消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.92 教育の郷土化 

2007-04-14 02:11:05 | 言霊(福井日記)


 伊波普猷は、東大を卒業後、わずか1年で沖縄教育界主催の講演会で、「郷土史に対する卑見」を披露した(1907(明治40)年)。

  年齢こそ32歳と、もはや壮年の域ではあったが、大卒1年目で教育界での講演というのは、大変な抜擢であっただろう。沖縄県で初めての文学士であるということもあったのかも知れない。

 ただ、伊波普猷は、学生時代からすでに数多くの論文を書いていた。
 「三高私説」というサイトがあるhttp://www2s.biglobe.ne.jp/~tbc00346/component/)。

  楽しいサイトなので、私はよくアクセスしている。三高関係者が集うサイトである。このサイトで、伊波普猷が三高生時代に、『琉球新報』に「海の沖縄人」(明治34年)、「琉球に於ける三種の民」(明治35年)、さらに三高の全学組織「嶽水会」の機関誌『三高嶽水会雑誌』第9号(明治34年)にも「琉球の歴史とその言語」を発表したと賞賛されている。 

  じつは、1903(明治36)年の三高卒業までに伊波普猷が発表した論文は、この3つどころではない。すでに、中学生時代に2つ、高校生時代には、上記3つを含めて5つある。大学生時代には、9編もある。確認されるだけでも、学生時代に16編もの論文を発表しているのである。おそらく、私が知らないだけで、実際には、これよりもはるかに多いであろう。

 中学生時代の論文は、「ペルリの日記を読みて(晨鐘録)」(『沖縄青年会報』、明治29年?)。「偉人の臨終」(『沖縄青年会報』、明治30年?)。

 高校生時代の論文は、上記3つの他に、次の2つ。「眠れる巨人」(『琉球新報』、明治34年10月20日付)。「支那人の琉球官生評」(『琉球新報』、明治3年?月?日)。上で紹介された「海の沖縄人」は、明治34年12月31日の『琉球新報』に掲載されたものである。

 大学生時代の9編は、明治38年に7編、明治39年に2編ある。明治38年の7編のうち、6編が『琉球新報』である。さらにそのうち、日付が確定しているものは、3編。「その折々」(4月15日)。「閑日月」(6月5日、7日、18日)。「阿摩和利考」(6月22日)である。日付が確定できない『琉球新報』論文は3編。「頌徳碑」。「浦添考」。「島尻といへる名称」である。新聞以外の明治38年の論文は、「琉球の神話」(『史学界』、第7巻、第1号)である(資料は、筑波大学図書館による)。

 明治39年の最終学年在学中には、2編ある。「琉球人の祖先に就て」(『東亜の光』)。「琉球の國劇」(『東亜の光』)である。

 圧倒的に『琉球新報』に投稿している。これは、伊波普猷たちの中学校ストライキを熱烈に支持したのが、同紙であったこと、沖縄中学の卒業生が数多く同紙記者であったことも影響しているのであろう。地元紙が国際的に通用する郷土史家を育て上げた。

 伊波普猷が石垣島で講演を行ったのは、1907(明治40)年8月1日のことであった。大学卒業後、この講演までに発表した伊波の論文を列挙しておこう。確認できたものは3編である。

 「伊波氏の琉球國劇談」(『沖縄新聞』、明治39年12月3日付)。「官生騒動に就いて」(『琉球新報』、明治40年4月2日)。「蔡温が久米村に与へし書簡」(『琉球新報』、明治40年?月?日)。

 つまり、講演の日までに、12編の発表論文を確認できる。そして、すでに伊波普猷は、「東京帝国大学で言語学を修めた沖縄初の文学士として、すでにその名声は聞こえていた」のである(三木健『八重山研究の歴史』(やいま文庫5)南山舎、2003年、30ページ)。

 そして、先で触れたように、「郷土史に対する卑見」の講演を行う。講演は、石垣島で行われた。講演で伊波普猷は「郷土化しない教育は、砂上の楼閣にも等しい」と力説した(『沖縄新聞』、明治40年8月1日の講演として紹介記事)。

 この講演を聴いて感激したのが、石垣島・登野城尋常小学校教師(正規の教師を訓導といった)の喜舎場永(きしゃば・えいじゅん)であった。

 自著(『八重山島民謡誌』郷土研究社、大正13年)の序文で喜舎場が告白しているように、当時、文部省の命令で、先島諸島の各小学校は、民俗調査を行う教師を選出しなければならなかった。喜舎場永がその任に当たらせられたのが、1906(明治39)年のことであった。彼は、それが苦痛であった。貧乏籤をひかされた思いであった。義務的に民謡を蒐集するだけであった。かすかに興味らしき感情が起こってはいたが、基本的にはまだ嫌な気持ちであった。そうした思いをもっているときに、伊波普猷の、郷土史研究が教育の基本理念であると力説した講演に接したのである。

 「教育家は郷土の研究が第一歩であると親切に教へて下さった」、「私の郷土史の種子は、正しく某の時の先生によって蒔き下ろされたのである」(同)。

 伊波普猷の知遇を得た喜舎場永は、1912(明治45)年に「鷲(ばし)ユンタ」の作者捜しを伊波普猷から依頼される。伊波普猷は1911(明治44)年から沖縄県立図書館長になっていた。

 ユンタとは、八重山古民謡にある労働歌である。男女が交互に謳う合唱である。元々は三線は使用しなかった。「読み歌」、「結い歌」が語源であろうとされている。八重山諸島の竹富島の「安里屋ユンタ」が有名である(「沖縄大百科」、http://word.uruma.jp/word/)。

 「鷲ウンタ」を紹介しておこう。
 「大山(うふやま)ぬなかなんが 長山(なあやま)ぬうちなんが 大(うふ)あこうぬむようり なりあこうぬさしようり 本(むと)みりばぴとむと 枝みりば百枝(むむゆだ)」

 現代内地語に訳そうとしたが、まだいまの私には無理である。言霊シリーズが進むうちに読めるようになるだろう。

 「巡査が戸口調査するように必死になって」(喜舎場永『八重山民謡誌』沖縄タイムズ、1967年、序文)調査した結果、石垣市大川の与那国御嶽(ユノーオン)の神司であった仲間サカイ女が1762年に詠んだ叙事詩が「鷲ウンタ」であり、それから87年後に大川の宜味信智が、原歌の「鷲ウンタ」を改作したのが、現在歌われている「鷲の鳥節」(バシィヌトゥリィブシィ)であるということが分かった(太平洋資源開発研究所編『八重山小百科・石垣島』、http://hateruma-kaiun.web.infoseek.co.jp/bashi.html)。

 この報告に感激して、伊波普猷は、「鷲の歌」(『沖縄毎日新聞』明治45年4月3日付)を書いている。ところが、八重山測候所所長の岩崎卓爾が、「鷲の鳥節」の別の歌詞の存在を伊波普猷に知らせた。これは、伊波普猷には衝撃だったと思われる。以後、伊波普猷は、民謡のオリジナルの作者捜しを止めることにした。依頼された喜舎場永にはショックだったろうが、確かに、オリジナル探しはそれほど意味があるとは思われない。誰かが最初に作ったのであろうが、たちまち、時代差、地域差によって、民謡は変えられるものである。正調節と粋がることほど馬鹿らしいものはない。正調自体が、かなり変容させられているだけで、権力によって、正調と認定されただけのことである。これは、いまの「君が代」の歌にも言える。

 民謡は、「社会の産物になっている」のだから、変化したものの「正不正」をあげつらうのは空しいと伊波普猷は後年、述懐している(『古琉球、改訂』青磁社、1942年)。

 伊波普猷は、喜舎場永に、作者捜しではなく、ひたすら民謡を蒐集するようにと、アドバイスを変えた。懸命になった調査報告にもかかわらず、命令を変えた伊波普猷に対して、喜舎場永はくさらずに素直に従い、民謡蒐集に打ち込んだ。それが、じつに、60年後に完成した2つの大著なのである。先述の『八重山民謡誌』と『八重山古謡』(沖縄タイムズ、1970年)。小学校の先生を務めながら、郷土研究の華を開花させたのが、喜舎場永であった。

 伊波普猷に一種の思想変更を促した岩崎卓爾も巨人であった。1869(明治2)年に仙台市で生まれた岩崎は、石垣島測候所で台風の研究をしながら、40年間、死ぬまで石垣島に留まり、動植物の研究を続け、石垣島で1937(昭和12)年に没した。墓は、郷里の仙台にあるが、曹洞宗の戒名が素晴らしい。じつに粋な僧侶がいたものだ(泰心院が菩提寺)。「袋風院卓舟蝶仙居士」が戒名である。石垣の自然観察で山野を駆けめぐった岩崎への賛辞としてピッタリである。石垣島地方気象台の庭に胸像が建っている。

 岩崎の名に因んで付けられた八重山の動物の名を列挙しよう。
 「イワサキワモンベニヘビ」、「イワサキゼミ」、「イワサキヒメハルゼミ」、「イワサキオオトゲカメムシ」、「イワサキカメムシ」、「イワサキシロチョウ」、「イワサキコノハ」、「イワサキカレハ」「イワサキキンスジカミキリ」等々(「雨男通信・資料の音色」、http://homepage2.nifty.com/ameotoko/ameotoko.htm)。

 伊波普猷に鼓舞されて郷土研究を基本とした教育に邁進した小学校教師を後2人紹介しよう。

 まず、比嘉重徳(ひが・じゅうとく)。彼は、1875(明治8)年、那覇上之蔵に生まれ、沖縄県尋常市販学校を卒業して教師になり、1906(明治39)年、沖縄本島の校長になった。八重山には、本島の郡視学として赴任している。

 郡視学とは、明治23年の「小学校令」に基づいて設置された、小学校の管理・監督を職務とする官職である。明治21年に市制・町村制が、明治23年に府県制・郡制が確立させられてた。これを受けて、明治19年に暫定的に決められていた小学校令が、明治23年に新たな小学校令と「地方学事通則」が設定された。小学校令はそれまでの16条から96条にまで大幅に拡大され、昭和16年の「国民学校令」まで続くことになった。約50年間もこの制度が続いたのである(「文部省『学制百年史』、http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/hpbz198101_2_045.html)。

  したがって、郡視学とは、中央権力を背景として、政府の命令通り地方の小学校がきちんと法令を遵守しているかを監視する類の職務である。

 比嘉にはそうした権力志向はなかった。八重山研究に夢中になった。
 『八重山郡誌』(1910(明治43)年、『八重山の研究』(1915(大正04)年)を出している。前者は27ページ、後者は50ページのパンフレットである。そして、後者の序文には、伊波普猷の推薦文が掲載されている。比嘉が、沖縄県でなくてはならない教育者であり、郷土研究家であると、伊波普猷は絶賛している。

 この2つの書物は、単なる民族誌ではなく、明治政府の行政批判を意識したものである。1908(明治41)年に、特別町村制によって、王朝時代の「間切」によって区分けされていた石垣、宮良(みやら)、大浜(おおはま)、与那国(よなぐに)の4島が、「八重山村」という1つの郡に合併させられている。その2年後に、『八重山郡誌』を比嘉は作成している。

 この4島全部を1郡に合併させたことは行政的に失敗であった。そこで、1914(大正3)年に、この1郡は、再度4島に区分けされることになった。

 
宮良が「竹富」と呼称変更されて4村に戻ったのである。そして、その翌年に比嘉は、『八重山の研究』を出している。内容的には、第1章が「八重山の地文」、第2章が「八重山の人文」、第3章が「八重山の島々」、第4章が「八重山の史片」、第5章が「八重山の言語」となっている。第4章がすごい。人頭税と多子免税のことが論じられている。地元の悲惨さを直視しない中央の行政はことごとく破綻する運命にあることを糾弾しているのである。

 比嘉の代表作は、『先島の研究』(日乃出出版社、大正13年。『宮古の研究』、『先島の研究』の合一本)である。

 もう1人の小学校教師、宮良長包(みやら・ちょうほう)をも紹介しておこう。彼は、小学校の先生を務めながら、「近代沖縄音楽の先駆者」となった。1883(明示16)年、石垣島新川(あらかわ)で生まれた彼は、1907(明示40)年、沖縄師範学校を卒業すると、郷里の大川尋常小学校(後の登野城尋常高等小学校、喜舎場永の職場と同じ)に赴任し、八重山の古謡、民謡を五線譜に写し取った。

 八重山での教師時代に、「教育唱歌の研究」(『沖縄教育』660号、1911(明治44)年)、「沖縄音楽の沿革及び家庭音楽の普及策」(『沖縄教育』670号、1912(明治45)年)を発表している。

 主著は、八重山出身の言語学者、宮良當壮との共著、『八重山古謡』第1輯・第2輯、郷土研究社、1927(昭和2)年)である(三木健、同上、33ページ)。

 それにしても、伊波普猷が沖縄に帰ってきてからの、短期日に、とてつもない俊秀たちが、琉球に輩出したことをどう理解すればよいのか。偶然のことではないとすれば、人を地元研究に駆り立てる情熱とはなになのか。地域史を超えた巨大なテーマである。

 小集団を核とした所から一群の新しい文化が発信され、それを受信する人たちが加速度的に増えて行く。古今東西いすれの地にも、いずれの時にも見られる共通現象。そこにはどういう秘密があるのだろうか。
 本シリーズを「言霊」と名付けた意味もここにある。


単行本の部,147,総記,比嘉重徳,先島の研究 その他,沖縄日の光新聞社,,,23.5,151,,,,,,,
単行本の部,288,歌謡,宮良長包,八重山古謡 第1輯,郷土研究社,昭和03,,19.5,128,,,,,,,
単行本の部,289,歌謡,宮良長包,八重山古謡 第2輯,郷土研究社,昭和05,,19.5,276,,,,,,,
,Ⅲ-3,Ⅲ 記録,解説,報告,書簡,3 沖縄,比嘉重徳,,国頭郡誌,,,,,,,大正03,,UL/TUL/CMO,,,,,,,
,,,289,Ⅲ-3,Ⅲ 記録,解説,報告,書簡,3 沖縄,比嘉重徳,,中頭郡誌,,,,,,84,大正02,,UL/YUL/CMO,,,,,,,

単行本の部,147,総記,比嘉重徳,先島の研究 その他,沖縄日の光新聞社,,,23.5,151,,,,,,,
単行本の部,288,歌謡,宮良長包,八重山古謡 第1輯,郷土研究社,昭和03,,19.5,128,,,,,,,
単行本の部,289,歌謡,宮良長包,八重山古謡 第2輯,郷土研究社,昭和05,,19.5,276,,,,,,,
,Ⅲ-3,Ⅲ 記録,解説,報告,書簡,3 沖縄,比嘉重徳,,国頭郡誌,,,,,,,大正03,,UL/TUL/CMO,,,,,,,
,,,289,Ⅲ-3,Ⅲ 記録,解説,報告,書簡,3 沖縄,比嘉重徳,,中頭郡誌,,,,,,84,大正02,,UL/YUL/CMO,,,,,,,
,,,290,Ⅲ-321,Ⅲ-4,Ⅲ 記録,解説,報告,書簡,4 先島,比嘉重徳,,八重山郡誌,,,,,,28,明治43,,HgL,,,,,,,
,,,322,Ⅲ-4,Ⅲ 記録,解説,報告,書簡,4 先島,比嘉重徳,,八重山の研究,,,,,,50,大正04,,CMO/UL,,,,,,,
,,,323,Ⅲ-4,Ⅲ 記録,解説,報告,書簡,4 先島,比嘉重徳,,宮古の研究,,,,,,61,大正07,,UL/DL/CMO,,,,,,,
,,,341,Ⅲ-


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。