昨日は幼稚園の定例会だった。
月に一度、保護者会三役、クラス役員など、約25名のお母さんたちが会議室に集まって行事の打ち合わせをする。
実はこの定例会が苦手だ・・・。
何が苦手って、初っ端(しょっぱな)の「園長挨拶」。
心の中では「ひぃ~勘弁してくれぇ~」って悲鳴を上げている。
法話をするときよりも、行事の挨拶をするときよりも緊張してしまう。
たぶん、妙齢のお母さんたちを前に自意識過剰になっているのだと思う・・・。
園長らしく、かっこいいとこ見せなきゃ、ましなことを話さなきゃというプレッシャー。
言い方をかえれば、かっこ悪いところは見せられないという気持ち。
そういう感情が緊張やぎこちなさを生むのだ。
かっこ悪くたって、バカだと思われたっていいじゃないか。
つまらないプライドは捨てること。
無駄な力を入れないこと。
自然体。
腰を立て肩の力を抜いてゆこう。
とは言え、少しづつではあるが定例会の挨拶も無難にこなせるようになってきた。
自信?
いや、そんなたいそうなものではない。
姿勢。
あえて言えば、弱腰を克服しようとする姿勢ができてきたのだと思う。
ええかっこしいはもう卒業。
とりあえずマズローが言うところの健全な自我確立。
そのためには、本気で生きること。
それが、「ええかっこしい」→「かっこいい」に至る道である。
※↓よかったら一日ワンクリックして応援してください!
みなさんのワンクリックがランキングに反映されて励みになります!
![にほんブログ村 哲学ブログへ](http://philosophy.blogmura.com/img/philosophy88_31_lightred_2.gif)
応援ありがとうございました!
月に一度、保護者会三役、クラス役員など、約25名のお母さんたちが会議室に集まって行事の打ち合わせをする。
実はこの定例会が苦手だ・・・。
何が苦手って、初っ端(しょっぱな)の「園長挨拶」。
心の中では「ひぃ~勘弁してくれぇ~」って悲鳴を上げている。
法話をするときよりも、行事の挨拶をするときよりも緊張してしまう。
たぶん、妙齢のお母さんたちを前に自意識過剰になっているのだと思う・・・。
園長らしく、かっこいいとこ見せなきゃ、ましなことを話さなきゃというプレッシャー。
言い方をかえれば、かっこ悪いところは見せられないという気持ち。
そういう感情が緊張やぎこちなさを生むのだ。
かっこ悪くたって、バカだと思われたっていいじゃないか。
つまらないプライドは捨てること。
無駄な力を入れないこと。
自然体。
腰を立て肩の力を抜いてゆこう。
とは言え、少しづつではあるが定例会の挨拶も無難にこなせるようになってきた。
自信?
いや、そんなたいそうなものではない。
姿勢。
あえて言えば、弱腰を克服しようとする姿勢ができてきたのだと思う。
ええかっこしいはもう卒業。
とりあえずマズローが言うところの健全な自我確立。
そのためには、本気で生きること。
それが、「ええかっこしい」→「かっこいい」に至る道である。
※↓よかったら一日ワンクリックして応援してください!
みなさんのワンクリックがランキングに反映されて励みになります!
![にほんブログ村 哲学ブログへ](http://philosophy.blogmura.com/img/philosophy88_31_lightred_2.gif)
応援ありがとうございました!
花は愛でられることを知っていて咲くわけではないのですね。ただただ花ゆえに、時が来ると蕾を緩める。誰が見ようと、誰も見なくても、美しく咲こうという意識もなくただ咲く...なにか、人もこのようにシンプルでいられないものかと考える昨今です。
父兄もいろいろな人がいますから、勉強になると思います。
ますます尊敬される園長先生に、頼りになる園長先生のほうが、りょうさんにピタリでしょうか。
ところで般若心経のところにコメント入れておきましたので、お目を通して頂ければ、幸甚です。
かっこ悪いところは見せられないっていう気持ち
でも大抵の場合、自分が思っているほどみんな期待していないっていうか、みんな大して聞いてなかったりするんですよねー(あ、りょうさんの話はみなさん聞いていると思いますが)・・・ともかく自然体が一番ですね。うんうん。
「三毒」を人間の着易い衣装に見立て、第九識が三毒を着てしまう所から書いています。
三毒に穢されていない人達の紹介として、『小説「坂の上の雲」が教えてくれるもの』を紹介しているのが今の状態です。
この後、「何を教えるか」の本質に迫ろうと考えております。本職として、何かコメントを戴けると有難く思います。宜しく、お願いします。
>花は愛でられることを知っていて咲くわけではないのですね。ただただ花ゆえに、時が来ると蕾を緩める。誰が見ようと、誰も見なくても、美しく咲こうという意識もなくただ咲く...
とても美しい比喩ですね!
心に響きました。。。
ぜひそうありたいものです。
子どもたち相手のお話は大丈夫なんですけどね。。。汗
コメント有り難うございます。
そうなんですよね・・・こっちが思うほど周りは気にしてないってことはあると思います。
以前、パートの先生(年上)に、園長先生はお坊さんだから、どんな話も有り難く聞こえると言われたことがあります。お世辞かどうか分からないけど、意外にハッタリかましても大丈夫なのかもしれません・・・(笑)
しかし「自然体」っていいですよね♪
けっこう力が入りすぎる方なんで・・・
尊敬されているかどうかは、はなはだ心もとないです・・・汗
頼りにされているかどうかも・・・汗・汗
とりあえず親しみの持てる園長を目指しています。
父兄からは、正面教師、反面教師として学ばせていただいてます。
子を持ったときの教育を、あーだこーだと考えてしまいますね。
般若心経のコメントの方も返事をしましたので、どうぞご覧ください。
コメント有り難うございました。
文章一部、拝読しました。
かなり気合の入った文章ですね!
『坂の上の雲』は未読ですが、一度読んでみたいと思っていました。
唯識についても学ばれているようですね。
私は岡野守也氏の唯識の研究を中心に学んでいます。
第九識というコンセプトについては、あまりよく分かりませんが、私はアーラヤ識が蔵として機能し、煩悩の種子を蓄えて、それがマナ識、意識、五感にすべてに影響を及ぼしていると考えています。
そして、煩悩を生み出す原因は、人間が言語を習得することに伴う「分別知の」はたらきによると考えます。つまり人間は言語を習得することによって、自己と自己以外のものをどんどん分節して世界を理解しようとしてしまう・・・。そうした分別知が究極に推進されると、世界はバラバラな事物の集合にすぎない(すべての存在間には関係性がない)という考えに至ります。
そして、その考えがマイナスの方向に傾けば、自分さえよければいい(エゴイズム)、人生に意味なんてない、バレなきゃ何やってもいい(ニヒリズム)、今が気持ちよければいい(快楽主義)という生き方につながります。
代表的煩悩として三毒について言及されていますが、Hbarさんの見解は、三毒をはじめとする煩悩を滅除して、人間の基底にある覚りを顕すということだと思います。
ですが私は煩悩の奥に何か覚りのようなものが眠っているのではないと考えます。
むしろ煩悩は滅除するものではなく、覚りの智慧に転化するものだと捉えているのです。唯識ではそれを「転識得智」と言います。
そのとき、五感は成所作智に、意識は妙観察智に、マナ識は平等性智に、アーラヤ識は大円鏡智に、それぞれ八識の煩悩が四智の覚りの智慧に転化すると言えるでしょう。
道元禅師は、「修せずんば顕れず、証せざれば得ることなし」と説いています。
つまり、証(覚り)とは修行の中で立ち現れるものであり、証(覚り)を明らかにしなければ意味がなく、証(覚り)とは心の奥に眠っているものではない、ということだと思います。
もとより私の見解は、Hbarさんの見解を否定・批判するものではありません。
ただ、一仏教者として、覚りについての見解の相違を指摘したまでです。
仏教に現代人を精神の荒廃から立ち直せる役目がある、という観点には大いに共鳴いたします。
これからも有益な記事を発信してください。
いずれ、そちらにもお邪魔すると思います。
長々と拙い私見を読んでくださりありがとうございました。
私の素人考えですが、煩悩は言葉によって顕れるのではないと考えております。
言葉が、様々な事物を識別するのに肝心な役割を果たしている事は間違いは御座いません。しかし、言葉以前にあるのが執着ではないでしょうか。
心の働きは、言語以前のものです。無明業相・能見相・智相・相続相・執取相・計名字相・起業相・業繁苦相の連鎖によって執着が生じて四苦八苦となるのでしょう。三毒は夫々形を変えた執着でしょうから言葉以前に生ずるものではないでしょうか。
これから可也のちになりますが、教えなければならない主題として三毒を脱ぐという手法を論ずる時には仏教用語の助けも借りようと思っております。
色々とご指導賜れば幸です。謝謝。
なるほど。
なんとなく言わんとされていることは、分かるような気もします。
ですが、お互い、あまり抽象的な概念を弄し合うのも無益なことかもしれませんね。
羅列された用語は、浅学なので存じ上げません。これからHbarさんのブログ記事の中で、どうしてそのような論拠になるのかを、一般にも分かるように解説していただければと思います。
言葉が先か、煩悩が先か、ということは、ある意味、ニワトリが先か卵が先かという、無意味な議論にもなりかねません。
ただ私の立場は、やはり「覚り」や「煩悩」は心の中に眠っているものではないということ、です。
覚りも煩悩も、行住坐臥の生の営みの中でダイナミックに生成変化しているものと捉えています。「身心一如」。どちらが先でも後でもない。
これからのHbarさんの記事を楽しみしています。