カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 C年 年間第二主日

2010年01月14日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「風花」(かざはな)は晴天の日にちらつく雪のことで、重量感はありません。山脈を越えてきた風に雪片が混じることもあります。ちらちら一片ずつ落ちてくる雪は美しい現象であり、「かざはな」と言う語感もよく、好まれる季題です。冬になると水の源が枯れてくるので滝が細々として、厳寒の寒気に凍ってしまうことを「凍滝」と言います。叉庭先などに植えられている南天は、梅雨のころ白い小花を咲かせた後、青い実をつけそれが晩秋から初冬にかけて赤く色付いてきます。昔から乾燥させた南天は咳き止めとして使われています。さて、カトリックの典礼は再び「年間」という季節に入って来ました、この季節の精神は心の「希望」を表すことです。キリスト信者の希望は普遍的であり、大きく広がっています。自分の心の成長から、教会の成長まで求めながら、改めてイエス様の教えに忠実に従うことを祈っています。このごろ教会の一年間の歩みを考えます、どのようにして教会は自分の家族のようになっているかが大きな課題であり、キリスト信者の心の本格的な希望です。そこでJ.F.KENNEDYの有名な言葉が思い起こされ、この時にも当てはまっていると感じます。「教会はあなたのために何ができるかを問わず、あなたは教会のためになにをできるかを考えてください。」このような大きな希望を持ちながら私たち弱い者でさえ、教会のため、人のため、どのような事ができるかを探し求めるべきです。より深く考えればキリスト信者が基本的に希望しているのはイエス様に出会うことです。だから普通の日常生活の中でも行い、義務などをきちんとなすことがこの世に来られたイエス様と出会う場となるのです。イエス様がおっしゃるのは「神の国は近づいた。」だから大きな希望を持って、キリスト信者はそれを求め、見出し、神様から頂いた時間を生かして楽しんで生きるのです。
ヨハネ福音 2・1-11
イエス様は公に自分の人生が始まったころ、新しい「しるし」をも見せるようにしました。当福音書では象徴的にイエス様が花婿であり、花嫁である人類に向かっています。イエス様がことを変える偉大な力を示しています。水がブドウ酒に変ったように、私たちの心も変化し、自分の教会もいつも新たになります。イエス様の共同体はいつも、パンの聖変化のように不思議な力で神様の思いに全て変わっています。さて、ブドウ酒を中心にしたマリア様とイエス様との対話に注目しましょう。聖書の世界ではブドウ酒は豊かな神様の祝福の象徴であり、この世にこられる神の国のシンボルです。ブドウ酒がなくなったという発言は人々が神様の祝福を理解せず、神の国のことはまだ経験していないと言う意味です。けれどもマリア様がその発言を通して人類の救いを願い求めています。イエス様の答えも素晴らしいメッセージを含んでいます。「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」まず、イエス様のお母様の呼びかけには、十字架の下で教会のお母様にまた、人類のお母様にもなられたというニュアンスをも含まれています。そしてイエス様の言葉には自分とお母様の目標はいつもまったく同じではなかったことを表しています。「わたしの時」というのは、イエス様の光栄になった十字架の上での死と復活のことを示していますが、イエス様が象徴的に水をブドウ酒に変えることによって、自分の栄光のこと、つまり、救いと喜びを豊かに人類にもたらされたことを前提に表しています。イエス様の人生にはカナのしるしは一番であり、ほかのしるし(奇跡)の基礎と模範になっています。              
モヨリ神父

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