カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

結婚式を歴史的な教会で

2013年02月22日 | 結婚式の案内

 教会での結婚式をとお考えのみなさま

 宗教を問わず結婚式を カトリック菊池教会がお手伝いいたします!

 華美な式よりも 厳粛な中で荘厳な式を希望されているみなさんに、心新たに 魅力的な

 カトリック式で執り行います。

 気楽に、いつでもモヨリ神父までご相談ください。(TEL:0968-25-2581)


 

「今週の公教要理の錠剤」60

2013年02月20日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 四旬節第二主日  2013・2・24
 「カトリック教会の教え」から
「人間と愛」
人間の複雑な心には気持ちや思いの中から自由に発生する愛情があって、いろんな形で表現されています。友達に対し心をかけた時や友達の為に奉仕していろいろ捧げる場合それは友情と言われています。キリスト信者は知らない人を助けたり、弱い人を支えたり、困っている人を守ったりするのですが、それは独特なキリスト教の愛徳といわれるものであり、イエス様の愛を真似て、イエス様からいただいた愛に対する、イエス様への本格的な応えになります。それから結婚生活での愛は、より深い特徴があります。聖書の中でも神様自身が結婚の愛の形を通して人類への愛を例えました。結婚の愛は道徳であり、結婚生活の愛は心と体で表現されています。結婚生活の特徴はいくつかありますが、愛は忠実で、いつも弱い方を支えています。相手の喜びを無償で求めています。夫婦の愛は召命であり神様の愛を例えていますから、非常に深いものです。日々、自我を削って相手の幸せだけを求めています。その愛の実りは生まれた子供ですが、それだけではなく、子供を愛の背景の中で育てていけば、人間として家庭の教育と社会の教育を勧めていけます。大きな忍耐をもって、価値観の経験を繰り返しながら、あきらめず進まなければならないのです。キリスト信者は神様の愛の手本で自分の家庭を作っています。神様のみ摂理に自分の家庭の成長と未来を委ね、苦しい時があっても失望することなく、いつも神様の愛の中で生きるようにしています。子供たちは親たちを敬いながら、親は全て子供のために尽くせば、いつも神様が支えてくださいます。家庭はこのように教会の細胞であり、教会のイメージになっています。同時に教会は家庭のあり様を手本にします。確かに教会内と家庭内におけるハ―モーニーと愛は神様の贈り物であり、それに対して大きな感謝をしめしながら、出来るだけその背景を不正な行動で破らないように注意する必要があると思います。どんな共同体でも相手の赦しは欠かせない人間の間の接着剤であり、大きな憐れみと慈しみのこころを持って、相手の欠点を強調するよりもそれをおおい、暖かい目でみれば神様の愛を身近に体験することが出来ます.

「今週の公教要理の錠剤」59

2013年02月15日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 四旬節第一主日 2013・2・17
 「カトリック教会の教え」から
「延命の可能性」
命は神様からの贈り物だと言いますが、人間の寿命も神様に定められています。福音書によれば、神様が大きなみ摂理をもって管理されていますから、人間は勝手にそれを延ばすことは出来ないし、勝手に縮めることもできません。しかし、現代の社会には寿命に対していくつかの問題が絡んでいます。たとえば、大きな病気を患っている人で植物人間になった場合、そして回復の見通しはほとんどない時、寿命はそのまま保つべきか、勝手に中止すべきかと言う問題もあります。その時、親戚や身内の看病と経済的な負担もありますから、キリスト信者として、また教会の指示に従いたい場合、どのようにすれば良いのでしょうか。しかし、この疑問に対して答えしにくいものがあります。誰でもこの課題について理解する光を求めています。医療は人間の命の保存の為、欠かせない手段であり、出来る限り寿命を保つために大きな役割をもっています。それで命を救う医療の力に対して大きな尊敬を持つべきだと思います。しかし、命を無理に救うためにそれは特別な治療、あるいはより高度の治療をすることになった場合、それに経済的な負担が大きかったり、親戚と身内にとっていろんな犠牲を祓うことになる場合、無意識の命になった場合、特別な治療をやめるべきだと思います。それはカトリック教会の教えでもあります。それに、かねて死の断定、臓器の移植もからんできますが、その問題は確かに人間と命の尊さから考えることになっています。キリスト信者は自分の命のように他人の命を大切にしながら、神様のみ旨のように大きな愛に元づいて、各々の問題を考えることによって、具体的な立場になったその時こそ、自由な心で命に対する大きな尊敬を持って、神様と人への愛の中ですすみながら、問題の具体的な解決を探し求めましょう。
                     
                                  モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」58

2013年02月06日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 年間第五主日  2013・2・10
 「カトリック教会の教え」から
「人間の生命の尊重」
神様が人間に与えられた最も大きな贈り物の中に命があります。聖書の言葉によると神様ご自身が「生ける神」とおっしゃっています。神様は命の泉であり、どんな生き物でも神様の命によって生きている。それに従って特別に神様の命で生き、神様の手で作られた人間が生きています。人間は神様から神様の似姿に作られています。尊いものである人間が特別に神様に似ています。人間は神様のように普遍的な希望と愛をもつことが出来るので、神様のように人を愛することが出来、大きな希望を持ちながら、より高い理想を望んでいます。このような思いの中で、だれでも命に対して大きな尊敬を持つように呼びかけられています。自分の命、またどんな人の命もです。命とは神様のもので、神様が人間に与えられたものですから、人間の命の持ち主は神様です。だから人間は命について自分の命であれ、周囲の人の命であれ、命の管理人であり大きな尊敬をもって人間の命を幼い内から老年に至るまで、とても大切にしています。自分の命をなくすこと、他人の命を奪い取ることも、自分に対する大きな害であるだけではなく、普遍的な善である神様に対する大きな傷、(罪)になります。それに人間の間で、共同体の中で生きていますから、いろんなつながりで人々に結びついています。血のつながり、友情と愛のつながり、社会的なつながりなどがあります。だから神様から頂いた命は、このようなつながりを全て生かしています。人間のつながりは自分の個人的なものだけではなく相手の命にもからんでいますから、特別にこのような命の中身にも尊敬と注意深さが大切だと思います。命の連体性を尊重するキリスト信者は、相手にも周囲にいる者たちにも気をかけながらこころを配り、人の命をどんな形であっても尊重し気にかけています。神様の愛を注いでいます。そして命の連体性によって、命は自分だけのものではなく、自分勝手に扱うものではなく、他人にも私達は大切にされ愛されるべきものに属しています。
                                 モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」57 

2013年02月01日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 年間第四主日  2013・2・3
「カトリック教会の教え」から
「教会の使命」
教会の使命は一言で言えば宣教することです。宣教するのはイエス様が教えたこと、イエス様がなさったこと、イエス様の死と復活を人々に告げ知らせることです。言い換えれば神様が身近に見せられた愛を告げ知らせるのです。このように教会、キリスト信者、神父たち、修道会はこの使命に呼びかけられて、いくつかの方法でこのような使命を果たします。とてもすぐれた方法は日常生活の中で、毎日のように自分の務めの中で人にイエス様の愛、イエス様の喜びを伝えることだと思います。キリスト信者の使命を解明する為に「証し」と言う表現を使いますが、自分が体験したこと、イエス様に出会ったこと、その喜び、その感動、またそれによって救われたこと(癒された、赦されたこと)は教会の使命なのです。キリスト信者も社会の間に生き、その環境の中で神様から頂いた信仰を実践に生かしてイエス様の心を告げ知らせるのです。もちろん社会に溶け込んだキリスト信者は社会の為に、暮らす地域の為に愛情を込めて力を尽くします。地域社会への徹底的な参加によって生まれる義務を果たし、その時もイエス様の証しになります。政治や社会とのかかわりの中で自分の義務を果たしながら、いくつかの方法で人々にイエス様のみ言葉を告げ知らせています。場合によっては沈黙の中で、自分の存在や行動だけでキリスト信者はイエス様の心を見せるし、又他の場合によっては、はっきりした言葉を言う必要にせまられ、特別な不正な法律に対しても反対行動もとるべきだと思います。同時にキリスト信者は、教会内で決められたルール[十戒、教会の決まりなど]を守りながら、教会内の貧しい人、病気の人、お年寄り、子供に自分の奉仕と力で、支えたり助けたりしています。それに教会には典礼的な行事、または一年間きめられた教会の行事、また教会の建物と備品のメンテナンスの為に喜んで協力しながら、イエス様がおっしゃったことに証しして教会である使命、福音宣教を果たしています。
                             モヨリ神父