一顆明珠~住職の記録~

尽十方世界一顆明珠。日々これ修行です。いち住職の気ままなブログ。ときどき真面目です。

卒論2 Ⅰ二元論(独我論)デカルト的パラダイムの問題

2005年11月28日 | 禅・仏教
Ⅰ二元論(独我論)への誘惑

 
 デカルト的パラダイムの問題
  
   コギト・エルゴ・スム
 デカルト(1596~1650)は、近代哲学の父と言われる。
 デカルトによってはじめて近代的な物の観方と明晰判明な精神を手に入れたと評される。そこで私は、近代的精神の幕開けの役割を担ったデカルトの哲学を概略したい。なお、この章ではさしあたり、二元論としてのデカルト的パラダイムの性格を露わにしたいので、多分にこじつけの感がある、神の存在証明等については、あえて触れない。
 デカルトは当時哲学の中心的立場にあったスコラ哲学(キリスト教を理性的に弁証する)の不確実性に不満を持ち、まったく疑い得ない哲学の第一原理から出発し、そこから事物の認識を導き出すような学問を求めた。そこで彼は、哲学から、当時あらゆる意味で支配的であった宗教を除外した。
 彼は「信仰の光」ではなく「自然的理性」によって確実性に耐えうる哲学を構築しようとしたのである。
 デカルトはまず、哲学の第一原理を見出そうとした。そのためには、従来確実だと思われてきた知識を徹底的に疑ってみる必要があった。
 その結果、最後に残ったもの、これは疑い得ないと決定されたもの、それは「私」であった。なぜなら、まさにそのように全てを疑っている「私」は存在すると言えるからである。
 こうして有名な「われ思うゆえにわれあり」(コギト・エルゴ・スム)が哲学の第一原理として導き出されたのである。
 そして思惟する実体(精神)を見出したデカルトは、理性によって保証された延長を持つ実体(モノ)を導き出して、ここにデカルトの二元論が形成されるのである。
   二元論
 二元論とは、<実体>を二つ立てて<世界>を説明しようとする立場を言うが、これはデカルトによってはじめて明示されたものではない。古くは東洋哲学のインド・ウパニシャッド哲学の梵我一如に、西洋哲学ではプラトンのイデア論に二元論は見出せる。またデカルト以降は、カントの「物自体」と「現象界」などさまざまな二元論が主張されてきた。二元論は、この日常的世界の背後に、あるいは日常的世界とは隔絶した場所に真の存在や、真理を求めようとする動機から発生する。つまり、二元論は常に形而上学の形として現れるといえる。
   
   デカルト的パラダイムの問題
 上に述べたように、二元論はデカルトの哲学に限定されたものではないが、その純粋性において際立っているので、便宜上、これから批判的に考察する二元論を「デカルト的パラダイム」と呼ぶ。
 また特にデカルトの哲学が純粋な客観性を切望する性格を持つことが、従来の本覚思想に基づいた仏教理解の態度と類似することから考えても、この論文の性格上、その呼称を論議のテーマとして扱うことは適切であろう。
 デカルト的パラダイムは、実体としての理性から、自然(モノ)を認識しようとする。このとき純粋で、誤り得ない認識をするためには、個別的、すなわち私的な感覚を退ける必要がある。つまり、無私になって、ありのままの世界を見なければ正しい認識が得られないということになる。
 しかし、仮に正しい認識をし得たとして、それはどのように証明できるのか。自分自身が明証性の根拠となる限り、必然的に正誤の判断も自分の内でしかできないことになる。
 他からの承認が得られなければ普遍的な認識は成立しない。
 これが、デカルト的パラダイムによる認識が成立しないということ、必然的に「独我論」に帰結するということの理由である。
 以上がデカルト的パラダイムの正体であるが、わたしがこれまで、デカルトの二元論の構造と誤謬を述べてきたのは、日本の仏教研究、特に解脱(悟り)という問題に対する解釈において、デカルト的パラダイム(独我論)に立脚したものが非常に多いということを本論で提示するためである。
 次節では、西田哲学におけるデカルト的パラダイム(独我論)を批判的に考察したい。
 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿