消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 39 尊い血の配当を武器とした蓮如

2006-09-12 00:28:56 | 神(福井日記)

 宗教教団の世界では、尊い血筋が権威を授けられることが古今東西、頻繁に見受けられた。宗教が、教義よりも尊い生き仏・神に心を委ねる信者が多数を占める心理状態では当然のことなのかも知れない。

 

 南北朝期の覚如以降の本願寺は、天台浄土系の寺院化を指向していた。後の時代のように、末寺を創建・育成することはまだ、目指されていなかった。後に末寺になる寺の由緒書のほとんどは、始祖を大谷一族としていないことからも、そのことが伺われる。

 

 石川県小松市興宗寺の九高僧連坐像の法系は「入西―西仏―行如」と記されており、行如の師にあたる西仏は常陸法善門下で信濃康楽寺の祖とされる人物であった(『加賀市史』通史上巻)。末寺システムを作ったのは、蓮如であった。蓮如以前には、後に本願寺系に編入される寺院のほとんどは、他の諸門流に属していたのである。

 

 本願寺系の進出は、本願寺歴代の尊い血筋を配当するという形を取って行われた。本願寺派の越前での第一歩は、足羽郡和田郷西方の本覚寺(現在は吉田郡上志比村に所在)から始まる。同寺の住職、信性の没後、長男と二男とが対立し、長男は寺を追い出された。

 

そして、長男はすぐに早世した。長男を慕う門徒衆は本願寺の第六代、如の弟である鸞芸頓円を招き、超勝寺を創建した。これが、後の、戦国期に、越前教団を本覚寺とともに主導することとなる、吉田郡藤島超勝寺(福井市)である。藤島の地は、戦国期の有力寺院であった坂井郡久末照厳寺(金津町)・砂子田徳勝寺(のち福井市了勝寺、藤島荘重藤は了勝寺の土門徒の地)が存在していて、(「照厳寺系図」『越前集成』)、一種の「古聖地」であったらしい。

 

 頓円の子、如遵は「ヨロツ父ノ道ヲマナフ事マレ」な人、つまり、俗物であり、その子、巧遵も「法流ニウトウトシ」、つまり、勉強しなかった(『反古裏書』)、おそらく蓮如の吉崎下向時までは、それまでの高田系に属していたのだろう。

 

 

 一方の本覚寺はすでに存如の代に「三帖和讃」などの各種聖教・典籍類の下付を受けており(「遺徳法輪集」『集成』八)、本願寺血縁の寺である藤島超勝寺より一歩早く本願寺系に属したものと思われる。

 

 超勝寺住持となった頓円自身も本覚寺門徒戸からは、「法流ツフサナラサリシ」、つまり、やはり勉強しない人であったと批判され、兄貴よりもはるかに優秀な弟、玄真周覚という人物が、旧本覚寺門徒団により、頓円に代わって「申ウケラレ」た、つまり、本願寺から頂き(「反古裏書」)、吉田郡荒川興行寺を創建した。応永年間(13941428年)のこととされる(興行寺蔵「由緒書」『越前集成』)。

 

 その周覚の子孫が、また各地に配当されて行った。長男、永存は丹生郡石田西光寺(鯖江市)を創建し、長女・二男は時衆となり、二女は照護寺、良空の妻となる。この照護寺は、足羽郡稲津桂島(福井市)に所在し、は六角堂とも称されていて、それまでは、越前の守護代、甲斐一族が住持していた非本願寺系の寺であった(『反古裏書』、大谷大学蔵『親鸞奉讃奥書』)。三女は存如の弟で、もと山門の僧侶だった宣祐如乗に嫁ぎ、加賀二俣本泉寺に住した。四女は、当時今立郡山本荘へ下っていた毫摂寺、善智へ嫁ぎ、三男は興行寺を継ぎ、四男は平泉寺に入り、五男は斯波氏に属し、六男は毫摂寺善智の養子となっている(「日野一流系図」『集成』七)。

 

 蓮如以前の本願寺の血筋は、本願寺門流への帰属意識は存在していなかった。血縁と法縁とは別との認識であった。福井市成福寺の「由緒略記」は「玄真(中略)法流ヲ天台ニ酌ミ、(中略)五代目乗玄マデ代々天台ノ教ヘヲ遵法」すると記してはいるが(『越前集成』)、真宗に酌むとは記していない。招請する側も、養子入りはもっぱら天台宗青蓮院系寺院の「貴種」をもらい受けたとの認識だったのだろう。

 

 他派の寺院に入寺していた本願寺の血筋が、本願寺のもとへ結集し始めるのは、蓮如が長禄元年に本願寺住持となり一宗創立を決意した後であった。本願寺の血筋の参入によって本願寺派の勢力は一挙に拡大した。蓮如は各地の一族の要の諸寺院に改めて自分の子女を配し、その再掌握を図って行ったのである。嗚呼!尊い血筋が法を圧迫する。庶民の浄財で、尊い種が維持・増進される。


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