それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

その人たちと会えば。幸福な時間。

2010-03-14 07:40:51 | 日記
今日は大事な友人ふたりがイギリスに遊びに来てくれたので、一緒にロンドンで遊ぶことに。

丸一日、思いっきり楽しみました。

見たり聞いたりしたもの。話したこと。

それらが一体どういうことで、それが自分にとって何を意味しているのか、僕にはまだ分からない。

けど、今日は自分にとって素晴らしい時間だった。

話しながら僕は、相手を確かめ、自分を確かめ、

少し自分がはっきりしたような、それでいて、何だかよく分からなくなったような。



幸福な時間と言えば、最近、なぜか小学生の頃の自分にとっての、最良の時間のことを思い出す。

日曜日の17時。

キッチンから良い匂いがして、それで誰かがお風呂に入っている音がする。

僕はその時間がすごく好きで。

家での幸福な時間が僕の何かを形作っているとしたら。

それは何だろう。



この場所に来て、僕は自分の地層を見つめ直しながら、人間を少しずつ好きになり始めている。

ここに来る前、僕は僕を知っている多くの人の記憶から、僕を消して欲しいと確かに思っていた。

今は少し違う。

友人たちとの幸福な時間が、また僕のなかに蓄積して、僕の輪郭を少しはっきりしたものにしているのではないかな、と思う。



僕は写真自体決して嫌いではないのだけど、今この瞬間の自分を確かめるのに忙しすぎて、何かいま一つ興味が持てないのかもしれない。

だから、僕にとって写真の意味は、写真を撮っているその瞬間が今の自分にどう影響しているか、ということに集約される。

僕は記憶を書き変えながら、自分の輪郭を書きなおしたり、塗りなおしたり、あるいは薄くしてみたり。

でも、曖昧なままにしておきたい。

まだ、その時ではないから。

また明日から、明日を始める。そのための今日である。