カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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神の母の祝日ー2013年元旦 

2012年12月30日 | 神父様からメッセージ(C年)
光はきょうは私たちの上に輝いています!!
皆様に素晴らしいとしでありますように!!
心身のご健勝を祈り申し上げます!!!
一年、一緒に歩んでくださって感謝いたします!!また今年もよろしくお願いいたします!
モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」52 

2012年12月28日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 待降節の第四主日
「カトリック教会の教え」から
「回心と赦し」
カトリック教会の教えでは神様がいつもどんな時でも赦してくださると教えられますが、このような神秘的な恵みをいただくのは自動的な出来ごとではありません。確かに必要とするのは自分が間違ったことを認めること、それに告白をしながら、おゆるしを願うこと、最後に回心することです。回心するのは犯した罪を二度と犯さないように約束することです。けれども人間は間違い安い、弱いものですから、お医者さんのようにイエス様が人間の弱さ、人間の傷を癒すものです。「罪」、とはどのようなことでしょうか。それは、とても簡単なことです。聖書の中にイエス様がわたしたちに命じたものがあります。それは、「互いに愛し合いなさい」です。つまり、キリスト教における最大で唯一の掟は、「愛」なのです。ですから、この「愛」に背くこと、それが罪なのです。では、具体的には、どのようなことになるのでしょうか?そのためには、「愛」ということがわかっていないならば、罪が何であるのかがわからないでしょう。
 「愛」は、自分をたとえ犠牲にしてでも、相手の人に奉仕するということです。相手の人が、わたしたちに何を求めているのか?何をして欲しいのか?ということを的確につかみ、相手の人の目線で物事を見、相手と同じ地面(立場)に立って、共に考え、感じ、そして、相手の人と同じペースで歩んでいこうとすることです。別の言い方をすれば、人に対する、気配り、配慮、思いやりといったようなことばになるでしょう。このような見方をするならば、罪の概念が浮かび上がってきます。以前の罪の概念ならば、罪のリストに載っていないものは、罪だとはいえないという思いがありました。ですから、最近の人は、罪のリストに載るほどの罪を犯していないので、赦しの秘蹟を受ける必要がないと思っています。でも「愛」を基準に罪を考えるならば、どんな人でも罪を犯している、または犯す危険性があるといえるのです。
 たとえば、誰かに対して、善意から親切にしたとします。でも受け取った側にしてみれば、とても迷惑な行動、いわゆるありがた迷惑といったことがありえます。これは、わたしたちも経験していることでしょう。もし、たとえ良いことであっても、また善意からの行動であったとしても、受け取る側に何らかの迷惑をかけているのであれば、それは、罪とはならないにしても過ちにはなります。この過ちにどれだけ気づけるかが大切です。もし、この過ちを放っておくならば、わたしたちは自分中心のものの見方や考え方、また、自己満足によって、相手を支配することにもなってしまいます。そうではなくて、たとえ良いことであっても、その後の相手の人の受け取り方はどうであったのかという、相手を思いやる気持ち、これが必要なのです。もし、これがないのであれば、それは傲慢という罪を犯している可能性が出てきます。
 「愛」に反するものは、自己中心性です。「自分だけが大切」とか「自分の思い通りにやろうとする」、こういった傾向は、人間であるならば、だれでも持っています。でも、その傾向にどれだけ気づいていけるかが大切なのです。気づこうとするならば、過ちから罪に変わる危険性を低くすることができます。
 ですから、誰かに注意をしたりする時にも、その人のことをどれだけ最大限に考えることができるのか、その人の立場に立って物事を考えられるのかということが一つのポイントとなります。
 自分を見つめる時、また赦しの秘蹟を受けようと準備をする時、自分が何をやったかを見つめ直すことも大切ですが、それと同時に、自分のやったことに対して、相手の人がどのように感じたのかをも見つめ直すようにしましょう。そうすることによって、少しずつわたしたちの中の愛が成長していき、「自分のためだけではなく」、「他者のために生きる」ことができるようになっていくでしょう。そして、相手の人を思いやる気持ちが育まれていくならば、もっともっと自分らしく生きることができる教会、社会になっていくに違いありません。
 もう一度繰り返しますが、「罪」というのは、「愛」に反する行いです。それも「思い、ことば、行い、怠り」によって、「愛」に反しているもの、それが「罪」です。その意味では、罪の概念は、以前よりも広くなり、かつ曖昧になっているのも事実です。でも誰かから言われなければ罪でないとか、人に迷惑をかけていないから罪ではないといったことは、「愛」という観点から見るならば、問題のある行動であるといえるのです。
 自分の行動のすべてに責任を持ち、また相手に対して、特に相手の心を自分の知らないうちに、どれだけ傷つけてしまったかと言うことを思いやり、気遣う姿勢、これを身につけ、本当の良心の究明を果たし、自分の中に「愛」に反した行い、つまり自己中心性に気づき、神様や周りの人々などの共同体に対してあやまるためにも、もっともっと赦しの秘蹟に近づいて欲しいものです.
                                   デンニ神父 

「今週の公教要理の錠剤」53

2012年12月28日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 待降節の降誕祭    2012・12・30
  「カトリック教会の教え」から
「 人間の徳と救いの恵み」
どんな人でも良い行いを行うように呼びかけられていますが、キリスト信者は特別に、自分の日常生活の中で、イエス様に従って良い行いを探し求めて行うように呼びかけられています。それはイエス様の言葉と行いを手本にし、イエス様の教えを守り、聖霊の力によって愛で満ちた行いをいつも実践できるように願っているからです。このようにキリスト信者は、少しずつイエス様の思い、その心の慈しみに元づいて自分の人生に習慣を作り、イエス様と同じように、考えと行いをなし続ければ自分の人生の中で徳が身に着くことになります。このように悪い性格を削りながら、良い習慣、より良い性格を身につけるように努めています。キリスト信者の欠かせない特徴は謙虚さの中で、熱情、正義を行うことです。勇気なども聖霊の賜物であり、その力によってキリスト信者はイエス様の生き方に自分を合わせるようにします。隣人を愛することが出来るようになる為に、節制を含んだ生活は欠かせないことです。だからキリスト信者には、徳を持った生活が大きな目標になります。徳とはイエス様の足跡を踏みながら、イエス様の生き方に合わせた生き方です。良い行いを続け、身に徳を付けるのは自分自身で出来ることではなく、神様の恵みによるのです。お手本であるイエス様のことを見ながら、少しずつ、絶えず、歩まなければならないのです。信じるのも、どこにでも神様のわざを見るのも優れた徳です。けれども、キリスト信者の素晴らし冠は愛徳のことです。神様の愛の理由で人を愛する、そして弱いものに仕えることはいろんな徳の中で最も優れたキリスト信者の生き方です。
                              モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」51 

2012年12月14日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 待降節の第三主日 2012・12・16
「カトリック教会の教え」から
「新約聖書の法律―愛の掟」
イエス様は当時の法律にぶつかって、その法律に対する、神様、兄弟愛の掟を言い広めました。同時に定められた罰に対して、イエス様は寛大な心で赦しの心を表しました。罪人を大事にして大きな忍耐を示しながら、罪人の回心を求めつつ、いつでも彼らが帰ってくることを求めていました。と同時に、罪と悪に向かい力強く戦っていました。さて、放蕩息子のたとえ話は特別にイエス様のメッセージと神様の心のあり様を表しています。また中楓を患っている人にイエス様が、体を癒す前に心の癒しを求めて、罪を赦してから元気を取り戻すようにされました。同じように罪の現場を見つけられた女は当時の法律によると石を投げつけられる形で死ぬべきだったのに、イエス様は救われただけではなく、罪をゆるして、喜びの中で真実の人生に立ち返らせました。イエス様が社会の中で日常生活、仕事、普通の役割などを通して愛を実践するように指導してくださいました。そのような所でイエス様に従う者はまず、イエス様と同じように憐れみの心、赦す心を実行するように勧められています。「何回赦すべきでしょうか」、「どのような罪まで神様がゆるされるのか」と、このような疑問はイエス様の使徒ペトロだけではなく、良く考えてみれば、人間の心の中にみなあります。イエス様の答えは「いつも」「どんな大きな罪を犯したことがあっても」ゆるしを願おうとすれば、必ずゆるしを得られるというものです。カトリックの伝統の教えでは罪の影響に注意するように勧められています。たしかに罪を犯した場合、人を傷つけたり、罪が生まれる雰囲気と環境を作るのでそこにも注意すべきです。赦しを得られても、罪を犯した結果も癒すベきだと教えられています。同時に小さな罪と大きな罪の区別にも注意しなければなりません。けれどもキリスト教では罪は何でしょうか、ある行動はいつ罪になるのか、罪の意識、罪とはなんであるかと現在でも大きな課題になっています。それは来週必ず、この小文章の中で答えたいと思います。日本の罪の意識とキリスト教の罪の意識、いくつかの点で異なっていますから、ここのところを慎重に深めるべきだと思います。
                             モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」50

2012年12月07日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 待降節の第二主日  2012・12・9
 「カトリック教会の教え」から
「旧約の法律と十戒(2)」
旧約聖書の十戒はイエス様から捨てられた法律ではなく、むしろ完成された本当の意味やメッセ
ージを強調し、神様の心を教えてくださいました。十戒は次の通りです。
私はあなたの主なる神である。
1)わたしのほかに神があってはならない。
2)あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
3)主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。
4)あなたの父母を敬え。
5)殺してはならない。
6)姦淫してはならない。
7)盗んではならない。
8)隣人に関して偽証してはならない。
9)隣人の妻を欲してはならない。
10)隣人の財産を欲してはならない。
このような掟によって、神様は天地創造の時から人間に生きる道を示してくださいました。それによって神様とイスラエル人達とは愛の約束で結びあいました。この約束によってイスラエル人達はいつも神様を自分の人生の同伴者と思うようになり、神様の愛のもとで生きることを覚えました。イエス様もこの掟を御父である神様との関係において、それを基本にして守るように教え,重ねてより深く簡潔な掟を教えてくださいました。それは「神様を愛することと隣人を自分のように愛すること」です。旧約聖書の中で神様へと愛の約束は、十戒を守ることを通して示されました。イエス様の掟によって、神様の愛の約束は命を尽くすほどの隣人への愛を通して示され、神様の忠実な愛への答えとして一つになりました.