消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 21 徳川幕府の寺院統制令――永平寺の文書に見る

2006-07-11 01:22:26 | 路(みち)(福井日記)
 徳川幕府は、体制確立の重要な要素として、京都を本拠とした宗教勢力を押さえ込むことを重視した。京都には、皇族を中心にした各種宗教団体があった。全国に散る大宗教団体もまた京都に本拠を置いていた。こうした宗教団体が改組される対象となった。もちろん、日本の既存の権力を認めないキリスト教は禁圧された。要するに、徳川幕府は、宗教統制を徹底的に行おうとしたのである。

 幕府と宗派との関係については「寺院統制令」が、本寺と末寺については「寺請証文」が、寺院と檀家との関係は「宗門人別改張」が、威力を発揮した。以前のこの日記で、宗門人別改張が浄土真宗のみに委ねられていた業務であるかのような印象を与える記述をしてしまったので、ここで訂正させていただきたい。「改張」はすべての宗門に義務づけられていた。

 日本人全員がいずれかの宗門に入る義務を負わされた。つまり、檀家制度がここに確立したのである。人々は、生者だけでなく死者まで人別帳で管理されることになった。

 ただし、当時の寺院が信仰だけの集団であったと見なすことは歴史を見誤ることになる。中世荘園制度の崩壊過程では、農地は暴力による収奪の対象であった。膨大な寄進地を所有していた寺院もまた暴力でもって、下克上でのし上がってくる武士集団から自分の領土を守らねばならなかった。それだけでなく、寺院までもが他の宗門、他の領主から新たに田畑を奪おうとしていた。一向一揆につては、また後に詳述するが、「単純に百姓の支配する極楽浄土」とは言い切れない生々しい要素をもっている。本願寺と越前・加賀の地元寺院との領土分捕り合戦すら日常茶飯事で見られたのである。戦国領主と異なり、一向一揆側は、仏の意志という御旗を立てることができたが、実際に行ったことは、寺院に武装集団を召し抱えただけのことであった。宗門の多くもまた下克上の戦国暴力集団以外の何者でもなかった。もちろん、兵隊として命を投げ出した農民たちは、自分が帰依する宗門の指導者たちを生き仏様として尊敬していたのであるが。宗門といえども、れっきとした権力であり、そうした権力が無辜の人たちの真心を利用しただけに、ひとしお、忌まわしさを拭うことができない。

 家康は、関ヶ原の合戦(慶長5年、1600年)の翌年(慶長6年、1601年)から直ちに、寺院の経済力と軍事力を削ぎ落とす政策を推し進めた。「寺院法度」と呼ばれる寺院統制令は、この1601年から1615年(元和元年)にかけて相次いですべての宗門宛に出された。寺院法度は、宗教一般に関するものではなく、宗門ごとにきめ細かい指示を幕府は与えたのである。

 法度が宗門毎に異なると言ったが、共通点があった。京都の本山としての地位を各宗門から剥奪したのである。それは、「一宗二分政策」と言われるものである。つまり、関東に新しい中枢部を作り、行政的機能の多くを関東に移させたのである。しかも、関東の行政的機能は、過去の京都の本山がもっていた機能よりもはるかに重かった。中央集権、宗門の学問化=教義の体系化、朝廷の無力化という三原則が、いずれの法度にも貫かれていた。

 曹洞宗関係では、越前国吉田郡志比にある従来からの本山の永平寺に加えて、新たな本山に、能登国鳳至郡櫛比庄にある總持寺が指定された。両本山では、ひたすら修行に勤しむこと、修行年数に応じて法衣の色を変えること、紫の法衣がもっとも高位のものであるが、それを着るのは勅許の時だけで、寺院の外での着用は禁止された。宗教者らしからぬ行いをした僧は直ちに流罪となるとされた。つまり、幕府の指示に従い、ひたすら仏教を興隆させる努力を行うことが命じられたのである。

 本山を学問修行の場として位置づけた上で、曹洞宗の行政的機能は関三刹と現在の静岡県の可睡齋に委譲された。関三刹とは、現在の千葉県の總寧寺、埼玉県の龍穏寺、栃木県の大中寺のことである。見られるように、行政的機能はすべて関東に移転させられた。

 寛永15年(1638年)に各寺に「寺請証文」が義務づけられた。そのデータを基に、責任を任された大きな寺院が、「宗門人別改帳」を、村・町単位でまとめた。これが江戸時代の戸籍である。つまり、江戸時代の戸籍とは寺院が作成したのである。

 さらに島原の乱の鎮圧(寛永15年、1638年)後の寛永17年(1640年)、幕府直轄地に宗門改役が置かれた。そして、寛文4年(1664年)全国的に宗門改制度が実施された。

 人別帳には、菩提寺の名と印鑑が捺されていた。この戸籍は、キリシタン取り締まりだけではなく、年貢計算の基礎にもなっていた。原則として毎年作成されていた。これで檀家と菩提寺との関係が固定されたのだが、檀家を変えることは禁止されていた(離檀の禁止)。

 宗門の中央集権化をも幕府側は画策した。曹洞宗は、主として授戒会を通じて布教し、安土・桃山時代に隆盛し、中世末期には各寺院を中心とした信者集団が自然発生的に成立していた。しかし、江戸幕府は寺院の新規設立を制限するようになった。元和8年(1622年)より数回法度が出され、新寺建立は全面禁止にされた。そして、寛永10年(1633年)、各宗派に本山の保証で、「諸宗寺院本末帳」を提出させた。この本末帳に掲載された寺院のみに寺請証文を作成させた。つまり、本末帳で本寺・末寺の支配従属関係が明記され、寺請証文で菩提寺による檀家支配が確定したのである。

 檀家支配の内容は、もはや自主的な宗教的信仰は二の次であった。各宗派に対して、「御条目宗門檀那請合之掟」が幕府から頻繁に出された。

 それによると、祖師忌、仏忌、盆、彼岸、先祖の命日に菩提寺に参詣することを怠れば、人別帳から外し、処罰する。菩提寺をさしおいて、他の寺から葬儀を出せば罰する。檀家は菩提寺の維持・新たな建設費用を負担しなければならない。等々であった。これで、寺院による檀家の管理は完璧になった。

 幕府は、150戸から200戸について1か寺の設立を認めた。つまり、現代に下って配給時代の米屋や酒屋のような扱い方をして寺院の経営の安定を図ったのである。
 曹洞宗については、延享2年(1745年)の本末帳が總持寺に残されている。それによれば、全国の約1万7500か寺が登録されていた。

 幕府権力はこのように、宗教を通じて、民衆を管理したのである。

 仏教側は、このような権力の横暴に対して抵抗をしなかったのだろうか。各宗派は、競争することなく、安定化させられると、唯々諾々と権力の統制に従う。そして、教義はいたずらに民衆感覚から離れて、高遠な哲学的体系として推し進められたのである。

 この文章は、曹洞宗宗務庁『曹洞宗人権学習基礎テキスト・これだけは知っておきたおQ&A』(2002年9月20日)を参照にした。永平寺関係の人たちが自戒を込めて書かれたものである。この文書に接しただけでも、私は、つくづく福井に来てよかったとの思いを強くした。読者諸氏もその点について頷いていただけるのではないだろうか。

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