消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.98 河上肇のマルチチュード論

2007-04-22 01:29:00 | 言霊(福井日記)
 マルチチュード論が一時期、一世を風靡した。例によって例のごとく、翻訳文化の域をでない日本の思想界は、外国語を晦渋な言葉に翻訳し、言葉遊びをしながら、マルチチュチュード論の日本化をはたせないまま、一瞬で消える旧いファッションとして、新しい話題を探し求めている。

 私は、故郷を喪失した無名の人たちの菊の根をマルチチュードと定義したい。

 
往々にして、彼らは外国人であり、住む場所に違和感を覚える人たちである。そうした一群の人たちが新しい社会を創造する力をもつと、私は信じている


 私が務めていた京大経済学部は河上肇を追放した。河上肇は、マルチチュードという言葉こそ創造しなかったものの、日本におけるマルチチュード論の草分けである。

 京都大学関係者は、いまも盛大に行われている「河上祭」によって、河上肇のことをよく知っているが(ただ、昔の京都大学の雰囲気が急速に消え去ろうとしているので、最近の学生やスタッフは河上のことを知らない可能性が高まってきたのかも知れない)、ご存じない方も多いと思われるので、『ウィキペディア』によって紹介しよう。

 河上肇(かわかみ・はじめ、1879(明治12)~1946(昭和21)年)は、山口県玖珂郡岩国町(現在の岩国市)に旧岩国藩士の家に生まれる。山口尋常中学校(現山口県立山口高等学校)、山口高等学校文科(現山口大学)を卒業し、東京帝国大学法学部政治科に入学。

 足尾銅山鉱毒事件の演説会で感激し、その場で外套、羽織、襟巻きを寄付して、『東京毎日新聞』に「特志な大学生」であると報ぜられた。1902(明治35)年、大学を卒業。その後、東京大学農科大学(現在の農学部に相当)講師などになり、読売新聞に経済記事を執筆。1905年(明治38)、教職を辞し、無我愛を主張する「無我苑」の生活に入るが、間もなく脱退し、読売新聞社に入る。性格は猪突猛進型であったらしい。

 1908(明治41)年、京都帝国大学の講師となって以後は、研究生活を送る。1913(大正2)~15(大正4)年にかけて2年間のヨーロッパ留学。帰国後、教授。1916(大正4)年から『大阪朝日新聞』に『貧乏物語を連載し、翌年出版。弘文堂が発行元である。東京で活躍している同社は、もともと、京都の出版社であった。私も、この出版社の事典に執筆している。同社のアテネ文庫は超人気をはくした。

 デモクラシーの風潮の中、貧困というテーマに経済学的に取り組んだこの書は、ベストセラーになった。全体の主張は「金持ちは贅沢を止めよ」といった倫理的な教訓であった。



 その後、マルクス経済学の研究を進める。1921(大正10)年、河上の論文「断片」を掲載した雑誌『改造は発売禁止となるが、この論文は、後に、虎の門事件を起こす難波大助に影響を与えたという。1922年、櫛田民蔵が河上のマルクス主義解釈に対して、痛烈に批判した。河上はその批判を甘受した。河上のすごさは、自らの理解の浅薄さを認めたところにある。

 発奮した河上は、『資本論』などマルクス主義文献の翻訳を進め、河上の講義は学生にも大きな影響を与えた。1928年(昭和3)、京都帝大を辞職し、大山郁夫の下、労働農民党の結成に参加。1930(昭和5)年、京都から東京に移るが、やがて労働農民党は誤っていると批判し、大山と決別。雑誌『改造』に『第二貧乏物語を連載し、マルクス主義の入門書として広く読まれた。これは、改造社から1930(昭和5)年に出版された。

 1932(昭和7)年、日本共産党の地下運動に入る。1933(昭和8)年、中野区で検挙され、治安維持法違反で小菅監獄に収監される。収監中に自らの共産党活動に対する敗北声明を発し、大きな衝撃を与えた。また獄中で漢詩に親しみ、自ら漢詩を作るとともに、曹操や陸游の詩に親しんだ。この成果は出獄後にまとめた『陸放翁鑑賞』(放翁は陸游の号)などで見ることができる(河上肇『陸放翁鑑賞、上・下』三一書房、1949年、『河上肇全集』第20卷、岩波書店、1982年、一海知義校訂『陸放翁鑑賞』岩波書店、2004に再録)。

  1937年(昭和12)出獄後は、自叙伝などの執筆をする。1941年京都に転居。第二次世界大戦終戦後、活動への復帰を予定したが、1946年に逝去。1947年、『自叙伝』(世界評論社)が刊行される。岩波書店から『河上肇全集』が出版されている(全36 巻、1982∼1986 年)。

 私は、歌人、河上肇をこよなく愛する。戦争の屈服が放送された日の河上肇の歌。 

 「あなうれしともかくにも生きのびて戦やめるけふの日にあふ」。

 共産党に入党した時の歌。

 「多度利津伎布理加幣里美禮者山河遠古依天波越而来都流毛野哉」(辿りつき振り返り見れば山河を越えては越えて来つるもの哉)。

  これは漢詩ではなく、万葉仮名の積もりである。当局の眼に触れられたくなかったのであろう。正しい仮名の使い方かどうかは私には判定できない。

 河上はすでに32歳の若さで、経済学と宗教学とを結びつけようとしていた。

 古代の日本人の祖先崇拝は、死後の生活も生前の生活を踏襲するものとして、生前の生活用具を死者とともに埋葬したことに現れている。そして、古代人たちは、彼らの生活環境が、祖先の神意によって決定されると受け取っていた。氏神を護ることが共同体維持の最重要の行為になっていた。古代天皇制はこうした祖先崇拝から成立した。等々の説明を行った後、河上は、次のように書いている。当時においては、

 「政治は即ち祭事たり、祭事は即ち政治たり。此の如くにして所謂政教一致の国家あり」(『京都法学会雑誌』第6巻第1号、1911年、141ページ)。

 それぞれに氏族が氏神をもつ。支配した氏族が自己の氏神を支配下の氏族に押し付ける。しかし、支配する側も、支配される側も、旧来の氏神は消滅しない。氏神に階層性ができる。

 「故に共同の神を生じたる後においても猶、その下には幾多の封鎖的宗教団体を存し、各種族各氏族は共同の神の外に各種族各氏族皆それぞれの神を有すること、例えば政治上において国王の下に大氏の氏上あり、大氏の氏上の下に小上の氏上ありたることその趣全く同じ」(同、144ページ)。

 いまでこそ、当たり前の考え方だが、皇国史観全盛時代に、この種の発言をあえてした河上の勇気は相当に強靱なものである。

 祭政一致を完成させたのは、第10代崇神天皇である。だからこそ、この天皇は、「御肇国天皇」(はつくにしらす・すめらみこと)、つまり、日本に国を作り出した最初の天皇と称されていたのである(『日本書紀』の記述)。

 この考え方を発表した河上肇は、同年、那覇を訪れた。そこで、いわゆる「舌禍事件」を起こし、体制側の大憤激を買う。

 その時の河上は、京大助教授であった。近代資本主義は土地の私有制を根幹としているが、この土地私有化のプロセスは、当時、沖縄に残っていた「地割(ちわり)制度」を調べると分かるのではないかと現地調査にきたのである。これもすごいことである。彼は、ドイツ語文献によるマルクス主義だけを摂取しようとしたのではなかった。河上は、もっとも重要な土地慣行調査を実行したのである。これは、当時の学問状況からは画期的なことであった。

 地割制度とは、税の負担を村単位の連帯責任として科していた制度である。以前に紹介した「間切り」(まぎり)はこの単位を確定したものであった。 

 沖縄国際大学文学部の仲地哲夫氏の紹介によれば、沖縄の地割制度に関する調査は、仲吉朝助(1867∼1926年)を嚆矢(こうし)とする。仲吉朝助は、大田朝敷(1865∼1938年)や謝花昇(1865∼1908年)と同時代の人物である。東京帝国大学農科大学実科卒後、帰県して島尻郡役所に務め、後、沖縄県属、農商務課長、そして、1905(明治38)年、辞して沖縄県農工銀行頭取となった。東大農学科ということで河上肇との接点があった可能性がある。著作も多い。

 仲吉朝助には多数の著書・論文がある。『杣山制度論』は、1900年脱稿していたが、発行されたのは1904年であった。1906年4月、『琉球新報』に「沖縄県土地整理前に於ける地割制度」を連載し、1907年11月、『琉球新報』や『砂糖月報』に発表した論稿と国頭農学校での講義ノートをまとめて『沖縄県糖業論』として発表している。なお、遺稿「琉球の地割制度」『史学雑誌』に掲載されたのは、1928年のことであった。琉球の土地制度の研究をはじめとして、沖縄における社会経済史の研究の礎を築いた功績はきわめて大きい。仲吉朝助編の『琉球産業制度資料』は第一級の作品である。

 これを柳田國男から借りた比嘉春潮は、1952年10月から翌年2月にかけて、『沖縄文化』誌上に「具志頭間切御手入」と題する論文を発表し、1959年6月には『日本の民族・文化』に「地割制度」と題する論文を発表している。

 琉球の土地制度・地割制度に関する研究は、1950年代以降、地道に行われてきた。その成果のほとんどは「琉球産業制度資料」を駆使して得られたものである(http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B1132580/1/mokuji/3301.pdf)。
 河上肇の着想がいかに優れていたものであるかが、以上の紹介で分かるだろう。

 伊波普猷と関係の深い比嘉春潮についても紹介しておこう。
 比嘉春潮(1883(明治16)年~1977(昭和52)年、94歳の長寿)は、西原町に生まれた。本名は春朝。南風原小学校の教員を振り出しに、官職に就く。1918(大正7)年、那覇区松山小学校長から『沖縄毎日新聞』、『沖縄朝日新聞』の記者となる。だが、翌年に沖縄県庁に入る。

 キリスト教からトルストイズムに転向。河上肇の沖縄講演で社会主義への関心を抱く。1921(大正10)年、官憲から追われて、本土から沖縄に潜入したアナーキストを逃がすために、比嘉は、その人を宮古島に送る。その船上で柳田國男と出会う。その後、県庁を辞めて上京、改造社出版部員となる。そして柳田に師事、民俗研究を続ける。

 その一方で、大正末年から昭和初期にかけて、無産者運動を側面から援助し、沖縄県出身の共産党員と交流した。また、プロレタリア・エスペラント運動にも参加。比嘉春潮は、新宿柏木の自宅を開放して、プロレタリア・エスペラント研究会を続けていた。この研究会は有名で「柏木ロンド」と呼ばれ、特異な存在だった。伊波普猷がそれに協力した。

 彼の顕彰碑の碑文には、生い立ち、人柄、業績などが書かれているが、エスペランチストとしての活躍は記録されていない。そして「ここにふるさとを愛した篤学・反骨の研究者・比嘉春潮の遺徳を称え、功績を後世に伝えるためにこの碑を建立します」と、日本語と英語の文章が刻まれている(http://www.okinawatimes.co.jp/spe/kaizu20020521.html)。

 地割制度と関連させて、西銘圭蔵氏が古い沖縄の婚姻制度の因習を説明されておられる(同氏、『伊波普猷―国家を超えた思想』ウィンかもがわ、2005年、59~60ページ)。

 村全体で税負担が決められていたが、その総額は、村民の人数とはほとんど関係なかった。この制度下で、村の娘が結婚のために村の外に出て行ってしまうと、それだけ生産力が落ちることになる。そのために、村外の男が、村の娘を村外に連れ出して結婚することは、村人によって極力妨害された。娘を連れ出そうとする村外の男は、偽馬(木馬)に縛り付けられて、村中引きずり回され、大量の酒を無理矢理飲まされ、正体不明にさせられるという、陰湿ないじめがあった。そうした事態を回避するには、結婚したい村外の男は、相当の金額を村に寄進しなければならなかった。この金は、馬にかかわる費用を賠償しますという意味で、「馬手間」(うまてま)と呼ばれていた。こうした陰湿な結婚妨害は、地割制度のなかった宮古島。石垣島には見られなかった。地割制度がある沖縄本島以北に、馬手間は、あったのである。

 さて、河上肇が舌禍事件を起こしたのは、1911(明治44)年4月3日のことであった。地割制度の調査にきた河上肇に、沖縄県当局は講演を依頼した。

 この講演は素晴らしいものであった。現代人なら、拍手していたであろう。しかし、当時の沖縄県当局と『琉球新報』が激怒した。

 長くなるが、素晴らしい文章なので、そのまま転載する。
 「余倩ら沖縄を観察するに、沖縄は言葉、風俗、習俗、信仰、思想、その他あらゆる点に於いて内地と其の歴史を異にするが如し。而して或いは本県人を以て忠君愛国の思想に乏しと云ふ。然れどもこは決して嘆ずるべきにあらず。余は之なるが為に却って沖縄人に期待する所多大なると同時に又最も興味多く感ずるものなり。・・・今日の如く世界に於いて最も国家心の盛なる日本の一部に於いて国家心の多少薄弱なる地方の存するは最も興味あることに属す。如何となれば過去の歴史に就いて見るに、時代を支配する偉人は多くは国家的結合の薄弱なる所より生ずるの例にて、基督の猶太に於ける、釈迦の印度に於ける、何れも亡国が生み出したる千古の偉人にあらずや。若し猶太印度にして亡国にあらずんば彼者は遂に生まれざるなり。故に仮令ひ本県に忠君愛国の思想は薄弱なりとするも、現に新人物を要する新時代に於いては、余は本県人士の中より他日新時代を支配する偉大な豪傑の起こらん事を深く期待し、且つ之に対し特に多大な興味を感ぜずんばあらざるなり」(比屋根照夫『近代日本と伊波普猷』三一書房、1981年、74~75ページ)。

 県令や、『琉球新報』は、これに激怒した。賢明によき日本人たらんと努力している沖縄県民を、河上が、揶揄したというのである。

 もしかして、私が座った机に、私が立った教壇に、河上肇が座り、立ったのかも知れない。そうした思いが、私の心に灯をともしてくれている。マルチチュード論の先駆けが、河上によって行われていたことを、私は、迫り来る禍に怯えながらも、誇りに思う。

福井日記 No.97 伊波普猷の泉 

2007-04-21 01:24:03 | 言霊(福井日記)
 「汝の立つ所を深く掘れそこには泉あり」。

 ニーチェのこの箴言を伊波は座右の銘としたという(比嘉美津子『素顔の伊波普猷』ニライ社、1997年、98ページ)。



 比嘉美津子が冬子を頼って上京したのは、昭和6年12月であった。当時の伊波の住所は東京市小石川区戸崎町であった。戸崎町は、徳永直の『太陽のない町』のモデルになった町で、当時、印刷会社がひしめいていた。伊波普猷の借家もその一角にあり、美津子は印刷機の音のことも描写している。

 ここで、早々と横道に逸れる。ご容赦。

 徳永直(とくなが・すなお、1899(明治32)年~1958(昭和32)年)は、熊本県飽託郡花園村(現熊本市)に、貧しい小作人の長男として生まれた。小学校卒業前から、印刷工・文選工など職を転々とし、一時夜学に通うも中退、その後勤めた熊本煙草専売局での経験から労働運動に身を投じ、1920年に熊本印刷労働組合創立に参加する。同時期、新人会熊本支部にも加わり、林房雄らと知り合う。1922年山川均を頼って上京、博文館印刷所(後の共同印刷所)に植字工として勤務。この頃から小説を書き始め、1925年に「無産者の恋」「馬」などを発表。翌年共同印刷争議に敗れ、同僚1700人とともに解雇される。まるで、彼はプルードンである。



 1929年、この時の体験を基にした長編「太陽のない町」を『戦旗』に連載、労働者出身のプロレタリア作家として独自の位置を占めるようになる。以後、旺盛な創作活動を展開するが、小林多喜二の虐殺など弾圧の強まる中で動揺し、1933年、『中央公論』に「創作方法上の新転換」を発表、文学の政治優先を主張する蔵原惟人らを批判し、プロレタリア作家同盟を脱退した。翌年転向小説「冬枯れ」を発表し、1937年には『太陽のない町』の絶版宣言を自ら行うなど時代の圧力に屈する。そして、『先遣隊』(1939年)という体制協力的な作品を発表した。しかし、その一方で、『はたらく一家』(1938年)、『八年制』(1939年)など、働く庶民の生活感情に根ざした優れた作品を発表した。とくに、戦時下発表された『光をかかぐる人々』(1943年)は日本の活版印刷の歴史をヒューマニズムの観点から淡々と描くことで、戦争と軍国主義を暗に批判した抵抗文学の名作である。

 戦後も『妻よねむれ』(1946年)、『日本人サトウ』(1950年)など旺盛な創作活動を行った。また、東芝争議を題材に諏訪地方の労働者と農民の闘いを描いた『静かなる山々』は、外国にも翻訳紹介され、1950年代の日本文学の代表としてソ連では高く評価されていた。『人民文学』の創刊に助力し、誌上で宮本百合子攻撃をしたこともあった。

 1958年2月15日『新日本文学』に長編「一つの歴史」を完結させないまま、末期の胃癌のために世田谷の自宅で病没した。享年59歳。『太陽のない町』は、1972(昭和47)年、日本近代文学館より復刻されている。

 脱線ついでに、島崎藤村にも触れておきたい。同じく、『ウィキペディア』に依拠している。

 比嘉美津子の思い出によれば、彼女が伊波の家に寄宿することになったその日に、伊波が美津子に、藤村の『破壊』の丑松の心を知らねばならないよと諭したという。

藤村の『破壊』の丑松の心を知らねばならないよと諭したという。

 島崎藤村(しまざき・とうそん、1872(明治5)年)~1943(昭和)18年)、本名、春樹(はるき)。木曾の馬籠(うまご)に生まれた。この地は、2005(平成17)年、いわゆる平成の大合併によって、2005年2月12日までの、長野県木曽郡山口村神坂馬籠から、岐阜県中津川市馬籠となった。所属県が長野県から岐阜県に変更されたことで、藤村の出身県を従来どおり長野県とするか、新たに岐阜県とするか、もしくは新旧両方併記するか、確定していない。藤村本人は、「信州人」意識を強くもっていたらしい。

 父は正樹、母は縫、四男であった。生家は代々、本陣や庄屋、問屋を営む地方名家で、父の正樹は17代当主で国学者だった。小学生の時、父から『孝経』や『論語』を学ぶ。1881(明治14)年に上京、泰明小学校に通い、卒業後は、寄宿していた吉村忠道の伯父である武尾用拙に、『詩経』などを学んだ。さらに三田英学校(錦城中学校の前身)から尋常中学共立学校(現・開成高校)を経て明治学院普通部本科(現・明治学院大学)入学。在学中は馬場孤蝶、戸川秋骨と交友を結び、また共立学校時代の影響もあり、キリスト教の洗礼を受けた。明治学院大学第一期卒業生で、校歌も作詞している。この間1886(明治)19年、父正樹が郷里にて牢死。正樹は『夜明け前』の主人公・青山半蔵のモデルで、藤村に与えた文学的影響は多大であった。

 卒業後、『女学雑誌』に訳文を寄稿するようになり、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となる。翌年、交流を結んでいた北村透谷、星野天知の雑誌『文學界』に参加し、同人として劇詩や随筆を発表した。一方で、教え子の佐藤輔子を愛し、教師として自責のためキリスト教を棄教し辞職する。1894(明治27)年、女学校に復職したが、透谷が自殺、さらに兄秀雄が水道鉄管に関連する不正疑惑のため収監され、翌年には輔子が病没。この年再び女学校を辞職した。その頃のことは後に『春』で描かれた。

 1896(明治29)年、東北学院教師となり、仙台に赴任。1年で辞したが、この間に、第一詩集である『若菜集』を発表して文壇に登場した。

 1899(明治32)年、小諸義塾の教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年間過ごす。この頃から散文へと創作法を転回する。小諸を中心とした千曲川一帯をみごとに描写した写生文「千曲川のスケッチ」を書き、「情人と別るるがごとく」詩との決別を図った。1905(明治38)年、小諸義塾を辞し上京、翌年「緑陰叢書」第1編として『破戒』を自費出版。すぐに売り切れ、文壇からは本格的な自然主義小説として絶賛された。ただ、この頃3人の娘が相次いで没し、後に『家』で描かれることになる。

 1907(明治40)年に発表した「並木」は孤蝶や秋骨らとモデル問題を起こす。1908(明治41)年、『春』を発表、1910(明治43)年、「家」を『読売新聞』に連載(翌年『中央公論』に続編を連載)、終了後の8月に妻・冬が四女を出産後死去した。このために兄・広助の次女であるこま子が家事手伝いに来ていたが、こま子と通じてしまい、1913(大正2)年から3年間パリに逃れ、『新生』を発表して、こま子との関係を清算しようとした。このため、こま子は日本にいられなくなり、台湾に渡った。

 なお、この頃の作品には、『幼きものに』、『ふるさと』、『幸福』、などの童話もある。1927(昭和2)年、「嵐」を発表。翌年より父正樹をモデルとした歴史小説『夜明け前』の執筆準備を始め、1929(昭和4)年4月から1935(昭和10)年7月まで『中央公論』に連載された。この終了を期に著作を整理、編集し、『藤村文庫』にまとめた。また日本ペンクラブの設立にも応じ、初代会長を務めた。1940(昭和15)年に帝国芸術院会員、1941(昭和16年)1月8日に当時の陸軍大臣・東条英機が示達した『戦陣訓』の文案作成にも参画した。1942(昭和17)年に日本文学報国会名誉会員。1943年、「東方の門」の連載を始めたが、同年8月22日、脳溢血のため大磯の自宅で死去した。最期の言葉は「涼しい風だね」であった。

 『破戒』は、被差別出身の小学校教師がその出生に苦しみ、ついに告白するまでを描いたもの。

  明治後期、被差別に生まれた主人公・瀬川丑松は、その生い立ちと身分を隠して生きよ、と父より戒めを受けて育った。その戒めを頑なに守り成人し、小学校教員となった丑松であったが、同じく被差別に生まれた解放運動家、猪子蓮太郎が、自らの出自を広言して雄々しく闘う姿に感動した丑松は、猪子にならば自らの出生を打ち明けたいと思い、口まで出掛かかることもあるが、その思いは揺れ、日々が過ぎる。やがて学校で丑松が被差別出身であるとの噂が流れ、さらに猪子が暗殺される。丑松は追い詰められ、遂に父の戒めを破りその素性を打ち明けてしまう。そして丑松は米国テキサスへと旅立ってゆく。

 話を元に戻す。
 美津子が上京した頃の東京では、沖縄県人は、沖縄出身であることをひたすら隠して生活しなければならなかった。大正末期までは、食堂の入り口に、「朝鮮人、琉球人、入るべからず」との貼り札が下げられていたという。そうした差別の中で、伊波は平気で琉球弁を使っていた。

 美津子を家で迎えた伊波は、「マギーナティ」(大きぅなって)と言い、先述の伊波普猷を巡る「5人の女性」の1人、金城芳子も玄関先で、「チャービラタイ」(こんにちは)と声を出していたという(比嘉美津子、前掲書、95ページ)。

 伊波普猷は、田島利三郎先生からオモロの資料を渡されたとき、外国語のようで途方にくれていたという。『琉球語辞典』の作成が伊波のライフワークであった。
 1911(明治44)年、35歳で、『古琉球』(沖縄公論社)を刊行した。この年、河上肇と知りあった。この本の刊行がよほど嬉しかったのであろう。伊波は次のような歌を詠んでいる。

 「深く掘れ、己の胸中の泉、余所たよて水や汲まぬごとに」。

 この歌は、沖縄県公文書館玄関に石版で掲示されている。
 自分の胸の中に泉はある。胸の中を深く掘り下げることによって、その泉に辿りつける。水は自分の泉から汲むべきである。よその泉に頼り、よその水を汲んでも、どうにもならない。このような意味であろうか。ニーチェの箴言が、伊波の脳裏にこびりついていたことは間違いない。自分自身の井戸を掘り、自分の糧を自分の泉から得よ。確かに格好がいい。

 西銘圭蔵は、この歌の那覇言葉表現を紹介してくれている。

 「ふかくふり、などぅぬんにうちぬ いじゅん、ゆす たゆてぃ みじや くまぬ ぐとぅに」

 「ふかく」はそのまま[深く」。「ふり」は例によって「ほ」が「ふ」、「れ」が「り」と訛るので「掘れ」。「などぅ」は「汝」、「の」が「ぬ」、この「の」と「むね」がリエゾンして、「んに」つまり「胸」。「うち」は「中」。そしてつぎの「の」も「ぬ」、こうして「汝の胸の内の」、つまり、「己の胸中の」になる。「よそ」は「ゆす」、つまり、「余所」。「いじゅん」は「泉」。「たよて」が「たゆてぃ」、つまり「頼って」。「「みず」は「みじ」、つまり、「みじや」は「水や」。「くまぬ」は「汲まない」。「ごと」が「ぐとぅ」になる。

 西銘によれば、島袋源一郎『沖縄県国頭郡誌』(国頭郡教育部会、1918年)の序文を伊波が書いている。

 「これ(ニーチェの言葉)は借りて以って郷土研究の必要を説くに都合の良い言葉だと思います。誰でも活動しようとするものはまづ其の足元に注意せねばなりませぬ。自己から出発せない活動はほんの空騒ぎに過ぎませぬ」。

 「三高私説」(http://www2s.biglobe.ne.jp/~tbc00346/component/)によれば、著者西銘氏は伊波の三高時代に深い関心をもっておられる。

 西銘圭蔵氏も沖縄名護出身の医師である。氏は言う。
 「伊波達が直面した課題は、彼らの人生のスパンを通り抜け、正に現代社会が問われ続けている課題である」。

 西銘氏は、このサイトに寄稿している。
 「拝啓、はじめてメールを差し上げる無礼をお許しください。私は『国家を超えた思想 伊波普猷』の著者の西銘圭蔵でございます。この度の三高私説への著書の御紹介、ありがとうございます。伊波普猷の思想の形成を調べれば調べる程、当時の三高での学生生活の意味が大きく浮上してきます。今後、嶽水(本山注、嶽は比叡山、水は鴨川のこと、わがゼミ生の研究サークル名もこのひそみにならっている。竜鴨山(りゅう・おう・ざん)という。九頭竜川・鴨川・白山・吉田山をかけたものである)會雑誌を調べ、当時の三高生の気風と伊波普猷の生活をリアルに描きたいと考えております。今後とも三高について色々、御教授くださることを願っています」(後略)。



 三高と縁の深い京都大学、しかも、河上肇を追放した経済学部出身者で、またそこの教職に身を置いた経験のある私にとって、河上肇との交友を基礎に、伊波の三高との関連を描いて下さった氏の著作は本当にうれしい。

 ただ、伊波のこの歌の自負心には、いささかかなり違和感を私はもつ。

 研究は、喜びよりも苦しみの方が大きい。苦しみの主たる原因は、「自分の泉」を発見できないことにある。研究者たるもの、誰でも、自分の泉を求めている。しかし、発見できないでいる人の方が、泉を見出した人よりも圧倒的に多い。とくに、教育者は、このことに注意しなければならない。若い人たちが自分の泉を求めて、のたうって苦しんでいるとき、「自分の泉を掘らねば駄目だ」と言って突き放してしまえば、その若い研究者は挫折してしまう。

 伊波普猷を私は心から尊敬している。しかし、この人は、ときどき言葉を不用意に使う。初期にアイヌ人批判などその最たるものである。この歌もその1つに属する。

 このブログを読んで下さっている若い人たちに、以下の励ましの言葉を贈りたい。

 「泉は存在していない。存在していないものを胸中に求めることはできない。泉は新しく作るものである。自分の全人生が泉なのだ。そして自分が作り出した泉は人々の共有財産である。善良な人々に汲んでいただく泉を作ろう。泉は、論文だけではない。論文作成を通じて心を向上させてきた自分の生活そのものである。自分の生涯が作品であり、その作品を他の人々が飲める水にすべく、文章にして伝達することに腐心すること。それが大事なことである。勉強のできる人は、それこそ、ごまんといる。しかし、勉強もできて崇高な精神と優しさを兼ね備える人はほとんどいない。

  往々にして優れた研究者は、とてつもなく他人に厳しい。そうすることが学問の気高さを保持していると錯覚しているのである。本人の5メートル以内に入るこむことに私が躊躇する『偉大な』研究者はじつに多い。ほとんどがそうだと言い切ってもいい。

  真の研究には、他への「共感」が不可欠である。その人の研究が残れば、人は和むものである。人を追い立てる研究業績は、それこそ害悪である。自分で自分を苦しめても、けっして、人を苦しめてはならない。人を和ます作品は、自らが苦しみに呻吟する生活からのみ生まれる。誤解を恐れずに言う。自分の境遇を売り物にするような人になってもらいたくない。伊波普猷がそうした、人品卑しい人であったはずはないが、沖縄の人が沖縄学にとどまり、在日の人が母国のことだけを研究していては、言霊は生まれない。独自のフィールドはもつべきである。でも、フィールド研究を共通の精神にまで昇華させてこそ、自らの研究は人類に貢献できる。小さなフィールドにとどまる、小さな研究者にはならないで欲しい。ちなみに、大きな研究者と著名人とは異なる。無名でいい。しかし、高尚な姿にまで育まれた無名の精神は、地域を越え、時代を超えて、人々を潤す水になる。そのさい、往々にして原作者の名は忘れられる。それでいいではないか。あれは私が作ったのだと密かに誇りをもてばいい。私がウィキペディアを愛するのもその理由による」。

 伊波普猷の言葉尻を捕らえた感がなきにしもあらずであるが、歴史上の著名人がほとんど若い人を育てなかったことに私はこだわる。



  最澄と空海との差を私は重視する。河上肇とニーチェとの差を私は痛いほど理解できる。

福井日記No.96 女性に、もてたらしい伊波普猷 

2007-04-20 00:25:33 | 言霊(福井日記)

 伊波普猷ほど力と実績がある人が、大学に職を得ることはできなかった。親友に金田一京助がいながらである。なぜなのかはまだ不明である。駆け落ちをした冬子夫人と東京小石川の借家で清貧そのものの生活を送っていた。

 東大を卒業後直ちに那覇に帰った。1906(明治39)年、伊波30歳であった。そして先に東京に出ていた真栄田忍冬(まえだ・にんとう)(大正13年、伊波が図書館長をしていた沖縄県立沖縄図書館を辞めたて上京、司書の仕事を得ていた)を頼って、1925(大正14)年、図書館を辞職し、49歳で上京、その後、1947(昭和22)年、焼け出されて比嘉春潮の家に寄寓していた時に脳溢血で死去(71歳)するまで、那覇には帰らなかった。冬子が入籍できたのは、1944(昭和19)年、伊波68歳の時であった。東京空襲、沖縄戦の前年であった。大学の非常勤講師をしていたが、ずっと無職であった。

 彼には、妻がいて、伊波と冬子は深く傷ついていた。故郷の人たちは、彼らを白眼視していた。比嘉美津子『素顔の伊波普猷』(ニライ社、平成9年)にそうしたことを想像される記述がある。


 昭和10年か、11年の秋、目黒にあった日本民芸館で、「尚家の宝物展」が開催された。そこで、夫婦と美津子(冬子の従姉妹)の3人は、漢那憲和と遭遇した。何十年ぶりの再会であった。漢那は、


 「伊波先生のお顔を見て、入って来ようとされた瞬間、そばに座っている冬子夫人の姿を見るや、ちょっと不愉快そうなお顔をされ、伊波先生にはアゴをしゃくるような格好をされて、さっと向こうへ行ってしまわれた。・・・先生は大変苦渋に満ちたお顔をされ、天井の一点を見つめて、静かにタバコを吸っておられた。そして、夫人はうつむいて、じっと何かに耐えているような面持ちで、固くなって座っておられた。・・・親友同士、お互いに手を取り合って『やあしばらく』と話し合われる場面があってもよさそうなものを・・・。その後、この事件について、三人で話し合ったことは一度も無い」(同書、63~65ページ)。

 住谷一彦に至っては、とてつもなく厳しい。
 キリスト教に帰依しようとしながらできなかった伊波を住谷は批判し、忍冬との出奔を、「人格破綻」と一刀両断している(同氏『日本の意識―思想における人間の研究―』岩波書店、1982年、118ページ)。


 ただ、伊波は本当によく女性にもてたようである。なんと伊波を心から尊敬していた比嘉美津子は、「伊波普猷を廻る五人の女」の名前を挙げ、その他にも何人も伊波を慕っていた女性がいたとまで書いている(前掲書、142~50ページ)。



 その5人の一人、金城芳子が漏らす。
 「先生は恋愛が学問に対する意欲を層一層かきたてて、第二の人生に立ち向かわしたと、おもらしになったことがあったが、このことは、はたの目からはいろいろな評価がなされているようである」(『伊波普猷全集・第6巻』月報6、平凡社、1975年)。



 冬子夫人の伊波追悼詩がある。
 「はらからの行衛もしらぬ戦ひに 山川はかたち失せたりとも 骨肉の哀しきが待つ ふるさとにかヘり住まむ 山原に小屋しつらひて 残る世をへむと 静かなる日を夢みてありしか ああただひととせの命を神はあたへず」(沖縄と共に)(比嘉前掲書、158ページ)。

 

 骨肉の悲しみが故郷にはまだある。でも、故郷の山原に帰りたい。静かに生を終えたい。でもできなかった。


 「人を傷めなければならなかった私の愛は 自らの鞭に呻吟し 他人に歪められ いちばん身近なあの人を悲しませた・・・中略・・・私は世間の非難に心をふるわせながら それに反発し心を固くしてゐた そういふ時あの人は憐れみと切ないほどの 愛情をこもった目ざしで私を見守った・・・中略・・・」(同、162~63ページ)。

 
  正妻は「マウシ」という。病弱であった。マウシは、1941(昭和16)年逝去した。その3年後に冬子は入籍してもらっている。同居して21年経過後にである。
 図書館長を辞任して、上京するとき、伊波は、

 
  「たとひ郷里の墳墓には葬られなくても、郷里の人たちの頭の中に葬られるやうにしよう」と言っている(西銘圭蔵『伊波普猷ー国家を超えた思想』株式会社ウィンかもがも、2005年、伊波普猷年譜)。

 
  これは私の独断と偏見であるが、日本では眉目秀麗な男子は組織では出世しない。女にもてる美男の部下を上司が毛嫌いするであろうからであると思う。男の嫉妬ほど始末に負えないものはない。

 
  宗教が女性を遠ざけたのも私のように老人になるとその深い意味が分かるようになった。久米の仙人の話は古今東西の真理であろう。

 
  「『沖縄女性史』は日本における女性史論では嚆矢をなすものの1つである」(西銘、前掲書、43ページ)。



 『沖縄女性史』(小沢書店、1919年)では、女性の参政権の確立、遊郭の廃止を強く訴え、与謝野晶子に献本している。




  女性の歴史における積極的な貢献を論じたものである。
ちなみに、伊波は、比嘉美津子の述懐によれば、金で買われた女性の悲劇を意識し、当時、3000人の女性を抱えていた辻遊郭には入ったことがなかったという。当時、辻遊郭は「ジュリヌヤー」と呼ばれていた。冬子夫人は、伊波のことを「センシー」(先生)と呼んでいた。21歳の年齢差があった。本当に、伊波は大変だったろうな。


 美津子は記している。
 「冬子夫人が『うちのシンシーは、一度もジュリヌヤーに留まったことはないそうよ』と言われたので、私は驚いて『ほんとうですかあ・・・』と疑ったが、伊波先生は『金で買われてきた気の毒な女と寝る気はしない』と、きっぱりと言われた」(比嘉、前掲書、141ページ)。

 そういえば、マルクスも似たようなことを言った。


 1922(大正11)年には、柳田国男が主宰する『櫨辺叢書』として『古琉球の政治』(郷土研究社)を上梓している。


 
これは、沖縄の祭政一致の歴史を綴ったものだが、古代沖縄では、宗教者、ノロの支配的地位を説明している。そして、琉球王国の正室、側室、そして遊郭の研究を行っている。若きインテリ女性たちはさぞかし、伊波に憧れたことであったろう。


 君子ぶって、住谷氏に与みするものではない。しかし、中学校のストライキにおける退学、そして、冬子との出奔、そのためか職を得ることができなかった悔恨。伊波の偉さはそれを愚痴っていないことである。マウシのことを知りたい。沖縄の研究者は、偉大な学者に踏みにじられた無学の糟糠(そうこう)の妻のことをもう少し書いて下さらないだろうか。


福井日記 No.95 「売らない」「汚さない」「乱さない」「生かす」

2007-04-17 23:50:39 | 言霊(福井日記)
 福井永平寺町にある私の下宿は、ひろい田畑に囲まれ、それはそれは美しい所で「あった」。

 「こしひかり」(越の光、つまり越前生まれ)はもとより六条麦蕎麦、大豆と、それこそ、季節毎に眼を楽しませてくれて「いた」。部屋から徒歩100歩ほどの小さな農業用水路には、蛍が乱舞し、それはそれは幻想的な景色で「あった」。

 この広い田園の中を、陽の光を満身に浴びながら、走り回るのが私の最高の楽しみであった。そして、こうした美しい景観はなくなった。過去のものになった。

 桜の美しい季節。その美しさが徹底的に破壊された。広大な田畑が深くえぐり取られ、なんと、砂利採取場に瞬時に変容させられたのである。

 ブルドーザーがうなりを立てて、土を掘り返す。なんてことをしてくれるのだ。そもそも、この広大な田圃は、莫大な国費を投入して、氾濫を繰り返して住民を苦しめていた九頭竜川の河川敷を埋め立て造成されたものである。それは、福井が世界に誇るべき鳴鹿大堰と一対のものである。そして、造成された土地は、田畑として、住民に配分された。先人の努力の賜である貴重な田畑が砂利採取場に変えられた。

 田畑を潤すために作られた用水路の設計は見事で「あった」。高低差を克服すべく何本もの用水路が、芸術作品のごとき繊細さで私を魅了して「いた」。

 嗚呼!なんてこと。
用水路は蓋をされて見えなくなり、田畑は深く深くえぐり取られて谷底のようになってしまった。田畑の土は、汗の結晶である。それが無惨にも壁のように、うずたかく積み上げられてしまった。美しい景色が一瞬にして消え去った。なにもかもが終わった。真の財産がなにかを知らないまま、短期的な金銭でのみ土地が破壊される。田畑を造成する誇るべき公共事業が無に帰し、元の川底に戻ってしまった。いや、川ならまだ美しい。すり鉢地獄になってしまった。

 私が福井日記を書き出したのは、この地の、とてつもなく美しい景色に感動したからである。この感動を多くの人に伝えたかったからである。がっくりくる。今年の梅雨時、あの信じられないほど美しかった蛍はもう見えないだろう。蛍の幼虫は、埋められて死滅したであろう。

 農業を維持できなかったのであろう、田畑を砂利採取業者に売った人は。離農者の田畑は、このような使用のされ方でいいものだろうか。地域計画とは、かくも力のないものなのだろうか。

 「売らない」、「汚さない」、「乱さない」、「壊さない」、「生かす」という住民憲章をもつ地がある。八重山諸島の竹富島である。地元では「たきどぅん」とか「たなどぅい」と発音されている島である。

 農民が理不尽な人頭税に苦しめられながらも、この島の歌謡舞踏はじつにおおらかなものである。子守歌ひとつをとっても、本土の子守歌は、子守をさせられる娘の恨み節ばかりなのに、この島の子守歌は、じつに美しい。美しい自然と子守をする娘と、そして幼児がみごとに美しく解け合っている。後で紹介する。

 1972(昭和47)年、本土復帰があった後、土地買い占めが横行した。NHKのドラマで有名になった島、あるいは石垣島、宮古島では、巨大資本が豪華なリゾート施設を作った。そうした動きに竹富島の人々は拒否反応を示した。

 「島外者に土地が買われたら島の自然・文化が変質し崩壊する」と危機感をもった人が立ち上がり、土地の買い占め・売り渡し反対運動を展開した(上勢頭(うえせと、昔の発音は「ういしどぅ」)芳徳(喜宝院蒐集館長)「竹富島のデータ」(『星砂の島』、第10号、平成18年、16ページ)。

 当時の島民が参考にしたのは、「妻籠宿(つまごしゅく)を守る住民憲章」であった。マスコミも取り上げてくれて、島民の運動は成功した。竹富島憲章制定委員会が設立され、1986(昭和61)年3月31日、住民総会の満場一致で竹富島憲章が採択された。これが、上の理念を基本形とするものであった。

 上勢頭芳徳氏の手記から『琉球新報』(1904(明治)37年)による竹富島の紹介を転載させていただく。

 「島民は競ふて能く農事に精励する点に至りては実に県下農民中稀に見る所・・・。人気亦活発にして能く旅客の応接に馴れ少しく諧謔の気味を帯ぶものの如し」。

 島民は、非常に勤勉な人々である。余所者への応対にも優れている。ユーモアを解すると絶賛されていた。

 そして、1906(明治39)年の同じく『琉球新報』。
 「人民一般に勤勉富裕にして犯罪者なく公費の未納者なし。道路清潔家屋の茅葺なるものは網を張て風害および鴉の害を防ぐ。戸毎の石垣には畢発(香料にする)茂生し葉は青く実の熟したるものは赤く村風の美と共に異彩を放てり」。
 まさにいまもこの光景が息づいている。

 この島には「うつぐみ」という言葉が多用されている
「一致協力」
という意味である。内にあっては協力をし、外からやってきた人にはユーモアで接し、歌や踊りでもてなす習慣がこの島には根付いていた。
 上勢頭芳徳氏は、同じ雑誌の別の手記で、竹富島の人口の変遷について述べている(同「竹富島憲章20周年―その今日的意義」(前掲、20~22ページ)。

 竹富島の人口は、1,000人前後で明治以前には推移していた。1904(明治37)年には1,114人であった。しかし、往来が自由になると、離島者が多くなった。特に昭和30年代の流出がひどかった。家を解体して石垣島に運ぶケースが相次いだ。1972(昭和47)年に316人、1982(平成4)年にはさらに減少して、251人まで落ち込んだ。これが史上最低の人数であった。その後は、ずっと増加し続け2006(平成18)年には、351人になった。これは、島外の資本に土地を売らない「竹富島を生かす会」の「金は一代、土地は末代」のスローガンに島民が強く反応したことによる。

 上記、竹富島憲章(1986年3月31日制定)と並んで「竹富町歴史的環境保存条例」が同年3月24日に町議会で可決された。

 中央官公庁がこれにいち早く反応した。国土交通省は、同年、「手づくり郷土(ふるさと)賞」を創設し、竹富町の家並みもその第1回の賞を受けた。文化庁は、1987(昭和62)年4月28日付『官報』で、竹富島の保存地区を告示した。地方の条例制定後1年で文化庁が呼応したのは、異例のことであった。

 民間団体も鋭く反応した。1988年4月、日本民藝協会の夏季学校が全国から参加者(約90名)を集めて合宿で開催された。同年、6月には、全国町並みゼミの第11会大会が島で開催された。そのときのテーマは、「語ろう町並み、広げよう『うつぐみ』の輪」であった。面白いことに、それまでの旅行会社による竹富島の観光パンフレットは、青い海と青い空であったのに、こうした全国の関心の高まりを反映して、赤瓦のものに変わった。若者がUターンしだした。人口350人ほどの島に、毎年6~8人の赤ちゃんが生まれる。非常に高い出生率である。戦後、日本人は、ついに美しい町並みを作ることができなかったのに、竹富町はそれを成し遂げた。

 竹富島憲章は、妻籠宿、白川村、川越市とともに、「全国町並み保存連盟」のモデルとなった。2002(平成14)年、同連盟は、「全国共通憲章」を制定した。

 上勢頭氏の感動的な文を引用しよう。
 「弱者を守るために、またきちんと伝えていくためにも、現役の世代が水面下の見えない所で必至にもがかなければ良い地域づくりは出来ません。争いを好まない島民性が、一致協力するという『うつぐみの心』を可能にしています。各人がそれぞれに生活圏なるものを主張すると、地域の風土に根ざした文化としての町並み警官を破壊します。土地、建物は個人のものであっても、景観はみんなのものです。個人のわがままが、みんなの生活圏を脅かすことが有ってはなりません。論議を重ねて人知を尽くした後は神仏、祖霊に委ねましょう。いずれその結果は子孫に現れるということは、島のみなさんが良くご存知でしょう」(同、22ページ)。

 至言である。そして、私が追い求めている宗教はまさにこれである。

 文化庁は、「手づくり郷土(ふるさと)賞」が20回目になったことを記念して、過去に受賞した地域の中で、この町づくり面で、もっとも持続・発展した地に大賞を授与した。竹富町がそれに選ばれた。

 『琉球新報』(2005(平成17)年11月29日付)を拾い読みしよう。
 「同賞は知己が一体となって個性や魅力を創り出している社会資本に贈られるもので、本年度で20回目」。

 八重島諸島には、年間71万人の観光客が訪れるが、「竹富島の家並みは・・・特に人気が高い。水牛車での移動など、昔ながらの沖縄の風景に『癒やし』を求めて多くの観光客が訪れる」。

 同島への観光客は1986年には約9万人であったのに、2004年には36万人に急増した。

 「竹富島では住民らが86年度に『うらない』、『こわさない』、『よごさない』、『みださない』、『いかす』という『竹富島憲章』をつくり、島の歴史や文化、自然を守ろうと、道路の清掃や除草、花木の手入れや、伝統的な祭の継承に取り組んでいる」。
 次回からは、島歌と踊りを紹介しよう。

福井日記 No.94 方言札

2007-04-15 22:59:55 | 言霊(福井日記)
 繰り返し強調するが、1872(明治5)年に、独立国であった琉球は、日本の「琉球藩」に組み込まれ、1879(明治12)年の「廃藩置県」で日本国の1県になった。先述の『沖縄タイムズ』(平成13年1月10日付)の解説によれば、これを期に、沖縄県の公用語は日本の標準語になり、その上で、県民に標準語を普及させること、つまり、「言葉による統一」を目指す、琉球人の「皇民化運動」が沖縄で展開された。

 これを受けて、沖縄県学務部が、1880(明治13)年、『沖縄對話』を編纂し、これをテキストにして、標準語を話せる教員を養成することを目的とした(特殊教員養成と呼ばれた)「会話伝習所」が設立された(後に、師範学校に吸収)。

 『沖縄對話』は上下2巻からなっていた。まず、標準語が記載され、それに対応した琉球語の訳がついていた。例えば、第1章第1回の「春」の項には次のような記述があった。

 「今日ハ 誠ニ 長閑(ノドカ)ナ天気デゴザイマス」。
  これは、
 「チュウヤ マクトニ エー デンチ デービル」、
の訳が付く。
 そして、対話として、
 「左様デゴザイマス 好キ 天気ニ ナリマシタ」。
 これには、
 「アンデービル イー テンチ ナヤビタン」
と訳が対応させられている。

 この琉球語は、「首里語」であると『沖縄タイムズ』は説明している。

 学校教育における「方言取締令」が定められた。
 
県立の沖縄一中では生徒の自治会が標準語を話すことを取り決めた。1907(明治40)年の頃である。そして、この頃から「方言札」が「標準語励行運動」の大きな梃子として使われるようになった。方言を使ったら、この「方言札」を首からつり下げられるのである。方言札を渡す人は、先生だけでなく、標準語を話す生徒もそうであった。まさに集団取締である。

 「みやら雪朗」氏が、氏のご母堂から聞かされた話を書いている。
 「尋常小学校では、よき日本人になるために、まず言葉から入った。島の言葉は禁止された。『方言撲滅運動』は言葉のみか、生活習慣までヤマト風に買えたという。
『方言札』を首から下げると、自分が劣等生になったようで、プライドを傷つけられたという。・・・・家庭で使っている島言葉をうっかり口にしないように、友人同士でさえも用心深くなり、そのため陽気な母も、学校では無口になった」(みやら雪朗「天(ていん)ぬ群星(むるぶし)や数(ゆ)みば数(ゆ)まりしが―私の『親守唄』をめぐる数々の歌―」、『星砂の島』第10号、平成18年8月、57ページ)。


 1939年になっても、まだ執拗に、沖縄県当局は、「沖縄県教育綱領」を作成した。そこでは、「標準語励行」が謳われていた。翌、1940年、当局は、それを「県治方針」、つまり、「挙県的一大運動」として大々的に展開したのである。

 1940年1月、柳宗悦らの日本民芸協会の一行が、沖縄県に入り、このときに、彼らは、県の「標準語励行」運動を知った。沖縄観光協会主催の座談会の席上、一行は、これに「行き過ぎがある」と批判し、同席した県当局者がそれに反発したことから、約1年にわたって中央も含む論壇で論争になった。

 民芸教会側は、沖縄の言葉は「伝統的な純粋な和語を多量に含有するもので、国宝的価値を有する」との理解を示した。そして、県のやり方は、「県民に屈辱感を与えるものとなるのではないか。地方語の価値を否定し、これをないがしろにするような態度には賛成できない」と県を非難した。

 県当局は、「県民が消極的になっている最大の原因は、標準語能力が劣り、発表力がないことであり、県外で誤解や不利益を受けているのもこのためである」と運動の正当性を擁護した。しかも、『沖縄タイムズ』によれば、県民の大半が県当局の姿勢を支持したという。琉球人は、自らの言葉自体を屈辱と見なしていたのである。ところが、本土の中央論断の雰囲気は、沖縄県当局を批判するものであった。

 柳宗悦(1889(明治22)年~1961(昭和36)年)は、東京市麻布区に貴族院議員である柳楢悦の三男として生まれた。父は彼が幼少の頃に亡くなったが、父の残した莫大な遺産によって家計は裕福であった。学習院初等科、中等科と進み、後に共に雑誌『白樺』を創刊する志賀直哉や武者小路実篤らと知り合った。学習院高等学科では、鈴木大拙や西田幾多郎に学び、1910(明治)43年、高等学科を卒業後、東京帝国大学文科に進む。また『白樺』はこの年に創刊された。

 東京帝国大学で哲学を専攻した柳は、宗教と芸術の関係に関心をもつようになる。1913(大正3)年、東京帝国大学卒業後、声楽家の中島兼子と結婚し、千葉県我孫子へと転居し、我孫子を芸術家コロニーにした。

 1919(大正8)年、『宗教とその真理』(叢文閣)を刊行、同年、東洋大学教授となった。その頃、朝鮮の独立運動を弾圧する日本の朝鮮政策批判の文章を書いている。

 1924(大正13)年、前年の関東大震災で被災した柳は一家で京都へ転居する。この年、甲州で木喰仏を見て研究を初めた。

 1934(昭和9)年、日本民藝協会を設立、会長に就任し、大原孫三郎(1880(明治13)年~1943(昭和18)年、実業家、現・岡山県立倉敷商業高等学校創設者、クラレ、中国銀行創業者、大原美術館創始者、大原社会問題研究所(現在の法政大学大原社会問題研究所)を開設)の援助などにより日本民藝館が完成した。

 「民藝」という言葉を生み出したことで有名。「自然に則る生き方」こそ、現世に生きる人間が「二にあって一に達する道」であると考えるようになる。それこそが「民藝」である。民藝は「下手物」、つまり日々の生活のなかで使われる道具であり、用に即することによって生まれる「用即美」である。そのような民藝は一部の天才的個人によって作られたものではない。名もなき民衆は、生活のために工芸品を作るなかで、深く土地の自然と交わり、自然へと帰依していく。自然に帰依するとき、美を生み出す力が与えられる。そこに無力な衆生が仏に身を委ねることで救われる「他力道」が現れる。柳宗悦の民芸論の心髄はここにあった(京都大学大学院文学研究科日本哲学史研究室、(宮野真生子記、2006年7月、http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/nittetsu/guidance/philosophers/yanagi_guidance.html)。

 本土でのし上がるためにも、標準語を習得しなければならないとの島人の心の屈折を理解せずに、外部の人間が、現地の標準語化を軽々に批判することは不用意である。しかし、せめて、琉球語を大阪弁なみに、本土で定着させることは、目指されるべきではないのか。このままでは、琉球語は完全に死滅してしまう。

福井日記 No.93 残さびらな・島くとぅば

2007-04-15 01:24:10 | 言霊(福井日記)

 私の子供たちを含めて、関西地方で育った最近の若い人たちは、東京に生活の拠点を置くようになっても、大阪弁で通す人たちが増えてきた。東京に出ると、ついつい慣れない標準語を話す努力をしてきた私などは、臆せずに大阪弁を使い、それを東京人も違和感なく(?)受け止めてくれている情況を、素直に喜んでいる。

 「スカタン」ばかりしてしまう我が子に「ホンマニ、アホヤナァー」といって、叱りと励ましと愛おしさの感情をないまぜにして表現しようとするには、どうしても、大阪弁が必要である。これを、「本当に馬鹿者が!」と、標準語でやってしまっては、微妙な感情がまったく伝わらなくなってしまい、親子関係が断絶してしまいかねない。

 確かに、標準語は明快である。異文化の交流には、標準語がふさわしい。
 
しかし、心の深い屈折したヒダを伝えようとするとき、どうしても自分が育った母国語(私の場合は、神戸弁、広島弁、土佐弁)を使ってしまう。標準語を話す東京人も、心の交情を願うときには、江戸っ子弁を使うはずである。

 人間には、文明と文化とが混在するものである。
 
文明とは、いまはやりの言葉で言えば、「グローバリズム」であり、文化とは「ローカリズム」である。標準語は「テキストファイル」であり、方言は「一太郎ファイル」である。悔しいことに「ワードファイル」は「一太郎ファイル」で読めるのに、「ワード」は「一太郎」を読まない。しかも、多くの日本人は、純国産の「ATOK」辞書ではなく、マイクロソフトの「IME」を使っている。そして、テキストファイルがすべてのワープロソフトを互換する。言葉に階層化が進行している証左である。

 はっきりした内容を正しく伝えるためには、標準語が必要である。それは伝達の必要性が増せば増すほど、単純化される。つまり、標準語は単純化され、英語に近づく。

  最近、レストランで、注文を確認するとき、ウエイトレスが、「・・・でご注文はよろしかったでしょうか?」と確認される。「おじん!」と嫌われることを承知で、私は、「・・・でよろしいでしょうか?」と言って欲しいと注文する。おそらく、外資系ファミリーレストランが、店員向けのマニュアルを英語で書いていて、丁寧語を「Would you like・・・?」としていたのであろう。それを日本のコンサルタントがそのまま訳したのであろう。現在形が過去形になる。日本語の丁寧語は、現在形を過去形にはしないという当たり前のことが忘れられている。

 最近、心臓が飛び出すほど驚いたことがあった。沖縄にいた時である。「ビールはよろしかったでしょうか?」と例によって、過去形で店員が聞いてきた。私は、これまた例によって、過去形を現在形に訂正させたことはもちろんであるが、そのあと、「いりません」と伝達すべく、「結構です」と言った。こういう情況下で、「結構です」というのは、「いりません」を意味することは、私どもおじんの常識である。ところが、店員は、「いいですね、結構ですね」と理解してしまったのであろう。なんとビールが出された。突っ返すことも可哀想なので、そのまま飲んだが、その時は「変な奴だな」という程度で腹立ちを抑えた。

 「もう嫌!」と思ったのは、それから2週間ほどして所用で別府に行った時のことである。同じような場面に遭遇した。そして、今度もビールが出た。

 私は聞いた。「失礼ですが、あなたは日本人ですか?」。この地は立命館が設立した国際系大学のお陰で外国人留学生がたくさんレストランで働いているからである。答えは「そうです」であった。「日本もこれで終わりだな。私の本など誰も読んでくれないだろうな」と心底哀しくなった。今回もビールを突っ返さず、それこそ、苦々しく飲んだ。そう言えば、最近の人は冗談が通じなくなった。講義で笑いを取ろうと冗談を言っても、学生諸君は、きょとんとして、「このおじん、なにを言っているの?」との反応しかしてくれない。標準語から、複雑な言い回しが急速に廃れてきている。

 それに対して、方言は、時代を経るにつれて複雑になる。京言葉の複雑さは、方言びいきの私ですら苦痛であった。

 
余所者の私には地獄だった。つまり、言葉は、自らと異なる人に対して話すのに、適しており、方言は身内のひそひそ話に適している。標準語の行き着く先はピジン・イングリッシュであり、方言の行き着く先は、島言葉か谷言葉である。

 それでいいのではないだろうか。文明だけだと人は窮屈になる。文化だけだと社会の発展はない。大事なことは、両者のバランス感覚である。

 平成13年1月10日から『沖縄タイムズ』、「残さびらな・島くとぅばのシリーズ記事を掲載した。間違っているかも知れないが、「残さなければ、島言葉を」という意味か。琉球語にも地域によって、発音がかなり異なり、一般化はできないが、「ハ」行は「H」ではなく、「P」とか「F」、あるいは、「B」と鼻音化する。「ノコサビラナ」の大和言葉表現は、まだ私の能力ではできないが、鼻音化が大きく影響していると思われる。

 しかし、「シマクトゥバ」なら分かる。琉球語では、短い母音であれば、「ア、イ、ウ、エ、オ」の下一段(エ)と下二段(オ)がそれぞれ「イ」、「ウ」と発音される。長い母音のときには、「エ」は「エー」、「オ」は「オー」である。「コトバ」の「コ」は「ク」、「ト」は「トゥ」と長母音化する。したがって、「コトバ」が「クトゥバ」になる。

 標準語が浸透するのは仕方がないが、微妙な言葉のやり取りから生まれる交情は、方言でなければ難しい。方言が死ぬことは、人情も死ぬことである。私は、そう思い込んでいる。この私の「思い込み」を沖縄の古老が同調してくれている。少し長くなるが、沖縄タイムズの上記号から転載させて戴く。沖縄タイムズは、音声でそれを聴かせてくれるので、同紙のサイトにアクセスして見てほしい(http://www.okinawatimes.co.jp/spe/kotoba20010110.html)。

 「せんごー、うちなーぐちぇ、しでーにすたれてぃ、やまとぅぐちさーにうちなーじゆうがはなしーするくとぅんかいなたん。くれーいいくとーやしが、うぬかわいしまぬしなさきわすれたん」。

 語尾を強く発音しつつ引き延ばし、中国語の四声のように大きな抑揚をつけ、リエゾンを多用する沖縄の言葉は、耳だけで聞くと、私が住んでいる越前の言葉にじつによく似ている。かつて、アイヌ語と琉球語との類似性が議論されたことがあるが、私には越前語もそう聞こえる。

  そして、音だけ聞いていると韓国の釜山にいるような錯覚に捕らわれる。言語学の素養などまったくない私が、感覚だけで推測することはよくないとは思いつつ、想像が楽しく広がる。ただし、よしんば私の推測が正しいとしても、それがどういう意味をもつのかは、いまの私の乏しい言語理解では、皆目分からない。

 この古老は、真喜志康忠さんである。「戦後」「センゴー」と抑揚をつけて伸ばしているのは、本当に越前語そのままである。

 「うちなー」とは、「おきなわ」である。先の型に従い、「お」は「う」である。「i」音の前後の「k」は、口蓋化して「ch」音になる場合が多い(規則ではない)。したがって、「き」は「ち」である。母音「a」で前後を挟まれた「w」音は脱落する。つまり「awa」は「aa」、「あー」となる。したがって、「おきなわ」は「うちなー」となる(琉球語、ウキペディア)。「グチ」は「口」、「口」は「弁」である。「うちなーぐち」とは、「沖縄弁」である。「ぇ」は「わ」が訛ったものであろう。「戦後、沖縄弁は」となる。「しでーに」は「sidaini」で、[ai」は韓国語と同じく「え」である。しかも長母音だから「えー」となる。「しでーに」とは「次第に」である。「すたれてぃ」は「廃れてぃ」、そして、語尾の「ぃ」は、「行き」が曖昧になったものであろう。「戦後、沖縄弁は次第に廃れていき」、「戦後、沖縄弁は次第に廃れてきた」と、ここまでは理解できた。

 「やまとぅぐちさーに」は、「大和口(言葉)などに」。おそらく、「さー」は「だってさ」、「それでさ」に当たる無意味な接尾語なのだろう。「うちなーじゅうがはなしーする」がすぐに分かる。「沖縄中が話しする」であろう。

 「くとぅんかいなたん」が難しい。「く」は「こ」、「とぅ」は「と」、「ん」は、神戸弁などが「なにしてるの?を、「なにしとぅん?」と発音するのと同じ類の接尾語であろう。

 そして、この「ん」とリエゾンした、「んかい」は「むかい」(向かい」である。「なたん」は「になった」、つまり、「ことに向かうようになった」、「ことになってしまった」、「沖縄中が話をするようになっってしまった」、「沖縄中で話されるようになってしまった」となろう。

 「くれー」は、「これは」、「いいくとー」は「いいこと」、「やしが」は京都弁で、「そうであった」を「そうやし」と発音するのと同じことなのだろう。「やしが」は、「そうではあったが」。つまり、「くれーいいくとーやしが」は、「いいことではあったが」となる。

  「うぬ」は、「その」である。「そ」が「す」になり、「す」の子音「s」が脱落したのであろう。「ぬ」は「の」である。「かわい」は、「代わり」である。「い」は「り」である。これも、朝鮮語を彷彿とさせる。周知のように、韓国語・朝鮮語では、「り」は「い」と発音される。「うぬかわい」は、「その代わり」である。

 「島ぬし」は、「島の」で、「し」は前の言葉を強調する接尾語である。「なさき」は「情け」である。「わすれたん」は「忘れてしまった」である。

 じつに、味わい深い文章ではないか。
 「戦後、沖縄弁は次第に廃れてきた。大和言葉が沖縄中で話されるようになった。それはそれでいいことではある。しかし、その代わり、島の人情が忘れられるようになってしまった」。

 言語学の素養がない私が勝手に解釈することは、繰り返し弁明するが、いいことではない。しかも、現代標準語を基本に、そこからの琉球語の乖離を解釈するのは、標準語を基本形、琉球語を標準語の変種であると前提してしまい、琉球語に対しては無礼に当たる。そういうことは重々承知しつつも、強力な漢字圏の影響下に置かれている琉球と日本、朝鮮半島などの言語運命共同体を私は意識しており、そうした次元を表現したかったからであり、けっして、沖縄の言葉を標準語の亜種であると決めつけているわけではないことを読者諸氏はご理解いただきたい。

 次回では、「方言札」のことを再説する積もりであるが、これに対する非難も軽々に出すことには慎重にならざるをえない。

 平成13年1月10日付『沖縄タイム』は、狩俣繁久・琉球大学教授の談話を掲載している。沖縄語が廃れたのは、

 「標準語励行などの歴史的なことより、近代化が原因。言語がどうやって生まれたかを考えればよいい。人頭税時代は人が動けなかったが、今では自由に動けるようになり、本土にも行けるし、違う地域の人と結婚もできる。そのため共通の言葉が必要になっていった」。

 言語学の大家が、いろいろな含みを意識しながら発言されたこの一文を、前後の脈絡を無視して、揚げ足を取ることは失礼である。しかし、私は、私たちの将来が英語だけになってしまい、日本語が廃れてしまうとは思いたくはない。神戸弁、大阪弁、広島弁、土佐弁が、まだ生きて、私の血肉になり、私の思考回路のすみずみを決定していることを私は意識している。 

福井日記 No.92 教育の郷土化 

2007-04-14 02:11:05 | 言霊(福井日記)


 伊波普猷は、東大を卒業後、わずか1年で沖縄教育界主催の講演会で、「郷土史に対する卑見」を披露した(1907(明治40)年)。

  年齢こそ32歳と、もはや壮年の域ではあったが、大卒1年目で教育界での講演というのは、大変な抜擢であっただろう。沖縄県で初めての文学士であるということもあったのかも知れない。

 ただ、伊波普猷は、学生時代からすでに数多くの論文を書いていた。
 「三高私説」というサイトがあるhttp://www2s.biglobe.ne.jp/~tbc00346/component/)。

  楽しいサイトなので、私はよくアクセスしている。三高関係者が集うサイトである。このサイトで、伊波普猷が三高生時代に、『琉球新報』に「海の沖縄人」(明治34年)、「琉球に於ける三種の民」(明治35年)、さらに三高の全学組織「嶽水会」の機関誌『三高嶽水会雑誌』第9号(明治34年)にも「琉球の歴史とその言語」を発表したと賞賛されている。 

  じつは、1903(明治36)年の三高卒業までに伊波普猷が発表した論文は、この3つどころではない。すでに、中学生時代に2つ、高校生時代には、上記3つを含めて5つある。大学生時代には、9編もある。確認されるだけでも、学生時代に16編もの論文を発表しているのである。おそらく、私が知らないだけで、実際には、これよりもはるかに多いであろう。

 中学生時代の論文は、「ペルリの日記を読みて(晨鐘録)」(『沖縄青年会報』、明治29年?)。「偉人の臨終」(『沖縄青年会報』、明治30年?)。

 高校生時代の論文は、上記3つの他に、次の2つ。「眠れる巨人」(『琉球新報』、明治34年10月20日付)。「支那人の琉球官生評」(『琉球新報』、明治3年?月?日)。上で紹介された「海の沖縄人」は、明治34年12月31日の『琉球新報』に掲載されたものである。

 大学生時代の9編は、明治38年に7編、明治39年に2編ある。明治38年の7編のうち、6編が『琉球新報』である。さらにそのうち、日付が確定しているものは、3編。「その折々」(4月15日)。「閑日月」(6月5日、7日、18日)。「阿摩和利考」(6月22日)である。日付が確定できない『琉球新報』論文は3編。「頌徳碑」。「浦添考」。「島尻といへる名称」である。新聞以外の明治38年の論文は、「琉球の神話」(『史学界』、第7巻、第1号)である(資料は、筑波大学図書館による)。

 明治39年の最終学年在学中には、2編ある。「琉球人の祖先に就て」(『東亜の光』)。「琉球の國劇」(『東亜の光』)である。

 圧倒的に『琉球新報』に投稿している。これは、伊波普猷たちの中学校ストライキを熱烈に支持したのが、同紙であったこと、沖縄中学の卒業生が数多く同紙記者であったことも影響しているのであろう。地元紙が国際的に通用する郷土史家を育て上げた。

 伊波普猷が石垣島で講演を行ったのは、1907(明治40)年8月1日のことであった。大学卒業後、この講演までに発表した伊波の論文を列挙しておこう。確認できたものは3編である。

 「伊波氏の琉球國劇談」(『沖縄新聞』、明治39年12月3日付)。「官生騒動に就いて」(『琉球新報』、明治40年4月2日)。「蔡温が久米村に与へし書簡」(『琉球新報』、明治40年?月?日)。

 つまり、講演の日までに、12編の発表論文を確認できる。そして、すでに伊波普猷は、「東京帝国大学で言語学を修めた沖縄初の文学士として、すでにその名声は聞こえていた」のである(三木健『八重山研究の歴史』(やいま文庫5)南山舎、2003年、30ページ)。

 そして、先で触れたように、「郷土史に対する卑見」の講演を行う。講演は、石垣島で行われた。講演で伊波普猷は「郷土化しない教育は、砂上の楼閣にも等しい」と力説した(『沖縄新聞』、明治40年8月1日の講演として紹介記事)。

 この講演を聴いて感激したのが、石垣島・登野城尋常小学校教師(正規の教師を訓導といった)の喜舎場永(きしゃば・えいじゅん)であった。

 自著(『八重山島民謡誌』郷土研究社、大正13年)の序文で喜舎場が告白しているように、当時、文部省の命令で、先島諸島の各小学校は、民俗調査を行う教師を選出しなければならなかった。喜舎場永がその任に当たらせられたのが、1906(明治39)年のことであった。彼は、それが苦痛であった。貧乏籤をひかされた思いであった。義務的に民謡を蒐集するだけであった。かすかに興味らしき感情が起こってはいたが、基本的にはまだ嫌な気持ちであった。そうした思いをもっているときに、伊波普猷の、郷土史研究が教育の基本理念であると力説した講演に接したのである。

 「教育家は郷土の研究が第一歩であると親切に教へて下さった」、「私の郷土史の種子は、正しく某の時の先生によって蒔き下ろされたのである」(同)。

 伊波普猷の知遇を得た喜舎場永は、1912(明治45)年に「鷲(ばし)ユンタ」の作者捜しを伊波普猷から依頼される。伊波普猷は1911(明治44)年から沖縄県立図書館長になっていた。

 ユンタとは、八重山古民謡にある労働歌である。男女が交互に謳う合唱である。元々は三線は使用しなかった。「読み歌」、「結い歌」が語源であろうとされている。八重山諸島の竹富島の「安里屋ユンタ」が有名である(「沖縄大百科」、http://word.uruma.jp/word/)。

 「鷲ウンタ」を紹介しておこう。
 「大山(うふやま)ぬなかなんが 長山(なあやま)ぬうちなんが 大(うふ)あこうぬむようり なりあこうぬさしようり 本(むと)みりばぴとむと 枝みりば百枝(むむゆだ)」

 現代内地語に訳そうとしたが、まだいまの私には無理である。言霊シリーズが進むうちに読めるようになるだろう。

 「巡査が戸口調査するように必死になって」(喜舎場永『八重山民謡誌』沖縄タイムズ、1967年、序文)調査した結果、石垣市大川の与那国御嶽(ユノーオン)の神司であった仲間サカイ女が1762年に詠んだ叙事詩が「鷲ウンタ」であり、それから87年後に大川の宜味信智が、原歌の「鷲ウンタ」を改作したのが、現在歌われている「鷲の鳥節」(バシィヌトゥリィブシィ)であるということが分かった(太平洋資源開発研究所編『八重山小百科・石垣島』、http://hateruma-kaiun.web.infoseek.co.jp/bashi.html)。

 この報告に感激して、伊波普猷は、「鷲の歌」(『沖縄毎日新聞』明治45年4月3日付)を書いている。ところが、八重山測候所所長の岩崎卓爾が、「鷲の鳥節」の別の歌詞の存在を伊波普猷に知らせた。これは、伊波普猷には衝撃だったと思われる。以後、伊波普猷は、民謡のオリジナルの作者捜しを止めることにした。依頼された喜舎場永にはショックだったろうが、確かに、オリジナル探しはそれほど意味があるとは思われない。誰かが最初に作ったのであろうが、たちまち、時代差、地域差によって、民謡は変えられるものである。正調節と粋がることほど馬鹿らしいものはない。正調自体が、かなり変容させられているだけで、権力によって、正調と認定されただけのことである。これは、いまの「君が代」の歌にも言える。

 民謡は、「社会の産物になっている」のだから、変化したものの「正不正」をあげつらうのは空しいと伊波普猷は後年、述懐している(『古琉球、改訂』青磁社、1942年)。

 伊波普猷は、喜舎場永に、作者捜しではなく、ひたすら民謡を蒐集するようにと、アドバイスを変えた。懸命になった調査報告にもかかわらず、命令を変えた伊波普猷に対して、喜舎場永はくさらずに素直に従い、民謡蒐集に打ち込んだ。それが、じつに、60年後に完成した2つの大著なのである。先述の『八重山民謡誌』と『八重山古謡』(沖縄タイムズ、1970年)。小学校の先生を務めながら、郷土研究の華を開花させたのが、喜舎場永であった。

 伊波普猷に一種の思想変更を促した岩崎卓爾も巨人であった。1869(明治2)年に仙台市で生まれた岩崎は、石垣島測候所で台風の研究をしながら、40年間、死ぬまで石垣島に留まり、動植物の研究を続け、石垣島で1937(昭和12)年に没した。墓は、郷里の仙台にあるが、曹洞宗の戒名が素晴らしい。じつに粋な僧侶がいたものだ(泰心院が菩提寺)。「袋風院卓舟蝶仙居士」が戒名である。石垣の自然観察で山野を駆けめぐった岩崎への賛辞としてピッタリである。石垣島地方気象台の庭に胸像が建っている。

 岩崎の名に因んで付けられた八重山の動物の名を列挙しよう。
 「イワサキワモンベニヘビ」、「イワサキゼミ」、「イワサキヒメハルゼミ」、「イワサキオオトゲカメムシ」、「イワサキカメムシ」、「イワサキシロチョウ」、「イワサキコノハ」、「イワサキカレハ」「イワサキキンスジカミキリ」等々(「雨男通信・資料の音色」、http://homepage2.nifty.com/ameotoko/ameotoko.htm)。

 伊波普猷に鼓舞されて郷土研究を基本とした教育に邁進した小学校教師を後2人紹介しよう。

 まず、比嘉重徳(ひが・じゅうとく)。彼は、1875(明治8)年、那覇上之蔵に生まれ、沖縄県尋常市販学校を卒業して教師になり、1906(明治39)年、沖縄本島の校長になった。八重山には、本島の郡視学として赴任している。

 郡視学とは、明治23年の「小学校令」に基づいて設置された、小学校の管理・監督を職務とする官職である。明治21年に市制・町村制が、明治23年に府県制・郡制が確立させられてた。これを受けて、明治19年に暫定的に決められていた小学校令が、明治23年に新たな小学校令と「地方学事通則」が設定された。小学校令はそれまでの16条から96条にまで大幅に拡大され、昭和16年の「国民学校令」まで続くことになった。約50年間もこの制度が続いたのである(「文部省『学制百年史』、http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/hpbz198101_2_045.html)。

  したがって、郡視学とは、中央権力を背景として、政府の命令通り地方の小学校がきちんと法令を遵守しているかを監視する類の職務である。

 比嘉にはそうした権力志向はなかった。八重山研究に夢中になった。
 『八重山郡誌』(1910(明治43)年、『八重山の研究』(1915(大正04)年)を出している。前者は27ページ、後者は50ページのパンフレットである。そして、後者の序文には、伊波普猷の推薦文が掲載されている。比嘉が、沖縄県でなくてはならない教育者であり、郷土研究家であると、伊波普猷は絶賛している。

 この2つの書物は、単なる民族誌ではなく、明治政府の行政批判を意識したものである。1908(明治41)年に、特別町村制によって、王朝時代の「間切」によって区分けされていた石垣、宮良(みやら)、大浜(おおはま)、与那国(よなぐに)の4島が、「八重山村」という1つの郡に合併させられている。その2年後に、『八重山郡誌』を比嘉は作成している。

 この4島全部を1郡に合併させたことは行政的に失敗であった。そこで、1914(大正3)年に、この1郡は、再度4島に区分けされることになった。

 
宮良が「竹富」と呼称変更されて4村に戻ったのである。そして、その翌年に比嘉は、『八重山の研究』を出している。内容的には、第1章が「八重山の地文」、第2章が「八重山の人文」、第3章が「八重山の島々」、第4章が「八重山の史片」、第5章が「八重山の言語」となっている。第4章がすごい。人頭税と多子免税のことが論じられている。地元の悲惨さを直視しない中央の行政はことごとく破綻する運命にあることを糾弾しているのである。

 比嘉の代表作は、『先島の研究』(日乃出出版社、大正13年。『宮古の研究』、『先島の研究』の合一本)である。

 もう1人の小学校教師、宮良長包(みやら・ちょうほう)をも紹介しておこう。彼は、小学校の先生を務めながら、「近代沖縄音楽の先駆者」となった。1883(明示16)年、石垣島新川(あらかわ)で生まれた彼は、1907(明示40)年、沖縄師範学校を卒業すると、郷里の大川尋常小学校(後の登野城尋常高等小学校、喜舎場永の職場と同じ)に赴任し、八重山の古謡、民謡を五線譜に写し取った。

 八重山での教師時代に、「教育唱歌の研究」(『沖縄教育』660号、1911(明治44)年)、「沖縄音楽の沿革及び家庭音楽の普及策」(『沖縄教育』670号、1912(明治45)年)を発表している。

 主著は、八重山出身の言語学者、宮良當壮との共著、『八重山古謡』第1輯・第2輯、郷土研究社、1927(昭和2)年)である(三木健、同上、33ページ)。

 それにしても、伊波普猷が沖縄に帰ってきてからの、短期日に、とてつもない俊秀たちが、琉球に輩出したことをどう理解すればよいのか。偶然のことではないとすれば、人を地元研究に駆り立てる情熱とはなになのか。地域史を超えた巨大なテーマである。

 小集団を核とした所から一群の新しい文化が発信され、それを受信する人たちが加速度的に増えて行く。古今東西いすれの地にも、いずれの時にも見られる共通現象。そこにはどういう秘密があるのだろうか。
 本シリーズを「言霊」と名付けた意味もここにある。


単行本の部,147,総記,比嘉重徳,先島の研究 その他,沖縄日の光新聞社,,,23.5,151,,,,,,,
単行本の部,288,歌謡,宮良長包,八重山古謡 第1輯,郷土研究社,昭和03,,19.5,128,,,,,,,
単行本の部,289,歌謡,宮良長包,八重山古謡 第2輯,郷土研究社,昭和05,,19.5,276,,,,,,,
,Ⅲ-3,Ⅲ 記録,解説,報告,書簡,3 沖縄,比嘉重徳,,国頭郡誌,,,,,,,大正03,,UL/TUL/CMO,,,,,,,
,,,289,Ⅲ-3,Ⅲ 記録,解説,報告,書簡,3 沖縄,比嘉重徳,,中頭郡誌,,,,,,84,大正02,,UL/YUL/CMO,,,,,,,

単行本の部,147,総記,比嘉重徳,先島の研究 その他,沖縄日の光新聞社,,,23.5,151,,,,,,,
単行本の部,288,歌謡,宮良長包,八重山古謡 第1輯,郷土研究社,昭和03,,19.5,128,,,,,,,
単行本の部,289,歌謡,宮良長包,八重山古謡 第2輯,郷土研究社,昭和05,,19.5,276,,,,,,,
,Ⅲ-3,Ⅲ 記録,解説,報告,書簡,3 沖縄,比嘉重徳,,国頭郡誌,,,,,,,大正03,,UL/TUL/CMO,,,,,,,
,,,289,Ⅲ-3,Ⅲ 記録,解説,報告,書簡,3 沖縄,比嘉重徳,,中頭郡誌,,,,,,84,大正02,,UL/YUL/CMO,,,,,,,
,,,290,Ⅲ-321,Ⅲ-4,Ⅲ 記録,解説,報告,書簡,4 先島,比嘉重徳,,八重山郡誌,,,,,,28,明治43,,HgL,,,,,,,
,,,322,Ⅲ-4,Ⅲ 記録,解説,報告,書簡,4 先島,比嘉重徳,,八重山の研究,,,,,,50,大正04,,CMO/UL,,,,,,,
,,,323,Ⅲ-4,Ⅲ 記録,解説,報告,書簡,4 先島,比嘉重徳,,宮古の研究,,,,,,61,大正07,,UL/DL/CMO,,,,,,,
,,,341,Ⅲ-


福井日記 No.91 鳥居龍蔵

2007-04-09 21:29:56 | 言霊(福井日記)
  琉球大学付属図書館が、平成7年3月1日~10日に開催した伊波普猷展用に、伊波普猷の略年譜と、同大学図書館に所蔵されている文庫の目録を作成している。これらは、同大学のホームページ(http://www.lib.u-ryukyu.ac.p/)で閲覧できる。同図書館が作成した略年譜は、以下の文献を参考にしたものである。

 金城正篤・高良倉吉『沖縄学の父・伊波普猷』(センチュリーブックス:日本 39)清水書院、1972年(これは、清水新書として1984年に再刊されている)の巻末年譜。

 外間守善編『
伊波普猷人と思想』平凡社、1976年、所収の略年譜。
 比屋根照夫『
近代日本と伊波普猷』三一書房、1981年、所収の年譜。
 上記の年譜以外に、以下のものがある。
 伊波普猷生誕百年記念会『
伊波普猷 - 伊波普猷略年譜・主要著作一覧』沖縄文化協会 、1976年。
 伊波普猷生誕百年記念会『
沖縄学の黎明』沖縄文化協会、1976年。

 今年から、日本の大学の中身が急激に変えられる。せめて、琉球大学の沖縄学のような個性的な研究組織を、全国の大学が失わないでいて欲しい。

 
どの地域にも、郷土学は必要である。人は、実学とともに「カネにならない学問」をも必要とするからである。哲学・歴史・文学・社会・民族学のない大学、また、もとうとしない大学は、学問をけっして発展させず、出世亡者か、刹那主義者ばかりを輩出するだけであろう。

 前回で紹介したように、1895(明治28)年、伊波普猷は沖縄中学から退学処分を受けた。退職処分を受けた漢那憲和、伊波普猷、、照屋宏(1875(明治8)年~1939(昭和(14)年)、西銘五郎(1873(明治)6年~1938(昭和13)年)の4人のうち、復学していないのに、奈良原県知事の特別の計らいで中学卒の資格を得た漢那憲和は、翌年に海軍兵学校に入学する。

  伊波普猷ら3人は、復学も許されないので、3人揃って、同年の8月、上京する。上京しても、編入させてくれる中学はなかなか見つからず、当時、上京してきた沖縄中学の和田校長の懸命の努力で、やっとのこと、明治議会尋常中学に編入でき、1897(明治30)年に卒業できた。伊波普猷はもう22歳になっていた。

 卒業した3人のうち、照屋宏だけが一高に入学できた。伊波と西銘は一高の入学試験に落ちた。伊波は、強いノイローゼに罹り、3年間もの浪人生活を送り、1900(明治33)年三高に入学した。25歳であった。入学後もノイローゼに苦しむ。仏教やキリスト教の宗教書をむさぼり読んだ。  

 ここで、照屋宏と西銘五郎のことを書いておく。
 東大工学部を卒業した照屋宏のことは残念ながら、まだ、よくは分からない。ただ、台湾の「後山鐵道風華文化資産數位博物館」に、1907(明治40)年3月、鉄道技師をしていた照屋宏が台湾鉄道台東線建設の調査をしたという記録が残っている。この鉄道は1908年に第一期工事が開始され、1919(大正8)年に完成という、7年4か月、総工費434万円(日本円)の大事業であった(http://www.cultural.hccc.gov.tw/railway/)。

 照屋宏は、1931(昭和6)年から1935(昭和10)年まで、第5代那覇市長を務めた。市長時代に、那覇市上水道を完成させている。通水開始の記念碑、「瑞泉潤民」(ずいせんじゅんみん)は彼の揮毫による。「瑞泉」とは、「めでたい立派な泉」、「潤民」は、「人々の生活を潤す」という意味である(ラジオ番組「那覇市民の時間」、http://www.city.naha.okinawa.jp/wk_simin/siminnojikan/y2003/m05/onair030503.htm)。
 西銘五郎は、沖縄本島知念岬の東海上5.3kmに浮かぶ、周囲8kmの細長い小島、久高島(くだかじま)に生まれた。

 この島は、琉球の創世神アマミキヨが天からこの島に降りてきて国づくりを始めたという、琉球神話聖地の島である。琉球王朝最高の聖地斎場御嶽(せいふぁうたき)も、この久高島を遥拝する構造になっている。島内には御嶽(うたき)、拝み所(うがんしょ)、殿(とぅん)、井(かー)などの聖地が散在しており、中でも島中央部にあるクボー御嶽は久高島第一の聖域であり、男子禁制である。

 久高島は、琉球王朝に作られた神女組織「祝女(ノロ)」制度を継承し、12年に1度の秘祭イザイホーを頂点とした祭事を行うなど、女性を守護神とする母性原理の精神文化を伝えており、民俗学的に重要な島である。イザイホーは、午(うま)年の旧暦11月15日からの6日間、島の30歳から41歳までの女性がナンチュという地位になるための儀礼として行われる。それにより一人前の女性として認められ、家族を加護する神的な力を得るとされる。

 ただしイザイホーは、後継者の不足のために1978年に行われた後、1990年、2002年は行われていない。

 久高島は海の彼方の異界ニライカナイにつながる聖地である。この地の穀物は、ニライカナイからもたらされたといわれている。『琉球国由来記』(1713年)によると、島の東海岸にある伊敷(イシキ)浜に流れ着いた壷の中に五穀の種子が入っていたと記載されており、五穀発祥の地とされる。島の伝承では、流れ着いたのは壷ではなく瓢箪であり、それをアカッチュミとシマリバという名の夫婦が拾ったともいう。また、年始に男子1人につき伊敷浜の石を3個拾い、お守りとして家に置き、年末に浜に戻す儀式がある。

 久高島の土地は村有地などを除いてすべて共有地であり、琉球王朝時代の地割制度が唯一残っている島である。「久高島土地憲章」により分配・管理が行われている。

 島内は観光開発がほとんどされず、集落は昔ながらの静かな雰囲気を残している(ウィキペディアより)。
  沖縄大学人文学部教授・緒方修ゼミナール生の記述に依拠して西銘五郎を紹介する( http://www.okinawa-u.ac.jp/~ogata/flash2005/oshiro/2.html)。

 そもそもの彼の名前は徳太であった。トクーと呼ばれていた。トクーは父母を幼い頃に失い、祖父に育てられた。父は、シムグワと名乗っていた。屋号をスルバンといった。スルバンというのはシュリバン(首里番)か、スラバン(造船所の管理人)から転訛したと考えられる。祖父は首里王府の船頭であった。

 島には与那嶺のヤマガーと呼ばれる私塾があり、トクーは学校に入るまで学んだ。トクーは幼いときから神童の評判が高かった。

 西銘徳太の幼名はトクーであったが、西銘五郎という名前で呼ばれていた。五郎は1891年(明治24年)の4月に沖縄県尋常中学校(一中・現首里高校)に入学し、那覇区字西64番地に特別に寄留が許され、そこで祖父と共に住んでいた。その頃、五郎は17歳になっていた。伊波と同じく一高受験に失敗した西銘は、明治法律学校(現在の明治大学)に入学した。

 五郎は明治専門学校を卒業後、1898(明治31)年、25歳のときに、第1回の直接渡米者の比嘉統煕に遅れること2年、第2回の直接渡米者として百名朝興、名護朝助、安元実徳と一緒に渡米し、サンフランシスコに上陸した。

 その頃には五郎は西銘徳太という名前になっていた。
 そして徳太は現地の人の家庭で働き、英語を習得した後、県人初となるオークランドでレストランを開いた。1902(明治35)年、サンフランシスコに北米初の県人会を創立して会長に選ばれた。1908(明治41)年、カナダから南下して来た県人とメキシコから入国して来た県人をも含む南加沖縄県人会を作り、その会長になった。
 1910(明治43)、アリゾナに砂糖大根(テンサイ)の仕事を受け、上間清十郎と共に15名ほどの団体を作って仕事をした。これが県人農園の初めである。アリゾナのレタスは質が良いことで有名だが最初にレタスを試作したのは徳太である。徳太は、1938(昭和13)年)になくなった。

 伊波普猷に話を戻そう。
 1903(明治36)年、三高卒業後、伊波普猷は、現役で東京帝国大学文科大学に入学し、言語学を専攻した。この頃、田島利三郎先生から「琉球語学材料」を譲り受け、オモロ研究に熱中する。

 東大では、非常に優秀な教師、先輩・友人に恵まれた。 
 東大には、英国人、バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain、1850~1935年)による琉球語研究の伝統があった。  


 チェンバレンは、1873(明治6)年に来日、個人の英学教師をした後、1874(明治7)年に海軍兵学寮の英学教師、1886(明治19)年、東大教師に採用された。1890(明治23)年まで雇用された。後の文学部国語学研究室の基礎を作った。1891(明治24)年、外国人として最初の東京帝国大学名誉教師となった。和歌をよくし、日本語(含アイヌ語、琉球語)についての研究業績や日本文化の紹介などを、日本アジア協会・ロンドン日本協会・英国人類学会などに発表した。また日本語ローマ字化運動を積極的に推進し、文部省に対して建議書を提出した。

 ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)は日本での親友であった。同氏との往復書簡が東大に所蔵されている。『古事記』を英訳している(http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai97/chamb.html)。

 このチェンバレンの琉球方言に関する研究についての講義を上田萬年(先述)が東大の「言語学講義」で行っていた。この講義を伊波普猷は聴いていた。伊波普猷と並んで聴講していたのが、鳥居龍蔵(とりい・りゅうぞう、1870(明治3)年~1953(昭和28)年)であった。

 現在の徳島県徳島市東船場のたばこ問屋の次男として生まれた鳥居は、小学校中退の学歴しかない。独学で人類学を学んだ。1893(明治26)年に東京帝国大学人類学教室の標本整理係として人類学教室に入った。1895(明治28)年の遼東半島の調査を皮切りに、台湾・中国西南部・シベリア・千島列島・沖縄など東アジア各地を精力的に調査した。中でも満州・蒙古の調査は鳥居と彼の家族のライフワークとも言ってよいほど、たびたび家族を連れて調査に訪れている。妻のきみ子も鳥居の助手として働き、女性人類学者として近年評価が高まっている。

 1898(明治31)年)、東京帝国大学の助手となり、1921(大正10)年)、「満蒙の有史以前の研究」で文学博士を授与。1922(大正)11年、東京帝国大学助教授となったが、大学と対立、2年後の1924(大正13)、東京帝国大学を辞職し、鳥居人類学研究所を設立し、國學院大學教授となる。1939(昭和14年)、北平(1928年、国民政府が南京に首都を移してから、従来の北京は北平となっていた)に出発、燕京大学の客座教授となる。1951(昭和26)年、 燕京大学を退職し、帰国する。1953(昭和28)年)、東京で死去。82歳。鳥居の収集した資料は、現在主に徳島県立鳥居記念博物館に収蔵されている。

 伊波普猷は、鳥居に沖縄調査を持ちかけた。上田教授が旅行費用を工面した。足は、横浜から、尚侯爵家所有の船が提供された。1904(明治37)年のことであった。この時も、鳥居は、件の写真機と録音機を持参した。この時の調査が、鳥居と伊波の日琉同祖の理論的な基礎になった。

 伊波と鳥居は意気投合していた。15年戦争で、日本を脱出した鳥居と、東大卒業後(1906(明治39)年)、直ちに沖縄に帰り、官職にもつかず、ひたすら資料収集をしていた伊波普猷には、反権力という確かに通じる矜持が見られる。

 鳥居の東大嫌いは、まだ整理係をしていた頃の東大総長・渡辺洪基から、人類学者の調査の優先順位は、沖縄、台湾、朝鮮の順にあると諭されたことから始まったのではないか。これら地域こそ、後の日本政府によって、順番に蹂躙された所である。

 鳥居の反骨精神を描き、大仏次郎賞を授与された中薗栄助『鳥居龍蔵伝 ―アジアを走破した人類学者 ―』岩波書店(2006年)は、日本の軍事支配下の異民族に向き合ってきた鳥居の学問の自由観に迫った力作である。

 燕京大学についても、少し書いておこう。この大学は、ロックフェラー財の資金を元に、米国の宗教家によって創設されたものである。北京大学の前身でもある。ハーバード大学のアジア学の拠点、エンチン研究所(Harvard-Yenching Institure)は、燕京大学の資料を受け継いだものである。

 鳥居が北平に移る2年前の1937年7月、盧溝橋事件が起こった。日本の本格的な侵略を予期した北平の諸機関はぞくぞくと奥地に移転していた。キリスト教系大学であった燕京大学は、学長が米国人であったために、日本軍部からは超然とした孤島のようなものであったが、日本軍部は、様々な圧力を加えていた。校内では抗日機運が高まっていた。日本の思想を伝達する役目の日本人教授を招聘するように、大学に日本軍部が要求したのもその1つであった。

 その圧力をかわすべく、親中意見をもつ鳥居を大学が招聘したのである。鳥居は日本軍部から有形無形の迫害を受けた。太平洋戦争が始まると、燕京大学は1941年に閉鎖された。鳥居一家全員が軟禁された。それにもめげず、エンチン研究所から『遼時代の画像石墓』を英文で出版している。燕京大学のスチュアート校長も軟禁され、北平では英語の使用が禁止されていた。そういう時期に鳥居は英文の本を、しかも敵国米国で出版したのである(Ryuzo Torii, Sculptured Stone Tombs of the Liao Dynasty, Harvard-Yenching Institure, 1942)。

 鳥居は、日本軍部に連行されて行く教師や学生に向かって、校門の前で深々と頭を垂れた。重要な資料も、郊外に運び出した。非常に大学から感謝された。だからこそ、終戦後、大学が復活して、再度、鳥居はこの大学に招聘されたのである(『燕京大学人物誌 ―鳥居龍蔵(安志敏の執筆)』北京大学出版社、2000年、http://www15.ocn.ne.jp/~nestplan/ryozo/04.htm)。

 鳥居は、日本は中国に負けると思っていた。
 「日本人は中国民族の強さを知らない。これは悲しいことである。中国はあまりのも広大で、戦火が広がるにつれ、日本軍は負けて行くであろう」(『鳥居龍蔵全集』第6巻、朝日新聞社、1976年、58ページ)。

 鳥居は、これも先述した田代安定と親しかった。 
 伊波普猷は、これも先述した新村出の講義を金田一京助と聴講している。伊波普猷は、学問上で沖縄学の父であったが、人脈上でも、中心人物であった。一国史観を突き抜ける高い志から地域学は生まれる。伊波普猷が示した沖縄学がそれである。

本山美彦 福井日記 90-2 伊波普猷の中学校の思い出1

2007-04-06 23:12:57 | 言霊(福井日記)


  沖縄学の父、伊波普猷(いは・ふゆう)は、1876(明治9)年3月15日、沖縄県那覇市西村で長男として生まれた。家は裕福であったと言われている。

 
1886(明治19)年、10歳のときに沖縄師範学校付属小学校に入学。この学校は、「沖縄の学習院」と言われた格式ある学校で、貧しい家庭の子が入れるところではなかった(http://www.okinawatimes.co.jp/spe/sou980623.html)。1981(明治24)年、沖縄県尋常中学校に入学。先述の漢那憲和は同級生であった。

 そして、1893(明治26)年、大恩人の国語教師、田島利三郎先生が同校に赴任してくる。如何にこの中学で田島先生から影響を受けたかを伊波自身が述懐している。教頭であった下国良之助へのアンビバレントな感情を語りながら、田島先生に万感の思いで感謝の言葉を出している。

 非常に流麗な文で、そのまま転載したい誘惑に駆られるが、自戒して、私の拙い文で要約する(伊波普猷、「中学時代の思出―この一篇を恩師下国先生に捧く―」、『琉球古今記』(大正15年))。

 ただし、伊波普猷の文体のすごさを知っていただきたく、文の末尾は、伊波普猷の文をそのまま転載する。著作権にひっかからないかと心配だがご寛恕を。

 沖縄を第2の故郷だと言う人は多い。しかし、その第2の故郷に再度帰ってきた島外の人は少ない。下国先生は、この珍しい人である。昨年(大正14年)、30年振りに、この第2の故郷に帰つて来られた先生は、思出多き南国で旧門下生に取巻かれて、61の春を迎へられた。

 下国良之助の名は兎に角沖縄の教育史を編む人の忘れてはならない名である。4年8か月の間、私(伊波普猷)は、親しく先生の薫陶を受けた。(本山注、1895(明治7)年、先述のストライキ首謀者として伊波は退学処分を受けた)。

 私は、明治24年4月、16歳の時に、中学に這入つた。当時の中学はもとの国学のあとにあつたが、随分古風な建物であつた。(本山注、この中学校は、沖縄の国学発祥の地に建ち、その校舎の地が国学と呼ばれていた。1798年琉球の最高学府でその学校のことを国学と呼んでいた。首里高校ホームページより)。

 一緒に這入つた連中には、漢那(少将)や照屋(工学士)や故当間(市長)や真境名(笑古)などがあつた。この時、私たちはまだ結髪であつた。

 或日、1時間目の授業が済むと、教頭下国先生が教壇に上つて、演説された。「亜米利加印度人の学校の写真を見たが、生徒は何れも断髪をして洋服を着てゐる。ところが日本帝国の中学の中で、まだ結髪をして、だらしのない風をしてゐる所があるのは、実に歎かはしいことだ。今日皆さんは決心して断髪をしろ、さうでなければ退校しろ」という内容であった。生徒たちは真青になつた。頑固党の子供らしい者が、1、2名叩頭して出ていつた。

(本山注、当時の本土化政策に反抗し、琉球の古い習慣を温存しようとした一群の反日主義者たちが、「頑固党」(ガンクー)と呼ばれていた。彼らは、清に日本政府の横暴を諫めて欲しいと訴えたことから、「清国派」とも称されていた。Gregory Smits, Okinawa Identity Symposium, Hōsei University, Tama Campus, March 9, 2004, http://aterui.i.hosei.ac.jp/cgi-bin/iv/ga-pr040214.html。また、叩頭も、頭を叩いたと平凡に解釈されてはならない。これは、「三跪九叩頭の礼」(さんき・きゅう・こうとう・の・れい)のことである。三跪九叩頭の礼とは、中国皇帝の前で取る臣下の礼の1つである。叩頭(こうとう)とは額を地面に打ち付けて行う礼である。まず、立位の姿勢から跪き、手を地面につけて額を地面に打ち付ける。それを3回繰り返して一旦立ち上がる。そして、同じ動作を後2回繰り返す。合計、3回跪き、9回叩頭する。清の紫禁城の前庭での国事祭礼で皇帝の前で臣下が一斉に行った。また、琉球王朝や李氏朝鮮では、中国からの勅使に対しても三跪九叩頭の礼で迎えていた。ウィキペディアより)。

 すぐに、数名の理髪師、先生方、上級生たちが、手に手に鋏をもつて教室に押し入り、手当り次第に髪を切り落した。あちこちで畷泣きの声も聞えた。1、2時間後、全員が丁髭を切られた。(本山注、丁髪とは、「ちょんまげ」のこと、沖縄では、「カタカシラ」と名付けられていた。琉球王府時代には、士族以上の階級は15歳、一般庶民は13歳頃から結った。髻の中央部には、副簪の「ウシジャシ」(押差)を後方から前方へ挿し、前方から後方へは本簪の「カミサシ」(髪差)を挿す。沖縄言語研究センター、『首里・那覇方言音声データベース』よりhttp://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN50435)。

 この時断髪した私たちの仲間中で、父兄の反対にあつて、学校を止めて改めて髪を生やしたのもいた。世間の人は彼らのことをゲーイといつた。ゲーイとは「やがて還俗」のことである。(本山注、沖縄には、日本語の古語が残っていることの証左である。いまでは、「やがて」は「そのうちに」という意味で使われているが、日本の古語、少なくとも源氏物語時代には、「ただちに」という意味、「間になにもない」という意味であった。広辞苑より)。

 この頃まで県人は殆んど全部結髪であったのに、東京遊学生の大多数、中学師範の生徒、官公吏は、断髪であった。久米村人はこれらの連中を冷笑していた。(本山注、クニンラ と発音。現在の那覇市久米。14世紀ごろから移住した中国系の人びとの住んでいた地域。明の風俗習慣にしたがって暮し、対中国文書の作成や通訳、中国への使者など、特別な役を受け持っていた。沖縄言語研究センター、首里・那覇方言音声データベース、http://ryukyu-lang.lib.u-ryukyu.ac.jp/srnh/details.php?ID=SN50577。福建省から渡来し、那覇でビン(漢字のフォントなし、門構えに虫)人と呼ばれたのは「客家」(はっか)と称する集団生活を営む人々であった。中国の政治体制に詳しく交易の実務や先端技術に通じていた。彼らは琉球の発展を見越して集団移住し「浮島」と呼ばれていた場所に「久米村」を築いて理想的な住処とした。時の明国皇帝は琉球からの「進貢船」を歓びつつも付随して来るかの如き倭寇の侵略に苦慮していた。久米村からの情報では琉球各地に倭寇が定住し勢力を競っていた。その様な実情から琉球統一が急務とされ、道教の僧を名乗る「懐機」が派遣されて久米村の人々と共に琉球統一の深慮を巡らせ佐敷の「按司」となっていた「巴志」を擁立して琉球国が統一される。明国皇帝は大いに慶び「尚」の姓を賜り茲に第一「尚氏」琉球国中山王統が成立したのである。福州園:久米村発祥の地、http://www5.ocn.ne.jp/~isao-pw/hukusyu.htm

 彼らは、断髪した人に会うと、「君は何処に奉職しているか」と聞いたものだが、何処にも奉職していないと答えると、「それではトランクワンニンだな」と冷笑《ひやか》していた。トランクワンニンとは「やがて」(注意!本山注)月給を取らぬ(すぐに月給を得ることができない)官人の義である。

 その翌年の4月から、断髪しない者は、中学側が、入学を許可しないようになった。
 明治26年、私は18歳で、3年生であつた。この時、田島利三郎先生に会った。田島先生は明治24年7月に国学院大学の前身たる皇典講究所を優等で卒業された新潟県の人で、身の丈6尺以上の大男だつた。私は先生の『土佐日記』の講義を聴いて、すつかり感服して了つた。先生は忽ちにして全校生徒の心を掴んだ。先生の宅には各級の生徒が絶えず出入していた。そして先生が外出する時には、いつでも2、3人の生徒がついて歩いた。下国先生が、「君等の気風が近来著しく田島風になつた」と私たちを評したこともある。

 田島先生のお宅で、私たちは、『枕草紙』の講義を聴いた。先生は尺八の名人だつた。その上旧劇には造詣が深かつた。直接先生から聞いた話だが、或時先生が歌舞伎を見に行った時、団十郎の芸にまづいところを発見したので、何とかいつて野次つたら、団十郎も早速気がついて、是非会いと言って寄こしたことがあった。先生は「歌舞伎」を初号から揃へて、意読して居られた。その頃沖縄では役者は非常に軽蔑されていたが、先生はいつも芝居小屋に出入して、役者を教育して居られた。先生はその土地を研究するには、何よりも先きにその言語に精通しなければならないということに気がついて、到着早々から琉球語の研究に没頭されたが、1年も経たないうちに、沖縄人と同じ様にその方言を操ることができた。

 それと同様に歌謡や組踊りの研究にも腐心されたから、沖縄人以上にその古語に通じて居られた。のみならず、先生は琉球音楽の研究にも手を染めていた。驚いたことには琉歌まで作つた。先生は、沖縄人と同じ様に話し、また感ずることができた。琉球研究者としては、十二分に成功すべき資格を備へておられた。こうして先生は沖縄人の内部生活に触れることができた。生徒には勿論、島民に愛されていた。しかし、児玉校長は、この点をもっとも嫌っていた。

 私は卒業後は高等商業に這入つて、外交官か領事になる気でいた。生徒の控室の本箱の中には、先生方が読み古した雑誌が沢山あつた。私はそれらをあさつて読んだ。私は『東洋学芸雑誌』に出ていた井上哲次郎氏の『教育と宗教との衝突』や、それに対して高橋五郎氏が『国民之友』に出した「偽哲学者の大僻論」を見て、当時国家主義と基督教との衝突について、世論の沸然たることを知つた。

 当時は生徒までが酒を飲んだ。中学でも師範でも、三大節の時は学校から泡盛をおごつて、職員生徒が一緒に祝杯をあげたものだ。(本山注、当時は、1月の四方拝、2月の紀元節、4月の天長節を指していた。四方節とは、明治の「皇室祭祀令」によって規定されていた。元旦の午前5時半に、黄色の束帯を着用して、皇居の宮中三殿の西側にある神嘉殿の南の庭に設けられた建物の中で、伊勢神宮の二宮に向かって拝礼した後に四方の諸神を拝するように改められた。このとき拝する神々・天皇陵は、伊勢神宮・天神地祇・神武天皇陵・先帝三代の陵・武蔵国一宮(氷川神社)・山城国一宮(賀茂神社)・石清水八幡宮・熱田神宮・鹿島神宮・香取神宮である。陰陽道を始源とするとも、中国起源を持つとも言われるが両者共に明確な経緯を示す資料は無い。

 紀元節(きげんせつ)は、グレゴリオ暦、2月11日。明治5(1872)年、11月15日、明治政府は神武天皇の即位をもって日本紀元元年に定めた(太政官布告第342号)。『日本書紀』の記述によれば神武天皇の即位の日付は「辛酉年春正月庚辰朔」であり、その記念日は正月朔日すなわち旧暦(太陰太陽暦)の1月1日となる。ところが、明治政府は翌年からグレゴリオ暦を新暦(太陽暦)として改暦を予定していたため、その年の旧暦1月1日に当たる新暦1月29日を神武天皇即位の祝日に定め、例年祭典を行うこととした(太政官布告第344号)。翌年この日に祭典を行った後、これを「紀元節」と名付けた(明治6年3月7日太政官達第91号)。ところが、紀元節として祝ったこの日が旧正月と重なったため、旧正月こそが正しい正月だという解釈が広く行われるようになってしまった。この国民の反応を見て、これでは国民が新暦を使わなくなると危機感をもった政府は、神武天皇即位の日を新暦に換算して、「紀元節」を新暦の特定の日付に固定しようと考えた。2月11日という日付を文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して決定した。具体的な計算方法は明かにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。

 天長節とは、天皇誕生日である。国家として初めて祝ったのは、1868(明治元)年9月22日(旧暦)である。1873(明治6)年の太陽暦採用後、11月3日に変更した。その後、即位した天皇の誕生日に合わせて天長節が定められた。戦後、天皇誕生日として国民の祝日と定められ現在に至る。なお、皇后の誕生日は地久節と呼ばれるが、戦前においても国家の祝日にはなっていない。いずれも、ウィキペディアによる。)

 下国先生は、秋田県人である。21歳の時に文検に及第して滋賀の学校に奉職し、当時の滋賀県知事中井桜洲散人の感化を受けた人で、熱のある教育家だった。先生の送別会の席上で、伊江男爵が、下国先生は吉田松陰のような人物であると言われたが、正にその通り。当時中学師範の先生には国士の風を備えた人が頗る多かった。

 27年3月に私たちは4年級に進級した。この頃那覇で九州沖縄八県聯合共進会が開かれた。この時本県人は沖縄を他県に比較するの機会に遭遇した。そして種々酷評などを受けたので、漸く自家の短所を自覚し始めた。中学生をして親しく本土の文明に接せしめようという議もこの時に起つた。そして5月には、京阪地方修学旅行が実現した。私たちは目の廻るほど多くの物質的文明を見せられた。ことに京阪地方には下国先生の知人が多かった為に、学校でもその他の所でも非常な歓迎を受けた。京都の第三高等学校の歓迎会はすばらしいものであつた。剣舞、弓術、野球などの余興を見せられた。晩には大勢の三高生が私たちの宿屋におしかけてきて、愉快な座談会が開かれた。そして私たちは、高等教育熱にかかってしまった。

 その頃、先生方は頗りに普通語の励行を迫られた。地方からの生徒は真面目に普通語を使っていたが、首里那覇の生徒は盛んに方言を使っていた。当時、普通語を使用する者は、至つて少なかつた。誰某は大和口ができるということは、今日で誰某は英語が話せるという位の所であつた。ところが、年取つた人たちや学校に行かない連中は、之を稽古する機会がないので酒宴の席上などで冗談半分に稽古する外仕方がなかつた。それ故に久米村人の間では、飲みに行こうというのに、「大和口《やまとぐち》シーガ行《い》カ」と言った。私も、父が酔ぱらうと、盛んに大和口をしかけられて困った。

 ある日、三大節の外は容易に顔を見せない児玉校長が気味の悪い笑い方をして、学校にやって来られた。講堂で、校長はおもむろに口を開いて、私は皆さんに同情をよせる。皆さんは普通語さへ完全に使へないクセに英語まで学ばなければならないという気の毒な境遇にいる。つまり一度に2つの外国語を修めると同じで、皆さんに取つては非常な重荷である。私は今その重荷の1つ、英語科を廃そうと思う。とんでもないと一同は激昂した。中にも高等教育熱におかされた連中の激昂は非常なものだつた。

 沖縄唯一の言論機関たる琉球新報がまず噛みついた。新報杜で采配を揮っていた護得久朝惟氏(同校卒業者)は、英語科を廃そうとするのは、沖縄人に、高等教育を受けさせまいとするので、沖縄を植民地扱いにするものだと激高し、児玉校長を糾弾した。この危期に臨んで、下国先生は校長に忠告してその計画を中止させようと力められたが、剛情な校長は一旦言い出したことを容易に取消すような人ではなかった。そして、折衷案として、英語を随意科にすることになった。当時の卒業証書には、「但英語科兼修」とか「但英語科ヲ除ク」という風に但書がついている。宮城鉄夫君は英語科を兼修しなかつた1人だが、上京して満2年間、英語ばかり研究してから札幌農学校に這入つたほどである。

 それから、この校長に就いては今1ついうべきことがある。それは沖縄県初代の県令、上杉茂憲伯が沖縄を去られる時、奨学資金として県に寄附された1,500円がこの人の学務課長時代に他の方面に流用されて、すっかりなくなったことである。そしてこの頃から県費留学生を出さなくなった。けれども私はこの人を悪人とは思わない。この人を私は一種の愛国者と思っている。この人は兎に角沖縄を甚だしく誤解した人の一人である。

 この人をしてそうさせた罪の一半は当時の東京留学生が負わなければなるまい。当時は廃藩置県が行われて間もない頃で、沖縄の留学生の中にも志士が多くて盛んに復藩論を唱へていた。彼らの機関雑誌が『沖縄青年』である。或時児玉氏が上京中青年会に臨んで、監督者のつもりで一場の訓話をやって、其の場で留学生から手ひどく反駁されたことがあった。それ以来彼は沖縄人に高等教育を受けさせるのは国家の為にならないという意見を抱くようになったたと言われている。彼が郷土研究者の田島先生を蛇蝸視し、生徒に同情の深い下国先生を敬遠したのは、むしろ当然なことである。彼がもし地下で、高等教育を受けた者の中から日琉同祖論を高調する者がでたり、30年前の恩師を迎えて還暦の祝賀会を開いたりするのを聞いたら、その教育方針の全然誤っていたことを覚るであらう。(本山注、伊波の日琉同祖論には、最近、厳しい批判が寄せられるようになった。冨山一郎、『暴力の予感』、岩波書店、2002年)。

 以下、伊波普猷の文体を味わっていただきたく、しばらく、そのまま掲載する。 
 「修学旅行から帰つて以来、学校の空気はとにかく不穏であつた。8月には日清戦争が突発した。琉球新報は諸見里朝鴻氏を従軍記者として台湾に派遣した。沖縄の人心は非常に動揺した。下火になつてゐた開化党と頑固党との争は再燃した。首里、三平等《みひら》の頑固党の連中は、毎月、朔日と15日とには、百人御物参《ももそおものまいり》といつて、古琉球の大礼服をつけて、弁ケ嶽、円覚寺、弁才天、園比屋武御嶽、観音堂等に参詣し、旧藩王尚泰の健康と支那の勝利とを祈つた。首里小学校の児童が彼等の行列を見て嘲つたといふので、原国訓導が頑固党の勇士たちから散々郷られたのもこの頃のことである。この頃久米村で発行する暦に間違があつて、頑固党は旧暦の大晦日を29日とし、開化党は日本暦によつて、之を30日としたが、これから頑固党のことを「29日党」と呼ぶやうになつた。琉球新報の「29日党」攻撃はだんだん激しくなつた。

 何月頃だつたか、戦争中、もとの首里区長の知花朝章氏が清国の事情視察の為に、山原船で脱走されたことがある。この時2艘の山原船は与那原からか、何処から出たか、途中で暴風に遭つて1艘は沈没し、知花氏を乗せた1艘は3日目に辛じて福州に着いた。そして一行は天津で日本の国事探偵と誤られて、獄に投ぜられたが、後琉球人だといふことがわかつて、許されたとのことだ。

 この頃は官庁と官庁との間に電話がかゝつてゐた許で、海底電信は未かゝつてゐなかつた。それ故に捷報なども一週間後でなければ知る事が出来ない有様だつた。捷報が至る毎に琉球新報に号外を出したが29日党は之を信じなかつたのみか、真赤な嘘だと言ひふらしてゐた。方々の家庭でも、このことに就いて父子兄弟の間に盛に議論が闘はされた」。


本山美彦 福井日記 90-1 伊波普猷の中学校の思い出2

2007-04-06 23:10:10 | 言霊(福井日記)
 さらに、そのままの転載を続けたい。

 「28年3月、私たちはいよいよ5年生になつた。戦争は、幸いに日本の勝利に帰して、お隣りの台湾まで日本の領土となり、御用船などが那覇を経由して行くやうになつたので、頑固党の連中も日本の勝利を信じないわけにはいかなくなつた。おまけに講和談判後、知花氏が支那から帰つて来られて支那の内状を詳しく説明されて以来、沖縄の人心は俄に一変して、開化党の数が激増した。そして児童の就学歩合も著しく殖えた。けれども義村党のみはその態度を改めなかつた。そこで世人は彼等のことを石枕《いしまくら》党といつた。その領首の義村按司はたうとう脱走して、福州で客死した。李鴻章の密使だといつて、義村党から沢山の金額をせしめた鹿児島県人山城一の公判のあつたのもこの頃のことだ。下国先生はこの頃御用船に乗つて新領土の視察に出かけられた。支那にいつてゐた沖縄人は大方帰つて来た。中には辮髪して支那服を着けたものもゐた。これらの人たちは母国の土を踏むや否や、監獄に連れて行かれた。この間の消息は亀川里之子毛有慶の『竹蔭詩稿』を見たらよくわかる。

 そこで沖縄人は悉くその行くべき方向を知つた訳であるが、この上にも人心を統一するの必要があるといふので、琉球新報の人たちが中心となつて、公同会なるものを組織した。その趣意とする所は、人情風俗を参酌し一種の特別制度を設置し、精神の統帥者にして杜会の中心点なる尚泰を其の長司に任じ、先づ分離しかけた人心を統一せしめ、相率ゐて皇化に浴せしめるにあつた。この運動が一たび起るや、県内議論鴛々として起り、支那党は猛然として之に反対した。所謂開化党中にも陽に賛成して陰に反対するものが多かつた。東京の沖縄青年会でも高等師範在学中の者及び郡部出身の者は大方之に反対したといはれてゐる。この時国民新聞大阪毎日新聞及び鹿児島新聞等の通信員として沖縄に来てゐた佐々木笑受郎氏は、之を旧時の夢を繰返して、時勢に伴はざる封建復活の運動だといつて、右の各新聞に通信した」。

 以下、本山の意見 ― 時代は渦巻いて日本化に向かっていた。琉球の人たちの心は張り裂けんばかりであっただろう。米国化への道をひた走り、米国帰りのマスコミ的エリートたちが、権力を掌握し、劣った日本人を叱咤するという現在の構図と、伊波普猷の感じた状況が私にはだぶる ―

 伊波普猷の原文に戻る。
 「この夏頃、日本艦隊の旗艦であつた松島艦が突然那覇の沖に現はれた。この時私たち五年生は波止場で遊んでゐたが、早速学校のボートを用意して、名誉ある松島艦訪問に出かけた。十町位沖に漕出すと、波が荒くて、到底いけさうもないので、引き返さうとしたが、横波を喰つて沈没するより、ずんずん漕出して軍艦に救はれた方がましだといつて、一所懸命に漕いだ。黄海の勇士たちは拍手喝采をして、私たちを迎へた。やつとのことでデツキに上ることが出来たが、佐野常羽といふ少尉がびしよ濡れになつた私たちを士官室につれていつて、私たちの勇気を賞讃したあとで、西洋料理の御馳走までしてくれた。私たちは数名の士官に取囲まれて、いろいろの問答をした。この時佐野少尉に君等の中に他日海軍々人になりたい希望の人はゐないかと問はれて、漢那君が「自分がなります」と速答したのは面白かつた。私たちは軍艦を辞して、ボートに飛おりたが、再び危険を冒して、暮れ方やつと波止場にかへることが出来た。これで漢那君の目的だけは定つた。ずつとあとで屋比久孟昌君が陸軍士官学校にいく決心をした。」

 暑中休暇がすんで二学期も半ば頃になつた。私も又卒業後のことが考へられるやうになつた。此頃の私にはもう高等商業にいく気は薄らいでゐた。

 先年、下国先生の運動の結果、沖縄の中学の卒業生は、造士館と五高とには無試験で這入れるやうになつてゐた。橋口諭吉君は無試験で造士館に這入つた。奥川鐘太郎、蒲原守一、玉城螢の三君も無試験で五高に這入つた。来年は自分も五高にいかうと、かう私はきめて置いた。それから私は漢那君などと一緒に一生懸命に英語を勉強した。

 けれども、私の希望は水泡に帰した。十月十五日の午後一時過ぎ、下国先生は突然休職を命ぜられ、田島先生は諭示免職になつた。そしてその翌日新教頭文学士和田規矩夫氏の新任挨拶があつた。日清戦争のために一時下火になつてゐた校長に対する私たちの不平は再び燃え出した。五年生で一番年取つたのは西銘五郎君で、一番若いのが漢那憲和君だつたが、当時この二人は全校生徒の牛耳を執つてゐた。

 或日の夕方、私の宅にやつて来て、自分たちは県のために犠牲になつて児玉校長を排斥しやうと思ふが、君も仲間に這入つて呉れないかといつた。私は心の中で、高等学校に入学する特権を失ふことを歎きつゝ、涙を呑んで二人の申出でに同意した。翌日から私は学校で皆の意向を探ぐることに力めた。一両日たつてから、私の宅に三年生以上の重なる連中(重に学友会の役員)を、十数名位集めて、徹宵協議をこらした結果、かういふ相談が纒まつた。先年英語科廃止問題でストライキが起りかけた時、下国先生は極力鎮圧されたこともあるから、今度御自分のことに関係してストライキを起されるのは、先生に取つてはさぞ御迷惑であらう。その上生徒でありながらかういふことをたくらむのは好ましくないから、一旦退校した上で、校長に辞職を勧告し、それで聞かなければ、輿論を喚起して、飽くまでも素志を貫徹しやうといふことになつた。そして園引で毎日二、三名宛退校願を出すことにした。翌日西銘五郎君と金城紀光君が退校願を出したら、学校の方では、早速許可してくれた。その翌日照屋、漢那、渡久地の三名が退校願を出した。

 この時学校でははじめて形勢が不穏だと見て取つて、刑事を使つて私たちの行動を探知させた。私たちはその晩参謀本部を渡久地政瑚君の二階に移して徹宵作戦計画をした。その晩十一時過、奈良原県知事のところから五年生を全部呼びに来たが、もう酒に酔つて居られるだらうから、今晩伺つては面倒だといふので、翌日未明にいくことにした。翌朝五時頃いつて見ると、知事は、決して軽挙暴動をしないやうにと、一同をなだめられた。その日はいよく三年生以上の退校願を一纏めにして登校し、漢那君が之を和田教頭につき出した。和田先生はこれは私が受取つてもいゝものでせうかといひながら、受取られたが、その手は少々震へてゐた。あとで誰かが先生の宅に伺つて、かうなるまでのいきさつを述べて、先生の了解を求めたら、先生はいくらか安心されたとのことだ。私たちは、一年生と二年生とが一時間目の授業がすんで、教場を出ようとするのをとつつかまへ、私たちは、これから大問題を解決しやうとしてゐるから、行動を共にしてくれ、といつたので、百余名の下級生はおとなしく私たちの後について来た。今の高等女学校の後の運動場につれていつて、上級生が二、三人立つて猛烈な演説をしたら、いづれも感奮興起して、行動を共にすることを誓つた。この時のことを琉球新報はかう論じてゐた。

  中学校三年生以上の生徒は、一昨日を以て大概退校願書を差し出し、残るものは僅に首里人の一部分十数名に過ぎず。右は教頭更任についての職員の挙動に不満を抱き、遂に退校願書を差出すに至りしといふ。修学旅行にては内地到るところに歓待せられ、中央政府よりの出張官吏をして殊に称讃の声を洩らしめたる中学校をして遂に斯の醜態を現ぜしむ。果して誰の罪ぞ。教頭更任に就きても余輩頗る説ありといへども、既に決行せられたる事にもあり、且は今後の青年の教養上多少の障碍を与へんことを慮りて絨黙したりき。況んや又今に至りて更に云々すべきの必要なし。唯切に当局者に望むは軽々しく此の事を処せず、慎みて県下有為の青年をして前途を誤らしむるが如き事なからんことを切に希望するものなり。

 琉球新報によつて、この日は十一月の十一日であつたことがわかる。その翌日一年生二年生も退校願を差し出した。あとで一同は瀬長島に遠足をしたが、東村の某氏から三円の寄附があつた。琉球新報の記事にもある通り、十二、三名のストライキに加らないものがゐたお蔭で、学校は閉鎖されないで、先生方は不相変教鞭を執ることが出来た。十三日には四年五年の重立つた連中が、いよいよ校長外二教諭のところに辞職勧告に出かけた。この場面は中々面白い場面であるが、長くなる恐れがあるから、省くことにする。翌十四日、漢那、照屋、真境名、屋比久、私の五名は今度の主動者だといふかどで、文部省令によつて退学を命ぜられた。十五日に、私たちは「退校願につきて」といふ一篇を琉球新報に出した。これは重に漢那君が立案して、真境名君が筆を執つたもので、いはば私たちの宣言書ともいふべきものである。それから同じ意味で、文部大臣に建白書を出した。学校で父兄を呼出して、子弟を登校させるやうな説諭を加へたが、誰一人応ずるものがなかつた。私たちはこの頃同志倶楽部を組織し、今の商業銀行の横町の民家を借りて、毎日集会することにした。そして門には、同志倶楽部と書いた大きな看板まで掛けた。これは当時の書家として有名な知事官房の横内氏に書いて貰ったのであつた。倶楽部員七、八十名が学校に推かけていつて、今に至るまで退校願を許可しないのはどういふ訳かと、催促をした。この時校長は半ば説諭的半ば籠絡的の演説をしたが、私たちは「再び退校願に就いて」といふ一篇を綴つて、新報に投じた。これは照屋宏君が書いた。そこで倶楽部に二学級を設けて上級生たちが一年生と二年生とを教授しはじめた。学科は英漢数の三ツだつたが、私は二年生の英語を受持たされた。いつだつたか、日は覚えてゐないが、三年生以下は六ケ月の停学を命ぜられ、一年生は、二ケ月の停学を命ぜられた。二十三日の新報を見ると、民間の有志家も漸くこの問題に注意を払ふやうになつて、善後策に就いて、寄りく協議しつゝあつたといふことがわかる。この頃田島先生は琉球新報の記者になつて居られたが、盛んに応援された。私の父は同志倶楽部の維持費にしろ、といつて金六円を寄附した。それから私と外二人の倶楽部員が渡嘉敷通睦翁を訪問して、拾五円の寄附を貰つて帰つた。二十九日に西村の有志者が金六円寄附したら、三十日には東村の有志者が同じく金六円を寄附した。十二月の二日には西村平民有志者が金五円を寄附した。それから四日には若狭町村の有志者から六円、泉崎村友会から六円七拾銭の寄附があつた。その後久茂地協心勤学社から弐円、泊村友会から参円の寄附があつた。その他父兄や匿名の人からも続々寄附が集つた。総計百円位にも上つたらう。これが私たちの軍資金なのだ。これを今日の相場にしたら、大したものになる。試みに当時の物価表を調べて見ると、内地上米三斗五升入一俵が三円、人力車は那覇市は一銭、二人乗が二銭、那覇から首里へいくには五銭、首里から那覇へ下るには三銭であつた。そして東京遊学生の一ケ月の学資が五、六円であつた。この頃競争の結果、牛肉一斤が五銭まで下落したことがある。私たちはこの寄附金で、家賃を払つたり、遊説に出かけたりして、おもむろに持久の策を講じた。

 この頃、師範学校の生徒も児玉校長に対して、ストライキを起しかけたが、やつとのことで鎮圧された。これは五日の新報に教育界の紛紙(師範学校生徒亦動く)といふ記事を見たら、能くわかる。

 それから中学校で新入生徒を募集するといふ企があつたが、首里小学校長が生徒の意向を尋ねた時、高等三年の某は直ちに立つて演説して、中学生になるのは望む所であるが、不熱心だ、不道徳だと生徒に排斥されて、弁明することが出来ない校長教員の下に行くのは、吾輩の最も恥づる所だ、と絶叫したので、一同拍手して之に賛成し、一人の志望者も無かつたといふことだ。これは当時の新報紙上にちやんと報道されてゐる事実なのだ。この某は今の尚家の家扶の百名朝敏君であつたといふことだ。

 六日に私たちは下国先生一家を招待して、送別会を開いた。午前中は三重城で種々の遊戯をなし、午後は那覇高等小学校構内で、一同記念の撮影をなし、後で真教寺で送別会を開いた。漢那君が開会の辞を述べ二、三氏の送別演説があつた後で、先生が答辞を述べられた。一同の中には、感極まつて泣き出したのもゐた。八目には県下の有志家が先生の送別会を南陽館で開いて、沖縄の将来について、懇談親話するところがあつた。十日には上級生の母姉が下国先生の奥様を私の宅に招待して、沖縄風の送別会を開いた。先生の一家族は十二月の二十日、いよいよ百五十名の生徒、生徒の父兄、及び県下知名の士に惜しまれつゝ、沖縄を見棄てられた。

 多事であつた明治二十八年はかういふやうにして暮れた。一寸いふことを忘れたが、私はこの事件が勃発して以来、その経過を細大漏らさず、在京の先輩の安元実得君に通信するのを怠らなかつたが、東京の沖縄青年会員はこれを材料として、意見書を作り手分けして文部当局及び教育雑誌記者等を訪問して、運動してくれた。けれども児玉校長は動きさうにも無かつた。おまけに、地方の小学校長等に生徒募集の勧誘をしてゐるとの噂が立つたので、新年早々私たち幹部のもの二、三名宛を一組にして、島尻、中頭、国頭の三郡に遊説に出かけることにした。そして西銘、渡久地、酒井の三人は島尻に、照屋、屋比久の二人は中頭に、漢那、金城、小禄の三人は国頭に、それぐ同日に出発した。真境名と私その他の連中は教育係りとして、留守役を勤めた。この間に刑事や官吏が二、三度威しに来たことがある。時恰も国頭教育家の集会が名護で開かれたが、漢那君は司会者の許可を得て、一場の演説を試み、聴衆を驚かしたといふことだ。

 三月の何日頃だつたか、児玉校長転任の吉報に接して、一同は狂喜した。和田教頭が校長を拝命して、主動者を除くの外、百五十名は復校を許された。事を挙げてから殆ど六ヶ月、私たちは漸く目的を貫徹することが出来たので、.一十六年の三月三十一日、同志倶楽部を解散した。今私は解散の前日撮影した総務員十三名(真境名君は当日不在)の写真を出して、ながめてゐるが、その中の六名が故人となつてゐるのを見て、一種言ふべからざる悲哀を感じつゝある」。

 本山感想 ― 素晴らしく力のある文体であることに諸氏はお気付きであろう。デモに参加することで、やり場のない怒りを紛らわしていた青春時代の私の思い出とこの文が重なる。でも、前途ある若者の反乱を、権力者たちは、許すという構図が日本にはあった。しかし、老人になってから反乱を起こす者は、容赦なく切り捨てられるであろう。しかも、いまは、それを支える若者の反乱がない。

 以下は、闘争に明け暮れた後、自分の人生を確保しなければばらない、恐ろしさ、しまったと思いながらも自分の蒔いた種であるという諦観から厳しい運命に慫慂として受け止める伊波普猷の心が綴られている。

 「それから私は自分の前途のことを心配し出した。漢那君は海軍兵学校の受験準備に取りかゝつた。ところが肝腎な母堂がどうしても承知しないので、非常に手古摺つた。この時下国先生が商用で来られたのを幸、先生に篤と相談して貰つて、やつとのことで承諾させた。それから兵学校に入学するには年齢の制限がありその上中学卒業生でなければ受験を許さないといふ規定があつたが、奈良原知事が法規を無視して中学を卒業したことにして下さつたので、この青年反逆者は漸く兵学校の受験に応ずる資格を得た。七月頃彼は江田島へ出かけた。私はますます寂しくなつた。彼の不在中に私は西銘、照屋の二君と一緒に東都に遊学した。この時私は二十一歳だつた。私はもう官立学校に行く希望を全く放棄して、慶応義塾に這入る気になつてゐた。九月の初頃だつたらう。照屋が西銘と一緒に本郷に遊びにいつて来て、希望に満ちた顔付で、かういつた。

 自分たちは赤門のあたりを角帽の大学生が潤歩するのを見て、心的革命を起した。自分たちはどんなことがあつても高等教育を受けなければならないと。

 つひ一両日前築地の工手学校の規則書を貰って来た照屋が、而も家が有福でない大工の子の照屋が、大学にいくといふことを聞いて、びつくりした。この刹那私も亦心的革命が起つた。暫くたつて、和田校長が上京された。私たちは先生にどこかの中学の五年に入れて貰ふやうに運動して貰つた。先生は東京中のあらゆる中学を廻つて、交渉されたが、将があかなかつた。最後に麹町の明治義会中学に交渉して貰つて、やつとのことで這入ることが出来た。この頃私は、強度の恋郷病《スノタルジヤ》に罹つてゐたが、真境名と屋比久が復校を許されたと聞いて、上京したのが少し早まつたと思つた。一時は国に帰って、中学に復校しようとも思つたが、そのうちに、東京の生活が面白くなつて来て、漸く落ちついて勉強することが出来るやうになつた。三十年の四月に三人は中学の卒業証書を貰って、第一高等学校の入学試験に応じたが、照屋君だけがパッスして、二人は見事にフエルした。その後西銘君は事志と違つて、渡米するやうになり、私は二、三度にがい経験を嘗めて、三十四年やつと京都の三高に這入ることが出来た。照屋君たちがあの時本郷に遊びにいかなければ、ごんなことにはならなかつたが、と思つたことも屡々あつた。あの日照屋君たちか本郷に遊びにいかなかつたら、私は兎に角慶応義塾に這入つて、今日は何処かの会社員にでもなつてゐたであらう。

 三十年は瞬く間に過ぎた。私は一個の郷土研究者として図書館の一隅にをさまりかへつてゐるが、いまだに人間としての私を発見することが出来ないで、もがいてゐる。

 かういふ時に、恩師下国先生はやつて来られた。三十年前に私たちを鼓舞し、奨励された時と少しも変らない若々しさをもつて。そして、この三十日間、私たちは再び青年時代に立ちかへつて、毎日のやうに、先生を取りまいて騒いだ。今舷に「君たちと君たちの先生との関係はどんなものだ」、ときく人があつたら、私はその人にワルト・ホイットマンの詩句をもつて答へやう。
  私と私の仲間とは、議論や小唄で、説明し合ふのではない。
  私たちは、私たち自身の存在で、説明し合ふのだ。
 先生はほんとに説教や法令の代りに、先生自身を私たちに与へられた」。

 涙なしに、読めない名文である。なによりも心がある。研究者の原点がここにはある。