カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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今週の公教要理の錠剤」49

2012年11月29日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 待降節の第一主日  2012・12・2
「 「カトリック教会の教え」から
「旧約の法律と十戒(1)」
奴隷になったエジプトから解放されたイスラエル人たちは、初めてその出来事によって神様が救い主であることを体験しました。その時までイスラエル人たちは神様の名前を知らず、その尊い存在を感じてはいましたが、まだ神様と身近な関わりがなかったのです。奴隷であったころ、イスラエル人たちは、モーセを通して初めて神様の名前を知って、いつも彼らと共におられた神様の助けを身近に感じるようになりました。そしてその時から神様と歩きはじめたイスラエル人たちは、神様の愛と助けを次々に経験して、それに応える為に愛の約束で神様と結ばれるように考えました。そしてそれを定めるために、イスラエル人たちが少しずつ法律を作るようになりました。まずモーセを通して神様から頂いた十戒は、イスラエル人たちにとって基本的な法であり、愛の約束の始まりでした。神様から十戒を与えられた時に、イスラエル人たちはそれを愛の答えと約束として守るように決めました。
さて、時間がたつにつれて、イスラエル人たちはますます神様に対する自分の忠実な心を見せる為に、ルールや規定、法律などを増やしていきました。それは613の戒律になりした。神様からの戒律の一覧表であるトーラーは613「戒律」「指針」「命令」でした。伝統によれば、これらの613の戒律のうち、248は「積極的戒律」、行動を促す命令。365は「消極的戒律」行動を慎む命令です。365は一年の日数に対応し、248は古代ヘブライ人たちが人体の骨と重要な器官の数であると信じていました。しかしこのような法律を厳しく守りながら、守らせながらイスラエル人たちはルールだけにこだわり、それを冷たく守って神様の愛とその愛に忠実に生きることを少しずつ忘れてしまいました。
                                                   モヨリ神父


「今週の公教要理の錠剤」48

2012年11月22日 | 神父様からメッセージ(B年)
B年 王であるキリストの主日  2012・11.25
 「カトリック教会の教え」から
「良心とは」
どんな人間でも良心を持っています、それによって善悪を判断し、それに従って行動します。確かに皆にとって同じ判断はできませんが家庭と社会の環境、教育や宗教によって異なります。しかし親にとって子供の良心を小さい時から育てるのが義務であり、大変重要なことです。丈夫な強い良心が育てられた子供は人生も安定し、未来を安心して迎えることが出来ます。そうではない場合、実際に何が良いことかを見失うことになります。良心によって自己中心的な生き方から解放されて、他者の存在を認めて、相手に尊重されます。時によって良心は神様の声になります。その声を聞き入れる時に良いことを選び、それを実行し、逆に拒否する時に罪を犯したり、神様から離れてしまうのです。特別に神様の声である良心は、人間の人生の道を選ぶことに深くかかわります。特別にイエス様に従う選択になった場合、聖職者として、神様の声や自分の良心の声をきくことは欠かせないことです。自分の良心がイエス様の言葉のもとで育てられた場合、つまり聖書を読んで勉強しながら、神様の思い通りに生きるようになります。その時、良心は自分の人生の素晴らしい指導者になります。福音書によると神様はイエス様に従った人の心の中に宿られます。それは良心の場所であり、神様といつも話し合う、あるいは相手確認の場になります。神様との話し合いは祈りといい、むしろ正確に確実に善と悪を選べる方法になります。なぜなら神様の思いは自分の思いになるからです。それに従って良心の中で、いつも周囲の人々を心にかけるようになり、人を助ける拠り所になります。確かに良心は厳しい選択の場にもなります。たとえば命と死が関わる場合、家庭生活の中で、信仰と他宗教に関することや子供の教育において、神様の思いに元づいて、自分の良心にとって一番良い選択を考えれば神様からも認められます。
                                               モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」47

2012年11月15日 | 神父様からメッセージ(B年)
B年 年間第三十三主日        2012・11・18
「今週の公教要理の錠剤」47 「カトリック教会の教え」から
「救いへの道」
人間の救いは具体的に人々の共通生活と世間の間の生活を通りますから、その中で暮らしながらキリスト信者はイエス様が望まれるような思いに従って過ごしています。忘れてはいけないことですが、人間は神様の似姿として作られています。男女で作られた人間は、神様に特別に似ている所は愛し合えるという所です。人間は孤独で生きるためではなく、愛する、愛される共同体の中に生きて仕える為に作られています。このように人間は神様の姿にもっとも似ています。それだけではなく、人間の心は独特な神様の思いによって神様が宿られているところです。しかし具体的に人間の生活のあり様によって、救いの道はいくつかあります。確かに人間の心は神様に似たような形で作られたのですから人間の心は基本的に良いものであり、だからどんな時でもどんな人でも尊敬すべきだと思います。「良心は人間の最も奥深い所にあり、聖所であって、そこではただ一人神様と共にあり、神様の声が人間の奥深いところで響く。」 良心とは「共に知る心」つまり、「神と共に知る心」を意味します。人間の心は宗教を問わず、神様に対する尊敬の方法に限らず、根本的に良いものだと思われていますが、成長の環境によって、誤った教育の成果によって、人間が悪くなったり犯罪の道をも走ったりしてしまいます。人間は神様と人々との関わりの中で、自分の行いや思いも善か悪かを知ることが出来ます。人間には創造主である神様の思いやそのみ旨に従うことはもっとも理想的な生き方です。神様が人間に自由な判断の能力を与えてくださいましたから、それを通して人は善を選んでそれに従って生きています。具体的に、現状の中で生きる人間は「今ここに」神様の言葉の呼びかけ、神様から心に刻まれている法や人々への尊敬に元づいて判断して、良いことを選ぶことができます。
                                                      モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」46 

2012年11月08日 | 神父様からメッセージ(B年)
B年 年間第三十一主日             2012・11・11
「カトリック教会の教え」から
「人間の自由」
長い歴史においても、人間にとって「自由」というのは大きな課題でした。それが守られた時でも、それを失った時もです。人間は神様から自由なものとして作られて、自由の中で生かされて、いつでも自由を探し求めています。神様が人間を作った時に、まず人間に善と悪を選ぶ自由を与え、人間が自由の中で生きるようになりました。神様は人間の自由な心からの愛を求めておられ、自由に作られた人間は神様を確かに尊敬して愛していますが、時によって神様を拒んだり忘れることもしました。それだけではなく、神様から賜物のように頂いた自由は人間によって、いつも友好的、正確に使われてはいなかったのです。人間は心の中でいつも、どんなことがあっても自由に生きることが出来ますが、場合によって人間が神様から離れ、罪の暗闇に陥って、神様から頂いた自由を捨ててしまいました。つまり、自由になって自由に生きる為に作られた人間は時によって、自分の自由を捨ててしまい、つまらないことに縛られたりしました。愛するのは強制的にできることではなく、自由な心で愛して、自由に愛されることです。同じように人間は強制的に救われるものではなく、神様から呼びかけられて神様への心を開いて、自由に応えて行きます。だから人間は自由に良いことを選んだり、自由に悪いことも選ぶことが出来ます。人は自分の自由だけではなく、人の自由も尊重しなければなりません。自分の自由と周囲にいる者達の自由を尊敬しあいながら、いろんな自由を組み合わせて、より豊かな生活を求めることが出来ます。人間に良いことでさえ強制的にさせるのは出来ないのです。しかし使徒パウロによると、悪に縛られた人間は、イエス様から、真理の力からも自由にさせられます。しかし悪と罪の道を走る人は、縛られた状態で生きています。イエス様の言葉、イエス様の霊(聖霊)だけが私達を自由にし、生かすのです。神様の言葉の中に含まれた真理を知る、それをいつも探し求める人だけが、完全に自由に生きています。どうしても自由を捨ててしまう人がいて、自由を奪われる人もいます。しかしキリスト信者は、神様の懐の中にある自由の中で、いつでも生きているのです。
                                                   モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」45

2012年11月01日 | 神父様からメッセージ(B年)
B年 年間第三十一主日  2012・11・4
 「カトリック教会の教え」から
「神の国」
イエス様が弟子たちや民衆に良く話してくださったことは「神の国」のことです。実は日本も神の国と呼ばれていますが、違った意味だと思います。イエス様が語られる国は私達の救いの場となっています。イエス様の語られる神の国は、場合によってイエス様自身です。イエス様のみ旨とその愛に満ちた国です.神の国はまだ人類の間に完全には到来していません、しかし来ようとしています。確かに神様の恵みと力で実現されていますが、その国を期待する者たちのその期待する心がまえは欠かせないことです。神の国は真理を探し求める人の心です。神の国はすでにあなたがたの間にあるとイエス様がおっしゃっています。信仰の目でそれを探し求めれば見つけられるのです。神の国はからし種のような小さいものですが、神の国に辿り着いたところで、すでにパンダネのように全てを膨らませています。つまり神の国とは全てを変えて神様の思いと心に合わせるようなところです。宝のようなもので隠されており、それを一所懸命に探し求める人だけが手に入れることができます。貴重な真珠にも似て、それを絶えず捜すもの、どんなことよりもその価値を理解するものだけが得ることが出来ます。イエス様の神の国は人生の幸福の基です。確かにいつか神様の力によってこの世で実現することになりますが、キリスト信者は常に目覚めて生きて行きながら、神の国の到来を待っています。現在の世間では、神の国を表すしるしは教会です。しかし、真実の神の国はそれより大きく広がっています。けれどもその存在に気付くことは、キリスト信者にとって大きな喜びになります。神の国は種のようなものでいろんな所に落ちますが、独特な環境によって成長します。そして、その時大きな実りをもたらします。その実りは人の人生の幸せです
モヨリ神父。