カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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C年 年間第十七主日

2013年07月25日 | 神父様からメッセージ(C年)
[ルカによる福音書」11・1-13
初代キリスト信者の間の教えの中に、断食について話した後、主の祈りが教えられています。そしてイエス様が教えられたようにいつも祈るように勧められて、主の祈りは一日3回唱えるような習慣がありました。この祈りによって初代キリスト信者は、独特なグループであることを実感しました。イエス様の福音書が照らす光によって、イエス様が教えられた祈りを深く理解出来ます。イエス様の祈りの意味は、福音書全体を通して明らかにされているからです。現在の教会ではマタイによる福音書に書かれたイエス様の祈りが使われますが、ルカによる福音書にも主の祈りがもっと簡単な形で伝えられています。わずかな言葉で主の祈りを説明するのは難しいのですがしかし、ほんの少しだけでも、中身にそって主の祈りの素晴らしさを深めるようにしましょう。皆のお父さんである神様が、あなたの命によって、一人一人、人類の歴史を生かしてくださいます。人間的な考え方を乗り越えてあなたの思いをお伝えください。わたし達にとって、この世界にとってもあなたの思いは確実であり、未来の安心です。神の国のしるしを通してわたし達に必要なこと、霊的なことも、物理的なことも全てお与えください。わたし達の罪を赦してください、そうすることによってわたし達もすぐに人をそうできるようなものになれます。いつもお父さんのように抱きあげてください。わたし達の愛するお父さんであることを少しも疑わないようにしてください。いつもどんな悪いものからでもお守りください。」イエス様が祈りを教えられてから、いつでも、力強く絶えず祈るように勧めています。イエス様が祈りを勧めているのはしつこく自分の思い通りの願いを得る方法ではなく、聖霊を願う方法です。なぜなら聖霊だけがわたし達に必要なことを祈りに転換して神様に届けることが出来るからです。
                         モヨリ神父 

C年 年間一六主日 

2013年07月18日 | 神父様からメッセージ(C年)
  キリスト信者とは派遣された人です。イエス様に従ったものは皆、一人残らず派遣されています。実はイエス様自身この世に使わされて神様の心を示すことになりました。派遣されたキリスト信者の目的はイエス様と同じように人の心と体を癒し、命をもたらし、悪と戦う、清い心で神様を見ること、人の心に神様の平和を送りこむことです。イエス様に派遣されて行ける場所は世界の全て、全ての人類の全人生です。つまり自分の居場所、それぞれの役割に応じて、家庭、職場、関わる共同体のことです。そして出発にあたり必要とされるのは持ち物や道具ではなく、イエス様の勇気、イエス様の憐れみ、イエス様が教えられた愛情だけで十分だとイエス様は何回も繰り返しおっしゃっています。布教の時に物理的な支えは、邪魔なだけです。イエス様の平和をもたらすのが最高の目標です。
「ルカによる福音書」10・38-42
ある研究者は、マグダラのマリアが復活されたイエス様に出会った時、「ラブニ」(意味=わたしの先生)と呼んでいたことにとても驚いて困っています。なぜなら当時女性たちは、偉い先生の弟子になるのが許されていなかったのです。しかし当福音書で明らかにされたのは、イエス様が当時のラビ(先生)の間で初めて女性を弟子として認められたことです。このようにマグダラのマリアは女性にとって新しくイエス様に従う形のはじめになりました。またマルタとマリアの出来ごとの物語は、イエス様の弟子になる方法を語られています。キリスト教の中でマルタは活動する生活の象徴であり、マリアは感想的な生活の象徴です。最初の修道生活を送る兄弟の共同体の中でマルタ、マリア、ラザロがいました。その中にマリアは「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」とあります。さてこの表現は独特な発言に聞こえますが、実は当時のラビの弟子になることを示しています。使徒パウロもイスラエルの法を勉強する為にエルサレムに行った時に同じ言葉を使って、ガマリエルの弟子になったことが示されています。だからマリアはイエス様の弟子になったことで、イエス様がはっきりとそれを一番いい方法を選んだとおっしゃいます。注目するところはまだあります。ルカの福音書の当個所の直前に、イエス様がサマリア人たちに拒否されましたが、ここでマリアとマルタが心からみ奉仕とみ言葉を聞いたことによってイエス様を受け入れています。それがイエス様にふさわしい接待になりました。現在、優しい心でボランティアの奉仕が広がっていますが、キリスト信者にとってより深い思いから発生します。まずイエス様の言葉を聞き、それを受け入れ、小さい者におられるイエス様自身に使えることが出来ます。普通にキリスト信者は、奉仕活動によってイエス様に対する愛情を示すことになると考えるのですが、イエス様が今日の福音書で強調するのは、イエス様の言葉を聞きいれた後にこそ、より大きな愛を示すことが出来るということです。             モヨリ神父

C年 年間第十四主日 

2013年07月05日 | 神父様からメッセージ(C年)
イエス様に従う素晴らしさを味わってみましょう。イエス様がメシアであることを何度も知らせますが、それはわたし達一人一人を大きな愛情で包む方であることを知らせてくださいます。同時にわたし達と一緒にずっとおられ、共に歩み、わたし達の日々の十字架も担い、わたし達の心と体を癒してくださいます。わたし達のすべての過ちを赦し、わたし達の為に死んで、わたし達に普遍的な喜びを備えてくださいました。わたし達を支える食べ物になるほど、わたし達の心の中に宿ってくださいました。 どうして、わたし達にとってイエス様は一番、重要な人だと思わないのでしょうか、どうしてわたし達にとって欠かせない者になりませんか、どうして一人でも多くの者がそれを知らせる人にならないのでしょうか。是非、信じる共同体に尽くす喜びを持ってください。イエス様の神秘的な存在をわたし達の中に持って豊かに味わうようにしましょう。
ルカ10・1-12・17-20
弟子たちにイエス様が与えたのは「シャローム」です。普通に「平和」という言葉に翻訳されますが、実際には「神様の思い通りに生きる」と言うことを意味します。だからイエス様から与えられた賜物である「シャロ―ム」は、それを受け入れた弟子たち、そしてイエス様に従った者達からわたし達に至るまで、再びいろんな人に与えるようにイエス様から勧められています。当福音書のメッセージは、神様から与えられた喜びと慰めが誰にでも与えられていることです。この福音書は三つの部分に分けられています。72人の派遣、宣教する方法とその活動の心、そして72人が帰って来た時の達成感と喜びです。イエス様に任命された弟子は場合によって72人だったり、70人だったりと古い書物に記されています。それについてはどちらともはっきりと決めることができません。ある解説者によると当時知られていた全世界の民族は72だったそうです、だからイエス様は当時知られていた全世界の民族に弟子たちを派遣されたということなのです。そのように派遣はイエス様の先生としての心の広さが示されています。
当時の狭い考え方を乗り越えて、イスラエルの民族だけではなく全世界の人々に神様の心を告げ知らせる為に、イエス様が「シャローム」をすべての人々に与える為に弟子たちを派遣します。イエス様の派遣は祈りから始まります。イエス様の派遣は行動よりまず信仰から始まり、その派遣は神様のみ心に忠実に従う行動です。神の国は強制的なメッセージではなく、貧しい中で弟子たちは人の心に神の愛を勧めています。派遣された弟子たちは、場合によっては受け入れられたり,拒否されたりしますが、イエス様は全ての力を宣教活動そのためだけに注ぐように暖かく弟子たちを励ましています。当福音書は大きな喜びで終わります。イエス様に派遣された弟子たちは帰ってくる時に、いろんな出来事を語りながら自分の成功したことを自慢しますが、それよりも、自分の名前が天国に記されてあることをイエス様から大いに喜ぶように勧められています。
                                モヨリ神父

C年 年間第十五主日

2013年07月05日 | 神父様からメッセージ(C年)

初代キリスト信者の間には、確かにイエス様が皆の心と体を癒されると信じる覚悟があったと思います。しかし、人の目に見えない復活されたイエス様が、どのように人を癒し続けるのだろうかという疑問が残っていたと思います。それには福音記者の皆が、イエス様の活動を語りました。復活されたイエス様がたとえ人の目に見えなくても、すべての人を、罪人でさえ愛し、どのように癒し続けているかと言う疑問に答えるようにしました。癒してくださるのは信仰をもった祈りの中の願い、そして他人の為に祈り願うことです。特別に病人はイエス様の言葉によって癒されます。イエス様があるいはイエス様の代理人である弟子が、手を伸ばして人の上に置くことによって癒されます。信仰によってイエス様に触れて関わる時、命であるイエス様はわたし達の命を支え、取り戻してくださいます。
「ルカによる福音書」10・25-37
時代を通して、よきサマリア人のイエス様の例え話はいくつかの形で解説されましたが、有名になったのは教父たちの解説です。良きサマリア人はイエス様です。追いはぎに襲われた人はキリスト信者です。追いはぎは罪です。通りかかる祭司とレビ人は救いまで至らない人間の力を表しています。傷の上に注がれた油とワインはイエス様の慈しみと憐れみの印です。襲われた人が乗せられたロバはイエス様の人間性を示し、どのようにイエス様がわたし達の弱さを背負ってくださるかを象徴しています。宿は教会を象徴し、宿の主人は司祭のこと、デナリオン二枚とは二組の秘跡を示しています。しかし近代の解説によって、良きサマリア人の例え話の中に新たな特徴が強調されています。当福音書では、二つの質問が基本となっています。一番目、何をして永遠の命を受け継ぐでしょうか。二番目はだれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。このようにイエス様がイスラエル人の考えから新しいメッセージを宣べています。永遠の命を得るには、神様と隣人と自分も愛さなければなりません。人間はイエス様の言葉を聞いて、神様のご計画に従ってその命を全うした時にこそ、神様が自分を愛し大切にされていたことを示すことになります。しかし隣人を愛するとはどのようなことでしょうか、確かにイエス様が良きサマリア人のやり方を真似するように勧めています。しかし、それだけではなく、聞き手の人にイエス様が新たな質問を投げかけます。「あなたは誰の隣人になっているのですか」と。正しく神様への愛と自分への愛を理解すれば、隣人への愛はキリスト信者にとって、欠かせない心の形、言い変えれば慈しみと愛のある心となっています。慈しみと憐れみはキリスト信者の心の土台であり、常に苦しんでいる人の立場に立てるように勧められています。
                             モヨリ神父