでない証拠ですよ
僕HG好きなんですよ。
彼の腰ふりも性的なものをあまり感じないんです。
僕が面白いと思うポイントは、あんな格好しても実は、いい奴だってところですわ。
子供が真似しているところに心を痛めていたり。
ハードゲイとはならず、HG(エイチジー)と名乗るように変えたりと。
あんな、アンチな格好をしているわりに、ちゃんとしてるのが面白い。
腰ふりが面白いのじゃなく、そういう倫理的な側面が見ていて僕は気持ちいい。
ただ、破壊するだけじゃなく
こんなくだらないことしてすみません。
そういうところが、好き。
だけど、自分の子供が、腰を振ってたらどうするかなぁ?
一緒に振るか。