禅語です。
「平等中にも歴然とした区別はあり、区別はあっても本質的に平等である」という意味になるでしょう。
同じ竹(平等)の中にも上下の節(区別)があるということ。
また、松は古い葉も新しい葉(区別)も季節によって色を変えることはない(平等)ということ。
なんでもかんでも同じではない。
また同じに扱っていいというものではないと思います。
全宇宙一体の中にも、現れとしての区別はある。
現れとしての区別はあっても、全宇宙は一体。
それが世界の姿です。
区別は区別として大事に扱うことで世界は調和する。
それは具体的には「長幼の序」であったり、「男女の性差」であったりするのでしょう。
それぞれの国が長い年月をかけて育んだ区別の文化というものがあります。
現代は、その区別の文化が急速に崩壊してしまっているのではないでしょうか。
子どもたちが、保護者が、学校の先生を敬わない。
年少者が、年配者を敬わない。
男女の性差のボーダーレス化。
なんでもかんでも一緒に扱ってしまう。
つまり悪しき横並び平等主義。
そこに現代的な諸問題の一つの要因が潜んでいるように思います。
宇宙の本質的な平等をしっかりと腹に収めながらも、区別は区別として尊重していくこと。
ここに「和」の世界を開く鍵があるように思います。
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応援ありがとうございました!
「平等中にも歴然とした区別はあり、区別はあっても本質的に平等である」という意味になるでしょう。
同じ竹(平等)の中にも上下の節(区別)があるということ。
また、松は古い葉も新しい葉(区別)も季節によって色を変えることはない(平等)ということ。
なんでもかんでも同じではない。
また同じに扱っていいというものではないと思います。
全宇宙一体の中にも、現れとしての区別はある。
現れとしての区別はあっても、全宇宙は一体。
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区別は区別として大事に扱うことで世界は調和する。
それは具体的には「長幼の序」であったり、「男女の性差」であったりするのでしょう。
それぞれの国が長い年月をかけて育んだ区別の文化というものがあります。
現代は、その区別の文化が急速に崩壊してしまっているのではないでしょうか。
子どもたちが、保護者が、学校の先生を敬わない。
年少者が、年配者を敬わない。
男女の性差のボーダーレス化。
なんでもかんでも一緒に扱ってしまう。
つまり悪しき横並び平等主義。
そこに現代的な諸問題の一つの要因が潜んでいるように思います。
宇宙の本質的な平等をしっかりと腹に収めながらも、区別は区別として尊重していくこと。
ここに「和」の世界を開く鍵があるように思います。
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高校で物理を履修していない高卒者が多くなっているという現実に直面して驚いた体験をしました。その後息子の慶応大学卒業式に招待されたとき、全学部で、優等生の一位はすべて女子学生でした。女性の力がここまできたか、と驚ききました。
女性の能力は男性よりすぐれたものを持っていることは承知していますが、しかしそれは男性とは違う分野においてです。例えば車の運転マナーにしても女性は悪い人が多いです。
これらの実情も物理を履修しない傾向にあることにも関係し、そのため男性の能力が社会的に低下しつつあることに一つの大きな原因があると思います。
やはり人間社会は適材適所において、その特性に適合した能力をそれぞれの分野で発揮するような社会が真の平等社会であろうかと、私も思います。
竹については、道元禅師も思いが強かったようで、その思いが現代まで続き、駒澤大学には拙僧も10年ほどお世話になった竹友寮がございます。
さておき、道元禅師は『真字正法眼蔵』にて翠微無学の言葉を用いて「遮竿得恁麼長、那竿得恁麼短」とされます。これは長はただ長、短はただ短。それぞれに他と対しない長短として示された言葉です。
そして、今回ご紹介いただいた言葉にも同じ意味が含まれていると思った次第です。ありがとうございます。
こんばんは。
いつもコメントありがとうございます。
ん~実は私も物理が大の苦手でした・・・
よって、選択していません・・・汗
慶応はわけあって個人的にご縁が深い学校です。
私は駒大卒ですが・・・
いい大学ですよね♪
確かに女性の方が、コツコツと真面目に学ぶことには長けているような気がします。
ノートとかきちんと取るのも、女子学生の方が多いですよね。
あと黙々と義務や任務をまっとうする能力にかけては女性の方が上ですよね。男はチャランポランが多い・・・。
車の運転マナーは同感です。
確かに女性は運転すると、途端に自己中になる人が多いんですよね・・・もちろん一般化することは危険ですが。
現代、男性は女性化し、女性は男性化しているように感じます。味気ない世の中になってきている・・・。
仰るように、なににおいても、人間はそれぞれに適材適所があり、自己の特性を生かすことが大事だと思います。
>tenjin95さん
こんばんは。
竹友寮の名前は道元禅師から由来するんですね。
私はてっきり「竹馬の友」から付けたのだと思っていました・・・
その両方を取っているのかな?
>遮竿得恁麼長、那竿得恁麼短」とされます。これは長はただ長、短はただ短。
なるほど・・・難しい
「長いは長い!」、「短いは短い!」
平等の悟りの中にも厳として差別のはたらきがあるということでしょうか。
ベタ?ですが、竹と言えば香厳撃竹の話はやはりいいですね。
「スコーン・・・・」
折を見て当たってみようと思います。
ありがとうございました。
ところで、私は高校時代から数学や物理が特別に好きでした。これらの学問の影響をうけて佛教に興味を持ったといっても良いくらいです。しかしこれはあくまでも私の個人的な歩み方でありまして、人それぞれに目標は同じでも、歩く道や歩き方は違うのだと思います。
今後ともどうか長いお付き合いをお願いします。
記事は飛びますが、『生きて死ぬ智慧』の著者・柳沢桂子さんが文藝春秋2007.1月号で、人間の意識レベルが超ー言語的、超ー論理的になるまでには後何十万年もかかるかもしれない、ということを述べておられます(p379)。
「空の場」の営みの様子が少し開けて見えるような気がしました。私は、やはり思想の記号化も一つの手法ではないかと考えました。西谷啓治先生の著書にも少しずつ感化されてきたようにも思っています。少しピントが外れていて、先生に対して不遜な読者かも知れませんが、私としましては承知の上で、西谷先生に感謝しています。
どうか私の考え方の全てをご放念ください。
今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。
zazen256さんのように、数学・物理から、仏教に入られる方もいらっしゃるようですね。私のような100%文系の人間にはとても興味深いです。
例えばピュタゴラスも、数学の中に宇宙の摂理を観たわけですし、理数の世界も追求していくと形而上学に立ち入らざるを得ないのかもしれませんね。
私の場合は、宗教に興味を持ったきっかけは少年時代から抱えていた漠然とした人生に対する不安な感じ・・・生き難さでした。何か、自分を根幹から支えてくれるものが欲しかったんです。人生に横たわっている虚無に気付いてしまった・・・なんていうとかっこいいんですが。。。
柳澤さんの般若心経の本は私も興味深く読みました。
正直、氏の宗教も仏教も科学的にすべて還元できるという、いかにも科学者然とした態度には、いささかの違和感も感じます。
ですが何よりも、柳澤さんの功績は、多くの人々に「仏教、空の教えは現代の科学的な言葉で語られても、矛盾ひとつしない」ということを認知させたことだと思います。
それによって多くの人々が仏教に目を向けた。
そういう意味で、本書を読んだときは、「デカした!」と思いましたね(笑)
>思想の記号化も一つの手法ではないかと考えました
とのこと。
私もその必要性を感じています。
言語はすべて方便に過ぎなくても、つねにその時代その時代にふさわしい記号で、仏教も思想も語られるべきだと思います。その場合、多くの人の共感を得て、大まかな合意が形成されるような記号が望ましいですよね。
あれから、西谷啓治先生の本を私も少しづつ読み始めています。私は並列読み派なので、『宗教とは何か』、『正法眼蔵講話1弁道話』、『ニヒリズム』、『宗教と非宗教の間で』を読んでいます。
いいですね!
西谷先生の言葉は、文章は。
確かに難解ですが、なぜか沁みてくるような優しさを感じます。。。
自ら深いニヒリズムに徹底して挑んでこられただけに、思想の並外れた強靭さを感じます。
核心と本質をとことんまで追求する姿勢が半端なくタフですね・・・。
惚れました・・・。
いわゆる宗教学者ではないですね。
長年の参禅体験に裏付けられた確かなものを持っている方だと思います。
こちらこそ、これからもご指導宜しくお願い致します。