それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

普通な子の平凡で退屈な日常の断片

2015-01-28 14:56:39 | ツクリバナシ
 とにかく僕は携帯を手に取って、ツイートした。

 「まるでテレビでみんなが言うように、彼女はやっぱり、ごく普通の礼儀正しい子。だったのかな?」

 それが夕方、あの事件のことを聞いて、僕が最初にとった行動だった。

 同級生のNが誰かの命を奪ったらしい。本当か?と思いつつ、そのことを僕はどう受け止めれば良いのか分からなかった。

 母さんは、「Nちゃん、一体どうしちゃったんだろうねぇ。」と、まさに全く理解不能ということで考えることを止めてしまっている様子だった。

 父さんは何て言うのかな。などと考えて、それから、まあ自分だったら誰を狙うかな、とか、自分のなかにそこまでの気持ちはあるのかな、とか、色々堂々巡りしながら考えていた。

 部活や友達のLine上での会話も、まあその件でもちきりなんだけど、僕はそこに何て書き込んで良いのか分からなかった。

 むしろ、どうしてもちょっと不安になって、それで数少ない女友だちのCに電話した。

 Cは女子のなかでも、ちょっぴり浮いていて、なんだか飄々としている感じがして、僕はシンパシーを勝手に感じていた。

 Cとは高校1年の時の学校祭で同じ係になって、その時に自分でもあんまり人に話したことのなかった、抽象的で内省的な話をどういうわけ彼女にしてしまい。でも、それをCが何となく理解したので、僕は彼女を友達認定したというわけなのだ。

 それからメールしたり、あるいはごくごくたまに電話するような間柄になった。

 何ていうか、蛇の道はヘビっていうか(使い方、違うかな)、Cなら何かヒントをくれるような気がしたのである。

 「もしもし、C?元気?」

 「あぁ、うん。どうしたの?」

 「えーと、今時間ある?」

 「Nの件?」

 「そうそう。よく分かったね。」

 「まあ、ねぇ。」

 僕らはお互いが持つ数少ないNの記憶を寄せ集めた。

 残酷なアニメとかマンガの話をしていたとか、洋の東西を問わず、殺人鬼の話を半笑いでしていたとか。

 成績は結構良くて、それも数学とか生物とか、結構得意だったとか。

 家族には確か妹がいたとか、お父さんは公務員か何かだったとか。

 でも、それは全然大したことじゃなくて、そんな話、誰にでも当てはまるような普通のことだった。

 誰だって自分が何か特別な存在だと思いたいわけで、それが架空の世界やファンタジーに飛ぶと、まあ中二病だと呼ばれる。
 
 でも、Nはもしかしたら、猟奇的な殺人鬼だったのかな、平凡な日常に隠れている殺人鬼ってやつ。

 Cは「さあ、どうかな」とだけ言った。

 僕らは大した結論もなく、その日の電話を切った。



 電話を切ったあと、「誰かが「永遠の日常」って言葉を教えてくれたな、なんかの本だったかな」などと思い返していた。

 僕はいつも思う。全く自分の世界に特別なことがなく、つまらなくて長い日常が一生この後も続くのか、それで自分の周りにいるバカみたいな人たちと永遠に無理矢理仲良くして、紛れ込んで、目立たないように生きていかなければいけないのか。

 そういう強迫観念からの、ささやかな抵抗をみんな、何かしらしたがっている。
 
 そういう構造だって分かっていることが、僕のせめてもの抵抗で、そのことをCも分かっているので、僕らはなんだかクラスのどのグループに対しても、醒めてしまっていた。



 その日から、とにかく学校中、ところどころで常にNの話題だった。

 聞きたくなくても、Nのエピソードはどんどん耳に入ってきて、それがもう真実なのか嘘なのか、まるで確かめようがないレベルのものばかりなのだが、毒入りのジュースを作っていただの、人間の解体の方法をノートにまとめていただの、化学や生物のマニアックな本を持っていただの、野良猫が殺された事件あったけど、あれ、やっぱり・・・とか、とにかく、ありとあらゆる適当な話で盛り上がっていた。

 それである日、たまたま部活の帰り、Cに出くわしたから、僕らは最寄りの駅まで一緒に歩くことにした。

 「あの事件でもちきりだね。」僕はCに話しをふった。

 「うん。なんかなぁー。」Cはめんどくさそうに答えた。

 「あの話するの、嫌?」

 「ネタなんだよね。結局。」Cはいよいよ面倒そうだ。

 「ネタ?」

 「どうでもいいんだよ、結局。」

 「というと?」

 「誰がやっても、やられても。ちょっと知ってるから刺激的なだけ。彼女がつまらない世界から脱出しようとして全力を尽くしたことを、みんなで消費してるだけ。」

 考える時間が欲しかった。Cの言っていることは分かるような気がしたけど、腑に落ちないような気もした。

 僕も批判されているのだろうか?Cに嫌われるのか?なんだか、そっちの方が心配になってきた。

 少しだけ、僕らの間に沈黙が続いた。駅まではまだある。

 日はとっぷりと暮れかけている。

 僕の頭はNのことを語るCのことでいっぱいになって、僕らの間の特別な世界を守らなくちゃという感覚で、沈黙を街全体にかぶせるような気持ちで、何もできないまま、何も思いつかないまま、ただ歩いた。

 「彼女、普通なんだよ。あまりにも普通で、それがびっくりするほど、怖かったんじゃないかな。」

 Cは静かに、僕にだけ聴こえるように言った。と思う。

 「普通?」

 「優しいお母さん、優しいお父さん、仲良しの妹。そこそこ頭の良い自分。悲しい境遇でもなければ、特別な力もない。狂気もなければ、底抜けに明るくもない。友達も多くないけど、いないわけじゃない。だから、普通。」

 「でも、人殺しちゃったら普通じゃないでしょ。」

 「でも、普通だよ。」彼女は折れない。

 「よく分からないな。」と僕は呟いた。

 「ねぇ、今日、家にご飯食べに来ない?」

 その時の僕の衝撃。まさか女友達とはいえ、家に誘われるなんて、もう胃の中のものが込み上げてきて、顔が熱くなって、毛穴という毛穴が開いたみたいになった。

 話があまりにも急で驚いたのだが、しかし、そんなことに戸惑っていてはいけない。

 「え?いいの?突然だから、君の家族とか、特にお母さんとか、困るんじゃないのかな。」

 「大丈夫だよ、別に。」

 そうか、大丈夫か。っていうか、どうしたんだろうとは思ったけど、そんなことより、僕の人生のまさかの転機ではあるまいか、としか思えないこの状況。

 僕は携帯で家にすぐ電話した。

 母さんが出た。

 「あぁ、僕だけど。あのさ、部活のやつらとご飯食べることになったんだけど、いいかな。」

 「あ、そう。分かった、どうぞどうぞ。」

 嘘つくのはちょっぴり嫌だったのだけど、本当のことを話す気にもなれず、僕は咄嗟にまともな架空の理由をでっち上げた。

 僕は彼女に付いていき、いつも降りる駅の手前の駅で降りた。

 そこははじめて降りる駅で、ちゃんとひとりで帰れるように、出来るだけ道を覚えるように辺りを見回しながら歩いた。



 彼女の家は、マンションの2階の部屋だった。

 「ただいまー、友達連れてきた。」

 「おかえりー」と言って出てきたのは彼女のお母さんだった。手にはワインボトルを持っている。

 僕は料理でもしているのかと思ったのだが、Cのお母さんはそのボトルをそのまま口に持っていき、ごくごくと美味しそうに飲んだ。

 僕はそんなワインの飲み方をしている人を初めて見てしまったので、驚きが思わず顔に出ていたと思う。

 「あら!男の子じゃないの。はじめましてー。」

 「どうも、はじめまして。」と言って、僕は自己紹介をした。

 お母さんは笑顔を絶やさず、しかし、確実に酔っぱらっており、僕はその戸惑いを隠しきれないまま、キッチンに向かった。

 「はい、今日はお鍋よ。ちょうど良かった。沢山出来てるから。友達が来るなら、言ってよCちゃん。ケーキのひとつでも買ったのに。」Cのお母さんは、テンションが高い。

 僕は手を洗ってから、なんとなく部屋全体をながめつつ、キッチンの食卓テーブルの席についた。

 いただきますと所在無げに言ってから、よそわれた鍋を一口、口に運ぶ。

 思わず吐きそうになった。

 これほどマズイ鍋を食べたことがなかった。

 何で味付けしたのか分からないけど、とにかく旨味がなくて、酸っぱくて、ちょっと辛くて、遠くの方で苦かった。

 僕はよそわれた鍋を精一杯食べ、なんとか食事は終わり、彼女に付いて彼女の部屋に行った。

 もちろん、すごくドキドキしながら。


 
 「まずかったでしょ?あの鍋。」

 彼女はくすくす笑いながら僕に尋ねた。

 僕は思わず、「え?」と聞き返してしまった。

 「嘘つかなくていいの。あれ、すごいでしょ。」

 彼女は笑っている。作り笑いじゃなくて、本当に面白がっている。

 「うーん、そうだね。未知の味だった。今まで食べたことがない味。」

 「お母さんね、アル中で、味音痴で、しかも、たまにワンワン泣いたり、多少暴れたりするの。ウケるでしょ?」

 ウケない。全然ウケない。どこも笑えない。

 僕は平静を装って、そして全く装えないまま、

 「あー、そーなんだー」と返した。

 「ああいう人ってさ、普通じゃないでしょ。っていうか、病人でしょ。」

 僕は頷くでも頷かないでもない感じで、漂っていた。

 「小さい頃は本当に嫌だった。でも、グレるのも違うなって思ってて。」

 僕はまだ漂っている。

 「で、思うんだよね。ああいう人って、最悪だけど、人殺したりしないんだよね、案外。

 あんなに感情の起伏が激しくて、めちゃくちゃなのに、結局、普通にお酒飲み過ぎで、倒れるように寝るだけ。」

 彼女は僕が聞いているのを確かめようとしない。

 「だから、分かるの。Nは普通。普通のオーラが出てるの。

 この世界のルールから逸脱したいとか、そういうことを考えてるのが伝わるの。

 痛々しいだけで、全然ふつう。つまらないくらい。」

 彼女はそこで少しだけ黙った。

 そして「紅茶、飲める?」と僕に聞いた。僕は静かに頷いた。



 彼女が出してくれた紅茶は少し渋くて、でもこれが紅茶というものなんだろうと僕は思いながら、ずるずると飲んだ。

 「一か月くらい前かな。友達とNの話題になったの。」彼女が話し始める。

 「へー。どういう話題?」

 「友達がさ、Nは変わってる。危ない子じゃない?って言ってきたわけ。」

 「ほー。鋭い、わけではないのかな・・・。」僕は迷ってばかりいる。

 でも、彼女は気にしない。

 「それでね、私思わず、普通でしょ。どう見ても。普通のオーラしか感じないって言ったの。しかもちょっと声張って。」

 「それで?」

 「そしたらさぁ、Nがいたんだよね。遠くに。たぶん、聞いてた。私の話。」

 沈黙。彼女の声はそこで途切れた。

 僕は彼女の顔を恐る恐る見た。

 彼女はうっすら涙を浮かべていた。

 それから、そっと両手を顔にそえた。

 それから、ゆっくりと嗚咽しはじめた。

 僕は分からないけど、なんだか分からないけど、恐々と彼女を抱きすくめた。



 それからもう何分、何十分経ったか分からないけど、僕らはゆっくりと、そおっと離れた。

 それから、なんだか分からない複雑な、苦いような、甘酸っぱいような、吐きそうな気持になって、

 それでなんとなく「そろそろ帰るわ」と僕は彼女に告げた。

 彼女は「うん」とだけ、言った。

 彼女が途中まで送ってくれた。でも、僕らは何も一言も話さずに、最後に「じゃあ、またね」とだけ言って別れた。

 僕は帰りの電車のなかで、今日のことを振り返ろうとしたのだけど、ただとにかく、彼女を抱きすくめたときの、感じたことのない華奢な骨格と筋肉のことばかり浮かんできて、それですぐにいつもの駅の風景になってしまった。

 とても大事なことを聞いたような気がして、それで、そのことをもっと真剣に考えなきゃいけないような気がしていたのだが、その日、僕は眠りにつくまで、指先から腕、そして胸のあたりに感じた、あの柔らかな感触のことしか思い出せなかった。 //

TBS「時間がある人しか出れないTV」:数字でバラエティを考える視角の意味

2015-01-28 08:47:42 | テレビとラジオ
「時間がある人しか出れないTV」の視角が面白い。

今回の企画は、「年末年始のテレビ番組で誰が一番笑いを取ったか調査する」であった。

調査の基準は「誰が見ても笑った場面」を1カウントとし、その状態を惹き起こした人に1ポイント入る。

ポイント数の合計でランキングをつけ、その順位を発表していく。

調査員は若手の芸人さん4人。

この調査法がどこまで客観性を担保するのかは置いておこう。

重要なのは、この企画の前提にある。

すなわち、「笑いを起こした『数』が多ければ多いほど、優れたTVタレントかもしれない」という考えである。

これは「質」ではなく「量」に注目する。

もし質に注目するならば、いよいよ判断が主観的にならざるを得ない。番組構成全体から判断するなど、基準は難しくなる。

これに対して、量に注目することで、判断が相対的に言って、より客観的になる。

量に注目するのは、こうした実践的な理由からだけではない。

お笑いのコンテストの幾つかでも、笑いの数を基準にする傾向がある。

これは長らく言われていることだが、M1やThe Manzaiなどではボケの数が勝敗を決める主要な要因になっているという(それを受けて、方向性を変える機運も出ている)。

それに合理性がある。笑うまでに長い時間(フリ)を必要とする場合、視聴者はチャンネルを変える可能性があるからだ。

だから、笑いを数でカウントするのは、メディアの性質として当然と言えよう。

そもそも番組の生存を決める「視聴率」も数(=視聴している人数)なのだ。



だから笑いの数が多ければ良い、という考え方は決して間違っているとは言えない。

この番組で、その基準からトップ3になったのは、

「1位 明石さんま  2位 松本人志  3位 出川哲郎」

であった。

これは直感的にも決してそう遠くない結果である。

特に出川哲郎がトップ3に入ったことは、非常に重要である。

つまり、芸人のなかでもキャリアが相当にありながら、いつまでも若手に近い立ち位置の彼が、実はものすごく多くの笑いを取っているスターだということを証明してしまったのである。

それはある意味、証明してはいけないことでもある。

つまり、出川は大したことはない存在として出ることによって、そのキャラクターを確立しているわけで、実質的な立ち位置(=真のビッグ3)を暴露するのは、必ずしもプラスかどうかは疑わしいのである。

出川自身にとって有意義がどうかはともかく、この結果は興味深いし、ある程度の説得力がある。



とはいえ、「笑いの数(量)」に注目することには、決定的な弱点もある。

最大の問題が、「面白い」の種類が限定され過ぎることである。

われわれが頬の筋肉を痙攣させるのが「笑い」だとしても、それ以外にだって「面白い」は存在する。

例えば、落語の人情話。これは笑いだけではなく、人間の機微そのものが面白いのである。

あるいは、言葉に出来ない我々の日常的な感情を適切な言葉で表現し、人々を「納得」させる、という面白さもある。

思わず「なるほど!」「よく言ってくれた!」「うまい!」(=座布団一枚)も「面白い」ことに入る。

このように「笑い」と他の「面白い」が結び付くことで、エンターテイメントは深さと奥行きが増す。

笑いの数だけに限定する考え方は、芸能を一面的なものにし、結果的に多様性を奪い、一過性の表層的なものにしかねない。



そうした問題点を認識しつつも、この「笑いを数(量)で考える」という視点はきわめて重要である。

その視点によって、我々は視聴者としての先入観から多少自由になることが出来るからだ。

これから、まずますこうした「数」の視点は重要になるだろう。

特に音声認識や映像認識の自動化が浸透すれば、それは視聴率とともに番組の質を測る基準のひとつになりえるかもしれない。