飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
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万葉アルバム(関西):和歌山県、和歌山市 玉津島神社 玉津島・・・

2013年12月07日 | 万葉アルバム(関西)


玉津島 見れども飽かず いかにして
包み持ち行かむ 見ぬ人のため
   =巻7-1222 藤原卿(ふぢはらのまへつきみ)=


 玉津島の美しいこと、いくら見ても見飽きない。どうやってこの島を包んで持ち帰ろうか、まだここを見ていない人のために。という意味。


「玉津島」は万葉時代にあった小島で、現在の和歌山市和歌の浦付近にあった。
現代の海岸線は万葉時代に比べるとかなり後退して、今は六つの小山のような丘陵が続いている。
万葉の頃はこの六つが独立した小山として点在していたようだ。


三断橋と妹背山(玉津島山のひとつとされる)
和歌山市南部の雑賀野(さいかの)に聖武天皇が造営した離宮から、この一帯の海上の小島が望見できた。天皇はこのあたりの美しい景色をことのほか愛したといわれている。

作者の「藤原卿」とは誰を指すのかについては、神亀元年(724年)10月の紀伊行幸の時、藤原房前(ふささき)か麻呂(まろ)が作った歌という説がある。ただ、「卿」は三位以上の者につけられる尊称であり、麻呂が従三位になったのは天平元年(729年)であるため、「藤原卿」は房前とするのが有力となっている。


この万葉歌碑は和歌山市、玉津島神社の鳥居左側に建っている。

玉津島神社
平安中期、高野山、熊野の参詣が次第に盛んになると、その帰りに和歌浦に来遊することが多くなった。中でも玉津島は歌枕の地として知られるようになり、玉津島神社は詠歌上達の神として知られるようになっている。また、若の浦から和歌浦に改められたのもこの頃であり、由来には歌枕に関わる和歌を捩ったともいわれる。
当時の玉津島は海上に浮かぶ小島であった。そして、潮の干満で陸と続いたり離れたりする景観を呈していたという。その神聖さから丹生より稚日女尊、息長足姫尊(神功皇后)らを勧請し、玉津島神社が設けられた。また、玉津島の西側に発達した砂嘴は、片男波も今よりずっと内側に入り込んでいたものと推測されており、赤人の句のとおり、葦などの水生植物が生い茂る湿地帯であった。