それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

巡礼

2013-06-02 14:41:32 | 日記
巡礼とは、宗教的に神聖な土地をめぐる行為、だそうである。

西洋的な巡礼においては、原罪というはじめから存在する「マイナス」を出来るだけ「ゼロ」に近付けることが目的とされる。

他方、東洋的な巡礼においては、宗教的な価値という意味では「ゼロ」からスタートする。

西洋と東洋。と分類したが、どの文化圏に属するとしても、どちらの巡礼も何らかのかたちで、われわれの社会のなかで形成されるのではないかと、私は思わざるを得なかった。

誰かの記憶をたどるために、その人の出会った人々や場所をめぐることは、それは決して「宗教的」というわけではないだろう。

しかし、もしもその記憶の「誰か」と、場や人をめぐる行為者としての「自分」の関係について問われたとき、おそらく多くの行為者は、その「誰か」を「自然を超えた何か」として捉えてはいないだろうか?

あるいは、自然という巨大な摂理から救い出そうとしてはいないだろうか?



私は様々な人間関係があまり拡大しすぎないように、あるいは、縮小と拡大をまったくうまくない仕方で組み合わせてきた。

つまり、私の記憶を私の外部から巡るとすれば、それはとてもつまらないものであるか、あるいは途切れ途切れということになるのかなと思う。

つい最近も、私は過去のサークルの人間関係を一度凍結する儀式を終えたような気がしているのである。

「凍結」ということは決して否定的な意味ではなく、まったく考えている余裕がない現状に鑑みて、冷凍庫の奥に置いておこうという程度のものである。

私は公私の人間関係をどこか超然的にすべて、「ビジネス=アイデンティティ」(潜在的顧客=友人)という、食い合わせの悪い資本主義と自己実現の政治というセットに入れることが出来ない。

それを入れることが出来るのは、何と言うか、アングロサクソン的ビジネスマンくらい、という気がしているのである。

このセットはとても優れている。

仕事を成功させることで顧客は満足し、自己実現でき、潜在的顧客としての友人も増加し、友人の幸福度も上昇し、そして、さらに自己実現への階段を昇るのである。

けれど、こんなものは幻想だ。