それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

直太朗の歌

2013-06-10 19:07:15 | 日記
森山直太朗の「生きてることが辛いなら」をなんとなく聴いていた。

特にどういう意図でもない。

今、生きてることが辛いというわけでもない。

ただ、なんとなく聴いていた。

僕がカナダにいたとき、よくこの曲を聴いていた。

今までの研究生活で一番辛いときだったと思う。

イギリスの2年目の冬も辛かった。けれど、カナダの夏のたった3か月が、僕には本当にきつかった。

英語だけを毎日勉強する生活は、生きている意味を見失うような日々だった。

その日々がその次のステップにつながった、というのは後から見れば分かるのだが、あの時はまだどうなるか全く分からなかった。

「生きてることが辛いなら」は、その当時の自分の気持ちにとてもしっくりきていた。

久し振りに、本当に久しぶりにこの曲を聴いたとき、その当時の沢山の匂いや光の感じが思ってもいなかったほど、フラッシュバックした。

ホームステイ先の台所の匂い、料理の匂い、電車の匂い、学校の匂い、近くのカフェの匂い、大きな図書館の匂い、

ちょっぴり弱い日差し、少しだけさびしい青空、いつまでも来ない夜。

あの街にもう一度行ってみたいという気持ちだけは、全くおきない。

そこで出会った友達は本当に素晴らしかったのだけれど、僕は彼らと別の街で会いたいとどうしても思ってしまうのである。