テレビ東京の「共感百景」が今年も面白かった。
気鋭のクリエイターと芸人たちが、人が思わず「あるある」と共感してしまう場面や心情を短い「詩」にして描く。
一年に一回のこの番組。昨年も観た。そして、今年も観た。
いくら一緒に居ても、いくら写真を送りつけたり見せつけたりしても、人間は心情を共有できるわけではない。
結局、言葉を尽くしてコミュニケーションする以外に、主観を他者に理解させるのは不可能だ。
そういう意味で、人間は徹底して孤独であり、だからこそ、自由でもある。
共感百景は、この徹底して孤独な人間が、別の孤独な人間と瞬間つながることが出来る言葉の力を示す。
例えば、昨年の能町みね子の作品(テーマは東京)、
「お前は自らの意志で上京したくせに 人ごみは嫌いなどとぬかす」
読者はこの言葉のなかの「言う側」でもあり、「言われる側」でもある。
「上京と人ごみ嫌い」に限らず、我々は絶えず、能町が指摘するような「自意識の矛盾」を抱えている。
仕事やめたいと言いつつ、その仕事を始めたのは自分。結婚できないと言いつつ、パートナーのハードルを徹底的に引き上げるのも自分。自分のプライバシーを守ろうとしながら、ネット上にせっせと自分の情報をアップロードし続けるのも自分。
そうした矛盾はしばしばナルシスティックで、ともすれば、滑稽である。
だが、いかなる人間もそこから逃れることが出来ない。
それが人間なのだから。
今年の作品では、トリプルファイヤー吉田の(テーマは思春期)、
「塾でのおれが 本当のおれ」
がまた興味深い。
人間は様々な「社会」を生きる。仕事上の私、家族のなかでの私、地元の友人のなかでの私、大学時代の同級生のなかでの私など。
そのそれぞれの社会のなかで、それぞれの人格があり、それらは決して一貫しない。
それぞれを比べたり、同じ土俵に置くと、人間は途端に破綻する脆い存在だ。
思春期や塾に限らず、人間はずっと「あるべき自分」という幻想のなかで、一貫せず矛盾したまま、なんとか自己意識を維持しようと足掻く。
自分の像を格好よく見せびらかすために、他の「社会」で、自分の他の「人格」をでっち上げる。
あるいは、自分が唯一ヒーローでいられる「社会」を他の社会から隔絶させる。
どれも、可愛いくらい滑稽で、バカバカしいくらいに必死だ。
こうして、共感百景は短い言葉で、人間の本質に突き刺さる「あるある」を連発していく。
自分の孤独でバカバカしい戦いは、他の主観と共有され、笑いを誘うことで、ほんの少しだけ報われる。
人間の孤独を確かめながら、同時に、その孤独を共有することで、孤独からほんの少し解放される。
このように、番組はのんびりした空気感のなかで、誠実な言葉を紡いでいる。
この番組を週一にして欲しいとは言わない。
だが、せめて半年に一回は見たいものだ。
気鋭のクリエイターと芸人たちが、人が思わず「あるある」と共感してしまう場面や心情を短い「詩」にして描く。
一年に一回のこの番組。昨年も観た。そして、今年も観た。
いくら一緒に居ても、いくら写真を送りつけたり見せつけたりしても、人間は心情を共有できるわけではない。
結局、言葉を尽くしてコミュニケーションする以外に、主観を他者に理解させるのは不可能だ。
そういう意味で、人間は徹底して孤独であり、だからこそ、自由でもある。
共感百景は、この徹底して孤独な人間が、別の孤独な人間と瞬間つながることが出来る言葉の力を示す。
例えば、昨年の能町みね子の作品(テーマは東京)、
「お前は自らの意志で上京したくせに 人ごみは嫌いなどとぬかす」
読者はこの言葉のなかの「言う側」でもあり、「言われる側」でもある。
「上京と人ごみ嫌い」に限らず、我々は絶えず、能町が指摘するような「自意識の矛盾」を抱えている。
仕事やめたいと言いつつ、その仕事を始めたのは自分。結婚できないと言いつつ、パートナーのハードルを徹底的に引き上げるのも自分。自分のプライバシーを守ろうとしながら、ネット上にせっせと自分の情報をアップロードし続けるのも自分。
そうした矛盾はしばしばナルシスティックで、ともすれば、滑稽である。
だが、いかなる人間もそこから逃れることが出来ない。
それが人間なのだから。
今年の作品では、トリプルファイヤー吉田の(テーマは思春期)、
「塾でのおれが 本当のおれ」
がまた興味深い。
人間は様々な「社会」を生きる。仕事上の私、家族のなかでの私、地元の友人のなかでの私、大学時代の同級生のなかでの私など。
そのそれぞれの社会のなかで、それぞれの人格があり、それらは決して一貫しない。
それぞれを比べたり、同じ土俵に置くと、人間は途端に破綻する脆い存在だ。
思春期や塾に限らず、人間はずっと「あるべき自分」という幻想のなかで、一貫せず矛盾したまま、なんとか自己意識を維持しようと足掻く。
自分の像を格好よく見せびらかすために、他の「社会」で、自分の他の「人格」をでっち上げる。
あるいは、自分が唯一ヒーローでいられる「社会」を他の社会から隔絶させる。
どれも、可愛いくらい滑稽で、バカバカしいくらいに必死だ。
こうして、共感百景は短い言葉で、人間の本質に突き刺さる「あるある」を連発していく。
自分の孤独でバカバカしい戦いは、他の主観と共有され、笑いを誘うことで、ほんの少しだけ報われる。
人間の孤独を確かめながら、同時に、その孤独を共有することで、孤独からほんの少し解放される。
このように、番組はのんびりした空気感のなかで、誠実な言葉を紡いでいる。
この番組を週一にして欲しいとは言わない。
だが、せめて半年に一回は見たいものだ。