それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

ミッドナイト・イン・パリ:パリの二面性

2011-10-12 06:58:16 | コラム的な何か
ウッディ・アレンの「ミッドナイト・イン・パリ」がすごく面白かった。

評判も良かったので前から見てみたかった。



主人公は小説家志望の脚本家。婚約者とパリに来て観光するが、どういうわけか1920年代の芸術家コミュニティに迷い込んでしまう。

僕が面白がったポイントは、婚約者とその両親&友人たち(エリート)の嫌な感じと、1920年代の芸術家コミュニティの熱さと親しみやすさの対比。

パリでワインやら芸術やら歴史やらを解説するエリートの皆さん。

そこに全然ついていけない野暮ったい主人公。

パリのエリートが最高で最悪なのは当たり前として、あまり知られていないのがパリに集まる世界中のエリートのやっかいさだ。

それはパリで実際にそういう人たちと話すか、そういう人たちに苦しんだ普通の人と話すかしなければ分からないやっかいさ。

そのやっかいさを水で50倍に希釈した感じが本作品では楽しめる。



それに対して、1920年代の芸術家コミュニティの描かれ方は対照的だ。

英語圏の芸術家たちを介してとはいえ、すぐに打ち解ける主人公。

パリに集まる美の巨人と文学の巨匠たちの若き頃に感化されつつ、ひとりの女性と恋に落ちる。

パリの芸術家の熱い雰囲気を描くのが主たる目的ではない。

しかし主人公が現代の世界とは反対に、パリを謳歌する姿に観客はホッとするし、最終的には僕ですらなんだかちょっとパリを好きになれる。



郊外を知らないものがパリを語るなかれ、とはよく言ったもので、パリの中心街を出れば文明の中心とは言い難い環境が広がるパリ。

本作からはそうしたパリの全体像はもちろん分からないが、しかし確かに存在した芸術の都としてのパリを美しく軽妙に描いたことと、パリに集まるエリートのちょっと嫌な感じことを描いたことはとても重要だ。