消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.129 福井学とはなにか

2007-07-11 00:01:59 | 福井学(福井日記)

 福井出身者でもないものが、たまたま福井の地で幸せな研究生活をおくらせてもらっているだけで、地元の人の神経を逆撫でするような「福井学」なるものを書き始めたことについて、早い目に弁明しておきたい。

 地域学とは、そこで生活する人々の観念の地域的伝統の確認のことである。神戸のような、さんさんと陽が注ぐ土地で、自らの精神の基本形を形成してきた私には、福井にきてから戸惑うことが多い。

 福井の方々も私に同じような感情を私にもたれておられるのだろうが、この地において、私には、当たり前の反応を期待していたのに、そうではない反応が返ってくることが結構多い。日本人として同じではないかと思いつつ、地域的差異のあまりの大きさに戸惑う。

 そもそも、この地の人々の言葉は重い。吉本新喜劇ほどではないが、言葉をアクセサリーとすることに慣れた身には、この地で話すときに極度の緊張を強いられてしまう。その差のきたるゆえんはなになのだろうか。

 自らの人生を振り返るよすがとして、福井という地域学を創り、その普遍性を確かめてみようと思って、このブログを開始した次第である。

 地域的な伝統とは、地域の暗黙の観念が継承されてきた道筋のことである。つまり、地域に生きる人々の個性の形成史のことである。

 地域の生活スタイルが、地域の人々の交わり形態が、どのように形成されてきたのか。これを確認することによって、私たちは、差異を前提にした普遍性に到達することができる。そのうえで、わが日本の、この喪失感を埋める歩みの方向性を探ることができると私は信じている。

 こうした観念の歴史を調べるには、様々な入り口があるが、私は、神々の争いから入ることにした。

 とくに、キリスト教と、新政府に弾圧されてきた仏教寺院との関係を調べること、異教を邪教と侮蔑してきたクリスチャンに学問の刺激を受けた仏教徒たちが、結局は仏教を棄てきれず、大陸主義に走ったゆえんを知ること、等々の史実から入っている。

 多くの無政府主義者や大陸浪人たちの多くが、いわゆる田舎の仏教徒であったことは何を物語るのか。私は、まずこの問題領域から出発している。

 福井学の前に書いた沖縄学(言霊、これはまだ未完)がそれであり、その前の福井の神仏習合の側面を浮き彫りにしたのもその作業のためである。

 そもそも、日本の明治研究は、廃仏毀釈が日本の庶民に与えた巨大な破壊的効果に対して鈍感すぎる。私が、福井学を始めるに当たって、キリスト教よりもさらに広い宗教を求めた今立吐酔から筆を起こしたのはそういう局面を際だたせたかったからである。

 生麦事件(文久2(1862)年)があったとき、米国の領事館は神奈川の本覚寺にあった。ヘボンは、横浜の成仏寺に寄宿していた。 ヘボンが、事件の負傷者を医師として手当をした。



 英公使付書記官アーネスト・サトウ(19歳)がこの事件の直後、横浜に上陸しているが、翌日、この寺のヘボンを訪ねている。ブラウンもここに寄宿し、サトウはブラウンから日本語を習っている。成仏寺は、中国からきた英米宣教師たちの布教の拠点となっていた。



 慶雲寺には、幕末フランス領事館が置かれた。吉祥山茅草院慶運寺は、江戸の芝増上寺第3世定蓮社音誉聖観(じょうれんしゃおんよしょうかん)によって開山された。浦島伝説をもつ浦島が丘の勧福寿寺を明治6(1873)年に合併したことから浦島寺とも呼ばれている。 

 神奈川の浦島伝説によれば、太郎の父親は三浦の人で、丹後に移り住んだときに太郎が生まれ、太郎が竜宮城から帰ると父は既に亡く、神奈川に墓があることを知ってこの地に戻って父の菩提を弔い、自身も亡くなったとされる。太郎が竜宮城から持ち帰ったという浦島観音菩薩像がある。

 近くに、東の本陣と呼ばれた神奈川本陣西の本陣と呼ばれた青木本陣があった。本陣とは、勅使(天皇の意思を幕府に伝えるために派遣される特使)、皇族、貴族、院使(朝廷からの使者)、門跡(寺院に住まいする皇族)、公卿(朝廷の高官)、参勤交代の大小名、駿府、大坂、二条城の御番衆、所々目付などの公用の武家、日光例弊使、その他諸侯衆、老職(幕府で、大老・老中などの職。また、大名の家老など)の他、将軍家に献上する馬、鷹、茶、備後畳表及びその従者の宿泊を目的とする施設のこと。したがって、一見して他とは異なる格式を備え、門、玄関、上段の間を構え、200坪前後の規模をもつものが多かった。

 大小名の参勤交代の行列が宿泊する際には、領主は料理人を連れて旅行をしたので、必要な食器、調理器具一式、生活用具一切まで持参していた。身の回りの世話は全て側近が当たるので、本陣側は、その建物を提供し、家人は、勝手居住の間に控え、専ら従者の指図に従った。



 本陣の起こりは、1363年、足利義詮が上洛のとき、その旅舎を本陣と称して宿札を掲げたことに始まる、といわれている。職能を充実させるようになったのは、参勤交代制が実施された寛永12(1635)年以降の元禄期にかけてであろうとされている。



 さらに、付近には、浄瀧寺がある。浄瀧寺は、英国領事館として充てられた。文応元(1260)年、妙湖尼が、政治の中心であった鎌倉へ向かう途中、当地に立ち寄った日蓮聖人と出会う。妙湖尼は日蓮から「法華経」の話を聞き、弟子となり、自分の庵を法華経の道場とした。この道場が日蓮宗の妙湖山浄瀧寺の始まりで、山号はこれにちなむ。本尊は、十界曼陀羅の釈迦・多宝両如来。この年、日蓮は、「立正安国論」を著し、鎌倉幕府に献策している。

 宗興寺もある。この寺には、ヘボンの施療所があり、シモンズもここに住んでいた。

 宗興寺の観音霊場は、享保17(1732)年に開創され、子(ね)年毎に開扉されることから子年観音ともいわれている。

 宗興寺の観音は、聖観世音菩薩である。

 「観世音」とは、世の人々の音声を聞き届け、願いをかなえてくれるという意味であり、衆生の願いを自在に観じ、応じてくれるという意味から「観自在」ともいわれる。日本には飛鳥時代から観音信仰が伝えられ、現在でも宗派を超えて親しまれている。  

 宗興寺は宝徳年間(室町時代)に創建された曹洞宗の寺。もとは真言宗、寛文年間(江戸時代)に曹洞宗に改宗、現在に至る。

 曹洞宗は本尊の釈迦、永平寺を開い道元禅師、總持寺を開いた瑩山禅師を一佛両祖としている。教えの基盤は、ただひたすらに坐禅(正身端坐)を行じ、仏道にかなった生き方をすれば誰にでも悟りがあらわれるという「祗<只>管打坐」と、道元禅師によって体得された法、いわゆる「正伝の仏法」の2点にある。

 曹洞宗では真実の自己に目覚め、利他行に生きることを理念としているとされている。 


   
 安政6(1859)年、横浜開港と同時に神奈川にきて、宗興寺に寄宿していたシモンズは、他の宣教師たちとはなじめずに福沢諭吉の発疹チフス治療後、諭吉の庇護を受け、三田山上に居を構え、日本主義陣営に加わって、『時事新報』で健筆をふるった。

 廃仏毀釈に加えて、キリスト教の布教場になってしまった伝統ある寺の当時の住職たちの心痛は、いかばかりであったろう。なぜ、日本近代史研究家はこのことに口を閉じてきたのか。

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