消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

本山美彦 福井日記 89 笹森儀助

2007-04-03 23:26:21 | 言霊(福井日記)
 
 先述の、1894(明治27)年8月11日から9月25日にかけての、東大医学部による八重山諸島のマラリア調査は、笹森儀助の訴えを受けて、帝国議会が、1894年5月に、「八重山群島瘴毒排除建議案」を決議したことによる。「瘴毒」とは、熱病、つまり、マラリアのことである。

  調査結果は、1895(明治28)年の『官報』で、「八重山群島風土病研究調査報告」いう題で連載された。『東京医学新報』、『東京医学会雑誌』にも掲載された。三浦は予防のの必要性を説き、それを受けて、東京伝染病研究所の技師・守屋伍造(医学博士)が、1898(明治31)年12月から翌年にかけて八重山を調査し、「八重山風土病研究報告書」を『雑菌学雑誌』(第420号)に掲載している(三木健、同上書、20ページ)。

 笹森儀助は、幕末の1845(弘化2)年、弘前藩士・笹森重吉の子として生まれた。重吉は碌高(ろくだか)百石で藩の御目付役の要職にあった人物である。笹森は小姓組として藩主に仕えたが、廃藩置県後、青森県弘前支庁を皮切りに、県内各地で行政官として勤務している。

 1878(明治11)年、中津軽郡長に任じられたが、時の県令・山田秀典と政治路線上で対立し、1881(明治14)年、突如として辞任した。

 そして、笹森はかねてからの念願であった牧場経営に着手する。これには、若き日に師事した山田登の影響がある。山田は弘前藩士として富国強兵策を唱え、新田開発にも従事した人物である。

 笹森は、旧弘前藩士で政治的同志でもあり、第59銀行(現在の青森銀行)の創設者でもあった大道寺繁禎とともに農牧社を設立し、大農経営により牛馬を飼育する常磐野(ときわの)牧場を開設した。

 当時、県内各地には同様の大牧場が開設されているが、これらの多くは間もなく経営難に陥り、閉鎖の憂き目を見ている。笹森の常磐野牧場も同様であった。

 1890(明治23)年、農牧社を辞した笹森は、それからしばらくの間、西日本各地をはじめ、千島列島や奄美大島方面に旅行し、これら各地の産業や風俗などを詳細に調査している。これらの旅行視察記は、それぞれ『貧乏旅行之記』、『千嶋探検』、『南嶋探検』としてまとめられた。とくに、『南嶋探験』の学問的価値は今日に至るまで高く評価されている。また、これが機縁となり、1894(明治27)年8月には奄美大島島司に任命されている(明治31年辞任)。笹森の探検視察記には、このほかに『西伯利亜(シベリア)旅行記』、『咸鏡道(かんきょうどう)視察談』などがある。

 笹森は各地の探検、視察を終え、1901(明治)34年5月に帰郷するが、その時にはすで57歳になっていた。笹森は「引退」を願って帰郷したものと思われるが、翌、明治35年、青森市の第2代市長に選出された。市長としての在任期間は、1902(明治35)年5月から翌年12月までのわずか1年8か月に過ぎなかった。

 初代青森市長工藤卓爾(たくじ)の辞任後、青森市政は青森市選出の代議士の干渉などのため混乱し、また税の滞納が極度に多く、財政も逼迫(ひっぱく)の度を増していた。このような状況で市政を運営できる人物には、一党一派に属さず、公平無私であることなどが求められたが、その人物として、工藤は笹森を推薦したのである。

 市長としての笹森がまず着手したことは、県・市税の確実な徴収と財政の確立であった。税収は笹森の在任中に急速に改善され、1901(明治34)年度の滞納額が県・市税で2万4,000円余であったものが、1903(明治36)年11月にはわずか660円ほどになったとされる。

 笹森の第2の業績は私立商業補習学校(現在の県立青森商業高等学校)の開設である。

 
笹森は、かつて中津軽郡長時代に、旧弘前藩士が依然として生計の方向を立てないままでいることを批判し、授産事業の必要を説いた。青森市長として、青森市の将来を考えるとき、商業都市として発展することがもっとも望ましい方向であり、これを支える人材の育成が肝要であると考え、その機関の創設を求めたのである。

 しかし、当時の市の財政には余裕がなく、また、市の経済界の有力者の中にもこれに賛成する人は少なく、開設は容易ではなかった。しかし、笹森は決してあきらめることなく、県・学校関係・経済界などに訴え、村本喜四郎、樋口喜輔、大坂金助らの賛同を得ることに成功し、1902(明治35)年10月、私立商業補習学校(夜学)の開設にこぎつけた。そして、自らが初代校長として就任し、ときには教鞭を執ることもあった。

 笹森は「不言実行」の人で、いたずらに多言することがなく、市会においても寡黙であった。
 そのため、一部の市会議員から市会を侮辱するものとして攻撃されることもあったが、これは笹森の人柄を知らないことによるものであったと言ってよい。

 混乱していた市財政を立て直した笹森は、わずか1年8か月で市長を辞し、その後第59銀行監査役などに就いたが、1915(大正4)年9月29日、故郷の弘前にて71歳で逝去した(「あおもり・今・昔、67、68、笹森儀助とその時代、上、下」、『広報あおもり』2000年5月1日、15日号を参照)。

 前掲・三木健の著作によれば、笹森が田代に続いて八重山を訪れた人である。笹森は、1893(明治26)年5月から10月にかけて、沖縄本島、先島諸島(宮古、石垣、西表、与那国)の各地を踏査している。これらの見聞を記したのが、先の『南嶋探験(ママ)』(1994(明治27)年)であった。

 三木は言う。
 「彼の透徹したリアリズムと、近代化から疎外された島人に対する同上、そして国や県施策への批判は、その文体とも相まって、優れた記録となっている」(三木健、同上書、17ページ)。

 彼は、弘前藩で近代化への遅れに対する苦い経験から、同様の苦しみを味わう辺境の人々に熱い想いを託した。とくに、南の島々の人頭税とマラリアに苦しむ姿を放置していた政府や県への怒りを顕わにした。

 『南島探験』を柳田国男が激賞している。
 
周知のように、柳田は日本の民俗学を構築した巨人である。1875年(明治8)7月31日生まれ、1962年(昭和37)8月8日逝去、兵庫県が生んだ努力の人である。正式の名前はには、柳田國男(やなぎた・くにお)。読みは「やなぎだ」ではなく「やなぎた」である。

 柳田は、1920(大正9)年から1921(大正10)年にかけて南島の調査旅行を実施し、帰京した翌年の1922(大正11)年に「南島談話会」を結成している。メンバーは、上田萬年、白鳥庫吉、新村出、本山桂川、折口信夫、金田一京助であった。

 横道に逸れる。
 上田萬年(うえだ・かずとし、1867(慶応3)~1937年(昭和12)は、国語学者で、東京帝国大学文科大学長を務めた。円地文子の父。教え子に新村出、橋本進吉らがいる。また、文部省専門学務局長や、1908年に設置された臨時仮名遣調査委員会の委員等を務めた。1908年帝国学士院会員(ウィキペディア)。

 白鳥庫吉(しらとり・くらきち、1865(元治2)~1942(昭和17))は、東洋史学者、東京帝国大学教授。邪馬台国北九州説の提唱者として有名。弟子に津田左右吉など。外交官、政治家の白鳥敏夫は甥。東宮御学問御用掛として東宮時代の昭和天皇の教育にも携わった。同時期の著名な東洋学者で「東の白鳥庫吉、西の内藤湖南」、「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と並び称せられた京都帝国大学(現京都大学)の内藤湖南教授が邪馬台国畿内説を主張。後に東大派と京大派に別れ激しい論争を戦わせることとなる。全著作が「白鳥庫吉全集」全10巻として岩波書店より刊行されている(ウィキペディア)。

 新村出(しんむら・いずる、1876年(明治9)年~1967(昭和42)年)は、言語学者、文献学者。京都大学教授・名誉教授で、ソシュールの言語学の受容やキリシタン資料研究などの日本人の草分けであった。「出」という名は父親の関口隆吉が山口県と山形県の県令であったことから「山」という字を重ねて命名された。息子の新村猛とともに、広辞苑の編纂者として有名。新仮名遣いに反対し、「広辞苑」の前文を新仮名遣いでも旧仮名遣いでも同じになるように書いた。また形容動詞を認めないため、「広辞苑」には形容動詞の概念がない。

 本山桂川(もとやま・けいせん、1888(明治21)年~1974(昭和49)年)は、柳田國男らと同時代の民俗学者として活躍した人物だが、従来民俗学界全体の中であまり評価を受けることもなく、その著『與那國島圖誌』や『日本民俗圖誌』などが注目される程度であった。

 桂川は、長崎市江戸町に生まれ、本名を豊治という。父の雅号桂舟に因んで、桂川と号した。勝山尋常小学校を卒業し長崎商業学校に入学するが、この時期俳句を作ることを覚えたという。早稲田大学卒業後は長崎商業会議所に勤める傍ら『土の鈴』を刊行するが、郷土雑誌としては、最も早い時期の創刊であった。またこの頃、田中田士英を中心とする句会に参加している。1923(大正12)年、一家をあげて上京することになるが、両国駅止めで送った荷物を関東大震災により失ってしまう。その直後10月から半年間をかけて関西から九州、沖縄方面への旅に出、その折のことをまとめた『與那國島圖誌』は柳田國男監修の爐邊叢書の1冊に加えられている。

  昭和3年には、ガリ版刷りで「民俗研究」の刊行を始め、50輯まで続く。雑誌としては土の鈴、民俗研究の他に、趣味之土俗叢書・人文・信仰民俗誌・海島民俗誌・談叢・史譚と民俗など、単行本では、閑話叢書・日本民俗叢書・人物評伝全集などの編集に関わっている。

  1945(昭和20)年には、戦災により全てを焼失する。焼け跡にただ呆然と佇んでいたというが、この罹災が桂川をして金石文化探究への道を歩ませることになる。

  1950(昭和25)年からは『金石文化の研究』を10集まで刊行し、その後も月刊『金石文化』、『金石文化復刊』を出している。

  戦後全国を旅して手拓した成果は、文学碑めぐり等の著作としてまとめられている。対象とする分野は何であれ、得られた成果を自ら編集して刊行するという姿勢は終生続いた。

 桂川のガリ版刷りの雑誌『民俗研究』」第22輯、下総八幡市の特集号がユニークである。市内八幡の葛飾八幡宮で毎年9月に行われる農具市(通称ボロ市)については、非常に盛況な市であったという記述や伝承はあるものの、その具体像を示すような資料は見いだし得ていなかった。ところが桂川は昭和5年の市を前後8日間に亙って調査し、露店923店舗についてその種類と配置を全て克明に図示し、小屋掛けの方法までも種類別に記録した。奥付の、発行所である日本民俗研究曾は市川町となっていた。他の号の、編集後記である「三畳の書斎から」では、1929(昭和4)年3月には市川町町議会議員選挙に立候補して当選したという記述がある。しかし、桂川の旧住所地には何の痕跡もない。

 桂川に関する記述は、小泉みち子、「本山桂川-その生涯と書誌-」に依拠した。同氏は、桂川の膨大な著作一覧を作成している(http://www.city.ichikawa.chiba.jp/net/kyouiku/rekisi/rekihaku/ronbun/koizumi/koizumi96.htm)。

 折口信夫(おりくち・しのぶ、1887(明治20)年~1953(昭和28)年)は、日本の民俗学、国文学の研究者。釈迢空(しゃく・ちょうくう)と号して詩歌もよくした。自らの顔の青痣をもじって、靄遠渓(あい・えんけい=青インク)と名乗ったこともある。

 大阪府西成郡木津村(現在の大阪市浪速区敷津西町)にあった生家は、生薬や雑貨を扱う商家で、代々当主は医を兼ねていた。1900(明治33)年、大和の飛鳥坐神社を1人で訪れた折に、9歳上の浄土真宗の僧侶で仏教改革運動家である藤無染(ふじ・むぜん)と出会って初恋を知ったと言われている(富岡多惠子『釋迢空ノート』岩波書店、2000年)。

 富岡によると、迢空という号は、このとき無染に付けられた愛称に由来している可能性があるという。1904(明治37)年、天王寺中学の卒業試験にて、英会話作文・幾何・三角・物理の4科目で落第点を取り、原級にとどまる。この時の悲惨さが身に沁みたため、後年、教員になってからも、教え子に落第点は絶対につけなかった。同じく後年、天王寺中学から校歌の作詞を再三頼まれたが、頑なに拒み続けた。

 1905年(明治38)年、天王寺中学を卒業。医学を学ばせようとする家族の勧めに従って第三高等学校受験に出願する前夜、にわかに進路を変えて上京し、新設の国学院大学の予科に入学。藤無染と同居。約500首の短歌を詠む。1907年(明治40)年、本科国文科に進んだ。この時期国学院において国学者三矢重松に教えを受け強い影響を受ける。また短歌に興味を持ち根岸短歌会などに出入りした。1910年(明治43)年卒業。卒業論文は「言語情調論」。

 卒業後、大阪に帰り、府立今宮中学校の教員(国漢担当)となる。教職のかたわら国文学、民俗学に興味を持ち、「三郷巷談」を柳田國男主催の『郷土研究』に投稿してその知遇を得る。1914(大正3)年、同校を退職し、多数の教え子を引き連れて上京。1917(大正6)年、郁文館中学校に職を得るが、夏季休暇中に九州へ調査旅行に出かけたまま新学期が始まっても戻って来ず、無断欠勤が1か月に及んだため免職となる。1917年、『アララギ』に参加。選歌などを担当する一方で、国学院大学内に郷土研究会を創設するなどして活発に活動する。

 1919(大正8)年、国学院大学臨時講師就任。1922年(大正11)年、専任講師を経て教授に昇進。1924(大正13)年よりは慶應義塾大学講師を兼任し、のちに同校教授となって以降、死ぬまで両職にあった。この時期から折口の思索は飛躍的に深まり、民俗学、国文学、神道思想を融合した独特の「折口学」の世界を切り開き、文学史、芸能史、民俗学、国語学、古典研究、神道学、古代学などの分野で優れた成果を挙げる。またこの年には『アララギ』を去って北原白秋らと歌誌『日光』を創刊。1925(大正14)年、処女歌集『海やまのあひだ』を上梓し、歌壇においても地歩を占めた。

 1934(昭和9年)万葉集研究によって文学博士号を取得。日本民俗協会の設立にかかわり、幹事となる。

 幼少期から歌舞伎や落語に親しんだ。とくに、歌舞伎の造詣は深く、評論随筆集『かぶき讃』には、折口自身が贔屓にしていた初代中村魁車、二代目実川延若の芸が仔細に書かれており、上方歌舞伎の貴重な資料である。

 1953(昭和28)年死去。養子として迎えた折口春洋(戦死)とともに、石川県羽咋市一ノ宮町にある墓に眠る。

 柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた。芸能史、国文学を主な研究分野とするその研究は「折口学」と言われる。その業績はマレビトとヨリシロに集約されうる。すなわち、国文学の起源を祝詞や呪言に求め、さらにそれらがマレビト信仰に基づくものとした。また聖なる霊魂をヨリシロによって呼び寄せることによって、人間は神秘的な力を身につけられるとし、天皇は天皇霊を身につけた人物であると読み解いた。また、折口には天照大神を男神とする説がある。

 現在も民俗学のみならず、日本文化論や日本文学研究等、かれの研究成果に負う分野は少なくない。しかし、マレビトなどの根本概念がきちんと定義されていないなど、独創的、詩的に過ぎて学問的客観性や厳密性に欠けるとの批判も、民俗学が厳密化するにつれて大きくなっている。

 柳田が民俗現象を比較検討することによって合理的説明をつけ、日本文化の起源に遡ろうとした帰納的傾向を所持していたのに対し、折口はあらかじめマレビトやヨリシロという独創的概念に日本文化の起源があると想定し、そこから諸現象を説明しようとした演繹的な性格を持っていたとされる。柳田が科学者的であったとするなら、折口は文学者的であったといえよう。このような師弟関係は科学者的なフロイトと芸術家的なユングのそれにも対比できよう(ウィキペディア、この稿はとくに優れている)。

 三島由紀夫の短篇『三熊野詣』に登場する国文学者藤宮や、舟崎克彦の長篇『ゴニラバニラ』に登場する民俗学者折節萎(おりふし・しぼむ)は折口がモデルと言われている。その性癖には柳田は批判していたと言われている(同上)。

 金田一京助(きんだいち・きょうすけ、1882(明治15)年~1971(昭和46)年)は、アイヌ語研究で知られている日本の言語学者、民俗学者。國學院大學教授を経て東京帝国大学教授となる。日本学士院会員。盛岡市名誉市民。石川啄木の盛岡中学時代の先輩で親友。啄木に金をよく貸したことでも有名。長男の金田一春彦、孫の金田一秀穂も言語学者。1954年に文化勲章を受章。アイヌ研究の第一人者として知られるが「滅びゆく民族の記録を行う」といった姿勢であったことから批判もあった(ウィキペディア)。

 話を戻す。
 笹森は、放浪旅行に出発したのは、1893(明治26)年5月10日であった。家族と水盃を交わしたという。東京で、まず田代安定から南の事情を聴いた。

 「マラリアの有病地では、薬もないまま座して死を待つ人々の惨状を、怒りを込めて書いている。また、『南島探験』には、八重山発の西洋医である崎山寛好(さきやま・かんこう)の「八重山熱記」を、付録として収録する熱の入れようである」(同、18ページ)。

 笹森は、帰郷後、マラリア救済方法を直ちに講じるように、明治政府に「意見書」を提出している。

  笹森の『南島探験』が柳田国男に与えてた衝撃は大きかった。
 「此書の刺戟は相応に大きかった。此書を精読した人が、現在の南島談話会を創立したと言っても大差ない」と書いている(三木健、同上上、17ページより転載)。

 ちなみに、本山桂川が石垣島にやってきたのは、1933(大正12)年であった。さらに、翌年、2か月にわたって与那国島を取材し、これが柳田の『炉辺叢書』の1つで桂川の代表作となった、『与那国島図絵』であった。

本山美彦 福井日記 88 田代安定

2007-04-02 22:39:45 | 言霊(福井日記)

 沖縄の南方、八重島諸島を本格的に調査したのは、反骨の植物学者、田代安定(たしろ・あんてい、1856(安政4)年~1928(昭和3)年)であった。反骨というのは、中央政府役人でありながら、政府の南進論を強烈に批判して、罷免されたことを見ても分かる。とにかくことごとく、中央政府と対立していた。



 田代は、3回、八重島を調査している。最初は、1882(明治15)年4月。農商務省の命令で、マラリアの薬となるキニーネを得るための「機那の樹」(キナノキ)の試植をするための来島であった。

 ここで、閑話休題。キニーネ(quinine)についての蘊蓄。
 人類が発生して約200万年、その間に約800億人の人間が生まれたと推測されている。その人類の死因で、これまで一番多いのは、ペストでも戦争でもなく、マラリアであったのではないかとの説が有力である。マラリアは病原体(マラリア原虫)をもった蚊に刺されることによって感染し、現在でも感染者は約3~5億人。年間100万人以上がこの病気のために亡くなっていると推定されている。現在は、熱帯地域での流行に限られているが、明治時代には、先島諸島にも蔓延していた。

 長いことマラリアの唯一の特効薬であったのが、アカネ科の樹木「機那の木」から得られる「キニーネ」であった。

 南米の原住民は、古くから、アンデスの高地に生えるキナの樹皮がマラリアに有効であることを知っていた。西洋人がこれを知ったのは1630年頃で、イエズス会の宣教師がこれを用いて治療活動を行っていたとされる。

 18~19世紀になって、列強が、植民地を求めて南下してくると、キナ皮の需要は一気に高まった。英国人がインド経営に成功したのは、彼らが毎日ジントニックを飲んでいたからだという話もある。トニックウォーターはキナのエキスを含んでおり、その苦味はキニーネの味である。ただし、この話は眉唾である。キニーネの価値を大げさに表現するためのたとえ話であろう。

 キナ皮から薬効成分であるキニーネを純粋に取り出すことに成功したのはフランスのペレティエ(Pelletier)とカヴェントウ(Caventou)である。1820年のことである。しかしキナの樹皮だけでは高まる一方のキニーネ需要を満たすことはできず、1850年代には「キニーネの人工合成に成功した者には4000フラン」という懸賞がかけられた。

 これを聞いて一攫千金の野心に燃えたのが英国人、パーキン(William H. Perkin)であった。当時わずか18歳という少年化学者であった。1856年、彼はキニーネの人工合成に着手した。



 キニーネの化学式はC20H24N2O2である。アリルトルイジンの化学式はC10H13Nだから、これを2倍して水素を2個取り去り、酸素を2個加えればキニーネの化学式になる。水素を除いて酸素を加えるのは酸化反応だから、アリルトルイジンを酸化剤(二クロム酸カリウム)と加熱してやればキニーネになるかもしれない、と考えたのである。

 しかし、 原子数を合わせるだけでしかない計画は無謀そのものであった。事実、失敗した。1856年と言えば、まだ有機化学の黎明期で、構造に関する知識など何もない時代であった。ベンゼンの正しい構造が提案されるのが1865年、炭素の正4面体構造が提唱されるのが1874年であった。彼のこの素朴な計画もやむを得ないことではあった。泥のような赤褐色のタールの山ができただけであった。

 パーキンは、あきらめずに、もっと単純なアニリンを同じように酸化してみた。しかしここでも、できたのはさらに汚い真っ黒の固体であった。彼はやむなくこれを捨てようとフラスコを水とアルコールで洗い流そうとした。ところがここで、彼はこの洗液が美しい紫色をしていることに気づいた。試しに手近な布をそれに浸してみたところ、布は鮮やかな紫に染まった。紫の天然染料は極めて高価で、そのためこの色は古来王者の象徴とされてきたほどである。このタールはその安価な代用品になるのではないか、とパーキンはひらめいた。世界初の人工染料、「モーブ」(mauve)の誕生の瞬間であった。同時にこれは、化学工業の時代の幕開けを告げる出来事でもあった。

 アニリンとトルイジン4分子が酸化縮合し、紫色のモーブができる。彼にとって、幸運だったのは、彼が使ったアニリンにはトルイジン(メチル基がひとつ余計についている)が不純物として混入しており、これがモーブの生成に必要なものであったことである。彼は、この人工染料を工業化して大成功を収めた。この後、パーキンは、アカネ色素アリザリンの人工合成にも成功し、紫に続いて赤い色素をも世界に提供することになった(1871年)。

 BASF、チバガイギー(現ノバルティス)、ヘキスト(現サノフィ・アベンティス)、ICIなどの巨大化学メーカーがいずれもアニリン染料の開発からスタートした会社であることを思えば、若きパーキンの発見が与えた影響の大きさが分かる。

 経済的に大成功したパーキンは、36歳で工場を売り払って、化学の世界に戻り、人工香料「クマリン」の合成、「パーキン反応」(アルデヒドとマロン酸から桂皮酸を作る反応)の開発などの成果を挙げ、化学史に不朽の名を残した。英国化学会の有機化学部門の機関誌は、長らく彼の名を記念して「Perkin Transaction」と名付けられていたほどである(2003年からOrganic & Biomolecular Chemistryに改称)

 パーキンの試みから半世紀を経た1908年、ドイツのラベ(Rabe)によってついに本物のキニーネの構造が解明された。しかしその複雑な構造はまだまだ当時の化学者の手に負えるものではなく、これをより簡単にした代用品の開発が進んだ。中でもクロロキンは赤血球にとりついたマラリア原虫にも強い効果を示し、魔法の薬とまで讃えられることになった。

 しかし現在では、クロロキン耐性を持った原虫が多く発生しており、今ではこの薬が有効な地域の方が少ないとまで言われている。その後、メフロキン、さらにアルテミシニンなどの新薬が次々に投入されたが、これらもすでに耐性原虫が出現している。

 本物のキニーネの化学合成は、構造決定の後も長いこと化学者の夢であり続けた。この壁を打ち破るには、さらに36年の科学の進歩が必要であった。そして、ついに、一人の天才、ウッドワード(Robert Burns Woodward)が成功した。彼は、後に20世紀最大の有機化学者と呼ばれることになった(http://www1.accsnet.ne.jp/~kentaro/yuuki/quinine/quinine.html)。

 話を元に戻そう。
 田代の第2回目の来島は、1885(明治18)年であった。ロシアの大学院で植物学を学んだ後、帰国前にフランスに立ち寄った際、フランスが台湾の占領を画策し、マイコ諸島(宮古の訛り)にフランスの基地とマラリア対策病院を作れとの主張がフランスの新聞に掲載されていたのを見て驚愕し、早速、日本政府に訴え、当時の沖縄県令の西村捨三の援助の下に八重島調査をにい10か月かけた。『八重山群島急務意見書』、『八重山物産繁殖之目途』、『八重山県下先島廻覧日記』、『八重山嶋調始末内篇』、『八重山嶋調始末外篇』に、調査結果が記されている。



 1886(明治19)年、職を罷免された。第3回調査は、1906(明治39)年である。その結果を、「南波照間物語」(『東京人類学雑誌』、1908(明治41)年)に発表している(三木健、『八重山研究の歴史』(やいま文庫⑤)、南山舎、2003年、14~16ページ。同氏は1940年石垣島生まれ、この著書執筆時には琉球新報専務)。

 この論文は、大きな影響を後進に与えた。人頭税を逃れて南の楽土を求める村人の伝説を追ったものだからである。沖縄研究の先駆者たちは、権力の無慈悲さへの怒りを共有した。

 田代は、自己宣伝を拒み通した人であったという。薩摩の藩校、造士館でフランス語を学んだ田代は、在校中に、学生でありながら助教員を兼ねるほど上達が早かった。しかし、助教員を勤めたことは隠していた。

 また後年、ロシアの科学アカデミーの会員になったが、これも親しい人にさえ漏らさなかった。没後、遺品の整理を託された松崎直枝(植物学者、元小石川植物園園長、白木蓮に泰山木の字を当てたことで著名)は、役所から取り寄せた履歴書を見て初めてこれらのことを知ったという。東京大学から博士号を贈る話が持ち上がった時も断ったとも言われている。

 1875(明治8)年4月、内務省の雇員に採用され、博物局の掛となった。博物局は、一次産業の振興を任務とする役所で、日本国内にどんな資源があるかを調査し、国民に知らせる使命を帯びていた。田代はこの役所に入って植物学の知識を身に着け、内外の植物を調査した。しかし、田代は植物学だけでは満足しなかった。松崎直枝によると、後の田代は人から植物学者と呼ばれることを嫌い、政治学者をもって自ら任じていたらしい。

 長らく身を置いた官界では、出世できなかったが、植物分類学の発展には大きく寄与した。没後数年を経た1934(昭和9)年に、当時の東京小石川植物園の技師だった松崎が、雑誌『伝記』に寄せた一文は、「隠れたる植物学者/田代安定翁を語る」という題であった。



 1884(明治17)年、先述のように、田代は農商務省からロシアに派遣された。ペテルスブルクで開かれた「万国園芸博覧会」の事務を担当するためである。この時、マキシモヴッチの知遇を得て、日本最初の植物分類書である飯沼慾斉の草木図説の内容をフランス語でマキシモヴィッチに説明した。マキシモヴィチは、田代の該博な知識に驚き、ロシア学士会会員に推薦した。また、田代はロシア政府から勲章を授けられた。

 清仏戦争で、フランスが台湾を狙っていると知り、急ぎ帰国すると政府に南西諸島が危ないとばかりに調査を訴えた。そして、1885(明治)18年に一人で八重山諸島に出かけたのである。この調査で、沖縄の結縄文字(縄で数を表記し計算する文字)の研究や、現在標本1体しか見つかっていない幻の鳥ミヤコショウビンの発見も行っている。

 そして、これらの成果を元に、政府に開拓案を提出するのだが、否決されてしまう。当時は、八重山を中国に割譲する案さえあったとのだから(既述)、政府の関心は低かったのだろう。何より新政府の基盤固まらぬ中、政府には、余裕がなかったのである((58)八重山・台湾研究の先駆者田代安定、homepage2.nifty.com/tankenka/sub1-58.html)。

 国内外における田代自身の植物調査は、郷里の鹿児島県、それに沖縄県が主な舞台だった。また、いったん官吏を辞めた後、東京大学の委嘱により南海諸島の植物学および人類学的調査を担当し、その後、軍艦に便乗してハワイ、サモア、ファンニング、フィージー、グワムで熱帯産業の調査に当たった。それぞれ報告書を作成している。

 1896(明治29)年、台湾総督府に技師として勤め、ここでも現地植物について報告書を残している。

 死後、長年勤務した台湾では、現地の人々の手によって記念碑が建立され、伝記も出版された。「故田代安定翁功績表彰記念碑建設発起人会」が台北で出版した、永山規矩雄編『田代安定翁』は、田代の出身地である鹿児島県の図書館でガラスケースに特別保管されている(伊東紀、「田代安定への悪意」、http://www.venus.sannet.ne.jp/tigers/makino/tashiro/list.html。同氏は、『日本語の来た道』の著者)。

 田代に続いて、この地域のマラリア調査が、東京帝国大学・医科大学・病理教室の三浦守治(1857(安政4)年~1916(大正5)年)らを中心とするメンバーによって行われた(三木健、同上、13ページ)。1894(明治27)年から翌年にかけての調査であった。

 三浦守治は、磐城国御木沢村に生まれ、1881(明治14)年に東大医学部を卒業した。翌82年、ドイツに留学し、ライプチヒ大学およびベルリン大学で病理学を研究した。87(明治20)年に帰国し、教授となり、病理学と病理解剖学を担任した。1911(大正元)年に退官した人である(東京大学所蔵肖像画・肖像彫刻、http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1998Portrait/03/03200.html#075)。

  彼は、再度、役職を解かれて帰郷途中に心臓発作で逝去した。



 田代の代表作は、『沖縄結縄考』、長谷部言人校訂、至言社、1945昭和20)、1977年復刊)と考えてよいだろう。

本山美彦 福井日記 87 サンシー事件

2007-04-01 23:23:26 | 言霊(福井日記)

 サンシー事件」とは、1879(明治12)年4月、琉球藩の廃止、琉球藩主であった元琉球王、尚泰(しょう・たい)の退位、首里城の明け渡しを明治政府が迫ったことへの島民の抗議行動のことである。宮古島で起こった。

 たびたび言及するが、1872年(明治5)の琉球藩の設置は、琉球王を琉球藩の藩主にして、日本の華族に列し、天皇の臣民とした意味をもっていた。

 この年、明治政府は、鹿児島県を通じ、琉球王国に日本領に入ることを要請した。そして、同年9月14日、国王尚泰を琉球藩王となし、華族に列する旨の詔文を下した。これが、琉球藩の設置と言われるものである。これによって、それまでは、鹿児島県(薩摩藩)の管轄下にあった琉球は、明治政府の直轄下に移されたのである。

 新しく設置された藩王と、それまでの摂政(シッシー)・三司官(さんしかん)の任免権も、明治政府によって掌握された。

 
摂政は本土の摂政職に近いが、ほぼ常設の官職である。国王を補佐し、三司官に助言を与える役目というのが建前であったが、通常は儀礼的な閑職であった。王子などの王族から選ばれた。

 三司官が、実質的な行政の最高責任者であり、宰相に相当する。3人制で投票により選ばれた。選挙権をもつ者は王族、上級士族ら200余名であった。王族には選挙権はあるが、被選挙権はなかった。三司官の品位は正一品から従二品で、士族が昇進できる最高の位階であった。漢訳で法司と言った(琉球王国、ウィキペディア)。

 また、明治政府は、1874(明治7)年、台湾での宮古島島民遭難事件に対する報復処置として台湾に出兵した。これは、明治政府と日本軍が行った最初の海外派兵で、牡丹社事件(ぼたんしゃじけん)、征台の役(せいたいのえき)とも呼ばれている。

 1871年(明治4年)10月、宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難、漂流し、台湾南部に漂着した。船には琉球の役人と船頭を併せて69名が乗っていたが、遭難時に3名が溺死していた。残った66名は先住民(現在の台湾原住民パイワン族)によって集落に連れ去られた。これは拉致ではなく、先住民が客人を接待する積もりだったのではないかとも言われているが、真相は分かっていない。いずれにせよ、12月17日、琉球人たちは、集落から逃走した。

 逃走に怒った先住民は、逃げた琉球人を捕まえ、54名の首を切った。逃げ延びた12名は、漢人の移民によって救助された。台湾府が、福建省の福州経由で、彼らを宮古島へ送り返した。明治政府は清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は拒否した。まだ国内を完全掌握していなかった明治政府は、事件を3年間放置した。

 この事件を知った清国厦門(アモイ)の米国総領事リ・ゼンドル(Charles William Le Gendre)が、駐日公使を通じて「野蛮人を懲罰するべきだ」と外務省に提唱した。

 外務卿・副島種臣(そえじま・たねおみ)がゼンドルと会談、内務卿・大久保利通もゼンドルの意見に注目した。明治6年政変で征韓論派を一掃して主導権を握った大久保利通は、台湾出兵を企画した。1874(明治7)年4月、「蕃地事務局」を設置し、長官に大隈重信(おおくま・しげのぶ)、陸軍中将・西郷従道(さいごう・じゅうどう)を事務局長に任命して、全権を彼らに与えた。

 英国公使ハリー・パークス(Harry Parks)は、出兵には反対であった。木戸孝允も、大久保が征韓論を否定しておきながら、同じ海外である台湾に出兵するのは矛盾であるとして反対の態度を崩さず、参議の辞表を提出して下野してしまった。しかし、政府は長崎に待機していた西郷従道率いる征討軍3,000名を、江戸幕府から引き継いだ小さな軍艦2隻で台湾南部に派遣、1874年5月22日に原住民を制圧し、現地の占領を続けた。

 ところが、明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益をもつ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。英国は、当初激しく反発したが、その後、英国公使トーマス・ウェード(Thomas Wade)の斡旋で和議が行われ、全権弁理大臣として大久保利通が北京に赴いて清国政府と交渉した結果、清が賠償金50万両(テール)を日本に支払うことと引き換えに、征討軍の撤兵が行われることとなった。

 日本と清国との間で帰属がはっきりしなかった琉球だったが、この事件の処理を通じて日本に帰属することが国際的に確定した。しかし清は納得せず、日本は先島諸島の割譲を申し出た。清は一度は同意したが、いざ条約調印の直前になると態度を翻し、琉球全域の領有を再度主張した。このため、琉球の帰属問題が完全に解決したのは日清戦争で日本が勝利してからである(台湾出兵、ウィキペディア)。

 それを機に1875年(明治8)、明治政府から琉球に派遣されていた松田道之処分官が琉球藩に対して以下の要請を行った。

 1)清国に対する朝貢使・慶賀使派遣の禁止、および清国から冊封(さくほう)を受けることを今後禁止すること。冊封とは、中国王朝の皇帝がその周辺諸国の君主と「名目的」な君臣関係を結ぶことである。これによって作られる国際秩序を冊封体制と呼ぶ(冊封、ウィキペディア)。
 (2)明治の年号を使用すること。
 (3)謝恩使(しゃおんし)として藩王(尚泰)自ら上京すること。

 1609年に薩摩藩の支配下に置かれた琉球王国は、江戸幕府を頂点とする幕藩体制に組み込まれ、幕府の将軍や琉球の国王が代替わりしたときに江戸へ使節を送るようになっていた。琉球王国から幕府に送られた使節は「慶賀使」と「謝恩使」の2つである。「慶賀使」は幕府の将軍が代わるたびに、「謝恩使」は琉球の国王が代わるたびに、派遣された。それぞれが約100人前後で構成され、これに薩摩藩の藩主や役人達も加えて全体で1,000人を超える一大行列となった。これが「江戸上り」である。

 江戸上りは第1回目の1634年から最後の1850年まで、200年あまりの間に18回実施されている。琉球と江戸の往復には、およそ1年前後を要した。一行は琉球から薩摩を経て伏見までを船で、伏見からは美濃路(第7回までは鈴鹿路)・東海道を経由して江戸までを徒歩で移動した。季節風を考慮して初夏に琉球を出発、準備を整えて秋に薩摩を出て、江戸で冬を過ごしたのち、翌春にようやく琉球へ戻るという旅程であった。

 おもな構成人員は正使(王子)・副使(親方)・掌翰使・楽童子などである。異国風の衣装に身を包み、琉球王からのさまざまな贈り物をたずさえ、にぎやかに楽器を演奏しながら行列していく様子は当時の人々の目を大いに引きつけた(琉球大学付属図書館、「江戸上り」、『文献で見る沖縄の歴史と風土』、http://www.lib.u-ryukyu.ac.jp/digia/tenji/tenji2002/m08.html)。

 通常、王子が務めるべき謝恩使を、王自ら務めよという明治政府の命令であった。琉球藩はこれらの命令を拒否し、嘆願を繰返したが、松田は1879年(明治12)3月27日、警官・軍隊の武力のもと、廃藩置県を行うことを通達した。ここに首里城は開け渡され、約500年間続いた琉球王国は滅び、沖縄県となった。

 明治政府の処分に不服を唱える琉球の士族たちの一部(脱清人)は、清国に頼って、事態を打開するように画策した。その後、日清両国の間で、先述のように、沖縄を2分割または3分割するという分島案が考えられた。しかし、結局まとまらず、琉球諸島に対する日本の領有権が事実上確定した(同上、「明治政府と琉球処分」、www.lib.u-ryukyu.ac.jp/biblio/bib35-1/bib35-4.pdf)。

 そして、1879年、「サンシー事件」が起こる。サンシーの言葉の由来には諸説あるが、沖縄の敵方である沖縄県政に「賛成(サンシー)する者たち」という意味ではなかろうかというのが有力である。

 同年4月、宮古島の島役場「在番仮屋」(ざいばんかいや)に首里から警官20名が訪れた。在番仮屋とは、旧王朝以来の島に設置された役所兼警察署である。これを廃止し、在番仮屋の代表は罷免するが、頭(かしら)と呼ばれたその他の官吏はそのまま明治政府が雇用するという事例を渡したいと警官隊は伝えた。しかし、頭たちは、全員、出頭しなかった。警官隊が到着する前に、宮古島の島民たちは、身分の上下を問わず、沖縄県の命令には従わないこと、その約束を破ったものは、「所払ひ」という流刑を課されることが取り決められていた。

 沖縄県は、在番仮屋を廃止し、代わって、「沖縄県警部派出所」を設けた。ところが、島民の士族の1人、下地利社(しもじ・りしゃ)という25歳の若者が、島民の取り決めを破って、通訳兼雑用人として、県の官吏の下僕となった。

 島民は、彼の家族(両親と弟)を伊良部島に「所払ひ」した。しかし、本人は警察署にいることもあって、島民は手出しできなかった。そうこうするうちに、本人の悪口を言っていた人妻を本人が捕まえ、警察署まで髪を掴んで引きずった。これを見聞した島民1,200人が警察の押しかけ、本人を捕まえ、外に引きずり回し、殺害した。

 急を聞きつけた那覇の警察は、48名を現地に急行させ、暴動の首謀者を捕らえた。その首謀者は、仲間を当局に売り、減刑を許された。

 下地の墓は、宮古島市西仲宗根の地にいまも建っている。これが、「サンシー事件」である。いまのイラクを彷彿とさせる事件であった。

本山美彦 福井日記 86 琉球処分

2007-03-31 23:41:13 | 言霊(福井日記)

 フリー百科事典『ウィキペディア』の「沖縄の歴史」は素晴らしい記述である。非専門家による自由な書き込みが、専門家だけによる歴史書を上回った好例である。

 「沖縄とは、琉球に対する日本本土側の呼称。琉球処分後、日本の領土であることを明確化するため、琉球から沖縄に呼称が改められ、今日では一般化している」という叙述にまず圧倒される。さらに続く。「古来中国では沖縄を『大琉球』、台湾を『小琉球』と呼称していたため、両者が史書等で混同されることも多かった」と。

 ウィキペディアは、沖縄の呼称の出典として、伊波普猷の後継者、東恩納寛惇(ひがしおんな・かんじゅん)、『南島風土記』沖縄文化協会・沖縄財団、1950年、16ページ、「地名『概説『沖縄』」を明記している。

 7世紀の中国の『隋書』に「流求」という表記がある。唐の『新唐書』で「流鬼」、『元書』で「瑠求」と書かれていた。そして、明時代になっていまの「琉球」の文字が見える。ただし、ここでの琉球がいまの沖縄を指すのかは分かっていない。

 14世紀、明と貿易する沖縄の王府が、自らを「琉球国」と呼称した。
 日本本土側では、鑑真の伝記、『唐大和上東征伝』(779年)に、「阿児奈波」という言葉が見られる。おそらく、いまの沖縄のことなのだろう。「沖縄」という文字は、新井白石が最初に使ったと言われている。『南島誌』(1719年)においてである。『平家物語』(長門本)にある「おきなは」の言葉に「沖縄」の字を白石が当てたとされている。平家物語には、読み本、語り本ごとに、いくつもの編纂本があり、長門本を白石が利用したものと思われる。

 1879(明治12)年、明治政府は、1872(明治5)年の琉球王国廃止・琉球藩設置を改め、琉球藩を廃して、沖縄県に編成替えした。この時、日本の中央政府が、「沖縄」という呼称を初めて用いたのである。

 沖縄の統一政府は、1429年、尚巴志(しょうはし)が首里城を王都にした時から始まる。

 
第6代尚泰久(しょう・たいきゅう、1453~60年在位)
は、それまで島であった那覇と本島を結ぶ長虹堤を建設した。この工事を円滑に遂行すべく、日本から天照大神を柱とする沖縄初の本土型神社「長寿宮」を建立し(1451年)、以後、「波之上宮」等の琉球8社を建立した。

 さらに、貿易立国を宣言する万国津梁之鐘を鋳造した。1470年に尚泰久の重臣、金丸(後の尚円王)が即位するまでを第一尚氏王統時代という。

 1470年に開始された、第二尚氏王統は、1477年に王位についた真嘉戸樽(まかとたる)時代に最盛期を迎える。この王は、第3代・尚真王(しょうしんおう、在位1465~1526年)として、活発な交易を行った。福建(福州)に拠点を置き、明との交易にいそしんだ。北方民族との戦に忙しい明に火薬の原料である硫黄や軍馬を輸出していた。

 この王は、女官が王と殉死する習慣を廃止、御獄信仰を中心とした宗教を整備した。御獄とは、地域によって異なるが、「うがん」、「おがん」、「うたき」などと呼ばれる島の聖地として、人々の信仰の場所、祭祀が行われる場所になっている。御獄の中には、お祭り以外は立ち入ることが禁止されていたり、木を切ったり、石を拾うことなども禁止されている箇所もある(美(ちゅら島物語、http://www.churashima.net/shima/hatoma/f_hatoma/1.html)。 尚真王は、刀狩りもしている。

 1609年、琉球は、薩摩藩の侵攻を受け、その支配下に入る。1610年、第二尚氏第7代尚寧は、薩摩藩主・島津忠恒(しまづ・ただつね)に伴われて徳川家康、秀忠に謁見、翌年、尚寧は、琉球に戻され、島津へ忠誠を誓う起請文を提出させられた

「掟十五条」によって、琉球貿易は薩摩藩の監督下に置かれることになった。王朝は薩摩への朝貢を義務づけられた。そうした重圧の下、琉球は、先島諸島の住民に人頭税を課すようになった。鎖国時代、薩摩藩は、琉球が行っている貿易の利益を搾取して潤った。

 そして、明治政府になって、いわゆる「琉球処分」が行われた。
 
1871(明治4)年、全国で廃藩置県を実施した明治政府は、1872(明治5)年、琉球王国を廃止して琉球藩を設置した。王府を日本の領土とする藩に変えたのである。これに清が反発。琉球は清領であると抗議。これに対して、明治政府は台湾出兵を行って対抗した(1874(明治7)年)。台湾人が琉球漁民を殺害したことへの報復、つまり、日本人殺害の報復という体裁を取ったものである。そして、1879(明治12)年、明治政府は、軍隊を琉球に派遣して、琉球藩を廃止して、鹿児島県に編入した。

 さらに、同年、沖縄県を設置、島民の抵抗を退けて、琉球を滅亡させた。この抵抗の中では、「サンシー事件」が有名である(後述)。琉球藩設置(王府廃止)から沖縄県設置までを「琉球処分」と島民は名付ける。琉球藩設置を「第一次琉球処分」、沖縄県設置を「第二次琉球処分」と区分している。

 清は、この処分に猛反発した。明治政府は、沖縄県設置の翌年、1880(明治13)年、先島諸島を清に割譲すると申し出た。しかし、一旦合意していた清が態度を変えて、その条約に調印せず、結局は、1894(明治27)年の日清戦争で、清は琉球の領有権を日本に認めさせられた。清が合意を翻した背景には、清にお亡命していた宮古・八重島島民の懇願が効をを奏したとも言われている(西里喜行、「琉球処分の前後」、『島のうつりかわり』、
www.napcoti.com/text/history/uturikawari.htm)。

 先島諸島は、明治政府には、島民の反抗にとって頭痛の種であった。とくに、人頭税廃止を求める島民決起集会が宮古島で開催され、1890年代に近代的法制を求める運動が高揚した(沖縄の歴史、ウィキペディア)。

 明治政府は、沖縄県の自治をほとんど認めていなかった。1888(明治21)年、本土では、地方自治を認める市制・町村制が施行されたのに、1889(明治22)年の勅令第1号によって、島嶼地域は、自治が認められず、県の支配下で、島庁が設置されることになった。

 沖縄でも、1896(明治29)年の勅令第13号「沖縄県ノ郡編成ニ関する件」によって、国頭(くにがみ)郡、島尻(しまじり)郡、中頭(なかがみ)郡、宮古郡、八重山郡の5つの郡が設置され、宮古郡と八重山郡には島庁と、その長である島司という職制が置かれた。島の自治など、はなから無視され、県の直接統治となったのである。また、那覇市の前身である那覇区、首里市の前身である首里区が置かれた。

 1907(明治40)年の勅令第46号は、沖縄に他の島嶼地域と同じく、「沖縄県及島嶼町村制」が示され、翌年の1908(明治41)年、それまでの間切(まぎり)が廃止された。

 間切というのは、琉球王国時代の行政区分の1つで、現在の市町村に相当するものであった。例えば、八重山諸島では、大浜間切、宮良間切、石垣間切の3つがあった。これらが、統合されて、八重山村になった。

 しかし、八重山諸島全体を1村にしたことはかえって不便を生じ、1914(大正3)年、八重山村は、石垣、大浜、竹富、与那国の4か村に分割された。この年、新たに誕生した竹富村の役場は竹富島に置かれていた。

 以後、24年間、竹富島が村行政の中心として機能していたが、竹富村に属する他の島々から交通が不便であるとの苦情が生じ、1938(昭和13)年、役場を石垣島の石垣町登野城に移転させた。いまでも、竹島町に属する島々(人が住む8つの島)に行くには、一旦、石垣島に渡る必要がある。

 1920(大正9)年、島嶼指定が解除され、本土なみの町村制が施行された(島嶼町村制、間切、ウィキペディア)。
 島の発展など、中央政府は意識していなかったのである。

本山美彦 福井日記 85 島の方言撲滅運動

2007-03-30 00:08:16 | 言霊(福井日記)

 沖縄学の創始者は、伊波普猷(いは・ふゆう)である。しかし、本当の創始者としての栄誉は、伊波の中学校時代の国語教師、田島利三郎に捧げられなければならない。田島先生がいなければ、沖縄学の伊波は生まれなかったかも知れないからである。

 1893(明治26)年、新潟県出身の田島先生は、沖縄に赴任した。琉球で師範学校の教師をしていた友人から、誰も研究していない琉球語の本が50冊ほどあるとの話を聞いたからである。先生の沖縄中学校時代の教え子に伊波普猷がいた。

 田島先生は、1900(明治32)年、「琉球語研究資料」を雑誌『国光』臨時増刊号付録に発表した。この論文は、はるか後に、『琉球文学研究』(第一書房)として1989(平成元)年に改題出版され、琉球文学研究の必読文献なっている(嘉手苅千鶴子、「21世紀の琉球文学研究」(http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/kyogikai/no43-p01.htm)。

 田島先生は、『おもろさうし』を研究した。これは、首里王府で編纂されていた神歌集である。「おもろ」とは、神、王、英雄、自然を歌ったものを指す。

 本土から赴任した中学教師の多くが沖縄の文化に差別感をもっていたが、田島先生は違った。生徒たちに沖縄文化のすばらしさを訴えていた。ところが、先に紹介した校長の児玉喜八が、生徒の前で、「皆さんは、標準語さえまともに話せないのに、英語まで勉強しなければならないのは気の毒だ」と語り、英語の授業をなくそうとした。それに反対した下国良之助・教頭と田島先生を校長は罷免しようとした。

 そこで、漢那や伊波が、校長追放運動に立ち上がったのである。戦いは学生側の勝利に終わったが、伊波は退学処分を受けた。1895(明治28)年のことであった。

 そこで、翌年の1896(明治29)年、上京し、明治義会中学に編入学、1897(明治30)年に卒業、3年のブランクを経て、1900(明治33)年、京都の第三高等学校に入学、1903(明治36)年、東京帝国大学文学科言語学専修課程に入学した。

 東京で、田島先生に再会し、強く沖縄研究を勧められた。政治家になろうとしていた伊波は、田島先生の沖縄への強い愛着に感動して、言語学の道に進路を変更したのである。「沖縄を知るには、まず古い言葉が分からなければならない」ことに気付いたからである(「沖縄県立図書館広報」、http://rca.open.ed.jp/city-2001/person/08iha/08iha_1.html)。

 伊波普猷は、1876(明治9)年、那覇市西村に生まれた。伊波3歳の時、1879(明治12)年に廃琉置県が行われている。琉球の帰属が日本になったことに清国政府が抗議し、それを受けて、なんと日本国政府は、翌年の1880(明治13)年に、宮古・八重島諸島、つまり、先島(さきじま)諸島を清国領とするという分割案を提出している。最終的には、日本は武力行使でこれら諸島を日本領とした。

 第二次世界大戦終結近くの1945(昭和20)年、米国のルーズベルト大統領が中国の蒋介石に、日本が敗戦すれば、沖縄を中国に帰属させようかと打診したとも言われている。

 ここで、日本の南西諸島の呼び名を紹介しておこう。
 
南西諸島は、九州の南方から台湾の東方にかけて点在する諸島の総称である。北から南へ、大隅諸島、トカラ列島、奄美諸島、沖縄諸島、宮古列島、八重島列島、尖閣諸島、少し離れて大東列島がある。学術的に確立した呼称はないのだが、一般には、鹿児島県に属する諸島が薩南諸島、沖縄県に属する諸島が琉球諸島と呼ばれている。琉球諸島には、沖縄諸島、先島諸島、大東列島が含まれる。先島諸島は、宮古列島、八重島列島、尖閣諸島から成る。

 この八重島列島から、石垣島、与那国島、尖閣諸島を除く諸島が竹富町である。この町に属する主な島々は、西表(いりおもて)島、竹富(たけとみ)島、小浜(こはま)島、黒(くろ)島、波照間(はてるま)島、鳩間(はとま)島である。後に紹介するが、竹富町の役場は、なんとこれら諸島ではなく、石垣島に置かれている。つまり、自己の島々の外に役場がある。1938(昭和15)年に、竹富島に置かれていた竹富村役場が石垣島の石垣町に移転したのである。そして、1948(昭和23)年7月1日に竹富町になった(ウィキペディア、竹富町)。

 話を戻そう。
 1903(明治36)年、200年続いた人頭税がようやく廃止された。日本国政府は、琉球王朝を廃止したのに、その後、24年間も人頭税を沖縄に課していたのである。これだけでも、沖縄が本土によっていかに差別・搾取されていたかが分かるだろう。島民は芋ばかり食していた。裸足の生活であった。台湾に出稼ぎに出る島民が多かった。ここで、島民の芋にまつわる哀しいエピソードを紹介しておこう。

 1921(大正10)年、第一次世界大戦後の欧州の復興を学ぶべく、皇太子時代の昭和天皇の欧州外遊が決まった。皇太子が乗る船は「御召艦」と呼ばれた。この御召艦が、「香取」で、漢那憲和(当時海軍大佐)が艦長であった。漢那は貞明皇后に、外遊の途中、沖縄に寄港していただけないかと懇願した。皇后は賛成し、皇太子も快諾した。同年、3月3日、艦隊は横浜港から出発し、3月6日、沖縄の中城(なかぐすく)湾に入港投錨した。

 中城湾一帯は、景観に恵まれ、古くは貝塚時代(約3,500年前)から人が住みついていた。琉球王朝時代の中城間切(まぎり、琉球王朝の行政区域で、いまの村に当たる、後述)には、護佐丸や中城城などの歴史を彩る人物や史跡が登場し、琉歌にも、

 「とよむ中城 吉の浦のお月 みかけ照りわたりて さびやねさみ」
 とある。

 現代語に訳せば、「世に名高い中城城から、吉の浦を眺めると、月が美しく照り渡り、何と平和なことか、災いなどあろうはずがない」となる。

 1853(嘉永6)年、黒船でペリー提督一行が沖縄に立ち寄った際、中城城を測量し「要塞の資材は石灰岩であり、その石造建築は賞賛すべき構造のものであった」と『日本遠征記』に記されている。琉球石灰岩を使った城壁は、沖縄では唯一完全に近い形で残された貴重な遺跡で、1972年5月に国の史跡に指定されていて、いまは世界遺産にも登録されている。

 申し訳ない。再度、横道に逸れる。
 上に記した護佐丸(????年~1458年)というのは、護佐丸盛春(ごさまる・せいしゅん)、唐名は毛国鼎(もうこくてい)のことである。15世紀の琉球の按司(あじ、宮家のこと)で、恩納村(おんなむら)出身である。

 中山(ちゅうざん)王尚泰久(しょうたいきゅう)(琉球王府)を脅かし始めた勝連城(かつれんぐすく)城主の阿麻和利(あまわり)の侵攻に備えて、護佐丸は中城城の兵力を増強していた。ある日、阿麻和利は変装して首里城に登り、「護佐丸が謀反を企てている」と王に讒言した。王は阿麻和利の言を信じ、中城城攻略を阿麻和利に命じた。1458年8月15日の夜、護佐丸が月見の宴の最中に、阿麻和利は王府の旗を揚げて中城城を攻撃した。王府への忠誠心に篤かった護佐丸は手向かうことができず、幼児だった三男の盛親のみを乳母に託して落ち延びさせ、妻子もろとも自決した。その阿麻和利も、その後には結局、王府軍に攻められて滅びてしまった。この乱は、後に「組踊り」などの題材にも取り上げられ、2005(平成)7年に開催された第一回中城城祭りにおいて、中城村の伝統芸能である組踊「護佐丸」が52年ぶりに上演された(http://www.vill.nakagusuku.okinawa.jp/content/castle/index.html)。

 組踊りとは『音楽、舞踊、台詞で構成される音楽劇』である。沖縄に古くから伝わる伝統芸能で、日本本土でいうところの能や歌舞伎のようなものである。実際にこれらの影響を強く受けている。それでも、音楽は沖縄の三絃(さんげん)を中心としたもの、舞踊は琉球舞踊、台詞も沖縄の言葉を使い、物語の構成なども独特で日本本土の芸能とはかなり雰囲気が違っている。今、100位の作品が確認されている。沖縄各地域の歴史や言い伝えなどを題材にしていて、とくに仇討ち物が数多くある。出演者は、最初に演じられた琉球王国時代はすべて男性であった。現在でもやはり男性が多いが、女性役などを女性が演じたりすることもある。逆に箏の演奏者は圧倒的に女性である。組踊りは、国指定の重要無形文化財に指定されていて、その技能保持者やそれに続く技能伝承者の公演が年に一回行われる。その他には不定期でいろいろな団体やグループ単位での公演が行われている(http://www2.odn.ne.jp/kanimachi/kumi/kumi-f.html)。

 さて、また、元に戻ろう。
 皇太子一行は、与那原(よなばる)駅から那覇駅まで列車で、那覇駅から人力車で沖縄県庁に向かうことになった。人力車の車夫選定は、一行到着の2、3か月から行われた。当時、沖縄本島には、900名ほどの車夫がいたと言われている。皇太子を乗せる人力車の車夫には、玉城という人が選ばれ、人力車の後押しとして、在郷軍人で金鵄勲章(きんしくんしょう、戦前の日本において大日本帝国陸軍・海軍の軍人、軍属に対してのみ授与された唯一の勲章。名前の由来は神武天皇の東征における伝説に基づく)を受けた2名が選ばれた。

 ここからが、哀しいエピソードである。当時の島民の多くは3食ともに芋であった。芋は「おなら」(屁)を作り易い。皇太子におならを放(ひ)ることは不敬に当たるとして、車夫たちは、県庁内での2週間に及ぶ合宿生活で、芋食ではなく米食を与えられた。県庁で、皇太子は有位有勲者から拝謁された。その中には、漢那の母、オトもいた。車夫の玉城は、一躍人気者になり、那覇港築港の現場監督に抜擢された。

 漢那憲和は、次のように記した。
 「余は、青春時代の羨望の的であった帝国海軍の将校として、今や郷国の海湾に、我が日本帝国のお若い殿下のお召艦『香取』を浮かべる時期に遭遇しては、感慨の尽きるところを知らなかった。しかも、そこには余を少年時代より、か弱き女の手塩をかけて育て上げた余の母が待っていたのである。思えば涙の滂沱(ぼうだ、涙がとめどなく流れるさま)たるものがあった」(「沖縄に軍艦旗ひるがえる、『沖縄』に尽瘁した漢那憲和の献身」、http://navy75.web.infoseek.co.jp/return8kanna.htm)。

 廃藩置県(1879、明治12年)から10年後の1889(明治22)年、大日本帝国憲法が発布され、形の上では、島民も琉球人から日本人になった。

 
永年、日本と中国の両国に帰属することを余儀なくされ、台湾と往来していた南の島民にとって、人為的に作られた、国とか国民といった概念は迷惑なことであっただろう。

 にもかわらず、強引な本土化が進められた。尋常小学校では、島言葉が禁止された。「方言絶滅運動」が本気で展開されたのである。方言を使えば、小学生は、「方言札」をつけさせられた。標準語を話すようになるとその札は外された。子供たちに言葉上の差別意識をそれは植え付けた。本土言葉を話す子供が、島言葉しか話せない子供を露骨に馬鹿にするようになった。

 現在でも、米国支配層の後押しで高い地位を得た権力指向者たちが、英語の使用を義務づけたがるのもこれと同じ精神構造である。

 
ちなみに、プロ野球で阪神フアンや、広島フアンが熱狂的にフアンになったのも、これら両球団の選手たちが、アンチ巨人意識でもって、大阪弁、広島弁を使おうとするからである。

 明治、大正、昭和の初期、島の娘たちは、台湾総督府のある台北に働きに出された。琉球人の下働き娘は「ねえや」と呼ばれ、本土からきた「ばあや」に監督されていた。「ねえや」の下に中国人、その下に朝鮮人、そして最下層に現地の台湾人がいた。差別は当たり前の時代であった(みやら雪朗、「天(ていん)ぬ群星(むるぶし)や数(ゆ)みば数(ゆ)まりしが―私の『親守歌』をめぐる数々の歌―」、『星砂(ほしずな)の島』第10号、特集・伝統文化と経済、全国竹富文化協会、平成18年8月、54~57ページ)。

本山美彦 福井日記 84  漢那憲和

2007-03-29 01:33:38 | 言霊(福井日記)
 
 最近、若者の人気スポット、沖縄県の竹富島が、観光メッカとして旅行業者によって、喧伝されている。観光客が増えることは、離島にとって結構なことである。

 しかし、あまりにも派手派手しく、もて囃されていることに、私は、かなりの危惧感を抱く。

 確かに、すばらしい景色である。後に激賞する積もりであるが、日本で忘れられつつある、人のつながり(結い)が、この島には残っている。

  しかし、いまの観光ブームには、この島の文化と歴史への配慮がない。レジャーのみに傾斜する観光ブームが、日本全体が、ミーハー的に流されてしまうのではないかと、私は、恐ろしくなる。

 事実、NHK連続ドラマ「ちゅらさんで有名になった小浜島には、広大なゴルフ場がオープンしている。贅を尽くしたクラブハウスが広大な敷地に配置されてしまった。

 僻地化の恐怖が、観光ブームによって解消されていることは本当に喜ばしい。しかし、この島に群がる若者たちが、精霊と共存するこの島の心の深さにまったく気づかずに、赤瓦、水牛行脚、星砂の旅を満喫し、「楽しかった」の一言で、にこにこと、帰宅する状況は、いまの日本の象徴のように私には思われる。

 今回から、言霊の連載を行い、フィールドとして竹富島を選ぶ。
 
その最初からぼやきを出す自らの精神の卑しさに自己嫌悪しながらも、あえて、私の悲しさの吐露から連載を始める。

 沖縄学の父、伊波普猷(いなみ・ふゆう、1876(明治9)~1947(昭和22)年の墓が、沖縄本島、浦添城跡に建てられている。その墓碑銘として、沖縄の人文・社会学を樹立した東恩納寛惇(ひがしおんな・かんじゅん、1882(明治15)年~1963(昭和38)年)が記している。

 「彼ほど沖縄を識った人はいない 彼ほど沖縄を愛した人はいない 彼ほど沖縄を憂えた人はいない 彼は識ったが為に愛し愛した為に憂えた 彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった」(ウィキペディア、伊波普猷)。

 この悲しみをどれだけの人が共有しているのであろうか。劣等感と優越感、差別と被差別、辺境と中央、脱出した誇りと嫌悪、こうした悲喜こもごもの感情を誰が共有しているのだろうか。つまり、沖縄の、しかも離島の屈折した感情を理解する観光客はどのくらいいるのだろうか。

 彼が3歳の時、つまり、1879(明治12)年、廃藩置県によって、沖縄県が設置された。彼は、現在の沖縄県立首里高校である沖縄県尋常中学校(第一中学)時代の1895(明治28)年ストライキ事件の指導者の一人として退学処分を受けた。このときの首謀者が漢那憲和(かんな・けんわ)であった。

 伊波普猷を紹介する前に、彼の生涯に巨大な影響を与えた、漢那憲和について書いておきたい。伊波の青春に強烈な影響を与えた傑物だからである。

  漢那は、1877(明治10)年に那覇で生まれた。漢那という文字を見れば分かるように、この姓は、琉球北部の漢那地区の地名を採ったものである。彼の祖先は、中国と薩摩間の交易で財をなし、その財で薩摩藩の士族の位を買い、漢那地区の地頭を務めた。父、憲慎は、琉球王府の税官吏であった。当時としては、この役職は高級官吏のものであった。

 しかし、1879(明治12)年の廃藩置県によって、琉球は沖縄県になり、父は失職した。憲和の母が、茶の行商をして、父に代わって家計を支えた。子供は2人で、長男の憲和5歳、弟の憲三3歳の時、父が結核で死亡した。母はまだ24歳であった。

 腕白であった。成績は図抜けてよく、2年も飛び級した。沖縄中学では、入学者中最年少で、首席、学費免除の特待生であった。

 琉球は、明治維新までは、日中両国に従属していた。1873(明治6)年、明治政府は、台湾に侵攻、琉球を日本領として中国に認めさせた。

 この中学時代に、明治政府の元老院議員を務め、後に日本赤十字の創設者(博愛社)となった佐野常民の息子で、戦艦、松島に乗っていた士官の佐野常羽と、彼は、その船で遭った。ボートで訪問したのである。後の海軍に入隊する決心がこのときにできたと言われている。

 憲和は、中学生のボスであった。1895(明治22)年11月、沖縄中学でストライキを指導する。憲和が、まだ3年生なのに、学生会長であった。沖縄で生じた初めての学生ストライキであった。

 当時の沖縄は、沖縄師範学校と、沖縄中学の2つしかなかった。この2つの学校の校長を兼任していたのが、児玉喜八であった。この校長が、沖縄への差別教育を行おうとしたのである。沖縄の本土同化を図るべく、英語教育を廃し、日本国語のみにしょうとしたこと、それに反対した下国教頭(日本で初めて修学旅行をさせた人、旅行先は京都・大阪。貧乏な憲和の旅費を出してやった)の休職処分、沖縄文化の教育に熱心であった田島利三郎教諭を罷免しようとした。

 漢那憲和は、下国教頭と田島教諭に迷惑がかからないように、退学届けを出して、校長排斥運動を起こした。3年生以上の全員が、彼に同調して、退学届けを出すことになった。さらに、1、2年生もその後、参加することになった。結果的に、退学届けを出したのは、総勢100数十名にも上った。学校当局は父兄を呼び出そうとしたが、応じる父兄はいなかったという。沖縄人の心をこのストライキが掻き立てたのである。

 漢那たちは、ストライキ中、民家を拠点として、上級生が下級生の勉強を指導した。そして、県は、校長を更迭した。

 当時の沖縄県知事は、維新の武断派志士、奈良原繁であった。この奈良原が、漢那に惚れ込み、自宅に呼んで海軍兵学校に入ることを勧めた。スト騒動で勉強できていなかったのに、わずか4か月の猛勉で、1896(明治29)年、沖縄出身者として初めて海兵学校に合格した。

 奈良原は、薩摩藩士で、示現流達人であり、寺田屋騒動で、有馬新七以下9名を切り捨てた人である。

 
生麦事件で、英国人を最初に斬りつけたのもこの奈良原である。こうした血塗られた過去をもつが、伊藤博文、松方正義に見込まれ、中央に呼び戻さないことを条件に、沖縄県知事に就任させられた。1892(明治25)年のことであった。奈良原は、「琉球王」として恐れられるほど、苛烈な行政を行ったと言われている。この知事が我が子のように、漢那の出世の梃子入れするようになったのである。

 海軍兵学校を卒業して、遠洋航海の訓練後、漢那は、1902(明治35)年、故郷に立ち寄り、県民の前で演説した。狭い土地の沖縄は海に眼を向けて、海に乗り出そうと青年を鼓舞したという。

 漢那は、海軍大学校を卒業後、出世街道をまっしぐらであった。最後の琉球王、尚泰侯爵の5女、政子と結婚した。漢那33歳、政子18歳であった。廃藩置県によって、琉球王、尚円王統は、19代尚泰で、400年におよぶ歴史を閉じさせられた。この時、尚泰は、公債20万円、現在の都立九段高校が建っている東京飯田町に広大な邸宅を構え、侯爵に列せられた。政子は、学習院女学部卒で、皇后陛下に御前講義した経験もある。

  下種(げす)の勘繰(かんぐり)で恥ずかしいが、王様に使えていた身分の高くない役人であった父をもつ貧乏な子が、出世して、ついに、気高い王様の娘を娶ったという構図に、私には映ってしまう。それこそ、余計なことだが。

 1914(大正3)年、漢那は海軍軍令部参謀、海軍大学校教官になった。教え子には、山本五十六元帥、豊田副武大将、古賀峯一元帥がいる。

 漢那は、1924(大正13)年、まだ48歳の時、予備役に編入させられた。つまり、軍を退役させられたのである。時の海軍大臣は、薩摩出身の財部彪であった。何らかの処分だったのだろう。

 退役後、1927(昭和2)年、沖縄県選出衆議院議員に当選し、以後10年議員を続けた。1946(昭和21)年、敗戦で公職追放、1950(昭和25)年、73歳、肺癌で死去。政子夫人は、1977(昭和52)年、85歳で、逝去。(「沖縄に軍艦旗ひるがえる、『沖縄』に尽瘁した漢那憲和の献身」、http://navy75.web.infoseek.co.jp/return8kanna.htmを参照した)。

 琉球処分、薩摩と沖縄との角逐という興味あるテーマを漢那論で進めることができるのであるが、ここでは、漢那憲和と伊波普猷との接点に注視しておくにとどめた。