カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 C年 年間第四主日

2010年01月30日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「寒椿」早咲きの椿のことで、まだ寒い冬の間に花をつけます。特にこれという品種があるわけではありません。枯色で占められた景色の中に色鮮やかに咲く椿の花は、春を待ち焦がれる人々に元気を与え明るい気持ちにさせてくれます。それに「笹鳴き」とは冬の鶯(うぐいす)の鳴き声のことです。夏に山間にいる鶯は冬に人の住む里近くまで来て、垣根や低い木々の間で小さな声をだします。笹鳴きの頃、鶯を丸々見ることは少なく隠れて鳴いていますから、その表現につながっています。冬の寒さがどんどんゆるんできて、大自然と人間の心も少しずつ優しくなりそうです。さて、キリスト信者の生活に欠かせないことは病人訪問です。身内や親戚などはもちろん、地域の孤独なひと、お年寄り、不自由な方など皆がほほ笑む心を待っています。慰める心、支える心、イエス様を見習っているキリスト信者は、人をだれでも癒す目標をもっています。キリストに従う者は励ます役割を任命されて、それを果たす機会をのがしません。このごろの年間の典礼の朗読から勧められたことは、神様の言葉を大切にすることです。つまり聖書を時々手にとって、神様が勧めるところを読みその言葉がどのようにして実現されているのかを知れば、あるいはどこが自分に当てはまっているのか考えてみれば、神様の言葉の力、その行動、その癒しを見出すことができます。それを経験するために、ただ試すだけです。その言葉は神様の贈り物であり、それを通して素晴らしいことを創造します。その言葉は水をワインに変え、人の心をも変えることができます。そのみ言葉はイエス様ご自身です。
ルカの福音書 4・21-30
イエス様の本性は人間には神秘的なことであり、神様だけに知られています。人々はイエス様に近づくと、その神秘的な存在を感じます。イエス様と神様とのかかわりは人間が想像できない神秘であり、愛に包まれた深い結びあいです。確かに人にとって人を知るのも簡単ではありませんが、イエス様のことを知るのは特別な経験になっています。今日もイエス様の時代と同じように、イエス様のことをはっきり知らずに自分の狭い観点から見る人もいます。先週の福音書と同じように、イエス様は神様のみ言葉であり、この世に来られて素直に誰にでも受け入れられたのではなかったのです。イエス様がナザレの会堂で説教されたとき、神様の言葉は歴史の中で実現すると思うファリザイ派と違って、み言葉は自分に当てはまって実現すると宣言しました。ナザレの人々がそれに対して自分勝手な発言を加えて、イエス様は人間にすぎないものであり、ヨセフとマリアの子であることを強調します。ナザレの人々の態度を戒めて、イエス様が預言者のように自分の身内でさえ受け入れていないと訴えています。しかし身分の低い、外国人であるシリア人のナアマン、またなんの資格もないとされていたフェニキアの未亡人は、イエス様の言葉を受け入れて救いの喜びを味わうことができました。この出来事によって、この世でイエス様が来られたのはイスラエル人のためだけではなく、全ての人の癒し、救い、全世界の全ての人々の幸せのためだとわかります。なんでも知るように示していたナザレの人々はイエス様を拒み、その拒否はイエス様の最大の拒否である十字架上の死のことを予言します。神様は無償でいろんな人に、特に資格のない人々まで自分自身を贈り物として与え続けたのです。時代、場、人によってイエス様のことを受け入れていない人もいます。しかしイエス様とそのみ言葉を受け入れる人は、喜びの癒し、自由を感じ、救いを味わうことになります。
                         モヨリ神父

毎週の一言 C年 年間第三主日

2010年01月21日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「大寒」1月21日ごろ、冬の寒さの絶頂期です。極寒の辛苦になやまされますが、ふきのとうが咲き始めます、春の足音が聞こえそうな季節です。ひどく冷え込んだ夜などに、空中の霧の粉が風によって草や樹木に凍りつき氷層などを形成する現象を霧氷と言います。樹氷は霧氷の一種で、風上側に羽毛状の半透明の氷層を成長させ、時には樹全体を包み込むことさえあります。自然の見事な出来事には「寒卵」もあります。冬中に鶏が産む卵です。鶏卵はもともと完全食品とされるが、この時期の卵は特に栄養価が高いとされています。寒さの中、生みたての卵の白さ、手にした時のぬくもりは嬉しいです。生命力、存在感、エネルギ―を感じさせる寒卵は心象的、象徴的な季題としてキリスト信者のためにも重大な意味が含まれています。この一週間の間、キリスト教に属する教会(宗派)は一つになるように祈っています。「キリスト教一致祈祷週間」です。この時にキリスト信者は自分の弱さについて反省しイエス様が望まれる教会が一つになるように望みながら祈っています。歴史的な理由で、歴史に登場した人物によって、イエス様の教会が分離したり、イエス様の教えから離れてしまった時がありました、けれども神様の赦しの力によって、キリスト信者の心の中に大きな希望が残されて、皆でイエス様の一つの教会になるのです。分裂の時のその理由は単独ではありません。しかしそれぞれの弱さを認め合いながら、今週は祈りの中で希望をもって、大きな理想を担いながら、イエス様に従った私たちは本当のイエス様が望まれる教会になるように努めたい、祈りたいと思っています。また、年間第3の主日にカトリック菊池教会は56年前、サレジオ会の司教様に祝福された時から保護者であるサレジオの聖フランシスコを祝います。同時に4年前に亡くなられた主任司祭リチャ―ルド・オーエンス神父様を思い起こして追悼のミサをいたします。
ルカによる福音 1・1-4 ,4・14-21
時代を通して神様の言葉はメシアであるイエス様によって実現されています。み言葉は聖書の中で教え知らせる役割を持つだけではなく行動も伴います。つまり神様の言葉は予言されたことを実現するだけではなく、受け入れる人の心に生きて、新しい経験をたくさん生いざや所み、罪を赦し、人を救います。さて、当福音書の個所ははっきりと二つの部分に分けられています。一つはルカの福音書の序章で、もう一つはイエス様が預言者の言葉に基づいて、自分の使命を表明します。まず序章のところでルカ福音記者が、新しく入信したテオフィロという人物に向かって書いています。このようにルカの福音書は要理的な書物であり、キリスト教の心をやさしく紹介します。その紹介の中で注目すべきことは、福音書はイエス様の生涯に立ち会った証人の生きた言葉と行いから生み出されて、神様の生きた言葉として記録されたことです。当福音書の第二部分は、会堂で土曜日の定例の典礼の預言者の巻物の朗読から始まります。その時に朗読と説教の当番はイエス様自身でしたが、朗読された箇所をイエス様は見事な方法で解説されました。イエス様が朗読されたところは自分に当てはまっていて、そのように自分の公生活を始めようとしています。少ない言葉でイエス様が自分の使命をまとめて話しています。それは人の心と体の救いを求めることです。神様はイエス様を通して、人間を大きな愛情で包んでその救い、喜び、幸せを求めています。それが実現されるのは「今日」と福音書が述べています。当時の「今日」だけではなく毎回、み言葉であるイエス様を受け入れる心があれば、そのみ言葉が「今日」(たった今)実現します。つまりみ言葉が言い伝えることが同時に成し遂げられるのです。                            
モヨリ神父 

毎週の一言 C年 年間第二主日

2010年01月14日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「風花」(かざはな)は晴天の日にちらつく雪のことで、重量感はありません。山脈を越えてきた風に雪片が混じることもあります。ちらちら一片ずつ落ちてくる雪は美しい現象であり、「かざはな」と言う語感もよく、好まれる季題です。冬になると水の源が枯れてくるので滝が細々として、厳寒の寒気に凍ってしまうことを「凍滝」と言います。叉庭先などに植えられている南天は、梅雨のころ白い小花を咲かせた後、青い実をつけそれが晩秋から初冬にかけて赤く色付いてきます。昔から乾燥させた南天は咳き止めとして使われています。さて、カトリックの典礼は再び「年間」という季節に入って来ました、この季節の精神は心の「希望」を表すことです。キリスト信者の希望は普遍的であり、大きく広がっています。自分の心の成長から、教会の成長まで求めながら、改めてイエス様の教えに忠実に従うことを祈っています。このごろ教会の一年間の歩みを考えます、どのようにして教会は自分の家族のようになっているかが大きな課題であり、キリスト信者の心の本格的な希望です。そこでJ.F.KENNEDYの有名な言葉が思い起こされ、この時にも当てはまっていると感じます。「教会はあなたのために何ができるかを問わず、あなたは教会のためになにをできるかを考えてください。」このような大きな希望を持ちながら私たち弱い者でさえ、教会のため、人のため、どのような事ができるかを探し求めるべきです。より深く考えればキリスト信者が基本的に希望しているのはイエス様に出会うことです。だから普通の日常生活の中でも行い、義務などをきちんとなすことがこの世に来られたイエス様と出会う場となるのです。イエス様がおっしゃるのは「神の国は近づいた。」だから大きな希望を持って、キリスト信者はそれを求め、見出し、神様から頂いた時間を生かして楽しんで生きるのです。
ヨハネ福音 2・1-11
イエス様は公に自分の人生が始まったころ、新しい「しるし」をも見せるようにしました。当福音書では象徴的にイエス様が花婿であり、花嫁である人類に向かっています。イエス様がことを変える偉大な力を示しています。水がブドウ酒に変ったように、私たちの心も変化し、自分の教会もいつも新たになります。イエス様の共同体はいつも、パンの聖変化のように不思議な力で神様の思いに全て変わっています。さて、ブドウ酒を中心にしたマリア様とイエス様との対話に注目しましょう。聖書の世界ではブドウ酒は豊かな神様の祝福の象徴であり、この世にこられる神の国のシンボルです。ブドウ酒がなくなったという発言は人々が神様の祝福を理解せず、神の国のことはまだ経験していないと言う意味です。けれどもマリア様がその発言を通して人類の救いを願い求めています。イエス様の答えも素晴らしいメッセージを含んでいます。「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」まず、イエス様のお母様の呼びかけには、十字架の下で教会のお母様にまた、人類のお母様にもなられたというニュアンスをも含まれています。そしてイエス様の言葉には自分とお母様の目標はいつもまったく同じではなかったことを表しています。「わたしの時」というのは、イエス様の光栄になった十字架の上での死と復活のことを示していますが、イエス様が象徴的に水をブドウ酒に変えることによって、自分の栄光のこと、つまり、救いと喜びを豊かに人類にもたらされたことを前提に表しています。イエス様の人生にはカナのしるしは一番であり、ほかのしるし(奇跡)の基礎と模範になっています。              
モヨリ神父

毎週の一言 C年 主の洗礼の主日

2010年01月08日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「小寒」1月6日ころから、次の大寒に対しまだ寒気が厳しくないと言う意味ですが寒風と降雪に悩まされる本格的な冬の季節です。正月7日は七草、7種の野草を粥に入れて食べる風習で、万病を除くとして平安は初期に始まったとされます。「七草粥」「なのか」ともいいます。ふつう芹(せり)、薺(なずな)、御形(ごぎょう)(母子草)、はこべ(はこべら)、仏の座、すずな、すずしろも入れるが、地域によって異なります。菜は6日の晩に唱えごとをしながら、まな板の上でたたきます。これを「七種打つ」「七種はやす」といいます。七種粥は若菜を通して大地の命をいただきます、いかにも日本文化の感謝の心をもった初春の行事です。キリスト信者も感謝のこもった心で新年の行事を楽しみながら、イエス様の公生活をたどることから新年が始まります。今度迎えるのはイエス様の洗礼の主日です。確かにイエス様の洗礼と言う表現は不思議に聞こえます、しかし、その時イエス様は普通の人間の行列に並びながら心の回心を求めて、神の子であることを明らかにします。同時に主の公現、主の洗礼の主日、カナで行った奇跡を通してイエス様が世界に人間と神である姿を示しています。それだけではなく同時に私たちも神様の子であることを知らされています。
その後(一つ)を強調している年の始まりには、イエス様の教会はひとつになるように呼びかけています。歴史のあらゆる出来事によって、人間の間のコミュニケーションの不足によって、欠点のある人間の心の結果として、イエス様の共同体はいろんな形で分裂し分けられて、イエス様が教え残した唯一真の愛の証の教会が成らない時があります。だからこの頃、イエス様の教えに従う教会は一つの教会に成るため、一緒に同じ言葉で祈るように考えています。
ルカ福音書 3・15-22
主の洗礼の主日はおそらく、初代キリスト信者にとって自分の洗礼のための要理だったと考えられます。この主日によって確かにキリスト信者も自分の洗礼の意味を深めます。当箇所は聖霊で洗礼を授けることでそれによって、神の子になることが強調されています。神の子であるのはイエス様だけではなく、私たちにまで及んでいます。さて、ルカの福音書は二つの場面に分けられています。まず洗礼者ヨハネが自分の立場を明確にします。次にイエス様がメシアであり、神の子であることを啓示されています。洗礼者ヨハネは、自分はメシアではない、ただ一つの声にすぎず、自分の洗礼の意味は回心を求める洗礼であって、メシアが授ける洗礼とは大きく異なると明らかにします。メシアであるイエス様は霊と火で洗礼を授けます。このような洗礼を受けたイエス様自身が自分に従う人々にも授けられています。このような洗礼をいただくことによってイエス様に従った人々はイエス様の弟子たちの聖霊降臨の時と同じ経験をします。当福音書ではイエス様の洗礼が素朴に語られていますがその時、素晴らしい知らせが告げられます。イエス様は普通の人として、皆と同じに洗礼を受けます。しかし聖霊で満たされて、聖霊の中で生きるようになっています(鳩の姿で聖霊が降ってきた)。それによって神の愛する唯一の子であることを宣言されて、お祈りの中で神様の思いに溶け込んで人類の救いの計画を自分の人生で実現されることになったのです。イエス様が聖霊の力でお生まれになって、人として生活をされ、ご自分の死と復活において聖霊の導きで神様の人類のための計画を成し遂げられました。イエス様に従った者たちも聖霊の働きによって、イエス様の運命と一致して人類の救いを求めています。                   モヨリ神父