消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

ギリシャ哲学 24 タレスの幾何学

2006-12-17 16:41:39 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)

 アレクサンドリアの古代最大の図書館には、タレスとしてはレベルの低い『航海用天文誌』しか残されていない。少なくとも多くの広範な哲学者の証言によれば、タレスは膨大な著作を残したはずである。にもかかわらず、彼の真価を表す著作がなに一つ残されていなかった。それもこの図書館が焼き討ちされる前からである。



 これは何を意味するのであろうか。犯人が誰かはわかっていない。いいだもも氏はプラトンを疑っている。いずれにせよ、当時、タレスを初めとした自然学者に対する焚書があったことは確かである。



 栄光のギリシャ哲学者が、ソクラテス・プラトン・アリストテレスにのみ極限されたのは、彼らの偉大さばかりでなく、陰湿は政治的陰謀が働いていたことは容易に想像できる。

 ただし、ディオゲネス・ラエルティオスやアリストテレス注解者のシンプリキオスは、タレスが著作をなにも残さなかったと書いている。

 それと反対の証言もある。後10世紀に編纂された『スーダ』というギリシャ語語彙辞典では、タレスは多数の著作を残したとある。いずれが正しいのかは不明である。しかし、プラトンやアリストテレスによる激しい憎悪を考えれば、焚書の被害にタレスたちイオニア等東方に関係する先行者たちの著作が遭った可能性は、否定できないのである。



 ヘロドトスは、タレスをミレトスの人とし、祖先はフェニキア人と推定した。通常、フェニキア人というとき、それはセム系人種を意味していて、ギリシャ人ではないという意味に使われる。これも真偽のほどは分からない。

 ヘロドトスによれば、タレスはイオニア陥落前にイオニア人国家の改革を提言していた。全イオニア人が、イオニアの地理的中心であったテオス島に統一評議会を置き、その他の都市を各行政区にするという今日の中央集権国家を作ろうとしていた。

 また彼が日蝕を予言したのは、リュディア軍とメディア軍との交戦中のことであるが、彼の知識はバビロニアの記録文書から得たとされている。バビロニアの神官たちは、宗教的な必要性から太陽回帰周行の知識が豊富で、少なくとも前6世紀には日蝕の地点確定能力ももっていたと考えられる

 とくに、イオニアが陥落した時のサルディスは国際都市であり、ギリシャの知識人たちが多数勉学のために訪問していた。タレスはこの地でバビロニア人たちから天文学と60進法を学んだとされている。ディオゲネス・ラエルティオスは、タレスこそが天文研究をした最初の人であり、日蝕と太陽の回帰を予告した最初の人であるとしているが、バビロン人から学んだことは確かだとされている。

 タレスは、ピラミッドの高さを計測した最初の人でもあった。それは三角比を応用したものであった。直径が円を二等分し、二角挟辺が等しければその三角形は合同であるとか、対角線は等角であるとか、とにかく幾何学の定理をタレスはつぎつぎと確定していった。長距離の航海には北極星を目印とすべきだと航海士たちを指導したのもタレスである。それまでは、北極星のある小熊座ではなく、北斗七星のある大熊座をフェニキアの航海士たちは利用していたのである。星の測量器具もタレスの発明であった。



 アリストテレスもまたタレスへの憎悪を隠さなかった。少し長くなるが、アリストテレスの『形而上学』A巻第3章から引用しよう。

 「最初に哲学に携わった人たちの大部分は、もっぱら素材のかたちでのものだけを、万物の元のもの(始原)として考えた。すなわち、すべての存在する事物がそれから生じ、またそれへと消滅していくところのもの・・・その当のものを、存在する諸事物の基本要素であり、元のものである、と彼らは言っている。・・・このような哲学の創始者たるタレスは、水がそれであると言っている(大地が水の上に浮かんでいると主張したのも、そのためである)。彼がこうした見解をとったのは、おそらく、あらゆるものの栄養となるものが湿り気をもっていること、熱そのものさえ湿り気をもったものから生じ、それによって生きることを観察した結果であろう(ものがそれから生じる当のもの、それが万物の元のものにほかならない)。彼の見解は、こうしたことによるとともに、またあらゆるものの種子がしめった本性をもっていることによるものであろう。水こそが、湿り気をもったものにとって、その本性の元のものにほかならないのである」。

 そして、アリストテレスはタレスを批判する。彼はなにも解決しなかった。彼は、大地を支える水を支える何らかのものをさらに見出さなければならなかったはずだからであると。

 溜息が出てしまう。私の後代、私の理論を紹介する悪意ある人によって、このように低いところから私のオリジナルの理論が捏造され、揶揄の対象にされてしまうのであろうか。このような悪意の固まりのような文章に接すると、私は死ぬ前に私の著作のすべてを自ら焚書してしまおうか、という気持ちになってしまう。

 このブログで少し前、「ウラノス」(天空)、「奈落の底」(タルタロス)、「オケアノス」(大河)を私は紹介した。それは動きのない静止した世界像であった。そこには変化と時間がなかった。プラトンのアテネでは、そうした枠組みから外れた考え方はすべて異端として廃絶された。光と闇、不老なる「クロノス」(時間)の水、そして「カオス」、「卵」、「無形の神」につながる「オルペリウス」の臭いをプラトンとアリストテレスは毛嫌いしたのである。

 アリストテレスにとって、東方の異教徒の臭いをぷんぷんとさせているタレスは許せないものであった。アリストテレスは、自分の言う四つの原因のうち、素材という一つだけを始原とするタレスを侮蔑した。しかし、タレスは大地が水から立ち上がると考えたのであり、単に水が大地を支えていると考えたのではない。生成・発展・消滅のサイクルを問題にしたのである。けっしてアリストテレスが固着してしまった機械的静態論ではない。物質すべての相互作用を問題にしようとしたのである。

 たとえば、水と熱とを対立させるのではなく、水にも熱があるとしたのである。このダイナミズムは東方のものである。光にしか生活を見ないアポロン的世界とは対照的なものである。

 アリストテレスのタレスへの悪罵は、『魂について』第1巻にも現れている。

 「より粗雑な人たちの中には、(魂は)水であると主張した者もいた。・・・彼らはすべてのものの種子が湿っているということから、そう信じたようである」。

 アリストテレスにとって魂は血液と同じである。にもかかわらず、タレスは種子は血液ではないとして、人間の魂を否定したのである、という無茶苦茶な論法で、アリストテレスはタレスを糾弾したのである。

 エジプトの神話は、大地が水の上で静止しているというものであり、バビロニア創造詩は、すべての陸地は海だったというものである。ヤーベは、水の上に大地を述べ広げた。こうした地下水脈を重視する東方の感覚をギリシャ本土の人たちは理解できなかった。オケアノスは大地の周囲を環流するだけのものだからである。オケアノスは地下には存在しない。



  アレキサンダー大王が、東方の英知に感動して東方の学者をアテネに連れてきたが、そうした場面に直面したアリストテレスの屈辱はいかなるものであっただろう。思うに、ギリシャ哲学の専門家たちは、どうして、ギリシャ哲学が相次ぐ戦乱の中から生み出されたものであったという当たり前の史実について何も語らないのであろう。

 どうして、政治家、実務家、国際的交流といった現実の生活の営みとの関係でギリシャ哲学を語らないのか。そのように称揚されても、ギリシャこそは、そしてそれを継承したローマこそは、奴隷社会であった。徹底的な差別社会であった。どうしてそれがポリスなのか。どうしてこのような初歩的なことすらこの世界では議論しないのか。いまの新古典派経済学が戦争について無言を守っていることとそれは通じるものである。

 最近、すばらしい本が出た。トム・ホランド、小林朋則訳『ルビコン・共和制ローマ崩壊の物語』(中央公論新社)、本体3300円、税別)。



 タレスにとって、水はアリストテレスが執拗に攻撃するような、単なる「素材」ではなかった。水は、彼にとって、無限定な広がりを示す観念であった。厳密な二分法を守るアリストテレスにとって、タレスもまた、水の「濃密化」という「希薄化」から事物が生み出されるという二分法を取ったものと理解したがり、無限定な、つまり、明確に定義できない発想などそもそもできなかったのである。

 ディオゲネス・ラエルティオスは、タレスが「無生物と見えるものでも生きている。世界は神々に満ちている」と言ったと説明する。川も樹木も生気をもっている。霊を宿している。タレスは魂こそがものを動かすという。それは普遍的な意識と生命の源である。自己運動と変化の能力を魂がもつ。光と論理のみで世界を理解しようとして、それが新しい哲学だと自称し始めた青臭い、世間知らずの新興哲学者たちにタレスは、意図的にぶつかったのである。彼を突き動かしたものは、数学、とくに幾何学における神秘性への感嘆であった。まだまだ私たちの無意識の中にある未分化な思考法を、タレスは2600年も前に取り出して見せた。そして、案の定、合理的思考至上主義者である権威者によって抹殺された。


ギリシャ哲学 23 ミレトスのタレス

2006-12-16 02:25:12 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
 古代ギリシャ人は、もっとも活躍できる年齢をほぼ40歳とし、そうした年齢の絶頂期を「アクメー」と呼んだ。言葉も時代によって変わるものである。

 ギリシャで最初の自然哲学者はミレトスのタレスとされている。彼は記録されている人類史上で初めて日蝕を予言した人であるとされている。

  紀元前585年に日蝕は生じたとされている。真偽のほどは分からない。それは第48オリンピア祭期の4年目に相当する。ここからはいい加減なもので、この年がタレスのアクメー(盛年=40歳)のはずだとされ、結局、彼の誕生は40年前の前624年にされた。没年はもっといいかげんなものである。

  小アジアのエーゲ海近くの要塞都市サルディスが陥落した祈念すべき年は前546年である。この栄光ある年にタレスは死んだことにされてしまった。  

  しかし、それでもいいではないかと私は思う。昔、人は、現代人ほど生没年を気にしていなかったのではないだろうか。カレンダーも生死の境も曖昧模糊のものであったのではないだろうか。著名人は神格化され、歴史的大事件に合わせて誕生日と没年を決定されたのであろう。おおらかな時代のおおらかな風習である。

 5と9を表す古代ギリシャ文字は間違いやすく、これが年代確定の障害になっているとも言われている。

 タレスは当時、必ず7賢人の一人に加えられていた。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、7賢人はアテネの政務長官(アルコーン)であったダマシアスが前582年に制定したとされる。この年はピュテイア(デルポイ)祭が復活させられた記念すべき年であった。

 タレスは多彩な人であり、アリストパネスの『鳥』では、「タレスのような人」として都市計画などあらゆる実践的な技術と知識を有していた人として描かれている。実際、タレスは数学・幾何学で才能を発止し、軍事用道路・橋も建設を指揮した。

 前6世紀、ギリシャの学問はエジプトから導入されたものであった。ヘロドトスは、ギリシャの幾何学がナイルの測量技術が伝わったことを源としていると断言している。タレスもまたエジプトに遊学し、幾何学を修めたとされている。

 こうした「ソクラテス以前の哲学者」を貶める趣味をもっていたのがプラトンであった。プラトンは執拗にソクラテス以前の哲学者を馬鹿にする発言をしていた。プラトン『テアイテトス』では、タレスが星を観察しながら上ばかり眺めて歩いていたところ、井戸に落ち込んだ。それをトラキア出の下女がからかった。天空のことを知るのに熱中して、ご自分の後ろや足下のことに気が回らないのですねと。これが「上の空の大先生」の使用例第一号である。それを親しい者たちとプラトンは作品の中で笑い飛ばした。なんて意地の悪い場面設定なのだろう。ここからしてもプラトンの狷介な性格が読み取れる。

 アリストテレスもまたひどかった。金儲けにいそしむ俗物の典型として、アリストテレスはタレスを非難した。『政治学』第1巻においてである。恥ずかしながら、私も、デリバティブ批判の材料としてアリストテレスのこの文章を過去、無批判に引用してきた。

 タレスたちは哲学がなんの役にも立たない。したがって哲学者たちは貧乏をしていると言っているという。彼らは、それ見たことかと哲学者を馬鹿にする。タレスなどは天文という実践的な研究をして金儲けに結びつけることに成功したと豪語したという。

 私は、タレスはけしからん。アリストテレスは正しいとの文脈でこれまでも本に書いてきたが、いまさらながら自分の無知に愕然としている。

 
これはアリストテレスの権威の下に、ソクラテス・プラトン・アリストテレスといった新興正統派が、旧い多様でかつ快活な思想を抹殺することであった。タレスこそは、教条的思想を軽蔑していた人だったのである。

 
アリストテレスは、自分が哲学者であり、タレスは哲学ではない天文学にうつつをぬかしていると非難した。これはまさに経済学にこける現在の新古典派である。われこそは経済学者である、ディスクリプティブな散文ばかりを書く輩は経済学者では断じてない、という思考停止者とアリストテレスはどこが違うのか。

 過去の自らの無知の反省も込めて、アリストテレスの文章を引用する。それは私の傷口に塩をすり込む作業でもある

 「言われているところによれば」(アリストテレスが確認したのではなく、という話もあるというきわめて卑怯な紹介の仕方)、「彼(タレス)は、天文研究によって、来るべきオリーブの収穫を察知して、まだ冬の間に、わずかな金銭を調達してミレトスとキオス中にあるすべてのオリーブ搾油機を借りるための手付け金をまかなったが、誰も競り合わなかったので、わずかな賃料(手付け金)ですんだ。さて、時期が来ると、大勢の人たちが同時にそれを求めたので、彼は望み次第のやり方でそれを貸し付け、膨大な金銭を手に入れた。哲学者たちは、もしその気になれば容易に富を築くことができるのだが、ただそれは彼らが本気でいそしむことではない、ということを(彼が)示して見せた、とのことである」。

 最後も、「とのことである」と伝聞の形を取っている。実際にタレスがそんな馬鹿なことをしたのか否かは、アリストテレスは明言を避けている。実証もしていない。人々の犠牲の上にタレスがあくどい金儲けをしたとのデマ的な発言を、こともあろうに大権威者のアリストテレスがしたのである。以後、ほぼ800年後、ディオゲネス・ラエルティオスが再発見するまで、タレスはアリストテレスの権威の前に汚名を被せられたままだったのである。

ギリシャ哲学 22 ディオゲネスとディオゲネス・ラエルティオス

2006-12-14 23:22:42 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)

 いつも私のブログに貴重なコメントを寄せてくださる田淵太一氏からつぎのようなメールが届いた。氏の許可を得ぬままここに転載させていただく。

 「『古代ギリシャ哲学・消された伝統』を拝読しました。ピタゴラスのような消された伝統を復権させることが絶大な現代的意義をもっていることを,あらためてよく理解できました。そして『目の前のクライシスを無視し、とくとくと形式論理を振り回す、自称<理論家>への不信と怒り』を共有したいと、強く感じました。
 ディオゲネス・ラエルティオス著『哲学者列伝』という不思議な書物に、若き日のニーチェも魅了され、やがて文献学をかなぐり捨てることにつながっていったようですが、御論旨の通り、ディオゲネス・ラエルティオスが何者なのかにかかわらず、形式論理や文献的詮索を排して、『異論の余地のないもの』を原理としてそれを平明に語る、という立脚点に立つことの重要性は、疑い得ぬものだと存じます。(通常、ディオゲネス・ラエルティオスは3世紀ごろの哲学史家だとされていますが、私の漠然とした印象では、プラトン主義を痛烈に批判した犬儒派のディオゲネスに共感して名乗ったペンネームのような気がいたします。『哲学者列伝』で、犬儒派のディオゲネスにかんする記述が共感に満ちて生き生きとしていて、しかもエピクロスの項目に次いで長いからです)。とり急ぎ感想を申し上げます」。

 うれしいことである。田渕氏とともに京大で学んだ記憶が鮮明に蘇る。幸せな日々であった。師弟ではなく、戦友であった。いまは正統派、昔は教条派との戦いであった。

 それはともかく、氏のコメントを掲載させてもらったのは、前回の私の紹介があまりにも稚拙であったことに気づいたからである。さすがに田淵氏。それとなく私の不十分さを指摘してくれた。

 正確に紹介しなおす。前回に引用した文章は、ディオゲネス・ラエルティオスのものではなく、ディオゲネス・ラエルティオスが紹介した本家ディオゲネスのものである。

 ディオゲネスは紀元前3世紀前半にミレトス市民が黒海西沿岸に建設していたアポロニアで活躍していた「アリストテレス以前の哲学者」であった。クレタにも同名の都市があるがそこではないというのが通説である。紀元前440~前430年がもっとも活躍した時期であるとされている。

 新プラトン学派の哲学者たちは、彼のことを「アポロニアのディオゲネス」と呼んだ。自然学で著名であった。医師でもあったと言われている。彼の考え方は先行諸理論の折衷である。したがって書誌学的に軽く見られがちであったが、先行者よりもはるかに平明に、広範囲の適用可能な統一性をもった世界理論を構築した。そして、彼よりも800年も後の反新プラトン主義者のディオゲネス・ラエルティオスが惚れ込んでしまったのである。

 ディオゲネス・ラエルティオスは、後3世紀前半の小アジアキリキア地方のラエルテ出身で、著作は『哲学者列伝』しか発見されていない。

 元祖のディオゲネスは、年周・日周・季節等々の規則性に感嘆し、生物の諸器官の有機的統一性にも感動していた。そして、そうしたことを見出せる思惟の力を重視していた。

 彼は、海の塩辛さは太陽が真水を蒸発させるからであると説明し、夏期にナイルが氾濫するのは、太陽が大地から出る放散物をそこに向けるからであると考えた。万物の運動の濃淡があらゆる物質を生み出すという宇宙観をもっていた。生命としての機能と知性(知覚)としての機能の相互作用に運動と思惟の連動を見ようとしたのである。


ギリシャ哲学 21 消された伝統

2006-12-12 23:45:35 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)

 ソクラテス以前のギリシャ哲学に私のこだわるのは、ソクラテス以後の形式的な論理に沈静するよりも鋭い直感と観察力を備え、宇宙全体の関わり方を知ろうとした一群の哲学者が、ソクラテス以前には存在していたことに感動したからである。

 目の前のクライシスを無視し、とくとくと形式論理を振り回す、自称「理論家」への不信と怒りから、私は人間としての哀愁と共感を備えた理解力をそれこそ必死になって追い求めている。そこで見出したのがピタゴラス学派であった。彼らは、人間的「生」を真正面から見つめていた人々であった。

 ニーチェは、彼らを「悲劇時代の哲学」と呼んだ。ヘーゲル的な思弁性の形而上学にまだ汚染されていない彼らの魂の純粋さに彼は感動したのである。

 
ピタゴラス派の数理思想と宗教思想は、民衆の心の奥底で沸騰している情念を取り出して見せたものである。彼らを「非論理的」といって切り捨てる「理論家」の誰一人として、現在社会から阻害されている民衆(権力から疎まれている外観上の文人を含む)への共感をもたないのは、けっして偶然ではない。


 現在のクローニー的体制のぬるま湯を快適と感じている権力指向者の観念を砕き、暗闇に右往左往している虐げられた人々に光りをもたらす営為は、ピタゴラスのような「消された伝統を復権」させることである。


 
その思いを込めて、古代ギリシャ哲学で消されてしまったピタゴラス的伝統を復権させるべくこのシリーズを書いている。開花するまで、読者諸氏の忍耐におすがりする次第である。


 ただし、私は古代ギリシャ哲学の専門家になるつもりはない。実在したかどいうか疑わしい文献の真偽を検討する時間は、いまの私には残されていない。たとえば、ディオゲネスの著作が、本人のものとして信用できるのか否かの議論には立ち入らない。ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』第957節が本当に彼の手になるのか否かは、いまの私にはどうでもいい。



 「およそいかなる言説を論じ始めるにあたっても、その原理すなわち出発点として、異論の余地のないものを提出しなければならず、また記述は平明かつ荘重なものでなければならないと、私は考える」
といった文だけですべてが語られる。こうした考え方がいつのまにか消えている。それだけで充分である。


 人が合理的に行動するはずだ、だから経済学には歴史学はいらない。正しい方向に歴史は動くはずなので、正しい経済学を理解すれば人間の行動様式は理解できるからであると、本気で信じている経済学者の多い米国にあって、「レフトビハインド現象」を正統派の経済学者はどう説明しようとしているのだろうか。正当派経済学者の一人でも、イラク侵略戦争に反対した人はいたのか。日本の経済学会でそうした議論をする人はいたのか。

 「異論の余地のない」ものを「原理」としてそれを平明に語る必要がある。こうした論点を、かつては堅持する哲学者たちがいた。私はこうした消された伝統にこだわりたい。


ギリシャ哲学 20 オルペウス(1)

2006-11-14 23:56:14 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)

 天空は「ウラノス」と呼ばれていた。鋼鉄の鉢が大地を被う。大地は丸い。イリアスやオッデッセイアにそうした記述がある。雲までは靄が被っている。靄は「アーエール」と呼ばれる。雲の上は輝く大気であり、「アイテール」と呼ばれた。大地の下も金属の鉢で被われている。大地から天空の頂点までの距離と、大地から下方の底までの距離は等しい。下方の底は「奈落の底」で「タルタロス」と呼ばれる。イリアスでゼウスが語り、ヘシオドス『神統記で語られている。地下世界は「冥府」(ハディス)であり、「闇」(エレボス)である。大地を取り巻く河が「オケアノス」であり、水の源である。ホメロスに語られ、ヘロドトスが神話として記述している。河の神が「アケロオス」である。

 

 こうした世界の観念はギリシャ以前からあった。ヒッタイト、メソポタミア、エジプトにもあった。オケアノスは輪という形容詞でもあった。

 

 太陽は「ヘリオス」と呼ばれ、「曙」が「エオス」、「夕闇」が「ヘスペリス」、大地は「ガイア」とも呼ばれた。オケアノスは神々の祖、オケアノスの妻がテテュス、この2神から万物は生まれたとの考え方もギリシャ以前からあった。イリアスには、ゼウス、ポセイドン、ハディスによる世界分割も記されている。さらに、クロノス、テイタン族もイリアスにはある。プルタルコスは「イシス」と「オシリス」という神のエジプト起源に言及している。プラトンはオルペウスが「流れ美しきオケアノスが妹のテテユスを娶った」と語っているとの紹介を『クラテュロス』で行った。プラトンはさらにオルペウス教を紹介している。「ゲー」(大地)とウラノスの子としてオケアノスとテテュスが生まれ、彼らからポルキュス、クロノス、レアが生まれてというのである。彼らがテイタン族である。

 

 オルペウス教によれば、オケアノスとテテュスが最初の完全に人間化された夫婦である。この人間夫婦はクロノスとレアよりも先に生まれている。

 

 どうも古代ギリシャのオケアノス観は古代エジプト、バビロニア人を起源としているようだ。そして、オルペウスの神々と重複する。

 

 神々も人間をも従わす「夜」は「ニュクス」である。ホメロスでは「ニュクス」は完全に擬人化されている。これもオルペウス教の観念である。アリストテレスもこのことに気づいていた。

 

 オルペウス教とは浄化の神アポロンを崇拝しつつ、トラキア地方の転生信仰と結びつけ、魂は清浄なままであれば生き続けることができると考えて、ディオニソス神を中心にすえながら独自の神話を創り上げてきた教団である。トラキア人のオルペウスは性的な清廉さ、音楽の才能、死後の予言力をもつ「聖なる言説」として記録されてきた。ヘロドトスは前5世紀においてオルペウス教にピタゴラスが染まっていたと紹介している。


ギリシャ哲学 19 ネストリウス派キリスト教(景教)

2006-08-10 12:54:38 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
 フランシスコ・ザビエルの日本上陸400年を祈念した行事が日本各地で行われていたとき、産経新聞京都支局宗教担当の記者であった司馬遼太郎は、京都太秦(うずまさ)の秦氏(はたうじ)が、ネストリウス派の末裔であったというA.G.Gordonの説を基に太秦の遺跡を調査した記事を書いた。すでに13世紀において世界的に絶滅したはずのネストリウスのキリスト教が、日本に遺跡をを残していること自体が奇跡だ」という彼の記事は内外に大きな反響を与えた。これが、無名時代の彼の兜率天(とそつてん)の巡礼』の原型になった。これは、寺内大吉と司馬遼太郎によって創刊された同人誌『近代説話』の第2号(昭和32年(1957年)12月)に発表された。

 ネストリウス派キリスト教は、5世紀のコンスタンチノープルで、イエスの母を「神の母」と呼ぶことを反対したことによって、追放されたネストリウスが起こしたキリスト教分派である。この派の一団は、コンスタンチノープルを捨て、東方のペルシャに勢力を得、さらに、東方に向かって西域や中国に入った。中国では景教と呼ばれた。中国に入らずに日本に到着したネストリウス派もいたというのが、ゴードンの説である。

 この説を踏襲した司馬は、『兜率天の巡礼』で空想歴史小説を書いた。ペルシャ(中国では安息と表記されることもあった)からインドに入り、インド東海岸から海路、日本の赤穂、比奈の浦についた秦氏が、景教徒であったという。彼らは、この地にダビデの礼拝堂を建てた。これを大闢(だびで)と言った。中国語では、ダビデは大闢と表記される。これが、比奈の浦の大避神社である。さらに境内に井戸がある。「いすらい井戸」という。イスラエルを想起させる名称である。さらに、一族は京都の太秦に居を移し、京都を開発するという奇想天外なストーリーを司馬は展開した。

 司馬を無名時代から高く評価していた海音寺潮五郎も、司馬の『兜率天の巡礼』よりも前に、ゴードン説に刺激されて、長編歴史小説『蒙古来る』(文春文庫)を昭和28年から29年にかけて新聞の連載小説で書いている。

 文永・弘安の両役前後の日本とユーラシア大陸を扱った『蒙古来る』は、蒙古軍によって、故国を追われたペルシャの美姫、景教徒のセシロヤが、海路、アラビア、中国沿岸を経て、日本に辿り着く物語である。

 日本では、セシリヤは傀儡子(くぐつ)の一団に身を隠す。傀儡子というのは、幻術、奇術を生業とする漂泊民である。そこで、セシリヤはペルシャの音曲やペルシャの幻術を披露したのである。

 海音寺の小説では、ゾロアスター教の秘儀も紹介されている。ゾロアスターの僧たちは、陶酔的な音曲を奏で、大麻を駆使して幻術、曲芸を披露する。こうした技が日本に伝来し、傀儡子、山伏、忍者に受け継がれた。こうしたことが、小説では語られ、当時の日本人にペルシャ・ブームを起こさせたのである。

 西暦431年8月4日、キリスト教史に残る最初の大宗教会議が東ローマ帝国のコンスタンチノープルで開かれた。この会議においてネストリウスの追放が決議されたのである。彼の意見はもとより、彼の説明を記した書物のすべては焼却された。

 ネストリウスは、当時、アンテオケ教会閥と言われていた派閥に属していた。この派閥は、マリアを神の母とすることに異を唱えていた。この派閥に対抗していたのが、アレキサンドリア教会閥である。マリア信仰は、女神信仰というギリシャの土俗信仰と結びついたものである。ギリシャに活動拠点を置くアレキサンドリア教会閥が、マリアの神性を掲げて布教をしていたのは、その意味で自然な流れであった。

 キリルという僧正がアレキサンドリア閥の代表者であり、アンテオケ教会閥の代表がネストリウスであった。ネストリウスは、西シリアの貧しい農家出身であった。テオドル監督の引きでコンスタンチノープルの教父にまでなった。性格の穏和な人であったとされている。

 キリルは、それと正反対の激しい性格の人であった。原始キリスト教会の敵の一つはギリシャ哲学であった。当時、新プラトン学派のハクペシアという名の美貌の女哲学者がいた。非常に評判の高い人で、多くのアレキサンドリア市民の心を捉えていた。キリルは彼女を拉致して、教会内で貝殻で削り殺し、死体を寸断した上で、キナロンの地で焼いた。こうした残酷な男が、死後、聖者の称を与えられた。

 そのキリルがネストリウスを葬り去ろうとした。百人の美女をコンスタンチノープルに送り込み、ネストリウスの悪口を言って回らせた。コンスタンチノープルの宮廷の女官たちを買収して、ネストリウスを教父にいただく限り、皇帝、皇妃、高官たちが天国の門に入ることはできないであろうと、街角で演説させた。

 8月4日の大会議では、ネストリウスを支持するアンテオケ教会閥の議員団が会場に到着しないうちに、会議を成立させ、会場の議員の背後には武装した無頼漢を立たせ、「新しいユダを追え、しからずんば、後ろを見よ」と、キリル僧正は言った。後ろには無頼漢が短剣をちらつかせていた。

 ネストリウスは、正式の討論ではなく、キリルの卑劣な陰謀によって追放された。ネストリウスは、カトリック教会から永遠の追放処分を受けたのである。ネストリウスは、生まれ故郷の西シリアに監禁され、彼を慕う者たちは、東ローマの支配権を逃れ、東方に逃亡した。景教徒と呼ばれる流浪者たちがこのときに生まれた。

 彼らが去った100年後、ジャスチニアン帝治下で編纂された『ローマ法全典コーデッキス』第1巻第1章第1節には、彼らが極悪人であると規定されている。彼らの子孫は、故郷に帰還すればただちに死罪に付するとされていた。

 彼らが流浪して唐の首都、長安に辿り着くのは7世紀の中頃であった。当時の長安は毎年4000人を超える外国の使節がやってくる国際都市であった。

 当時の皇帝、太宗の好意で長安での滞在を許された景教徒たちは、西域との交易に従事しつつ、滞在が許可されてから3年後(貞観12年)、長安の西に大秦寺を建立することができた。金の官吏、楊雲翼は、廃墟になってしまった大秦寺を偲んだ詩を残している。それによれば、同寺は、緑碧の瓦屋根、天を突く白亜の塔をもっていたとされる。

 武宗の治下、会昌4年、武宗は、大秦寺を破壊し、寺の僧俗が国外追放された。武宗は仏教を徹底的に弾圧したのである。彼の廃仏毀釈令は過酷なものであった。壊された寺院の数は4万6000、追放された僧は20万人を超えた。この会昌4年をもって、景教徒たちは歴史の文献から完全に姿を消した。ヨーロッパ人たちは、カトリック教会の峻厳なネストリウス派抹殺政策のお陰で、景教徒の存在すら知らなかった。

 それから約1000年が経った明の天啓5年(1625年)、昔の長安、つまり、西安において、「大秦景教流行碑」なる黒色半粒状の石灰岩の碑が発見された。発掘したのは、西安の農夫であり、それをヨーロッパに知らせたのは、アルバレー・スメドレーというカトリックの宣教師であった。



 碑の大きさは、高さ9フィート、幅3フィート6インチ、暑さ10.8インチ、重さは2トンもある巨大なものであった。碑頭には、2匹の蛟竜の彫刻が施され、蛟竜は、十字架の紋章を抱いている。碑文は漢文とシリア文字で刻まれている。景教が大唐の皇帝の庇護を受けていかに興隆したかが書かれている。おそらくは、大秦寺の門前に立っていたものであろうとされている。

 この碑が本物であるかどうかは、長年の疑問であった。なによりも、ヨーロッパ人たちは、上述のように、景教の存在自体を知らなかった。さらに、中国の擬史癖という悪習によって、この碑もそうした偽物の類であろうとして詳しい調査は行われなかった。

 そうした風潮に一撃を与えたのが、高楠順次郎氏である。時代も随分下って1894年のことである。同氏は、『通報』というフランスの東洋史専門誌に「大秦寺の僧景浄に関する研究」を発表し、全世界の東洋学会から注目された。同氏の論文によって、この碑が景教の大秦寺のものであることが確認されたのである。

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ギリシャ哲学 18 ゾロアスター教

2006-08-05 00:10:16 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
 ゾロアスター教では、アフラ・マズダーが善を体現する最高神とされる。善き考え、善き言葉、善き行い、によって、唯一・絶対の神に近づこうというのが信徒の合い言葉である。すべての善は、アフラ・マズラーに属するが、すべての悪も存在する。そうした悪は、アンラ・マンユに属する。人は、この悪と闘わなければならない。明と暗、賢と愚、芳香と悪臭、生と死、健康と病気、正義と非道、自由と隷属、等々、世界にはもろもろの対立項があり、絶対にこれら対立項は、両立しない。善を保つためには悪は放逐されなければならない。こうした二者対立項的理解がゾロアスター教の特徴である。

 ゾロアスターというのは、この宗教の開祖の名前であり、前1000年頃に活動していた人であると言われている。

 ここには、インドやペルシャに定住する以前の遊牧民たちの、聖歌集『リグ・ベーダ』の影響が見られるとも言われる。1500年間もの長期にわたって口承されてきたゾロアスター教の聖典はようやく後500年頃、つまり、ササン朝ペルシャ時代に『アベスター』という聖典に文章化された。このアベスターというのは、東イラン語系の言葉のことである。善が悪と闘う最終場面である終末論もこの宗教の特徴である。善と悪との戦いは歴史通貫的に続く。これは、イラン高原における定住者(農耕者)と放浪者(遊牧者)との闘争を反映させたものであろう。善は明であるという考え方から火を敬う儀式ができたものと思われる。


 エミール・バンベニスト&ゲラルド・ニョリ、前田耕作『ゾロアスター教論考』(平凡社、1996年)の訳者解説によれば、トマス・ハイドというオクスフォード大学の東洋学者が著した『古代ペルシャ宗教史』(1700年)に刺激されたボルテールは、『歴史哲学』(1765年)を著したという。この書は、「諸国民の風俗と精神について」を内容としたものである。そこでは、パールーシー人たちが、1つの神、1つの悪魔を立て、復活、天国、地獄を構想したことに驚いている。キリスト教の観念の多くがこの東方の古代宗教にすでに見られることへの感動を率直に示したのである。

 こうした、東方の宗教が東西に大きな影響を与えてきたという視点は、京都大学の学者たちがもち続けてきたものである。伊藤義教ペルシャ文化渡来考』(岩波書店、1980年。ちくま文庫、2001年。)がその代表である。この書は、同氏が京大で行った講演、「中世波斯と支邦・日本」(1932年)を元にしたものである。同氏は、『アベスターをも訳している。

 イラン起点の文化が、東西、南北に伝わって行く様は雄大である。この地が戦乱の中心にされようとしているいま、心ある研究者は、古代ペルシャのもつ巨大な影響を発掘する作業に従事していただきたい。

ギリシャ哲学 17 ツァラツストラ

2006-08-04 03:10:40 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
 ニーチェツァラストラかく語き』(1885年)のモデルは、ゾロアスター教「ザラスシュートラ」であると言われている。永遠回帰の憧れを謳ったこの書は、世紀末の不安に怯える人々の共感を呼び、世界中で読まれた。面白いことに、この最初の邦訳は、まさにゾロアスター教の話であることを表題にしている。登張竹風『如是我聞・光炎菩薩大獅子吼経』がそれである。「ツァラツストラが語った」というよりも、拝火教の菩薩が激昂して叫んだ」という方が分かりやすい。ちなみに、ゾロアスター教を「拝火教」と訳したのは、森鴎外の親類の西周である。どうも、英語での蔑称の'fire worship'をこのように訳したらしい。「火を拝む宗教」とされてしまっては、確かに可哀想である。仏教を「焼香教」、キリスト教を「ワイン教」と言われたら、当事者は腹を立てるであろうに。西周ともあろうものが、なんたるデリカシィのなさよ

 少なくとも、このゾロアスター教は、イラン高原を分水嶺として、仏教となって東は日本に、キリスト教になって西はブリテン島といった、地の涯のまで、影響を及ぼした。農業革命、初期文明を生み出したイラン高原が、農産物だけでなく、思想をも東西に影響を及ぼい続け、それを一挙に加速したのがヘレニズムである。ギリシャ文化が東に伝わったのがヘレニズムではない。ヘレニズムは西アジア(イラン高原)の文明と思想を東西に拡大させたのである。ギリシャもまたヘレニズムによって大きな影響を受けた。ニーチェが言いたかったのはそのことであった。もう一つの「ちなみに」。夏目漱石(実を言うと私はもっとも嫌いな作家である)は、ニーチェのこの著作に影響されて小説を作成したそれが、『吾輩は猫である』と言われているこの程度の盗作を後生大事にする文壇を私はもっとも軽蔑する。まじめな庶民の人生を軽蔑し、下半身だけ突出させたのが日本の文壇である。そうした文壇の中に一人でも反体制の活動家はいたのか。「人生は空しい」といって下半身ばかり追い求めた卑しい面々。

出所

 インドには、いまでも、「パールーシー」と呼ばれるゾロアスター教を信じる集団がある。これも面白い。「パールーシー」とは、ペルシャ人を想像する。おそらく、ペルシャ人の後裔なのだろう。しかし、ここでも、問題は簡単にすますことはできない。ペルシャ人とは、現在のイラン人のことを指すと私たちは簡単に思いこんでいる。そうではない。イラン人は、昔から自己の民族を呼ぶのに、「イラン人」であった。では、ペルシア人とはなになのか。これは、現在のテヘラン周辺の純粋イラン人とは異なり、その「周辺の民族」(ペリシテ人)を指す言葉である。イランという中枢に入ることができなかった周辺民族の宗教と文明が中枢を奪う。この誇りが、「ペリシテ」=「ペルシャ人」である。

 この世界最古の宗教の、現在における信者数は不明である。しかし、せいぜい2万人程度ではないかとされている。このような少数派のゾロアスター教に、ニーチェがどうして積極的に、現代化させたのかは不明である。単なる、オリエント趣味であったのかもしれない。

 ゾロアスター教の開祖が、ツァラストラと西欧で呼称されている「ザラシュートラ」であると言われている。この程度のことを分析する必要はないのだが、開祖の名前は、駱駝使いから出た言葉であるという説は、重視すべきであろう。

 ザラシュートラの教えは、救済の平等であった。なによりも、この教えが最重要である。ゾロアスター教によれば、世の中は最高善にして唯一神の「アフラマズダー」と、悪を一手に引き受けている「アンラ・マシュ」との対立によって成立している。善悪の狭間で人間は苦しむ。しかし、駱駝使いのザラスシュートラが、苦しむ人々を分け隔てなく救済するというのである。

 このゾロアスター教は、アレキサンダーとイスラムの2つの勢力によって破壊された。
 アレキサンダーは、前330年、ダレイオス3世を撃滅したときに、当時のペルシャの国教であったゾロアスター教に聖地、「火の寺院」を焼き払った。占領地域の土着思想を破壊しないと宣言していたアレキサンダーがどうして、このような徹底的破壊をおこなったのかはいまのところ分からない。そして、8世紀、イスラムによって、この寺院は完全に焼き払われた。これでゾロアスター教は、マイナーな世界宗教として、思想だけの生き残り方を確立するしかなかった。


ギリシャ哲学 16 支配の道具=宗教組織

2006-08-03 03:01:31 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
マックス・ウェーバー『古代ユダヤ教』(みすず書房、1964年。岩波文庫、2004年。)は、祭司階層のもつ社会的意味をギリシャ型とイスラエル型とに区分けした著作である。近代西欧文明の行き詰まりを強く意識したもので、ニーチェへの共感が読み取ることのできる研究書がこの『古代ユダヤ教』であると、山之内靖氏は強調される(山之内靖『ニーチェとヴェーバー』(未来社、1993年)。



 ウェーバーによれば、ペルシャのダレイオス大王は、被制服民の祭司階層を手厚く扱った。例えば、エジプトでは、地元の古い祭司学校を再建しただけでなく、宗教組織の整備、官僚化の後押しをした。小アジアでもアポロ祭典を大王の庇護下において、その祭りを奨励した。イスラエルでもユダヤ教を保護した。

 そうしたダレイオスの宗教政策を見て、ダレイオスの侵略の前に怯える多くのギリシャ人とは異なり、ギリシャの祭司たちは、ダレイオスを導き入れることによって、自分たちの権力基盤が強化されると判断し、ダレイオスを歓迎する姿勢を見せた。ダレイオスは、自らのギリシャにおける宗教政策を祭司たちに伝えていた。祭司だけでなく、鳥占師、星占師までもが、ダレイオスを歓迎していた。それが宗教権力の強化につながると判断されたからである。ウェーバーはいう。「ペルシャ人は、デルフォイの神託も、あらゆる種類の市民的預言者をも、自分の見方につけていたのである」と。

 ギリシャは、ダレイオスに戦勝したことによって、デルフォイ神託のくびきに苦しむことなく、人間生活の進歩を確保できた。もし、ギリシャがペルシャに敗北しておれば、ギリシャもまた東洋的専制、宗教の完全勝利によって打ちのめされていたであろうとウェーバーはいう。

 世俗的権力としての国王、それも制服側の国王が、同じ世俗的権力としての、軍事貴族、それも被支配側の権力を屈服させるために、宗教的祭司権力を最大限利用するというのは、古今東西共通の力学である。

 ウェーバーがいうには、イスラエルの祭司たちは、ダビデ王家の復権などには関心がなかった。自分たちの宗教的権力と権威が守られていてさえすれば、あえて外郭からの支配権力をも引き込むことを選択したのである。

 「必要な場合には、他国民である代官の、つまり、ユダヤ教団とは直接的な内的関係をもたない代官の支配下であっても、一切の社会的・内政的諸関係において自分たちが決定的な勢力でありさえすれば、(征服される方を)好んだのである」。

 祭司階層こそが、近代社会の組織、つまり、官僚制をもっとも具体的に担う層となったのである。


 権力と結びついた宗教は、教義の体系化に沿ってひた走ることになる。例えば、トーマス・アキナスは、アリストテレス体系を継承した。アリストテレス交換正義論は、アキナスの世界では公正価格論となった。

 重要なことは、この宗教的権威と市民の欲望が結びつくことである。例えば、「国家内の国家」であるとまでウェーバーによって称された「ポポロ」がそのことを如実に示している。イタリアでは、ポポロという都市貴族の経済的・政治的勢力がぬきんでた力をもっていた。政治的・経済的共同体としてイタリアの民衆団体(ポポロと自称した)は、自分たちの官僚制と、財政と、なによりも軍事組織を有していた。彼らは騎士的生活を送ることを誇りとしていた。そして、レンテ生活者でもあった。「ソキエスタ」(市民の団体)、「クレデンツァ」(信用できる人々の団体)、「メルカダンツァ」(商人の団体)といったいろいろな呼び方をされたのが「ポポロ」であった。彼らは独自の掟で振る舞い、都市を支配していた。それは、懐かしく語られるような「市民の自治」ではなかった。それは大衆を収奪する組織であった。ポポロ同士は都市覇権を争っていた。例えば、フィレンツェのメディチ家の内紛は、世俗的権力に従おうとするものと、教皇の権威を利用しようとしたものとの争いであった。

 世俗派は、「ギベリン党」(皇帝党)、宗教側は「グェルフ党」(教皇党)であり、前者が「黒党」、後者が「白党」と呼ばれていた。その中で、白党として戦い、フィレンツェの行政長官の地位を追われたダンテが執筆したのが、あの『神曲』であった。黒党と傭兵に依拠するフィレンツェ権力がスペインの援助下で国家機構を握って以後、世襲化した「シニョリーア」が皇帝と教皇の双方の承認によって生きながらえるが、彼らこそ、「市民」が転化したものであった。

ギリシャ哲学 15 市民とはなにか?

2006-08-02 02:08:57 | 古代ギリシャ哲学(須磨日記)
アテネは「市民社会」の永遠のロマンとして語り継がれてきた。しかし、私は、アテネを人類の幼年時代に咲いた最高の文明であったという通説を憎悪する。 私は、学生時代から「市民社会論」をとくとくと説く学者諸氏に対して、本能的な敵意を抱いてきた。それは、告白すれば、私の生い立ちが醸し出した感情である。私は、文字通りの貧民層出身である。ろくな教育を受けたこともない貧しい両親の下で育った。しかし、無学の両親は、私には最高級の人間であった。生意気な私を諫(いさ)める両親は、涙でかき口説くことしかできなかった。「それでは、世間に対して申し訳ない」。それで、十分であった。私は、ひたすら内職に励(はげ)む母を尊敬していた。尋常(じんじょう)小学校しか出ていない職人の父が作り出す生活のリズム感に心地よく浸って育った。晩酌を片手に父が描き出す油絵に偉そうに感想を述べ、父がうなずくと心の中で快哉(かいさい*)を叫んだ。私の名前の「美彦」は、「美術で生きていける男」という父(お父ちゃん)の願いが込められたものである。

*(「快なるかな」の意)痛快なこと。

 私は、「世間様に対して恥ずかしくない生き方」を、両親から学ぼうとしていた。両親は、私が、「学問なるもの」に飛び込むことを「悪魔に子供が取られてしまう」という恐怖心に駆れていたらしい。屁理屈ばかりこねる嫌な人間にならないで欲しいというのが両親の口癖であった。「お父ちゃん、お母ちゃん、そうではないんだ」と心の中で叫んでも、貧しさの中で懸命に「世間」に認めてもらう生き方にすがる両親を、私は、批判できなかった。どこから聴いてきたのか、「美彦の大学は赤の巣窟(そうくつ)だということではないか」と私を難詰(なんきつ*)することもあった。「だからこの大学を選んだのに」と心の中でつぶやいたが、反論はしなかった。「これが庶民なのだな」と哀しく納得するしかなかった。しかし、私の生き方の原点は、この「教養」のない両親の、歯を食いしばって生き抜いた心にある。

*(そうくつ)悪者などのかくれが。
*(なんきつ)欠点を挙げ非難して問い詰めること。


 私の博士論文は、『貿易論序説』である。博士号を得たとき、母は泣いた。貧乏な家庭の子供が博士号を貰ったことの感激から泣いたのではない。逆であった。「我が家の恥ずかしい貧乏ぶりを世間に公表し、世間様の同情を得ようとする我が子の浅ましさに、気も狂わんばかりに哀しい」と私にぶつかってきた母であった。父にいたっては、「大学に行かすのではなかった」と吐き捨てるようにいった。そうか、大事なことはこの感覚なのだと私は納得してしまった。私はいまさらのように、両親の子であることを神に感謝した。

 つまらない独白をしてしまって、読者諸氏には申し訳ない。

 一世を風靡した「市民社会論」者たちは、いまはどうしているのか。米国が口火を切った地球戦争を阻止する理論を彼らは作っているのか。フランス・ワインを飲み、フランス語で造語し、そのくせ、大衆の愚劣さをあげつらってきただけではないのか。無能で卑しい大衆、社会全体のことを考えず、ただ、雰囲気で群れる思想のない「タダモノ主義者」=貧民。そのような大衆に媚びるポピュリストに厳しい批判を畳みかけてきた。しかし、それ以上のことを「市民社会論」者たちはしてきたのか。私は、スノビズム*をもっとも嫌悪する。

*Snobbism- 俗物根性。社会的地位や財産などのステータスを崇拝し、教養があるように上品ぶって振る舞おうとする態度。学問や知識を鼻にかける気取る態度。また、流行を追いかけること。

 彼らのいう「市民」とはなになのだろうか。会社の経営者であり、学者であり、自らの才覚で華麗に生きて行ける、要するに、社会の「エリート」たちではないのか。彼らのいう市民とは、「自覚した歴史の創出者」であって、「無能で」、「卑しい」大衆ではない。私が、ともに生きようとする層は、彼らの研究対象である「市民」では絶対にない

 アテネのポリスでは、わが両親は歴史に残らなかったであろう。せいぜい、奴隷にしては絵が上手いなという評価を得ただけであろう。ましてや、プラトン先生など歯牙にもかけてくださらなかったであろう。

 アテネは「市民社会」の永遠のロマンとして語り継がれてきた。しかし、私は、アテネを人類の幼年時代に咲いた最高の文明であったという通説を憎悪する。このブログは、そうしたアカデミズムへの基本的拒否の表明である。このように、書いてしまえば、激してしまって、我を失うわが哀しい心情が「世間」様にばれることになるので、この程度で抑えておこう。この瞬間にわが母の涙が浮かんでしまったただ、これだけは断言する。「民主主義とは、馬鹿で、無能で、卑しい、下層民の誇りを保証するものだ」と。それ以外の民主主義など、私はいらない。衆愚に堕落しない社会を作る努力は払い続けよう。そうした努力の合い言葉が「共感」である。「共感」は、私の大学停年の最終講義のテーマであった

 エドアルト・マイヤー『古代史』第3巻、『ペルシャ帝国とギリシャ人たち』(1901年)の言葉は重い。

 ペルシャ人がギリシャに対して勝利していたら、彼らは土着宗教の権威を借りていたであろう。土着の祭司層を支配的地位に引き上げ、単一の教会(デルフォイ神殿)と首尾一貫した神学大系が編纂されていたであろう。

 「外国人支配、教会、神学の同盟は、ここギリシャでも、国家とともに、人間生活と人間的活動」を永久に妨げたであろう」(マイヤー)。

 多くの地域にとって、支配は外部からくる。そして、必ず、地域内の抗争に苛立ち、外部の力を導入することによって、内部の抗争に勝利しようとする層が出てくる。新たな支配者は、地域の旧支配者を守旧派、ドアを開けて自分をこっそりと導き入れてくれた層を改革者と呼んで持ち上げるであろう。外部の支配者は、自分を引き入れた層に権威をもたすべく、体系的な学問を授ける。それが、市民なるものを選別する機構となる。守旧派イコール馬鹿というイメージが作り出され、市民はかぎりなく権威にすり寄り、改革者を装う。改革派の権威が弱くなる恐れが出てきたとき、権威は宗教を巻き込む。宗教も学問もひたすら体系化・儀式化が進行し、市民にすらなれなかった大衆が窒息する。いま明確にしなければならないことは、米国に媚びる日本の政治状況の構造である。また、ひたすら他国民を殺戮し、自らも殺されながら、良心に基づく反乱を起こさない最下層の兵隊たちの心理である。

 「市民的勢力と宗教的勢力との間の一般的な親和性は、両者の一定の発展段階において典型的に見られる現象あるが、・・・これら両勢力は、封建的権力に対する正式の同盟にまで強化されることもある」(マックス・ウェーバー『支配の社会学』(創文社、1962年)第2巻第7節「政治的支配と教権制的支配」)。

 封建的勢力を反体制組織と言い換え、市民的勢力を米国を導入する層と言い換え、宗教的勢力をキリスト教右派と言い換えて見れば、現在こそ、「マイヤー的世界」であることがわかるであろう。その意味において、権力機構の分析のない「市民社会論」ほど虚しいものはない。