消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(323) 韓国併合100年(1) 心なき人々(1)

2010-09-26 21:29:45 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 
はじめに


 二〇一〇年は、日本による韓国併合一〇〇周年に当たる年である。日清、日露という二つの戦争を経て、韓国(1)を日本の植民地として組み込んだ韓国併合こそは、その後、日中戦争、太平洋戦争に向かって、日本が破滅の道をまっしぐらに走って行くことになった原点である。日本人が、当時持っていた「日本精神」とは一体何だったのかと自省しなければならない非常に大事な節目が二〇一〇年である。この大事な二〇一〇年を挟み、三年に亘って、司馬遼太郎の「坂の上の雲」が、NHKの日曜日のゴールデン・アワーで放映されることになった。日本に侵略された地域の人々の憤激を買ってまで、この時期に、韓国を巡る二つの戦争を遂行していた当事者たちを賛美する青春ドラマを放映するNHKの狙いがどこにあるのかは不明だが、これでまた、日本には、過去の戦争を聖戦であったとする宣伝が吹きまくることになるのだろう。

 「このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である」、「楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう」(司馬[二〇〇四]、第一巻「あとがき」、四四八~四九ページ)。

 言葉の使い方に統一がないことはまだ許せる。許せないのは、史実であると読者に広言しながら、そのじつ、小説の架空の世界を展開する詐欺である。

 「この作品は、小説であるかどうか、じつに疑わしい。ひとつは事実に拘束されることが百パーセントにちかいからであり、この作品の書き手―私のことだ―はどうにも小説にならない主題を選んでしまっている」(司馬[二〇〇四]、第四巻「あとがき」、四九九ページ)。

 この文章を読めば、私たちは、『坂の上の雲』が、史実に忠実に書かれた歴史物であると、素直に信じてしまう。実際、史実とは何かということを確定することは難しい。沖縄の普天間基地撤去運動を例に引こう。二〇一〇年の今日、沖縄基地反対運動が日本の全国で盛り上がっている。逆の基地必要論も右翼的知識人から盛んに流されている。つまり、二つの異なる論調が今の日本には存在している。ところが、将来、例えば、二〇三〇年になって、過ぎ去った二〇一〇年前後の沖縄の歴史を書く際に、ある作家が、マスコミの基地必要論のみを取り上げて、基地反対運動を無視し、あの時代には基地必要論が沖縄県民の心情であったという内容の小説を発表したとしよう。二〇一〇年時点で、確かに基地必要論もあったのだから、作家が、嘘の叙述を行ったわけではない。しかし、同時に存在していた基地反対運動を黙殺して、二〇一〇年を、基地必要論が支配していた時代であったと決めつけてしまえば、それはれっきとした詐欺である。司馬は堂々とこの種の詐欺を働いた。

 本当に、日本には、日清、日露戦争に踏み切る以外の選択肢がなかったのかを、真摯に自省してみることが、二〇一〇年の今日には、とりわけ必要なことである。「あの時代はよかった」ではなく、「あの時代、東アジアを日本が地獄に叩き込んだ。どうすれば贖罪ができるのか」という自省が今の日本には求められているのに、「坂の上の雲」賞賛のオンパレードとは、何たることか。

 遠くから日本を眺めていたネルーの次の言葉が、当時のアジア人の偽らざる心境を伝えている。

 「(日清戦争の日本の勝利によって)朝鮮の独立は宣言されたが、これは日本の支配をごまかすヴェールにすぎなかった」(ネルー[一九九六]、一七〇ページ)。
 「日本のロシアにたいする勝利がどれほどアジアの諸国民をよろこばせ、こおどりさせたかを、われわれはみた。ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をつけくわえたというにすぎなかった。そのにがい結果を、まず最初になめたのは、朝鮮であった。日本の勃興は、朝鮮の没落を意味した」(同、一八一ページ)。

 当時の日本にも、朝鮮にも、足を踏み入れたことのないネルーですら、このように事態を正しく見抜いていた。ネルーの透徹した眼とは対照的に、今の日本の保守的イデオロギーの持ち主たちは、朝鮮人民に与えた塗炭の苦しみへの贖罪の気持ちを一片も持ち合わせていない。持ち合わせていないどころか、罪は、清国とロシアに挟まれた朝鮮の地理的空間にあるとまで言い切る司馬の小説が、多くの保守的イデオロギーの持ち主たちの心を捕えている。朝鮮を他の強国に取られてしまえば、日本は自国を防衛するのが困難になっていたとの主張を展開した『坂の上の雲』関連の書籍が書店で平積みされている。