カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 C年 主の洗礼の主日

2010年01月08日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「小寒」1月6日ころから、次の大寒に対しまだ寒気が厳しくないと言う意味ですが寒風と降雪に悩まされる本格的な冬の季節です。正月7日は七草、7種の野草を粥に入れて食べる風習で、万病を除くとして平安は初期に始まったとされます。「七草粥」「なのか」ともいいます。ふつう芹(せり)、薺(なずな)、御形(ごぎょう)(母子草)、はこべ(はこべら)、仏の座、すずな、すずしろも入れるが、地域によって異なります。菜は6日の晩に唱えごとをしながら、まな板の上でたたきます。これを「七種打つ」「七種はやす」といいます。七種粥は若菜を通して大地の命をいただきます、いかにも日本文化の感謝の心をもった初春の行事です。キリスト信者も感謝のこもった心で新年の行事を楽しみながら、イエス様の公生活をたどることから新年が始まります。今度迎えるのはイエス様の洗礼の主日です。確かにイエス様の洗礼と言う表現は不思議に聞こえます、しかし、その時イエス様は普通の人間の行列に並びながら心の回心を求めて、神の子であることを明らかにします。同時に主の公現、主の洗礼の主日、カナで行った奇跡を通してイエス様が世界に人間と神である姿を示しています。それだけではなく同時に私たちも神様の子であることを知らされています。
その後(一つ)を強調している年の始まりには、イエス様の教会はひとつになるように呼びかけています。歴史のあらゆる出来事によって、人間の間のコミュニケーションの不足によって、欠点のある人間の心の結果として、イエス様の共同体はいろんな形で分裂し分けられて、イエス様が教え残した唯一真の愛の証の教会が成らない時があります。だからこの頃、イエス様の教えに従う教会は一つの教会に成るため、一緒に同じ言葉で祈るように考えています。
ルカ福音書 3・15-22
主の洗礼の主日はおそらく、初代キリスト信者にとって自分の洗礼のための要理だったと考えられます。この主日によって確かにキリスト信者も自分の洗礼の意味を深めます。当箇所は聖霊で洗礼を授けることでそれによって、神の子になることが強調されています。神の子であるのはイエス様だけではなく、私たちにまで及んでいます。さて、ルカの福音書は二つの場面に分けられています。まず洗礼者ヨハネが自分の立場を明確にします。次にイエス様がメシアであり、神の子であることを啓示されています。洗礼者ヨハネは、自分はメシアではない、ただ一つの声にすぎず、自分の洗礼の意味は回心を求める洗礼であって、メシアが授ける洗礼とは大きく異なると明らかにします。メシアであるイエス様は霊と火で洗礼を授けます。このような洗礼を受けたイエス様自身が自分に従う人々にも授けられています。このような洗礼をいただくことによってイエス様に従った人々はイエス様の弟子たちの聖霊降臨の時と同じ経験をします。当福音書ではイエス様の洗礼が素朴に語られていますがその時、素晴らしい知らせが告げられます。イエス様は普通の人として、皆と同じに洗礼を受けます。しかし聖霊で満たされて、聖霊の中で生きるようになっています(鳩の姿で聖霊が降ってきた)。それによって神の愛する唯一の子であることを宣言されて、お祈りの中で神様の思いに溶け込んで人類の救いの計画を自分の人生で実現されることになったのです。イエス様が聖霊の力でお生まれになって、人として生活をされ、ご自分の死と復活において聖霊の導きで神様の人類のための計画を成し遂げられました。イエス様に従った者たちも聖霊の働きによって、イエス様の運命と一致して人類の救いを求めています。                   モヨリ神父

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