先述の、1894(明治27)年8月11日から9月25日にかけての、東大医学部による八重山諸島のマラリア調査は、笹森儀助の訴えを受けて、帝国議会が、1894年5月に、「八重山群島瘴毒排除建議案」を決議したことによる。「瘴毒」とは、熱病、つまり、マラリアのことである。
調査結果は、1895(明治28)年の『官報』で、「八重山群島風土病研究調査報告」いう題で連載された。『東京医学新報』、『東京医学会雑誌』にも掲載された。三浦は予防のの必要性を説き、それを受けて、東京伝染病研究所の技師・守屋伍造(医学博士)が、1898(明治31)年12月から翌年にかけて八重山を調査し、「八重山風土病研究報告書」を『雑菌学雑誌』(第420号)に掲載している(三木健、同上書、20ページ)。
笹森儀助は、幕末の1845(弘化2)年、弘前藩士・笹森重吉の子として生まれた。重吉は碌高(ろくだか)百石で藩の御目付役の要職にあった人物である。笹森は小姓組として藩主に仕えたが、廃藩置県後、青森県弘前支庁を皮切りに、県内各地で行政官として勤務している。
1878(明治11)年、中津軽郡長に任じられたが、時の県令・山田秀典と政治路線上で対立し、1881(明治14)年、突如として辞任した。
そして、笹森はかねてからの念願であった牧場経営に着手する。これには、若き日に師事した山田登の影響がある。山田は弘前藩士として富国強兵策を唱え、新田開発にも従事した人物である。
笹森は、旧弘前藩士で政治的同志でもあり、第59銀行(現在の青森銀行)の創設者でもあった大道寺繁禎とともに農牧社を設立し、大農経営により牛馬を飼育する常磐野(ときわの)牧場を開設した。
当時、県内各地には同様の大牧場が開設されているが、これらの多くは間もなく経営難に陥り、閉鎖の憂き目を見ている。笹森の常磐野牧場も同様であった。
1890(明治23)年、農牧社を辞した笹森は、それからしばらくの間、西日本各地をはじめ、千島列島や奄美大島方面に旅行し、これら各地の産業や風俗などを詳細に調査している。これらの旅行視察記は、それぞれ『貧乏旅行之記』、『千嶋探検』、『南嶋探検』としてまとめられた。とくに、『南嶋探験』の学問的価値は今日に至るまで高く評価されている。また、これが機縁となり、1894(明治27)年8月には奄美大島島司に任命されている(明治31年辞任)。笹森の探検視察記には、このほかに『西伯利亜(シベリア)旅行記』、『咸鏡道(かんきょうどう)視察談』などがある。
笹森は各地の探検、視察を終え、1901(明治)34年5月に帰郷するが、その時にはすで57歳になっていた。笹森は「引退」を願って帰郷したものと思われるが、翌、明治35年、青森市の第2代市長に選出された。市長としての在任期間は、1902(明治35)年5月から翌年12月までのわずか1年8か月に過ぎなかった。
初代青森市長工藤卓爾(たくじ)の辞任後、青森市政は青森市選出の代議士の干渉などのため混乱し、また税の滞納が極度に多く、財政も逼迫(ひっぱく)の度を増していた。このような状況で市政を運営できる人物には、一党一派に属さず、公平無私であることなどが求められたが、その人物として、工藤は笹森を推薦したのである。
市長としての笹森がまず着手したことは、県・市税の確実な徴収と財政の確立であった。税収は笹森の在任中に急速に改善され、1901(明治34)年度の滞納額が県・市税で2万4,000円余であったものが、1903(明治36)年11月にはわずか660円ほどになったとされる。
笹森の第2の業績は私立商業補習学校(現在の県立青森商業高等学校)の開設である。
笹森は、かつて中津軽郡長時代に、旧弘前藩士が依然として生計の方向を立てないままでいることを批判し、授産事業の必要を説いた。青森市長として、青森市の将来を考えるとき、商業都市として発展することがもっとも望ましい方向であり、これを支える人材の育成が肝要であると考え、その機関の創設を求めたのである。
しかし、当時の市の財政には余裕がなく、また、市の経済界の有力者の中にもこれに賛成する人は少なく、開設は容易ではなかった。しかし、笹森は決してあきらめることなく、県・学校関係・経済界などに訴え、村本喜四郎、樋口喜輔、大坂金助らの賛同を得ることに成功し、1902(明治35)年10月、私立商業補習学校(夜学)の開設にこぎつけた。そして、自らが初代校長として就任し、ときには教鞭を執ることもあった。
笹森は「不言実行」の人で、いたずらに多言することがなく、市会においても寡黙であった。
そのため、一部の市会議員から市会を侮辱するものとして攻撃されることもあったが、これは笹森の人柄を知らないことによるものであったと言ってよい。
混乱していた市財政を立て直した笹森は、わずか1年8か月で市長を辞し、その後第59銀行監査役などに就いたが、1915(大正4)年9月29日、故郷の弘前にて71歳で逝去した(「あおもり・今・昔、67、68、笹森儀助とその時代、上、下」、『広報あおもり』2000年5月1日、15日号を参照)。
前掲・三木健の著作によれば、笹森が田代に続いて八重山を訪れた人である。笹森は、1893(明治26)年5月から10月にかけて、沖縄本島、先島諸島(宮古、石垣、西表、与那国)の各地を踏査している。これらの見聞を記したのが、先の『南嶋探験(ママ)』(1994(明治27)年)であった。
三木は言う。
「彼の透徹したリアリズムと、近代化から疎外された島人に対する同上、そして国や県施策への批判は、その文体とも相まって、優れた記録となっている」(三木健、同上書、17ページ)。
彼は、弘前藩で近代化への遅れに対する苦い経験から、同様の苦しみを味わう辺境の人々に熱い想いを託した。とくに、南の島々の人頭税とマラリアに苦しむ姿を放置していた政府や県への怒りを顕わにした。
『南島探験』を柳田国男が激賞している。
周知のように、柳田は日本の民俗学を構築した巨人である。1875年(明治8)7月31日生まれ、1962年(昭和37)8月8日逝去、兵庫県が生んだ努力の人である。正式の名前はには、柳田國男(やなぎた・くにお)。読みは「やなぎだ」ではなく「やなぎた」である。
柳田は、1920(大正9)年から1921(大正10)年にかけて南島の調査旅行を実施し、帰京した翌年の1922(大正11)年に「南島談話会」を結成している。メンバーは、上田萬年、白鳥庫吉、新村出、本山桂川、折口信夫、金田一京助であった。
横道に逸れる。
上田萬年(うえだ・かずとし、1867(慶応3)~1937年(昭和12)は、国語学者で、東京帝国大学文科大学長を務めた。円地文子の父。教え子に新村出、橋本進吉らがいる。また、文部省専門学務局長や、1908年に設置された臨時仮名遣調査委員会の委員等を務めた。1908年帝国学士院会員(ウィキペディア)。
白鳥庫吉(しらとり・くらきち、1865(元治2)~1942(昭和17))は、東洋史学者、東京帝国大学教授。邪馬台国北九州説の提唱者として有名。弟子に津田左右吉など。外交官、政治家の白鳥敏夫は甥。東宮御学問御用掛として東宮時代の昭和天皇の教育にも携わった。同時期の著名な東洋学者で「東の白鳥庫吉、西の内藤湖南」、「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と並び称せられた京都帝国大学(現京都大学)の内藤湖南教授が邪馬台国畿内説を主張。後に東大派と京大派に別れ激しい論争を戦わせることとなる。全著作が「白鳥庫吉全集」全10巻として岩波書店より刊行されている(ウィキペディア)。
新村出(しんむら・いずる、1876年(明治9)年~1967(昭和42)年)は、言語学者、文献学者。京都大学教授・名誉教授で、ソシュールの言語学の受容やキリシタン資料研究などの日本人の草分けであった。「出」という名は父親の関口隆吉が山口県と山形県の県令であったことから「山」という字を重ねて命名された。息子の新村猛とともに、広辞苑の編纂者として有名。新仮名遣いに反対し、「広辞苑」の前文を新仮名遣いでも旧仮名遣いでも同じになるように書いた。また形容動詞を認めないため、「広辞苑」には形容動詞の概念がない。
本山桂川(もとやま・けいせん、1888(明治21)年~1974(昭和49)年)は、柳田國男らと同時代の民俗学者として活躍した人物だが、従来民俗学界全体の中であまり評価を受けることもなく、その著『與那國島圖誌』や『日本民俗圖誌』などが注目される程度であった。
桂川は、長崎市江戸町に生まれ、本名を豊治という。父の雅号桂舟に因んで、桂川と号した。勝山尋常小学校を卒業し長崎商業学校に入学するが、この時期俳句を作ることを覚えたという。早稲田大学卒業後は長崎商業会議所に勤める傍ら『土の鈴』を刊行するが、郷土雑誌としては、最も早い時期の創刊であった。またこの頃、田中田士英を中心とする句会に参加している。1923(大正12)年、一家をあげて上京することになるが、両国駅止めで送った荷物を関東大震災により失ってしまう。その直後10月から半年間をかけて関西から九州、沖縄方面への旅に出、その折のことをまとめた『與那國島圖誌』は柳田國男監修の爐邊叢書の1冊に加えられている。
昭和3年には、ガリ版刷りで「民俗研究」の刊行を始め、50輯まで続く。雑誌としては土の鈴、民俗研究の他に、趣味之土俗叢書・人文・信仰民俗誌・海島民俗誌・談叢・史譚と民俗など、単行本では、閑話叢書・日本民俗叢書・人物評伝全集などの編集に関わっている。
1945(昭和20)年には、戦災により全てを焼失する。焼け跡にただ呆然と佇んでいたというが、この罹災が桂川をして金石文化探究への道を歩ませることになる。
1950(昭和25)年からは『金石文化の研究』を10集まで刊行し、その後も月刊『金石文化』、『金石文化復刊』を出している。
戦後全国を旅して手拓した成果は、文学碑めぐり等の著作としてまとめられている。対象とする分野は何であれ、得られた成果を自ら編集して刊行するという姿勢は終生続いた。
桂川のガリ版刷りの雑誌『民俗研究』」第22輯、下総八幡市の特集号がユニークである。市内八幡の葛飾八幡宮で毎年9月に行われる農具市(通称ボロ市)については、非常に盛況な市であったという記述や伝承はあるものの、その具体像を示すような資料は見いだし得ていなかった。ところが桂川は昭和5年の市を前後8日間に亙って調査し、露店923店舗についてその種類と配置を全て克明に図示し、小屋掛けの方法までも種類別に記録した。奥付の、発行所である日本民俗研究曾は市川町となっていた。他の号の、編集後記である「三畳の書斎から」では、1929(昭和4)年3月には市川町町議会議員選挙に立候補して当選したという記述がある。しかし、桂川の旧住所地には何の痕跡もない。
桂川に関する記述は、小泉みち子、「本山桂川-その生涯と書誌-」に依拠した。同氏は、桂川の膨大な著作一覧を作成している(http://www.city.ichikawa.chiba.jp/net/kyouiku/rekisi/rekihaku/ronbun/koizumi/koizumi96.htm)。
折口信夫(おりくち・しのぶ、1887(明治20)年~1953(昭和28)年)は、日本の民俗学、国文学の研究者。釈迢空(しゃく・ちょうくう)と号して詩歌もよくした。自らの顔の青痣をもじって、靄遠渓(あい・えんけい=青インク)と名乗ったこともある。
大阪府西成郡木津村(現在の大阪市浪速区敷津西町)にあった生家は、生薬や雑貨を扱う商家で、代々当主は医を兼ねていた。1900(明治33)年、大和の飛鳥坐神社を1人で訪れた折に、9歳上の浄土真宗の僧侶で仏教改革運動家である藤無染(ふじ・むぜん)と出会って初恋を知ったと言われている(富岡多惠子『釋迢空ノート』岩波書店、2000年)。
富岡によると、迢空という号は、このとき無染に付けられた愛称に由来している可能性があるという。1904(明治37)年、天王寺中学の卒業試験にて、英会話作文・幾何・三角・物理の4科目で落第点を取り、原級にとどまる。この時の悲惨さが身に沁みたため、後年、教員になってからも、教え子に落第点は絶対につけなかった。同じく後年、天王寺中学から校歌の作詞を再三頼まれたが、頑なに拒み続けた。
1905年(明治38)年、天王寺中学を卒業。医学を学ばせようとする家族の勧めに従って第三高等学校受験に出願する前夜、にわかに進路を変えて上京し、新設の国学院大学の予科に入学。藤無染と同居。約500首の短歌を詠む。1907年(明治40)年、本科国文科に進んだ。この時期国学院において国学者三矢重松に教えを受け強い影響を受ける。また短歌に興味を持ち根岸短歌会などに出入りした。1910年(明治43)年卒業。卒業論文は「言語情調論」。
卒業後、大阪に帰り、府立今宮中学校の教員(国漢担当)となる。教職のかたわら国文学、民俗学に興味を持ち、「三郷巷談」を柳田國男主催の『郷土研究』に投稿してその知遇を得る。1914(大正3)年、同校を退職し、多数の教え子を引き連れて上京。1917(大正6)年、郁文館中学校に職を得るが、夏季休暇中に九州へ調査旅行に出かけたまま新学期が始まっても戻って来ず、無断欠勤が1か月に及んだため免職となる。1917年、『アララギ』に参加。選歌などを担当する一方で、国学院大学内に郷土研究会を創設するなどして活発に活動する。
1919(大正8)年、国学院大学臨時講師就任。1922年(大正11)年、専任講師を経て教授に昇進。1924(大正13)年よりは慶應義塾大学講師を兼任し、のちに同校教授となって以降、死ぬまで両職にあった。この時期から折口の思索は飛躍的に深まり、民俗学、国文学、神道思想を融合した独特の「折口学」の世界を切り開き、文学史、芸能史、民俗学、国語学、古典研究、神道学、古代学などの分野で優れた成果を挙げる。またこの年には『アララギ』を去って北原白秋らと歌誌『日光』を創刊。1925(大正14)年、処女歌集『海やまのあひだ』を上梓し、歌壇においても地歩を占めた。
1934(昭和9年)万葉集研究によって文学博士号を取得。日本民俗協会の設立にかかわり、幹事となる。
幼少期から歌舞伎や落語に親しんだ。とくに、歌舞伎の造詣は深く、評論随筆集『かぶき讃』には、折口自身が贔屓にしていた初代中村魁車、二代目実川延若の芸が仔細に書かれており、上方歌舞伎の貴重な資料である。
1953(昭和28)年死去。養子として迎えた折口春洋(戦死)とともに、石川県羽咋市一ノ宮町にある墓に眠る。
柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた。芸能史、国文学を主な研究分野とするその研究は「折口学」と言われる。その業績はマレビトとヨリシロに集約されうる。すなわち、国文学の起源を祝詞や呪言に求め、さらにそれらがマレビト信仰に基づくものとした。また聖なる霊魂をヨリシロによって呼び寄せることによって、人間は神秘的な力を身につけられるとし、天皇は天皇霊を身につけた人物であると読み解いた。また、折口には天照大神を男神とする説がある。
現在も民俗学のみならず、日本文化論や日本文学研究等、かれの研究成果に負う分野は少なくない。しかし、マレビトなどの根本概念がきちんと定義されていないなど、独創的、詩的に過ぎて学問的客観性や厳密性に欠けるとの批判も、民俗学が厳密化するにつれて大きくなっている。
柳田が民俗現象を比較検討することによって合理的説明をつけ、日本文化の起源に遡ろうとした帰納的傾向を所持していたのに対し、折口はあらかじめマレビトやヨリシロという独創的概念に日本文化の起源があると想定し、そこから諸現象を説明しようとした演繹的な性格を持っていたとされる。柳田が科学者的であったとするなら、折口は文学者的であったといえよう。このような師弟関係は科学者的なフロイトと芸術家的なユングのそれにも対比できよう(ウィキペディア、この稿はとくに優れている)。
三島由紀夫の短篇『三熊野詣』に登場する国文学者藤宮や、舟崎克彦の長篇『ゴニラバニラ』に登場する民俗学者折節萎(おりふし・しぼむ)は折口がモデルと言われている。その性癖には柳田は批判していたと言われている(同上)。
金田一京助(きんだいち・きょうすけ、1882(明治15)年~1971(昭和46)年)は、アイヌ語研究で知られている日本の言語学者、民俗学者。國學院大學教授を経て東京帝国大学教授となる。日本学士院会員。盛岡市名誉市民。石川啄木の盛岡中学時代の先輩で親友。啄木に金をよく貸したことでも有名。長男の金田一春彦、孫の金田一秀穂も言語学者。1954年に文化勲章を受章。アイヌ研究の第一人者として知られるが「滅びゆく民族の記録を行う」といった姿勢であったことから批判もあった(ウィキペディア)。
話を戻す。
笹森は、放浪旅行に出発したのは、1893(明治26)年5月10日であった。家族と水盃を交わしたという。東京で、まず田代安定から南の事情を聴いた。
「マラリアの有病地では、薬もないまま座して死を待つ人々の惨状を、怒りを込めて書いている。また、『南島探験』には、八重山発の西洋医である崎山寛好(さきやま・かんこう)の「八重山熱記」を、付録として収録する熱の入れようである」(同、18ページ)。
笹森は、帰郷後、マラリア救済方法を直ちに講じるように、明治政府に「意見書」を提出している。
笹森の『南島探験』が柳田国男に与えてた衝撃は大きかった。
「此書の刺戟は相応に大きかった。此書を精読した人が、現在の南島談話会を創立したと言っても大差ない」と書いている(三木健、同上上、17ページより転載)。
ちなみに、本山桂川が石垣島にやってきたのは、1933(大正12)年であった。さらに、翌年、2か月にわたって与那国島を取材し、これが柳田の『炉辺叢書』の1つで桂川の代表作となった、『与那国島図絵』であった。