事実関係を説明しておこう。一八七五年、明治政府は江華島(Kanghwa-do)に艦砲射撃を行った。江華島事件である。
実は、江華島に対しては、日本よりも米国が先に攻撃していた。米国は、一八七一年に同島に艦砲攻撃を行っていたのである。理由は不明だが、この時に、日本は長崎港を米国側に艦隊の出撃基地として使わせた。米国艦隊は朝鮮の防衛線を破ることができずに撤退したのであるが、その四年後、日本が同島を攻撃している。その際、米国側から同島周辺の海図の提供を受けた。明治政府は、国交がなかった国に何の予告もなく近づき、朝鮮側から砲撃されたので応戦したと説明してきたが、それは挑発以外の何ものでもなかった。この事件のあった翌年の一八七六年、日朝修好条規が結ばれた。それは、朝鮮を開国させる不平等条約であった。この条約は、当時の欧米が日本に押しつけていた条約よりも、はるかに朝鮮側に対して不平等なものであった。日本と欧米との不平等条約は、関税自主権がなかったが、それでも、日本側は関税を外国からの輸入品にかけることができていた。しかし、日朝不平等条約は、関税そのものをかけること自体を、朝鮮に許さなかったのである(高井[二〇〇九]、七~八ページ)。
それに反発した朝鮮軍は、一八八二年(壬午)に反日のクーデターを起こした。「壬午(Im-O)事変」である。これは、朝鮮の兵士と市民が、日本の公使館を襲撃した事件である。日本の業者が朝鮮米を買い占めて日本に輸出していたために米価が暴騰したことから、日本人への怒りが爆発したものと言われている。日本は、軍隊を派遣して乱を鎮圧し、その後、引き揚げたが、清は、守旧派と言われる閔氏(Minshi)政権の要請に応じて、国内の治安を維持すべく朝鮮に軍を駐在させた。
当時、清と朝鮮との関係は、朝貢体制であった。朝貢体制というのは、中国の皇帝を頂点とし、他国は、中国に頭を下げる宗属国という地位に甘んじるという関係を指す。しかし、こうした上下関係はあくまでも建て前であって、実際には、他国は独立を保ち、清からの指令を受けていなかった。しかし、壬午事変が、事情を一変させた。清は朝鮮の政治に介入するようになったのである。
これに反発したのが金玉均(Gim Ok Gyun)などのいわゆる開化派であった。彼らは欧米列強の力を借りて朝鮮を近代化させようとしていた一派であった。
この動きに日本が乗った。日本は軍を派遣して、開化派のクーデターを支持し、閔氏政権を打倒しようとした。これが、一八八四年の「甲申(Gap-Shin)政変」である。日本軍は、朝鮮王宮の景福宮(Gyeongbokgung)を警備したが、清の袁世凱(Yuan Shikai)軍の介入によって、日本軍は撤退し、クーデターは失敗した。一八八五年、日清間で天津(Tianjin)条約が締結され、日清双方とも軍事顧問の派遣中止、軍隊駐留の禁止、しかし、止むを得ず朝鮮に派兵する場合の事前通告義務、などが取り決められた(高井[二〇〇九]、九ページ)。
一八九四年(甲午)二月、「甲午(Gap-O)農民戦争」が発生した。民衆に根づいた新しい考え方(東学)に傾斜していた農民反乱であった。東学(Tonghak)とは、天を尊敬し、自らの心の中に天が存在するという朝鮮の古来からの思想を奉じる考え方であり、この思想に共鳴した民衆は、西欧と日本を排斥する運動に参加するようになって行った。
農民軍は、一八九四年五月三一日、全羅道(Jeolla-do)全域を占領した。追いつめられた朝鮮政府は、清に応援を依頼した。これに対して、明治政府は、「公使館と日本人居留民保護」を口実に出兵し、首都・漢城(Hanson、現在のソウル)を占領した(高井[二〇〇九]、一四ページ)。
陸奥の日記にある一八九四年七月一二日の指示は、この甲午農民戦争と関連したものである。明治政府は、天津条約を盾に、止むを得ない状況が起こったとして出兵したのである。日本軍の出兵は一八九四年六月二日に閣議決定された。反乱軍は、日清両国の介入におののき、朝鮮政府と和解した。つまり、日本は軍を朝鮮に駐留させる口実がなくなった。
朝鮮政府は、日清両軍の撤兵を要請したものの、両軍とも受け入れなかった。一八九四年六月一五日、伊藤博文(ひろぶみ)内閣は、朝鮮の内政改革を日清共同で進める方針であるが、それを清が拒否すれば日本単独で指導するというシナリオを閣議で合意させた。六月二一日、清が日本の提案を拒否すると、伊藤内閣と参謀本部・海軍軍令部の合同会議で、いったん、中止していた日本軍の残部の輸送再開を決定した。英国が調停案を提示したが、七月一一日、伊藤内閣は、清との国交断絶を表明した。日清開戦の危機が一気に高まった。七月一六日、日英通商航海条約が調印され、英国が日本の側に立つことになった(ただし、この条約が公表されたのは、一八九四年八月二七日)。
実は、江華島に対しては、日本よりも米国が先に攻撃していた。米国は、一八七一年に同島に艦砲攻撃を行っていたのである。理由は不明だが、この時に、日本は長崎港を米国側に艦隊の出撃基地として使わせた。米国艦隊は朝鮮の防衛線を破ることができずに撤退したのであるが、その四年後、日本が同島を攻撃している。その際、米国側から同島周辺の海図の提供を受けた。明治政府は、国交がなかった国に何の予告もなく近づき、朝鮮側から砲撃されたので応戦したと説明してきたが、それは挑発以外の何ものでもなかった。この事件のあった翌年の一八七六年、日朝修好条規が結ばれた。それは、朝鮮を開国させる不平等条約であった。この条約は、当時の欧米が日本に押しつけていた条約よりも、はるかに朝鮮側に対して不平等なものであった。日本と欧米との不平等条約は、関税自主権がなかったが、それでも、日本側は関税を外国からの輸入品にかけることができていた。しかし、日朝不平等条約は、関税そのものをかけること自体を、朝鮮に許さなかったのである(高井[二〇〇九]、七~八ページ)。
それに反発した朝鮮軍は、一八八二年(壬午)に反日のクーデターを起こした。「壬午(Im-O)事変」である。これは、朝鮮の兵士と市民が、日本の公使館を襲撃した事件である。日本の業者が朝鮮米を買い占めて日本に輸出していたために米価が暴騰したことから、日本人への怒りが爆発したものと言われている。日本は、軍隊を派遣して乱を鎮圧し、その後、引き揚げたが、清は、守旧派と言われる閔氏(Minshi)政権の要請に応じて、国内の治安を維持すべく朝鮮に軍を駐在させた。
当時、清と朝鮮との関係は、朝貢体制であった。朝貢体制というのは、中国の皇帝を頂点とし、他国は、中国に頭を下げる宗属国という地位に甘んじるという関係を指す。しかし、こうした上下関係はあくまでも建て前であって、実際には、他国は独立を保ち、清からの指令を受けていなかった。しかし、壬午事変が、事情を一変させた。清は朝鮮の政治に介入するようになったのである。
これに反発したのが金玉均(Gim Ok Gyun)などのいわゆる開化派であった。彼らは欧米列強の力を借りて朝鮮を近代化させようとしていた一派であった。
この動きに日本が乗った。日本は軍を派遣して、開化派のクーデターを支持し、閔氏政権を打倒しようとした。これが、一八八四年の「甲申(Gap-Shin)政変」である。日本軍は、朝鮮王宮の景福宮(Gyeongbokgung)を警備したが、清の袁世凱(Yuan Shikai)軍の介入によって、日本軍は撤退し、クーデターは失敗した。一八八五年、日清間で天津(Tianjin)条約が締結され、日清双方とも軍事顧問の派遣中止、軍隊駐留の禁止、しかし、止むを得ず朝鮮に派兵する場合の事前通告義務、などが取り決められた(高井[二〇〇九]、九ページ)。
一八九四年(甲午)二月、「甲午(Gap-O)農民戦争」が発生した。民衆に根づいた新しい考え方(東学)に傾斜していた農民反乱であった。東学(Tonghak)とは、天を尊敬し、自らの心の中に天が存在するという朝鮮の古来からの思想を奉じる考え方であり、この思想に共鳴した民衆は、西欧と日本を排斥する運動に参加するようになって行った。
農民軍は、一八九四年五月三一日、全羅道(Jeolla-do)全域を占領した。追いつめられた朝鮮政府は、清に応援を依頼した。これに対して、明治政府は、「公使館と日本人居留民保護」を口実に出兵し、首都・漢城(Hanson、現在のソウル)を占領した(高井[二〇〇九]、一四ページ)。
陸奥の日記にある一八九四年七月一二日の指示は、この甲午農民戦争と関連したものである。明治政府は、天津条約を盾に、止むを得ない状況が起こったとして出兵したのである。日本軍の出兵は一八九四年六月二日に閣議決定された。反乱軍は、日清両国の介入におののき、朝鮮政府と和解した。つまり、日本は軍を朝鮮に駐留させる口実がなくなった。
朝鮮政府は、日清両軍の撤兵を要請したものの、両軍とも受け入れなかった。一八九四年六月一五日、伊藤博文(ひろぶみ)内閣は、朝鮮の内政改革を日清共同で進める方針であるが、それを清が拒否すれば日本単独で指導するというシナリオを閣議で合意させた。六月二一日、清が日本の提案を拒否すると、伊藤内閣と参謀本部・海軍軍令部の合同会議で、いったん、中止していた日本軍の残部の輸送再開を決定した。英国が調停案を提示したが、七月一一日、伊藤内閣は、清との国交断絶を表明した。日清開戦の危機が一気に高まった。七月一六日、日英通商航海条約が調印され、英国が日本の側に立つことになった(ただし、この条約が公表されたのは、一八九四年八月二七日)。