カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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C 復活節 第6主日 

2016年04月25日 | お知らせ
2016 5・1
 5月に教会から特別に大切にされた「母の日」を迎えることになりました。母の日は、限りのない感謝の心を示す時です。キリスト信者は自分の母を通して神様からいただいた命を大切にしながら大きく感謝を表します。もちろんまず自分の生母ですが、それに十字架の下でキリスト信者を任命された皆の母としてのマリア様です。マリア様はイエス様のお母様でありながら、イエス様の内に生きる者たちのお母様です。神様の母であるマリア様は私たちをずっと見守って、私たちの為に神様に取りなしてくださいます。それで5月はマリア様にささげられた月として、キリスト信者がいろんな方法でロザリオを唱えて神様の母であるマリア様を誉めたたえながら、お祈りささげます。マリア様は母として私たちの弱さ、苦しみ、労苦を見ておられますので、その中でいつも私たちの祈りを聞きいれてくださり慰め、見守っていてくださいます。キリスト信者にとって、マリア様は欠かせない存在で、いつでもマリア様のご絵、ご像、メダイなどを見てなんでも願って祈ります。そして、主の昇天の祝日を祝います。イエス様は天国に昇られましたが、天国はどこに置かれてあるのか、これはキリスト信者にとって欠かせない課題です。ではルカ福音記者の福音書を通して、答えるようにしてみましょう。
「ルカによる福音書24・46-53」
 これから復活の喜びを味わった教会全体やその典礼も、大きな情熱を持って主の昇天と聖霊降臨の祝日に向かっています。当福音書はイエス様の最後の晩餐の話の一部を紹介しています。基本的に4つの課題が取り上げられています。1)イエス様に対する愛はイエス様の言葉を聞くことによってあらわすことが出来ます。2)イエス様は出てこられた神様の元にもどります。3)イエス様は弟子たちに弁護者と指導者として聖霊を送ります。4)イエス様が神様のところに帰る前に平和を贈り物として弟子たちに与えます。今日の典礼はイエス様の言葉を受け入れる人は聖霊を贈り物として与えられ、聖霊の宿になります。それはまさしく教会の心です。それに注目すべきことは、ヨハネの福音記者によれば、最後の晩餐の時のイエス様が話されたことはその時だけではなく、おそらく復活後も同じように話された可能性があります。イエス様を愛する人はイエス様の言葉を聞いて受け入れますがその時、先生であるイエス様と弟子としての関係を定められています。信仰によってキリスト信者は愛情で先生であるイエス様に結びついて従っています。キリスト信者はイエス様の言葉を聞き、理解し、身につけ、広めています。先生であるイエス様の言葉を弟子と私たちの心にとめることによって、神様の愛が自分の中に宿られたことを経験します。神様が教会に送り込んだ聖霊は、教会の中でイエス様が与えた言葉、教え、その心を実現する役割を持っています。聖書は大理石のように固まった言葉ではありません、聖霊によった生き生きとした言葉であり、歴史の流れの中でいつも新しく、どんな時代でも人の心の中で燃えています。最後に「平和」も復活されたイエス様の贈り物であり、その平和は祈りや観想されたイエス様の言葉から発生します。キリスト信者は信仰によってそれを自分の心の中、共同体の中で造りあげるのではなく、むしろ発見するように誘われています。                   モヨリ神父

C 復活節 第5主日 

2016年04月20日 | 神父様からメッセージ(C年)
2016 4・24
「ヨハネによる福音書10・27-30」
 イエス様がキリスト信者の愛の基本、模範と目的であることは当福音書のテーマです。普通、愛には命令が出来ないはずです。との名言の意味は言いかえれば、愛には理性で理解できないこともあります(B・パスカル)。確かに自分のことを愛するように人に命令しても無理なことで、人間には情けが自発的に湧いてきます。どうしてイエス様が自分を愛するように命じているのでしょうか。イエス様が勧められている愛は情けに属す愛ではありません、このような愛は私たちの中に宿る聖霊によって燃え、イエス様から頂いた贈り物であり信仰から湧いてきます。イエス様が勧められている隣人の愛は特別であり、神様が一人一人を包んでくださる愛と同じで、それは信仰によって極める愛です。イエス様が情けの中から自発的に発生する愛だけではなく、信仰から実った愛を命じてくださいます。
 イエス様に栄光を与えることによって、神様がイエス様の死と復活を通してどのように、どれほど人類を愛してくださったかを見せてくださり、イエス様が成し遂げられた神様のご計画は人類のための愛の手本をくださったのです。そしてイエス様は神様の心の鏡として自分の心の愛を人類に見せられました。「友の為に命をささげる、それ以上に大きな愛はない。ヨハネ福音書15,13」このようにイエス様の栄光(死と復活)を通して神様は自分の普遍的な愛を見せたかったのです。このような愛の形はキリスト信者にとって手本になり、この方法でお互いに愛し合うようにイエス様から勧められています。だからイエス様は愛の泉であり、その基本、その目標です。「マタイ25・40」の中でイエス様が言われるように「このような小さい者にしたことは、わたしに直接してくれたことなのです。」私たちの小さい兄弟たちの中におられるイエス様は、私たちの愛の目標です。自分の人生で身近に神様の愛を経験したキリスト信者は、神様の愛で隣人の中におられる神様を愛します。だから神様の愛の力で信じ、それで生きるキリスト信者は、神様と隣人を愛してその愛をこの世で広げようとします。            モヨリ神父

復活節 第四主日

2016年04月11日 | 神父様からメッセージ(C年)
 
 
復活節中豊かに喜んで過ごしている信者たちは、毎日の福音書の朗読に入り込むと素晴らしい色で光輝く世界を見出し、心をとらえる香りのようにそれを味わうようになります。復活されたイエス様の姿を見た弟子たちは同じように、大きな勇気の力を持って自分の心や自分の愛する共同体も成長させて、全てのものにイエス様の復活の喜びを伝えています。
「ヨハネによる福音書10・27-30」
 時によって、キリスト信者は自分の信仰について問われることがあります。当福音書は私たちの信仰の柱を三つ教えてくださいます。イエス様を「聞くこと、知ること、従うこと」です。このように人はイエス様のことを信じるようになり、ずっとイエス様に結びつきつながっています。人が信じるようになって、イエス様に属すようになるのはもう一つの神秘的な理由があります。それは、神様ご自身がイエス様と一つであるように、羊のような私たちが神様からイエス様に与えられて、イエス様と一つになってこのようにイエス様とずっと結びついているのです。初代教会の時から弟子たちの声を聞き入れなかった人は、永遠の命を拒否をしたことになっていましたが、それを受け入れた者たちはイエス様の羊の群れに属していることになりました。詩編によると神様と話さない人は、暗いところにいて死んだような者になっています。言葉や創造物、毎日の出来ごと、自分の意識を通して、いつも話してくださる神様につながって聞く人は永遠に生きるのです。実はキリスト信者は「聞く」それは、耳で聞くのではなく、心で、体で、頭で聞くことになって理性、直感、情けを通してイエス様の姿、思い、言葉、行いを受け入れるのです。このような方法でイエス様を聞くことにすれば、キリスト信者はイエス様に従う行動が出来、イエス様を真似しながら自分が置かれた日常生活の中でイエス様とまったく同じように生きることになっています。キリスト信者はイエス様の真似をしてもイエス様の言葉と行いをリピート(反復)するのではなく、キリスト信者は神様に置かれた人生の具体的な立場に立ってイエス様の思いや心をもって、その中で行い、工夫して生活を送っています。このようにキリスト信者はイエス様と深く結びついています。自分が洗礼を受けた時に、聖体をいただい時の経験を考えてみれば、イエス様に従うようになったその時こそ、イエス様と深い結びつきが出来たのです。このようにイエス様と結びついたキリスト信者は、イエス様と一つになり、イエス様と一緒に生きるようになります。それに従って使徒パウロが言ったようにキリスト信者はイエス様と共に死んでイエス様と一緒に生き、永遠に復活します。これは皆に神様から勧められた使命です。
                                モヨリ神父


復活節 第三主日  

2016年04月05日 | 神父様からメッセージ(C年)
 
 キリスト信者は聖霊の風に吹かれて、つまり復活されたイエス様の息を浴びて、新しい心で、新しく生まれ変わって勇気を出して神様からいただいた人生を大切にします。キリスト信者は生きていても死んでいてもイエス様と一緒になって、復活されたイエス様と一緒に復活して、赦しと慈しみの心を持ち、いろんな苦しみを乗り越えられます。キリスト信者はこのような強い風の翼に乗って人生を送ります。復活祭の時に受けられた恵みも良く見れば自分の人生の中、共同体の中でも当季節の様々な花と同じように見事に咲いています。このように神様の美しさを身近にみられます。

「ヨハネによる福音書 21・1-9」
 先週の福音書の箇所の主役者は使徒トマスでしたが、今度はペトロです。ペトロが漁に行く決意をしめしましたが、陸にイエス様がおられるとわかって、すべてを残して水に飛び込みイエス様のもとに戻ります。その時ペトロがもう一度イエス様の呼びかけで、当時の共同体、すなわち教会の責任を預かります。復活されたイエス様が何度も、不信感をもった弟子たちの目の前に現れますが皆は誰であるかすぐにわかりませんでした。しかし、イエス様の言葉と行い(やり方)によって、弟子たちが知らない姿の人の中に、復活されたイエス様を見出すようになります。当福音書の骨組みはおもに二つに分けられています。聖書の解説とパンを割り分かち合うことです。それに従って、復活されたイエス様との感動の出会いと、イエス様の羊を指導するためのペトロの再派遣です。復活されたイエス様は人の日常の出来事の中で働き、その中で不思議なしるしを通して自分の姿を身近に見せるようにします。今回、イエス様が大量にとれた魚のしるしを通して、自分の言葉の力をしめします。網に掛かった魚153匹は歴史の中でとても面白く解説されていました。1)数字はヘブライ語の文字にかえれば「愛の共同体」のことを示しています。2)153、当時知られた魚の種類の数であって、人類のことも示しています。3)153の数字をたすことによって、「完全」という意味をあらわれています。4)最後に、おそらくいつも自分の福音書の中で完璧を求めたヨハネが、細かいところまでイエス様のみ言葉の結果を示した数字であるということもあります。しかし当主日の典礼で一番大切にされたところは、イエス様とペトロの対話です。ペトロがイエス様の裁判中、三回もイエス様のことを知らないとした発言に対して、今度はペトロがイエス様に対して三回も自分の愛を宣言します。その宣言の中でペトロの回心もあり、イエス様の赦しも明らかにされています。同時にイエス様とペトロの間の対話は、イエス様とキリスト信者の間の対話をも示されています。イエス様は信者に確かに大きな愛を求めていますが、同時にイエス様に従う者が無償、普遍的なイエス様の愛を受け入れるように勧められています。イエス様とイエス様に従う者との関係は見事な愛、回心、赦しの間で定められています。そのようにイエス様に再び任命されたペトロはイエス様に従う者たちに、このようい指導、支え、むしろ心の命を与えるように呼びかけています。                     
                              モヨリ神父