カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

聖ラファエルの栄光を称えるチャプレット

2016年12月22日 | メッセージ(その他)
聖ラファエルの栄光を称えるチャプレット

神よ私を力づけ、急いで助けにきてください。
 栄唱
 聖霊への祈り
 信仰宣言

*聖ラファエル、神のつかい、美しい魂への案内人よ。あなたは人間の姿で現れました。トビアと共にラジオメディアへ旅をし彼を守りました。栄光ある大天使よ、人生における巡礼の旅に於いても、私の保護者となって下さい。私の魂を悪から引き離して下さい。私達も天の国に入り神の姿を仰ぎ、永遠に神を褒め称えることができますように。アーメン         主の祈り・天使祝詞・栄唱

*聖ラファエル、悲しみにある人の保護者よ。心から神への忠実を守ったトビに、やさしい恵みを与えられた方。ガバエルに10タラント預けるほど、商いという仕事とそれにともなう必要な恵みも与えて下さいました。私達も、いつでも神の栄光につつまれて、永遠に清い魂でいられますように。アーメン         主の祈り・天使祝詞・栄唱

*聖ラファエル、天の解放者。魂を地獄の闇から救われる方。あなたは凶悪なアスモデオから、サラを解放されました。私を悪魔の誘惑から、諸悪から守ってください。臨終のときにも、黄泉に対して勝利の恵みをお与え下さい。アーメン     主の祈り・天使祝詞・栄唱

*聖ラファエル、苦しむ魂のやさしい慰め主。娘、サラを悪魔から助け出し、家族に大きな喜びと平和を与えて下さいました。私達にも心の平和をお与え下さい。精霊の働きを受け、聖なる生活を送り、最後まで人生を全うすることができますように。アーメン          主の祈り・天使祝詞・栄唱

*聖ラファエル、より頼む人の熱心な保護者。若いトビアを襲う大魚から救われたように、私達を襲う敵からお守り下さい。また私達の敵にも、改心と正しい道に戻る救いの恵みをお与え下さい。アーメン  主の祈り・天使祝詞・栄唱

*聖ラファエル、天の忠実な医師よ。神から人につかわされた方。トビは、愛された息子と再会したことによって健康を取り戻し、大きな喜びを与えられました。私達も人生の最後まで、神のみ旨を正しく理解し実行することができますように。アーメン          主の祈り・天使祝詞・栄唱

*聖ラファエル、人々に神の尊い祝福をあらわす方。あなたはトビの一族を豊かな恵みで満たされました。私達も同じく霊的な人生の賜物が与えられ、永遠の生命に達する恵みをお与え下さい。アーメン   主の祈り・天使祝詞・栄唱    

私は教誨師

2013年03月24日 | メッセージ(その他)
私は教誨師 2013年3月22日

教誨師に任命されてからほぼ二年が過ぎたところです。今まで経験がなかったこのような役目をはじめてからを振り返ってみれば、現状を理解しないままに進み出し、心の中で「これでいいでのだろうか」と何回も繰り返し考えてきました。しかし、このようなおぼつかない歩みの中に少しずつ日差しが射してきて、大きな喜びを感じるようになりました。このような喜びはどこから来るのか考えてみると、収容者との面会の時間の中からと思います。
まず日本の刑務所の組織に関わった段階で驚いたのは、細かい所まで、人間に対する大きな尊敬を持ちながら、積極的に刑務所の役目を果たし、いろんな問題に取り組んでいることと、そのいろんな考え、取り組みを身近に見たことでした。次に収容者に面会した時に、私が教えてあげたことよりも、私が彼らから教わったことの方が沢山ありました。
さて、出会った収容者の全員ではありませんが、何人かの心を知ることによって、とても素晴らしい心を持った人にも出会うようになりました。大きな犯罪を犯した人に出会ったこともありました。けれども皆の緑の制服の中のそれぞれに違った性格に気付き、それぞれの考えも異なって、生き生きとしている心があることも実感しました。時によって人生について、信仰についていくつかの質問をされたことがありました。その時私の答えに一生懸命耳を傾けてくれたことは、大きな驚きともに良くわかりました。それでも収容者たちのそれぞれの日常生活の中でお役にたてたかどうか、あるいは、話してあげたことを実行されたことがあったかどうかはわかりません、しかし耳を傾けられた瞬間に、本人達の心の底に何か響いて感じてもらえたと分かりました。
収容者に会う時にいつも握手をしています。その時、言葉以上にその小さなしるしによって心が通じたなぁと感じています。聖書の中でもイエス様が病気の人、弱い人、罪人に近づく時にいつも、相手の手に自分の手を置き、相手に触れるようにされて、大きな癒しの力を与えていました。そのつもりで、うまく言葉に出来ないのですが、普通の人、普通の人生のぬくもりをも感じさせてあげたいと思ったのです。優しさはどんな壁でも突き破って、どんな心でも開きます。またクリスマスと復活祭の時期にも、他のキリスト教団体といっしょに収容者のために舞台での催しにも参加しました。その時も、とても素晴らしい行事だと思い、収容者の心まで届いたことがあったと分かりました。参加された方々の顔を見ながら、開いた絵本のように、いろんなことを読みとることが出来たとも思いますが、一番嬉しかったことは収容者の笑顔を何度も見られたことです。最後に熊本刑務所始まって以来初めて、刑務所内でミサを立てることが出来て大きな喜びでした。その時にイエス様をこんなに、目で見えるぐらい身近な存在に感じて、神様と支えてくださった中村牧師さん、教育部の担当警備さん達にも大きな感謝を申し上げたいと思います。

最頼 巌流神父


「今週の公教要理の錠剤」44

2012年10月25日 | メッセージ(その他)
B年 年間第三十主日     12・10・28

「カトリック教会の教え」から

「イエス様の山上の話し」              

義に飢え渇く人や義の為に迫害される人は幸い」とイエス様がおっしゃっています。義を求める人、そのために命をもささげる人は神様の思いを求めている、それでイエス様がおっしゃる通り満たされています。そして最後まで神様の思いを実現します。世間の正義、社会や人の思いを求める人は神様の思いから離れてしまい、不安の中に陥ります。いつでも神様のみ旨を絶えず求め、あきらめないで神様の思いだけを追及する人は、平和の中で暮らし、心配、おそれなど一つもなく、心の幸福と平和を深く味わうことが出来ます。
同じように「憐れみ深い人は幸い」。イエス様自身、最初に赦しと憐れみの心を示してくださいました。その時に反感、競争、恨みが消え去り、人間が初めて愛され赦される世界を覚えて、大きな喜びを味わうことが出来ました。イエス様が勧められたのは、神様から作られた人間のその本来「心の清い人は幸い」です。清い心とは素朴で、複雑な欲望のない心のことです。このような者たちは自由な心、何も縛られていない心をもって、神様のみ顔、神様自身を身近に見つめることが出来ます。夢のような、輝いている神様のみ顔を見る人は幸いであり、より大きな喜びを味わうことが出来ます。
「平和を実現する人」も幸いであり大きな喜びを味わえます。イエス様に従う人たちの平和は、神様から賜物のような与えられる平和、神様の思いに従って生きる平和です。このような平和はイエス様が命じて、あらゆる所に伝える平和であり、復活されたイエス様が弟子たちにくださった、愛と赦しで満たされた平和です。このような平和が人間の幸福であり、神様の愛と思いの中に生きる心の状況を示しています。だからこのような心の平和を求める人は特別に深く幸福を享受できます。

                            モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」41

2012年08月29日 | メッセージ(その他)
B年 年間第二十二主日         2012・9・2
 「カトリック教会の教え」から
「キリスト信者の倫理」
キリスト信者の倫理は人間に対する尊敬から発生します。手本になるのはイエス様自身です。その心その思い、その行動です。イエス様自身は人間の本来の姿です。人間は神様の似姿に創られています。人間は同じ普遍的な希望を持っており、神様と同じように愛することができます。イエス様は福音記者を通して教えられたように、人間の心に宿り人間を指導しています。言い換えれば人間は神様のもとで生きるということです。人間は創造された時、神様の息を吹きかけられて生きるようになって、イエス様が教えてくださったように人間はいつもこの息のもとで生き、働き、希望を持ち、愛して愛されています。このように人間はとても貴重な存在で欠かせない神様の似姿です。それで人間のその命はもっとも大切な、貴重なものです。このように丁寧に、そして自由に生きる為に神様から創られた人間は、人生の中に神様からいくつかの方法で呼びかけられています。その呼びかけに言葉だけではなく、人生全体で応えるように誘われています。たとえば、自分の人生にはどのような信仰の選択をするのかは神様への呼びかけに対する一つの答えです。そして、どのようにしてこの世間でイエス様に従うかは神様の言葉に応えて決めることです。人間は幸せになる為に生まれて、喜ぶ為に生きるのです。けれども神様の言葉に沿ったカトリック教会の倫理は、真の幸せを教えてくれます。それによって人間は、神様が望まれる人間の姿を果たすように生きていて、本当の幸せが含まれた救いの道を辿るようになります。カトリックの倫理は否定な掟や禁止の命令に基づく心を持った倫理ではなく、むしろどんな人のためにも神様が望まれる救いや喜びを果たすことがどうすれば出来るのかを知ることを勧められています。
        モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」40

2012年08月24日 | メッセージ(その他)
B年 年間第二十一主日   2012・8・26

「今週の公教要理の錠剤」40 「カトリック教会の教え」から

「教会への奉仕」
キリスト信者は洗礼を受けたことによって、教会の一員となってイエス様と同じ思い、精神をもって、イエス様の後ろを歩くようになって、自分の人生では祈りと奉仕の心を優先します。イエス様の心にかなう奉仕が教会ではいくつかあり、活かされています。隣人への奉仕以外に、たとえば豊かなカトリックの典礼には儀式の時にキリスト信者に当てはまるいくつかの役割があります。その役割はキリスト信者が上手に果たすことによって、典礼自体が荘厳になり、参加する人の心に響き、神様は儀式を通して身近に皆の心に話しかけてくださいます。典礼に参加する人の前に素晴らしい神秘的な世界も広がってきます。イエス様に従う者たちにとって、典礼の行事の準備、そしてその後片づけはとても綺麗な役割であり、儀式に集中力を与えますから、祈りのような心の準備になります。侍者の役割は神父に身近な奉仕であり、司祭と一緒にミサを捧げることになり、とても素晴らしい奉仕です。祭壇の所で奉仕することはすぐれた奉仕ですから神様に仕えること、教会にも仕えることです。その後、神様の言葉を朗読することは神様のみ言葉が声になり、神様と人間の間の素晴しいコミ二ケーションの役割になります。 また、祭壇まで奉納の贈り物やパンとブドウ酒を運ぶことも神様への捧げものになり、素晴らしい感動的な奉仕だと思います。
そして、毎週の祭壇の為のお花の準備もすぐれた祈りになります。教会への奉仕は神様への捧げものとしてすれば、とても素晴らしい信仰の印になり、神様への直接の祈りになります。同じように教会の掃除や教会の庭の整理もすぐれた神様への奉仕になります。神父が不在時の奉仕も欠かせない役割です。み言葉の祭儀を上手に行えば、素晴しい信者の奉仕だと思います。それにオルガンを弾くこと、病者の訪問、その他自分のカリスマを活かして奉仕すること、宣教活動、教会の役員職を受けること、教会の行事を手伝うことまで素晴らしい神様への奉仕と祈りになり、確実に神様はその奉仕者に大きな報いを備えてくださいます。
                            モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」39 

2012年08月17日 | メッセージ(その他)
B 年 年間第二十主日       2012・8・19
 「カトリック教会の教え」から
「秘跡以外の典礼」
カトリック教会による七つの秘跡以外に、いくつかの典礼的な行事と義式もあります。たとえば、まず秘跡と各典礼行事を上手くとり行う為、準備は大変大切ですから、いつでもその心構えは欠かせないことです。教会の典礼の準備と後かたつけは心の準備と心の感謝につながっています、それを正しく扱うようにすれば、作業としてではなく典礼に結びついた心の態度になります。だから各儀式の準備は心の成長と教育になっています。典礼に属していることには様々な祝福もあります。神様自身だけが人間の人生、それに属しているできごとなどを祝福します。神様によって祝福されたものは神様に属していることを示し、神様から良いものとされています。この意味で神様だけが祝福が出来ます、司祭はそれを示しています。イエス様の命令に従がって「絶えず祈りなさい」、時間を大切にする毎日の祈りと食前と食後の祈り以外に、信心的な祈りもあります。たとえばいろんな形で個人であったり、グループであったりロザリオを唱えること、また様々な信心に従って唱える祈りです。祈りの中で一番すぐれた形であり、イエス様と共に祈るのは教会の祈りです。イエス様の祈りを祈り続けて、長い伝統の中で教会が続けてきた祈り方が聖書の言葉である詩編に元づいて唱える祈りで、教会全体と共に典礼の年間に沿って祈ります。教会は典礼を通して、まだお母さんの胎内にいる子供が生まれる前の時期を大切にし、同時に死の事もとても綺麗な典礼に包まれて、人生の締めくくりを大切にします。カトリックの葬式の典礼は、死の苦しみを和らげるか隠すよりも、神様から頂いた命に対する大きな感謝を表し、それを大切にします。人間の本来の故郷である神様の懐に戻って、永遠の命と人生の中で報われた喜びを強調して、お葬式を通して人生の最後の時も大切にします。
    
                            モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」38 

2012年08月10日 | メッセージ(その他)
B 年 年間第十九主日          2012・8・12
  「カトリック教会の教え」から
「奉仕のための秘跡―結婚の秘跡」
カトリックの心では男女二人が結婚した場合、もっとも愛である神様の姿を示しています。結婚した二人は神様と一緒に命の創造者になり、全て神様と共に愛の中で新しく生きるようになり、神様の本来の姿を示しています。結婚生活の愛自体は自分の中で閉じこもることではなく、外へ表し、広がっています。神様は人間が身近に見える結婚の愛を例えて、人間に対する自分の諦めない愛を示しています。結婚を支える愛の意味を良く理解する人間は、神様の愛を理解し、神様の愛の忠実、神様の愛の嫉妬まで深く覚えています。結婚生活の愛のように神様は花婿として、花嫁である人間を愛し、大切に、丁寧に話しかけたり導かれたり、人間が自分から離れた時でも絶えず忠実な花婿として追いかけたり、心から赦しを表して、自分の腕の中で、傷ついた花嫁のように皆を抱きしめます。神様は失われた羊を捜されたように、花嫁である人間を絶えず追い続け、一人でも多く自分の方に呼び寄せる為に捜し求めています。結婚式はこのような神様の愛の形を示している秘跡ですから、とても尊い秘跡であり、これを受ける為にも適切な準備が必要です。キリスト信者にとって、結婚生活は、特別に相手がキリスト信者ではない場合でも、共に愛の中で歩むことは基本です。しかし簡単ではありません。それで神様の助け、特別な祈りと祝福の支えは欠かせないことです。家庭は社会の細胞でありながら、イエス様の教会の姿であり、子供の心と信仰を育てる尊い場です。またキリスト信者にとって、結婚しなくても神様に人生を捧げて、愛のもとで送る独身生活も意味があります。つまりイエス様と同じように、より大きな愛の為に生きることは、自分自身を全て神様に委ねて、誓願の勧めに従いながら、イエス様の足跡を踏むようになることです。神様の愛の為、隣人への愛の為に独身生活を送ることも神様のみ旨にかなって、結婚生活と同じように大きな意味を持っています。                      
                              モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」37

2012年08月03日 | メッセージ(その他)
B 年 年間第十八主日     2012・8・5

 「カトリック教会の教え」から

「奉仕のための秘跡―叙階の秘跡」
叙階の秘跡は司祭になる儀式です。男子一人の若者はイエス様に従う恵みを受けて、その呼びかけにこたえるようになって、特別なカリキュラムの後、幾人かの上司司祭、司教様の賛同によって、司祭になる資格を得られます。叙階して、司祭となるのはイエス様の立場に立って、キリストの唯一の司祭職を実行することです。司祭になる為には司教様がとり行う叙階式が必要ですがその時に、イエス様から派遣された若者は、イエス様の心をもって人々に迎えられるようにします。司祭の役目は実は仲介者のような役割です。人を神様の方へ導きながら、神様の心と言葉を人々に伝えています。つまり、人類の救いを求めて、人々が神様を知るように、従うように、愛するようにいろんな方法で勧めます。同時に慈しみと憐れみをもった神様の心と言葉を伝えて、人々に自分の人生の中でその存在と働きに気づかせるように努めます。そして、司祭たちの間の中心になるのは司教様です。司祭たちは司教様の思い希望などと一致して、まかせられた民衆を司牧します。司祭の欠かせない役割は共同体を作ることで、単なる団体のような共同体ではなく、イエス様の心にかなう共同体作りを希望しています。その後、共同体に七つの秘跡を与えることです。イエス様の共同体は司祭の手によって、秘跡を大切にし、秘跡を頂くことによって成長します。その中で司祭の欠かせない役割はイエス様の最後の晩餐を記念することです。イエス様の言葉とその体を分かち合いながら、それはミサの事ですがその中に司祭はイエス様の姿を示し、改めてイエス様のように、共同体の奉仕の為に生きるように約束します。最後に信徒に神様の祝福を与えながら、司祭は自分と信徒も宣教の役割を幅広く果たすように推進します。
                          モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」36

2012年07月26日 | メッセージ(その他)
B 年 年間第十七主日     2012・7・29
 「カトリック教会の教え」から
「癒しをもたらす秘跡―病者の秘跡」
教会のとても重要な役割は、人に神様の心と体の癒しをもたらすことです。イエス様の共同体はいろんな方法で信徒だけではなく、困っている人、苦しんでいる人の癒しを求めてきました。その癒しの方法は、まず、人の痛みをそのままに耳を傾けることです。それに自分の時間、才能、財産などを奉献することによって、人の苦しみをやわらげるのは、教会の共同体のもっとも人の救いを求める道徳的なイエス様の言葉に従う方法です。なぜなら基本的にイエス様の教会は、全面的に人の苦しみを癒す目的と権利を持っています。病者の秘跡とは、心と体の癒しの独特な印であり、それを通して教会は病気の人の心と体のやすらぎを求め与えています。そして病者の秘跡の中で、オリーブ油はシンボルとして使われています。昔から、体のけがや傷の上に油を注ぐことによって、直しています。傷んでいるところがあれば油を塗ることで癒される経験に基づいて、油は病者の秘跡の象徴的な印になりました。病者の秘跡の時に、油を体に塗られた者は悪への戦いの為に支えられていて、傷ついた心、苦しんでいる体も癒されるようになっています。例えば、素直に病気を受け入れられない時、そのために神様にも人にも反感を持つことはたしかに心の深い傷であり、病者の秘跡によって慰められ、癒されるように神様の助けを願っています。苦しみに落ち入った者は神様や人をも赦せない場合があります。その時、聖なるオリーブ油の秘跡を受けた者は神様の恵みによって癒され、悪い思いから解放されて、罪も赦され、神様の救いを経験することになっています。体の苦しみはよく心の苦しみを伴っています。心の癒しは、場合によって体の全面的な癒やしにもつながっています。教会は病者の秘跡の儀式によって、その母のような愛と深い憐れみを、弱い子らである信徒に示しています。    
                            モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」35 

2012年07月19日 | メッセージ(その他)
B 年 年間第十六主日          2012・7・22
  「カトリック教会の教え」から
「癒しをもたらす秘跡 ― 赦しの秘跡」
洗礼を受けることによって、罪は全て赦されます。ミサにつまり感謝の祭儀に参加した時に、その中でイエス様の言葉を素直に受け入れることにすれば、以前犯した罪は全て赦されます。キリスト信者はイエス様の呼びかけによって、イエス様の言葉を受け入れることによって絶えず自分の人生を振り返り、反省して心の回心を続けています。このようにしてキリスト信者は自分の弱さ、出来なかったこと、怠ったこと、十分に愛さなかったことを実感して神様の赦しを求めています。その時キリスト信者は赦しの秘跡を通して神様の赦しと同時に隣人からの赦しを求めています。神様の赦しと人の赦しによって、人と神様への和解の心を持って、心の平和が取り戻されます。そして、より大きな愛で赦された人はその愛の力で、新しい人生を送ることもできます。その大きな愛の中で神様も人々も迎え入れることが出来ます。実際に赦してくださるのは神様ご自身ですが、赦しの秘跡の中で司祭は神様の立場に立って、神様の姿として、神様から与えられた権威を持ってキリスト信者に神様の愛とその赦しと癒しを伝えています。秘跡の構造は次の通りです。個人的に神父の所に赦しの秘跡をいただく為に行かれた場合、お互いの挨拶が済んでから、キリスト信者は罪の告白をします。それを聞いた神父は助言を述べてから、償いの祈りを勧めます。その後キリスト信者は痛悔の祈りを唱えます。次に神父から祝福の印によって教会の典礼に勧められた特別な言葉を述べながら全ての罪を赦します。最後に、神父からの励ましの言葉にキリスト信者が感謝の心を表して、赦しの秘跡の典礼が終わります。このように赦されたキリスト信者は、神様と教会へも周囲にいる者たちにも和解と心の平和を取り戻します。
                        モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」34

2012年07月12日 | メッセージ(その他)
B 年 年間第十五主日     2012・7・15
 「カトリック教会の教え」から
「感謝の祭儀―ミサ」
キリスト信者は毎週参加するミサに、いくつかの方法で呼ばれています。ミサと言うのは(missio)と言うラテン語のことばから発生しています。意味は派遣、つまり送りこむことです。つまりミサ「儀式」が終わってこれから社会の中で日常生活が始まる所に、キリスト信者は福音書の中にあるイエス様のみ言葉から送りこまれて、そこにイエス様の体を顕示しながら、出会う人と命のパン、生きる言葉を分かち合います。それにミサは感謝の祭儀とも呼ばれています。キリスト信者はまず神様から頂いた恵み、頂いた命、イエス様を通して頂いた救いの為に感謝します。それぞれ皆が自分の人生を振り返ると、確かに自分の欠点が赦されたこと、いろんな時に指導されたこと、支えられたことに思い至り、心を込めて感謝を表すようになります。ミサは教会の信者皆の行う儀式であり、儀式の時に全世界全体の教会がその中に参加して含まれています。ミサの参加者が大勢の時には荘厳な中で全世界のイエス様の教会を表すようになります。感謝の祭儀の構造は略して次の通りです。
―開祭、入祭、回心の祈りー言葉の典礼、聖書の朗読と説教、―感謝の典礼、奉納、奉献文、聖体拝領、-閉祭、派遣の祝福。
そしてキリスト信者は洗礼を受けてから出来るだけ毎週の日曜日、つまりイエス様のご復活を祝う「主の始めの日」ミサに参加して、典礼の流れに沿って自分の心の思いを合わせて神様に祈り、共同体と一体となり、大きな喜びを味わいながら、場合によっては辛い日常生活の為に大きな力と支えを得られます。感謝の祭儀の中で欠かせない頂点が二つあります。それは神様の言葉としてイエス様を知る、受け入れ、愛することです。次はイエス様の体を記念するパンとブドウ酒をいただいて、それを共同体と心と人生を分かち合うことです。
                                                   モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」32

2012年06月28日 | メッセージ(その他)

「B 年 年間第十三主日    2012・7・1
 「カトリック教会の教え」から
「入信の秘跡―聖体」
入信の秘跡の中に、イエス様に従いたい人にとって欠かせない最初の秘跡、洗礼と一緒に聖体と堅信の秘跡も含まれています。その中で今回特別に、聖体の秘跡に注目したいと思います。イエス様の体は確かに復活されたイエス様自身の事です。それは祭壇でミサの時に、記念して祝別されたパンとブドウ酒であり、イエス様の言葉によるイエス様の体となります。このパンとブドウ酒で、つまりイエス様の体によって洗礼を受けた人は、新しい人生の歩みのため、強められるため頂く食べ物であるだけではなく、イエス様と一体となります。その神秘的な出来事は洗礼を受けた時に、初めてイエス様の体(パンとブドウ酒)を頂くことによって表されます。聖体の秘跡によって、神様とイエス様に従う人とが新しい契約で結ばれることになります。その契約は愛の約束です。昔はいけにえを捧げることによって行われていましたが、聖体を頂くと、イエス様がパンのように人間に食べられるほど、大きな愛を持って献身されていることが分かります。同じようにそれを食べるキリスト信者は、人の為に食べ物になれるほど自分の人生、心、体を神様と隣人に捧げ尽くすことになります。洗礼を受けてから、毎回キリスト信者は聖体拝領の時に、イエス様の死と復活を記念し、その普遍的な愛の中で生きるようになります。それを記念した時にキリスト信者は、イエス様の約束の愛を思い起こして、イエス様の愛に包まれてそのように生きるように決心し、イエス様の体そのものから支えられています。時によってキリスト信者は教会で、残された聖体を訪問し、祈りの中でこの不思議なしるしの神秘を黙想します。その時にイエス様に従ったものたちはイエス様と一緒にいて、神様の救いの御技に感謝します。
モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」31 

2012年06月22日 | メッセージ(その他)
B 年 年間第十二主日 2012・6・27
「カトリック教会の教え」から
「入信の秘跡―洗礼」
洗礼の基本的な印は水です。この秘跡の中の水は主に神様の命を例えています。入門式と志願式の段階を踏んで洗礼を受ける時、頭に水をかけることによって、神様の命で霊的に誕生することを思います。それに初代キリスト信者にとって水による洗礼の印は、イエス様の死の後、水から出ることによってイエス様と一緒に蘇ることを示しています。また洗礼式の中で新しい服を着ることは、イエス様自身を着ることを示しています。それに、ローソクの光を灯すことは、自分の人生の中でイエス様の言葉の光を灯す印です。それから洗礼名を頂くことによって神様のものとなります。最後に額に油を塗られた時に洗礼を受けた者は神様にこの世で証人として選ばれた者となります。洗礼は海を無事に渡ってエジプトでの奴隷から救われたイスラエル人をシンボル化して、キリスト信者が得られた救いを表しています。イエス様がヨルダン川で洗礼者ヨハネから受けられた洗礼は、キリスト信者にとって前兆となっています。イエス様は人間と共に洗礼の列に並んでいる時に、ご自分が神の子であることを明らかにされました。同時に弱い人間の姿を持って神様の愛、聖霊の働きも示しました。私たちは、洗礼によってキリストの体である教会の共同体に受け入れられて、イエス様の家族のように教会に属すことになります。洗礼を受けた人はイエス様のように生き、イエス様の心を証します。そしてイエス様と同じように人を愛して生きます。洗礼は大人の時でも、幼い時でも神様の大きな贈り物です。そのように受け入れるべきだと思います。しかし大人の場合、準備の過程と洗礼の尊さの意識は欠かせないことです.
モヨリ神父