それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

「ウォーリー」で涙

2011-10-13 11:56:50 | コラム的な何か
機内上映で一番感動したのが「ウォーリー」だった。

評判が良いのは知っていたので、相当期待して見て、それ以上に満足する。

人間の文明が滅んだあとの地球で、植物のない燃えないゴミだらけの地球を掃除する(?)ロボット、ウォーリーの話。

いかにも旧式のロボットという印象のウォーリーが、コミカルにお茶目にキュートに動き回る。人間的な社会性に憧るウォーリー。いつか誰かと手をつなぎたい、そういう想いを抱きながらも孤独に生きていた。

ところがある日、そこにまさかの探索ロボットが地球外からやってくる。この探索ロボットにアプローチするウォーリー。

しかし、あるものを発見したとたん、突然、彼女との別れが・・・。追いかけるウォーリー、その先で出会ったものとは一体。



私の感動ポイントは、やはりウォーリーが探索ロボットに出会って初めて孤独から脱出しようとするところ。

ウォーリーのキュートさによって相当観客は感情移入させられ、その孤独さを共有する。

探索ロボットは完全なツンデレで、徐々にウォーリーと通じ合っていくところがミソだが、それが本当になかなかうまくいかない。

通じ合ってきたと思ったら、外部からの邪魔。

この障害を乗り越えるなかで、両者の絆は一層深まっていくのであった。

このメインの筋書きはいたって単純だが、しかし見事場映像美と丁寧な演出に支えられ、ぐぐっと引きこまれる。



物語の後半、展開はマトリックスのような話になるのだが、そこでも社会性および主体性を奪われた人間が登場。

全体に無機物と有機物の対比が、孤独と社会性の対比とパラレルで、ストーリー全体のダイナミクスを形成している。

基本的にピクサーのアニメ映画はストーリー自体複雑ではないし、哲学らしい哲学もそれほど複雑ではないかもしれない。

しかし、物語を描くうえできわめて基本に忠実、シンプルであるがゆえに力強い構成になっている。コントラストとダイナミクスの付け方は、学ぶべきところが少なくない。

それに対して、映像は非常に複雑。架空のヒトやモノをまさに生きているかのように描くというアニメーションの本質を徹底的に追究している。



ウォーリーの孤独と、物語のなかで得る絆は、自分自身が彼女と過ごしてきた日々を思い起こさせ、観終わったあと、物語に涙するとともに、今回の日本での彼女との日々を思い出して、再度涙するという二重の涙に終わった。

誰かと分かり合う喜び。苦難をともにする力。

それはやはり物語でしか描けない種類のテーマだなあと改めて思った。

ミッドナイト・イン・パリ:パリの二面性

2011-10-12 06:58:16 | コラム的な何か
ウッディ・アレンの「ミッドナイト・イン・パリ」がすごく面白かった。

評判も良かったので前から見てみたかった。



主人公は小説家志望の脚本家。婚約者とパリに来て観光するが、どういうわけか1920年代の芸術家コミュニティに迷い込んでしまう。

僕が面白がったポイントは、婚約者とその両親&友人たち(エリート)の嫌な感じと、1920年代の芸術家コミュニティの熱さと親しみやすさの対比。

パリでワインやら芸術やら歴史やらを解説するエリートの皆さん。

そこに全然ついていけない野暮ったい主人公。

パリのエリートが最高で最悪なのは当たり前として、あまり知られていないのがパリに集まる世界中のエリートのやっかいさだ。

それはパリで実際にそういう人たちと話すか、そういう人たちに苦しんだ普通の人と話すかしなければ分からないやっかいさ。

そのやっかいさを水で50倍に希釈した感じが本作品では楽しめる。



それに対して、1920年代の芸術家コミュニティの描かれ方は対照的だ。

英語圏の芸術家たちを介してとはいえ、すぐに打ち解ける主人公。

パリに集まる美の巨人と文学の巨匠たちの若き頃に感化されつつ、ひとりの女性と恋に落ちる。

パリの芸術家の熱い雰囲気を描くのが主たる目的ではない。

しかし主人公が現代の世界とは反対に、パリを謳歌する姿に観客はホッとするし、最終的には僕ですらなんだかちょっとパリを好きになれる。



郊外を知らないものがパリを語るなかれ、とはよく言ったもので、パリの中心街を出れば文明の中心とは言い難い環境が広がるパリ。

本作からはそうしたパリの全体像はもちろん分からないが、しかし確かに存在した芸術の都としてのパリを美しく軽妙に描いたことと、パリに集まるエリートのちょっと嫌な感じことを描いたことはとても重要だ。

機内上映で爆笑した映画:プリンセス・トヨトミ

2011-10-11 21:21:46 | コラム的な何か
イギリスに帰ってきましたよ。

成田泊だったので、比較的元気な状態でフライトに臨みました。

長距離の場合、たいてい作戦はふたつで、(1)かなり疲労困憊した状態で乗って爆睡か、(2)超元気な状態で乗って目的地につくまで頑張る、のいずれかです。

今回は元気だったので(2)を否応なく選択。

いつもは見ない映画なんかを沢山見たりしましてね。



まず手始めに邦画をチョイス。「プリンセス・トヨトミ」がなぜかそこに。

内容はかなり酷いレベルでしたよー。

一番ひっかかったのは、「非公式に中央政府から承認されていた大阪国」というテーゼ。

どういう意味??

承認ってことは独自の外交権は? →なし

独自の軍隊は? →なし

予算の自律性は? →なし(なぜか中央政府から給付されているうえに、チェックまでされている)

地方で制定できる条例が中央政府の法律と矛盾することは可能か? →たぶん無理

地方自治体との違いがないYO!!

だから、さらなる独立を狙う一部の大阪人が・・・ほとんどいない。

問題になった大阪国の予算5億円は、中央政府からもらっており、それを会計検査院が違法と主張・・・ええッ???

国家予算、少なッ!!!!!!

っていうか、ちょっと分権の進んだ地方交付税じゃね??



結局、大阪国あるいは大阪国民を形成している紐帯は何?

なんと「豊臣の血を継承した王または女王がいること」らしい。

にもかかわらず、今は王も女王もなく、プリンセスのみが存在(なぜか女王に即位しない)。

にもかかわらず、「誰が王女なのかは、ほとんどの大阪人が知らない。」(なのに、みんなが命を賭けるほどの忠誠心。)

えええッ??不合理の祭典!!!!

これに対する映画の答えは、「父から息子への継承の儀式によって忠誠心は再生産される」。

えええッ??じゃあ、娘は?っていうか、王も王女も誰だか分からないのに大丈夫?

映画は「大阪人はプリンセスをどんなことがあっても守る」と主張。

誰だか分からないのに??

しかも笑ったのが、ストーリー上、プリンセスに対する実質的な脅威は大阪人(やくざの息子)から来ていて、「てめぇの国民の問題だろ!!!!」と突っ込み。



一体、何なんだ!!何なんだ、この映画!!

感動した映画についてはまた次回(誰も待ってないけど)。

予定

2011-10-07 09:36:29 | 日記
昨夜から事務関係を進める。

もうすぐイギリスに帰るが、11月前半に東京に2,3日滞在する予定。

イギリスと日本を往復しまくる。

イギリスもなんだか久し振りのような気分だ。日本にどっぷり浸かり過ぎたかな。

成果は色々あった。総じて良かった。

考えすぎないこと。

吾郎さんの映画

2011-10-06 00:38:41 | 日記
昨日は後輩君と会う。毎回、会うたびに(僕が)イライラしてしまう後輩君だったが、

ようやく僕の言っていることの意味が分かるようになってきて(言葉が通じるようになってきて)、

会話も少しずつ面白くなり、僕も勉強になるようになってきた。



今日は今日で友人Iと飲む。帰英前に会う最後の友人だろう。

その前に吾郎さんの映画を一緒に見る。まさかこのタイミングで見ることになるとは思わなかったが、ぜひ観ておきたかったのでちょうど良かった。


好きなところ:

高校のエリートたちのサブカルチャーがよく描けていて、そこに自分の先達の研究者たちの面影を見た気がして嬉しかった。

僕が感じてきた上の年代の研究者の異常な優秀さは、戦前・戦後に存在したエリートのサブカルチャーによるものではないか、という前々からの勝手な仮説について改めて考えたりした。


問題に思ったところ:

幾つかあるが、どうしても許せなかったことに、主題歌以外のほとんどの音楽が映画のどの場面にも合っていなかった。

音楽の担当者が違う人だったら、この映画は2倍良かったと思う。


これから吾郎さんに期待したいこと:

しっかりした脚本を書けるチームを作って、脚本の精度と安定感を上げてほしい。

監督完投型のシステムはもはや持続可能とは考えにくい。