日経平均は、一二月末で、年初来から四四%もの下落率であった。これは、戦後最大の下落率であった。米国のダウ工業株三〇種平均と英国のFTSE一〇〇種総合指数(4)は、ともに、三三%の下落率であった。つまり、金融危機の震源地である米国や英国よりも、日本の株価下落率は大きかったのである。
株価の水準の適性さを判断するのには、いくつかの指標がある。この指標のことごとくが、何十年ぶりの異常な数値を示したのが、〇八年秋の日本株暴落であった。たとえば、株価平均収益率(PER)というものがある(5)。企業の収益を発行株数で割ったものが一株当たり収益である。実際の株価が一株当たり収益の何倍になっているかの数値が株価収益率である。〇八年一〇月二七日に計算された日経平均採用二二五銘柄の予想株価収益率は九・五三倍であった。月末値比較では、この数値は一九七〇年末以来の低水準であった。三八年ぶりにこの数値が一〇を割ったのである(「〇八金融危機の軌跡1」、『讀賣新聞』二〇〇八年一二月二六日付)。
日本は、震源地の米国や、その余波で銀行倒産が相次いだヨーロッパよりも、金融被害は軽微であったとされていた。少なくとも、〇八年八月末時点では、そう信じられていた。ところが、上述のように、日本の株価下落率は米欧よりも大きかった。
その理由を『日本経済新聞』(〇八年一二月一八日付)を外需依存と株式の外資依存という日本の体質を挙げている。
第一の理由は、日本の主力企業が、グローバル展開をし、世界の需要(外需)を取り込んで成長してきたことである。外需とは米国の住宅バブルであり、急成長する新興国需要であった。そこが急転直下暗転したのである。
第二の理由は、外国人中心の日本の株式市場の構造である。外国人は日本株の三割を保有し、六割の売買シェアを持つ。こうした巨大なシェアを持つ外国人がひとたび日本株売りに転じると、買いで対抗する日本人株主は希薄である。外国人の売り越しは〇八年を通じて三・三兆円弱であった。〇七年には五兆円の買い越しだったのだから、株式環境の激変がいかに大きかったかが理解できるだろう。
日本株の売りを主導したのは、ヘッジファンドである。ヘッジファンドは、金融機関や投資家から資金回収を迫られて日本株の換金売りを加速せざるをえなかった。
株価が下がれば、それを好機として、年金基金などの機関投資家が出動するものである。この種の機関投資家は、資産に占める株式の価値が低下すると株式を買い増す傾向がある。しかし、〇八年末の株価下落の激しさが彼らを躊躇させた。底値が見えないからである。
金融機関も株式買い増しに動けない事情がある。株安で体力が奪われたからである。株価が下がれば、保有株の含み損が生じて資本不足になる。そのために増資に踏み切らざるを得ず、株式の買い増しなどできないのである。大手生命保険会社も同様である。
二 投資銀行の消滅
既述のように、〇八年三月末、ベア・スターンズが、米金融当局の指示によって、J・P・モルガンン・チェースによって救済合併された。そうした事情もあって、リーマンが〇八年九月一五日、米連邦破産法十一条の適用を申請したとき、金融界はリーマンも当然救済されるものと思い込んでいた。
しかし、ポールソン(Henry 'Hank' Merritt Paulson)米財務長官(United States Secretary of the Treasury)は、救済の意思はないと突っぱねた。これで、金融機関はパニックに陥った。次に救済されない銀行はどこか、という疑心暗鬼に駆られたのである。金融機関の相互間で財務状況への相互不信が高まった。銀行間取引での資金のやり取りが急速に縮小した。九月一五日、ポールソン長官の発言が伝えられるや否や、ドルの調達金利は四倍以上に急騰した。
慌てた金融当局は、翌日の一六日、AIG(American International Group, Inc.)を救済するという決定をした。金融機関の見殺しという政策を中止したのである。しかし、金融機関の混乱は収まらず、欧州の金融機関にも飛び火した。先進国から流れ込んでいた途上国の投資マネーの逆流が生じた。アイスランド、ハンガリー、アルゼンチンなどがそのために通貨危機に追い込まれた。リーマン・ショックこそが、金融不安を本格的な金融危機に現実化させたのである。
信用は途絶した。企業買収資金、自動車ローン供与、クレジット・カード・ローン、等々、あらゆるローンがしぼんでしまった。
自己資金だけでなく、その数十倍の借入金で投資することを「レバレッジ(leverage)の投資」というが、投資銀行の投資行動とはこのレバリッジを過信するものであった。レバレッジとは梃子の意味である。投資銀行は、リーマンと同じ軌跡をたどって破綻の危機に瀕した。投資銀行第三位のメリルリンチ(Merrill Lynch & Co., Inc.)は、米大手商業銀行のバンク・オブ・アメリカ(Bank of America)によって買収された。一位のゴールドマンサックス(Goldman Sachs)と、二位のモルガン・スタンレー(Morgan Stanley)は、銀行持株会社に模様替えし、米国において、投資銀行は消滅した。
リーマン破綻から〇八年末までの軌跡を整理しておこう。
〇八年九月一五日、リーマン破綻。
九月一六日、FRB(米連邦準備理事会、Federal Reserve Board)がAIGに最
大八五〇億ドルの特別融資を発表。AIGは事実上国有化された。
九月一八日、FRB、ECB(欧州中央銀行、European Central Bank)、日銀が市
場へのドル供給を発表。
九月二九日、米下院が金融安定化法案を否決。株価暴落。
一〇月 三日、米金融安定化法案が成立。
一〇月一三日、欧州各国が金融機関への公的資金注入を発表。
一〇月一四日、米、大手九金融機関への公的資金注入を発表。
一〇月二九日、FRBが政策金利を〇・五%下げ、年一・〇%に。
一〇月三一日、日銀が政策金利を〇・二%下げ年〇・三%に。
一一月 六日、ECBなども利下げを決定。
一一月一四・一五日、G二〇(5)、ワシントンで金融サミット。
一一月二三日、米財務省など、米金融大手シティグループ(Citigroup)の追加支援
策を発表。
一二月一二日、麻生首相、追加景気対策を発表。改正金融危機強化法が成立。
一二月一六日、FRBが、政策金利を年〇~〇・二五%に引き下げ。事実上のゼロ
金利政策と量的緩和を開始。
一二月一九日、日銀が政策金利を〇・二%引き下げ、年〇・一%に。CP(6)の
買い切り方針なども表明し、事実上の量的緩和に踏み込む。
同日、米政府、一七四億ドルの大手自動車会社救済策を発表。
(「〇八金融危機の軌跡1」、『讀賣新聞』二〇〇八年一二月二六日付)。