消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(340) 韓国併合100年(18) 心なき人々(18)

2010-10-25 19:44:00 | 野崎日記(新しい世界秩序)

  八 神社参拝を拒否した朝鮮のミッション・スクール

 こうした日本の権力者による内鮮化政策には、キリスト教宣教師たちが、当然だが、反対していた。一九二四年一〇月、中清南道(Chungcheongnam-do)江景(Ganggyeong)普通学校で神社参拝が問題となった。これを『東亜日報』が一九二五年三月一八日・一九日に「強制参拝」問題というタイトルの記事を掲載し、教育現場における神社への強制参拝を批判した。ただし、まだこの時点では、朝鮮総督は、宣教師の批判をあまり気にしていなかった(韓[一九八八]、一六〇~六二ページ)。

 神社参拝を拒否するミッション・スクールと宣教師たちの職を奪うという大弾圧が恒常的に行われるようになったのは、一九三〇年代に入ってからであった。平壌(Pyeongyang)にあった朝鮮における最初のミッション系四年制大学であった元、連合崇実(Soongsil)カレッジ(Union Christian College=戦後は崇実大学=SSUとして復帰)で、当時は専門学校に格下げさせられていた崇実学校の校長・ジョージ・マッカン(George S. McCune)博士が一九三五年に朝鮮から退去させられた(Grayson[1993], p. 20)。

 この連合崇実カレッジは、韓国・朝鮮におけるミッション・スクールとしては最大の成功例であった。これは、韓国における二大プロテスタントの長老派とメソジストの共同事業であったからでもある。韓国の布教活動で大きな足跡を残したウィリアム・ベアード(William M. Baird)が創設した。米国インディアナ州出身(一八六二年生まれ)のベアードは、米国北部長老派教会(Northern Presbyterian Church of America)の宣教師として、一八九一年九月、釜山(Busan)に上陸し、自宅で教育を始めた(http://www.soongsil.ac.kr/english/general/gen_history.html)。一八九七年、平壌に移り、そこでも、自宅で教育した。これを舎廊房(Sarangbang、サランバン)教室(Class)という。「サランバン」とは、韓国語で「主人の居間を兼ねた客間のこと」であり、また、「サラン」は「愛」を指す言葉である(http://blog.livedoor.jp/hangyoreh/archives/526225.html)。これが一九〇一年一〇月に平壌における長老派の学校、四年制の高等学校、崇実学堂(Soongsil Hakdang)に結実する。「崇実」とは、SSUのウェブ・サイトによれば、「真実と尊厳の祈り」(worship of the truth and integrity)を意味する。それは科学的な心理と成熟した敬虔な精神を目標としていると説明されている(http://www.soongsil.ac.kr/english/general/gen_history.html)。ベアードは、学校は単なる慈善事業ではなく、完全に教会の基盤の上で運営されること、つまり、クリスチャン養成を使命としていた(李省展[二〇〇六]、六四~六五ページ)。

 一九〇五年、崇実学堂は、崇実高校(Soongsil Junior High School)と崇実カレッジ(Soongsil College)に分離した。そして、一九〇六年、メソジストの宣教師がカレッジの運営に加わり、カレッジは、一九〇八年に上述の連合崇実カレッジと呼ばれるようになった。連合(Union)という名称があるのは、長老派とメソジストとが合同でこのカレッジを運営したからである(11)。

 二〇世紀に入って、プロテスタントを中心とするキリスト教の教会一致運動が、欧米で起こった。これをエキュメニカル運動(Ecumenical Movement)といい、「世界教会一致運動」と訳される。キリスト教の超教派による対話と和解を目指す主義をエキュメニズム(Ecumenism、世界教会主義)という。

 そして、一九一二年三月、朝鮮総督府はこのカレッジを正式に認可した。朝鮮初の正式認可されたカレッジであった。同時に、このカレッジの運営に、北部伝道本部だけでなく、北米南部長老派教会伝道本部(Southern Presbyterian Church Mission of North of America)も 加わることになった。

 しかし、崇実学堂は、民主主義、民族独立、革新の三原則の維持を標榜して、総督府に対立していた。そのために、正式に認可されたとはいえ、常に当局の監視下にさらされていた。一九一二年という認可されたまさにその時に、いわゆる一〇五人事件の嫌疑で多くの学生・教師が総督府に拘束された(本稿、注9、参照)。

 戦闘的な長老派と袂を分かつべく、メソジストは、一九一四年に同校の運営から身を引いた(李省展[二〇〇六]、一三五~三六ページ)。

 一九一九年の三・一独立運動にも、このカレッジの全校生徒が参加し、教師と生徒の多くが拘束されることになった。


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