カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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B年 復活祭

2015年03月30日 | 神父様からメッセージ(B年)
 
                    
 イエス様のことを愛される皆様、主のご復活おめでとうございます!!

 熊本の諸学校の入学式はまさに桜の季節で、今年は復活祭の直前です。真新しい制服に身を包み、友達の笑顔に向かって一心に走り出す様子を大人たちも微笑んで見守っています。桜花の熟が皆の頬にあります。入学式、担任の先生に自分の名を呼ばれて、全身で答える新入生もみられます。夢と希望と好奇心にあふれた眼差しは、担任の先生を離れません。このような心もち、このような表現は復活祭を迎えるキリスト信者にもあてはまります。入学式のような喜びと微笑みは、聖霊の存在によって心からあふれ出る復活祭の大きな喜びです。私たちの新しい服はイエス様です。洗礼の時に着せかけられた白い布は私たちの新しい服であり、キリストのことを示しています。そして、私たちを拡げた腕で迎えてくださる担任の先生は、御父である神様です。さて、このように熱く燃える心で復活祭を迎えたキリスト信者は、より大きな深い喜びを味わっています。この時、目を覚ましていれば、イエス様の死と復活による神様の偉大な働きを見ることができます。罪の中から、神様の赦しと憐みを見ました。病気の中に、神様の丁寧な指導と人生の意味の教えがありました。悲しみの中から、神様に支えられる喜びを発見しました。死の中に普遍的な神様の命が輝くようになりました。
 さて今日の祝いは言葉にできないほど大きな栄光のある祝いです。祈りの時、心の中で、静かな場所で、自分たちのことを一旦忘れて、神様の偉大な素晴らしさだけを見つめましょう。そうすることによって、私たちが変わる、私たちの人生も変わる、私たちの心も変わる、私たちの周囲にいる者たちも変わる、私たちの目も変わります。イエス様が復活された真実を大いに味わいましょう。「わたしの主が生きておられる、わたしの主に会いました!! わたしの主を見ました!! 」  Alleluya, Alleluya, Alleluya !!
                              モヨリ神父

B年 枝の主日  

2015年03月24日 | 神父様からメッセージ(B年)
さて、ミサはキリスト信者にとって感謝の祭儀であり、イエス様の最後の晩餐の死と復活の記念になっています。ミサの時に記念唱のところに、皆で「主の死を思い・・・」と唱えます。その時にイエス様の死の思いの中で、一番大きな愛のしるしを見出します。「友のために命を捧げるより大きな愛はない・・」イエス様は裂かれたパンのように、私たちに十字架からご自分の体、ご自分の心をくださいます。それをいただき、それで生きている私たちは、イエス様の死を思う時に、どのような気持ちでそれを感謝の祭儀の中で記念するのか、イエス様に従った者たちにとって、人生の中で欠かせない課題だと思います。
「マルコによる福音書〈主イエスキリストの受難〉 15・1-39」
「枝の主日」を迎えることになりました。今年は典礼暦によるB年の中で、神様の心を語ってくださるイエス様の神秘的な救いの歩みを辿りながら、受難の主日でマルコ福音記者の記したイエス様のご受難を朗読することになりました。この少ない解説の言葉の中で、マルコ福音記者が収録した、十字架につけられたイエス様が言われた言葉を深めたいと思います。その言葉は苦しみを背負いきれない私たちのために、私たちの日常生活における十字架を、どのように栄光と希望に変えることが出来るのかを教えてくださる言葉です。
「父よ 彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」悩み苦しむ私たちは、痛みの原因を探し求めていろんな人、出来事に理由があると考えがちなのですが、イエス様の赦しの言葉は、私たちの心に大きな平和を取り戻すと思います。人間が知らないことは数知れないほどありますが、すべて知っておられる神様は、イエス様の死に含まれた私たちの死と苦しみも、神様の限りのない慈しみと愛の中にある計画に包まれています。神様は十字架につけられたイエス様の言葉によって、何も分からない弱い人間の私たちを、いつもどんな時でもどんなことでも赦しています。いつも神様が皆の心の平和と救いを求めています。
「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃるイエス様が、ご自分の十字架の隣につけられた受刑者に、大きな喜びをもたらしました。この犯罪人が自分の弱さを認めて、イエス様に自分の希望を述べて、イエス様から素晴らしい喜びを与えられました。このようなところは私たちにぴったりで、参考にならないでしょうか。
「父よ、私の霊を御手にゆだねます」神様の御旨だけを成し遂げるためにこの世にこられたイエス様が、最後にご自分の思い、心、御体を神様の手にゆだねました。私たちもそうすることが出来れば、私たちでも神様が素晴らしい計画を作ってくださるでしょう。神様にすべてをゆだねる私たちを通しても、神様は大きな愛によって、人々の間にいつも大きな喜びを蒔きつづけられるのです。
       モヨリ神父          

B年 四旬節第5主日 

2015年03月18日 | 神父様からメッセージ(B年)
 
  来週の「枝の祝日」と共に聖週間に入ります。四旬節は、洗礼を受ける人にとって意味深い時だったと思います。神様に近つき、神様の言葉の光に照らされ、新しい世界を見出すことができたでしょうか。イエス様の道を辿る人たちは、自分の信仰の弱さを実感し、自分の足りなさを憂うようになりますが、それを乗り越えられる支えは神様の恵み、神様の力だけです。「あなたの信仰があなたを救った」という言葉によって、イエス様が悩んでいる人に、命や健康、希望などを取り戻しました。自分の心を信仰で照らされた者だけが、身近に神様をみることができます。
「へブライ人への手紙 5・7~9」
 ヘブライ人への手紙の当個所では、いくつかの衝撃的な表現があります。一つずつそれをみてみましょう。イエス様は人間として、花道を歩きながらこの世に来られたわけではありません。「涙をながしながら」と語られています。人間にとって神様の姿、神様の心は受け入れやすいものではありませんが、神様は人間の心に入る時に、ご自分の言葉によって新しい計画をもたらし、深く人間の生き方を問われています。それを人類に語ろうとされたイエス様は、困難の中で神様の子としてご自分の命を捧げ、神様の心を見せてくださいました。イエス様が「完全なものとなられました」ルカ福音記者がこの言葉を解いています。「あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐みのあるものになりなさい」 マタイは「憐れみ」の代わりに「完全」という言葉を使っています。イエス様は神様の御心に「従順」でした。全く神様の思い通りに生きられました。それは私たちの救いの源、まさに永遠の命の源になりました。イエス様が私たちにも、自分の命を捧げるほどに神様の思いの通りに生きるよう教えてくださいました。
「ヨハネによる福音書 12・20~33」
 復活祭に洗礼を受ける人は最終的な準備に向います。当時のギリシャ人(一般の人)のように「お願いです!イエスにお目にかかりたいのです」と希望を持ってイエス様に近づこうとしています。私たちにも洗礼を受ける人たちにも、イエス様が土に落ちる種のたとえ話を教えてくださいます。この究極的な愛の例えで言い換えれば、私たちはイエス様の運命に一体化されています。当個所での重要な言葉は「今、このとき、今こそ」というのです。このたった今、この生きている瞬間、私たちもイエス様と同じように死と復活を経験します。だからイエス様にとって、イエス様に従った者たちにとっても、死は土に落ちた種のように最終的な目的ではありません。イエス様と共に蘇る、生きる、実ることです。この私たちの孤独な瞬間の中にある苦しみは、イエス様と共に復活の栄光の源になっています。
                                        モヨリ神父

B年 四旬節第四主日 

2015年03月10日 | 神父様からメッセージ(B年)
この時期私たちの心も目も、自然の美しさに満たされながら、四旬節の十字架のしるしを見つめています。美しさばかりを探し求める私たちの目に、十字架はどこに美しいところがあるのでしょうか。それはキリスト信者にとって、十字架のしるしを通した神様の限りない愛を見出せるというところです。それは神様の勝利なのです。
「使徒パウロのエフェソの教会への手紙 2・4~10」
 使徒パウロは神様の愛について語ってくださいます。私たちの罪は神様の限りない愛によって赦されています。罪によって死ぬべき私たちは、神様の愛に包まれて、イエス様と一緒に生き返ることができました。神様の命は大きな恵みであり、心の力、希望、人生を満たす喜びです。イエス様の生き方を通して、またイエス様の死によって、神様の愛は慈しみ豊かな恵みで満たされた心だと明らかにされました。罪によって神様から遠去かった私たちの心を、神様はこの世を創造したときのように作り直しました。だから私たちの行いはイエス様の命によって新しくなり、私たちの人生もイエス様と一致して神様の心を現わす生き方になっていきます。
「ヨハネによる福音書 3・14~21」
 イエス様が、ファリザイ派に属し真実を探し求める人に出会います。二コデモでした。当時、哲学者ソクラテスの言葉が流行っていました。「マイエウチカ」です。それは先生の言葉や知恵によって新しく生まれ変わるということです。イエス様の話しを聞きながら、二コデモの心も新しく生まれ変わろうとしています。イエス様が「上を(十字架を)見るように」ニコデモを導いています。使徒ヨハネにとって「見る」と「信じる」は全く同じ意味をもっているので、二コデモは十字架を見てイエス様の話によって、神様の救いと御技を見させられています。つまり神様の愛を理解することによって、新しい世界に新しく生まれることになります。四旬節の第4主日の特徴は「喜び」です。「ドミニカ レタレ」といいます。悲しみと罪の中で生きてきた者たちには、イエス様の死と復活によって大きな希望が与えられています。世界の歴史、人々の歴史、その中に神様の愛の働きを見ることができれば、私たちがどれほど大切にされていたものだったかがわかり、その時に私たちの目が大きな光を見るようになり、新しく上から生まれることになっています。キリスト信者が神様と同じ目で十字架のしるしを見ることができれば、そのむごいしるしの中で、命と愛を見る(信じる)こともでき、神様と一緒に生き神様と同じ思いと行いを成し遂げることができるのです。        モヨリ神父

B年 四旬節第三主日

2015年03月02日 | 神父様からメッセージ(B年)
四旬節が進んで、復活祭に向かっています。神様の言葉を大切にしながらより深い喜びを味わいましょう。神様の言葉を通して新しく気づくことが多くなっています。私たちには辛い時期がありますがそれは神様のせいではなく、むしろそれを通してみ摂理である神様がご自分の愛情を示してくださいます。そしてそれを乗り越えるように手伝ってくださいます。私たちの目の前にある十字架を見つめるようにしましょう。それは私たちの目の前に開いた本です。その中に知るべきこと、あるいは覚えることが沢山あります。私たちはどのように愛し合いながら生きるべきか覚えましょう。
「使徒パウロのコリントの教会への手紙 1・22~25」
 使徒パウロは私たちの目の前に十字架のしるしを置いて、その意味を理解するように話してくださいます。長い歴史の中で、神様からのしるしを求めてきたイスラエル人たちは、十字架のしるしを見ても、つまり十字架につけられたイエス様を見ても神様の愛を理解せず、つまずき再び、メシアの敗北だけを読み取りました。哲学的であるギリシャ人たちも十字架のしるしを理解せず、愚かな矛盾に満ちたしるしだと使徒パウロの話を聞かず離れました。しかし使徒パウロは聖霊に支えられて、皆の前に十字架のしるしを置いてその意味を力強く語りました。神様はご自分の限りない愛を示すために、弱い者愚かな者を通して、私たちにキリスト・イエスの本当の知恵と本当の力強さを示してくださいました。使徒パウロはそれだけを宣べ伝えるために、自分の人生を尽くしました。人間の思いと違って神様の思いはより深い知恵、より強い力で人間を愛し導いてくださっています。
「ヨハネによる福音書 2・13~25」
 この箇所で、イエス様は典礼、あるいは神様への真の礼拝を力強く教えてくださいます。イエス様が教えてくださる神様の礼拝は、神様の言葉を聞き入れることです。神様の赦しを得るのは生贄の数々、また商売によってではなく神様の言葉を聞くことです。イエス様は神様の言葉を聞かない人に対して、また神様にするべき礼拝を商売にかえる人に対して憤りを感じて、神殿から商売人を追い出しています。このしるしによってイエス様がいくつかの真実を教えてくださいます。まずご自分の正体は、旧約聖書に預言者が語るようにメシアであることを示しています。神殿は神様に出会う場ですがむしろ、本当の神様と出会う場はイエス様自身です。イエス様が神様の聞くべき言葉であり、私たちに神様の心を示すしるしです。イエス様の体は新しい神殿であり、神様に出会う場であって、真の礼拝ができる所なのです。神様の住まいである人間の体も商売の場ではなく神様に礼拝する所なのです。         モヨリ神父