それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

都築響一「ヒップホップの詩人たち」 大学生はまずこれを読め

2015-01-12 07:56:54 | テレビとラジオ
こんなに夢中で読んだ本は最近なかった。

仕事柄、本を読むことに相当な時間を費やす。だから、私にとっては、趣味の時間も本を読むのはなかなかきつい(そうじゃない研究者もいる)。

だが、この都築響一「ヒップホップの詩人たち」は、もう圧倒的なまでに面白くで、あっという間に読んでしまった。

頁数は結構ある。確かに分厚い。けれど、そんなことはまったく関係ないくらいの速さで読んでしまう。

これは妻がプレゼントしてくれたもので、僕はその存在すら知らなかった。



この本は、日本のヒップホップシーンのなかで活躍する(した)、あるいは活躍を期待されるラッパーたちの半生に関するインタビューと、彼らの作品(つまりラップ=詩)を紹介する。

しかし違う。違うのだ。この本は、ヒップホップにそれほど縁の無い読者諸氏が想像するような内容ではないのだ。

これは社会で上手く生きていけない人々が、どうやって必死に生きてきたのか。それを幾重にも描く、渾身のルポだ。そう言った方が実際の読後感に近い。

恵まれない家庭のなかで非合法な世界にどっぷり浸かった人や、引きこもりになって、まったく家の外に出られなくなってしまった人。

親から奇妙な個性を押しつけられて、アイデンティティが歪んでしまった人。

自分が抱いた夢に苦しみながら、それでも生きていこうと必死で格闘し続けた人。

ラップという現代詩は、とてつもない可能性に満ちている。

形式化され、形骸化した芸術ではなく、今そこで呼吸し、少数者たちの熱い気持ちをエネルギーにして成長しているヒップホップ。

この本は単にヒップホップのパイオニアから無名の新人までを紹介するだけでなく、文字通りの「サブカルチャー」の出現を明らかにするものだ。



日本の「サブカルチャー」という言葉は、少々奇妙で面白いものだ。

日本の場合、サブカルは必ずしも社会的分裂や抑圧を伴わず、どちらかと言えば、ある種のユースカルチャーに近いものとして捉えられてきた。

だが、社会科学の研究で登場するサブカルチャーは、階級や民族・宗教などの社会的分裂に伴って出現する。すなわち、排除や疎外といった権力関係と切っても切り離せない。

この都築響一「ヒップホップの詩人たち」は、ラッパーたちの半生を描くなかで、社会的な排除や疎外を浮かび上がらせる。

主要なメディアに登場しない、取り上げられない、取り上げられても歪んで扱われる日本のヒップホップシーンは、実際には本物のサブカルチャーだ。



少々小難しいことになってしまったが、そんなこと忘れてほしい。

この本をまず手に取って見てほしい。

とりわけ、大学に入学したばかりの人や、生き方に迷った人は、ぜひともこの本を読んでほしい。

この本では、苦闘の末にヒップホップの言葉を手にした、素晴らしい先達の生き方を学ぶことができるのだから。

付言しておくと、この本には筆者である都築氏の、日本のヒップホップ、ひいては音楽への深い愛情に溢れている。本当に心が打たれるほどの愛情の深さ。

この筆者だからこそ書くことができた本であることに間違いない。