カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

先月のできごと(2013年6月)

2013年06月30日 | 先月のできごと

・・・菊池教会、6月のできごと・・・


・6月2日(日)
 「キリストの聖体」を祝い、入祭唱「主はよい麦を人に与え、岩の密で養ってくださる」でミサが始まりました。また、神父様から1本の「麦の穂」をそれぞれいただきました。この日、お御堂内から車いすで利用できる新しいトイレが完成しましたので神父様の祝福をいただき、テープカットを行い、使用開始となりました。


・6月16日(日)
 ミサの中で、父の日のお祝いがありました。男性の皆様は、神父様から祝福をいただき父の日のプレゼントとして「ピーマン」の苗をいただきました。



・5月の母の日に神父様からいただいたミニトマト「アイコ」がいろずきはじめ各ご家庭の食卓を飾っています。




C年 年間第十三主日 

2013年06月26日 | 神父様からメッセージ(C年)
マタイ福音書の課題として、イエス様の共同体内の人間関係が描かれています。イエス様が絶え間なく勧めているのは、大きな慈しみと憐れみで包まれた心を持つことです。確かにわたし達の目の中にある丸太は、わたし達の視野をせまくするので、いつも相手を寛大な心で受け入れることができません。イエス様が知らない人でも挨拶するように、また何か頼みごとをする人に、より大きく応えてあげるように、敵でさえも愛するように勧められています。敵にも一切仕返しを思わず、いつでも相手を尊敬しながら相手をイエス様自身であるように思い、お互いに傷付けられたことがあってもいつも赦し合うように勧められています。
「ルカによる福音書」9・51-62
どんな人間でも皆が神様から独特な方法で招ばれています。神様の想像力である聖霊は、この世で神様に導くいろんな道を完備してくださいました。その道の選択によって誰でも、喜びをもって神様のところまで行くことが出来ます。だれでも、それぞれ神様から定められた道を通って神様の心まで、あらゆる形で達することができます。当福音書の始まりは、イエス様がサマリア人から拒否されたことを語っています。イエス様が人を救われるため来られたとき、返ってその人に拒否されました。このようにイエス様に従う弟子は、自分の先生の運命を受けて、人に拒否されること、自分の愛情を評価されないこと、自分の犠牲と奉仕を認められないことをも受け入れて、イエス様に従うことになります。弟子たちが先生であるイエス様に忠実に従ったことは、人間としての評価を受ける為ではなく、むしろ神様の誘いに忠実に応える為です。イエス様が自分に従う人に対して、そしてその従い方について注意します。イエス様に従う方法の一つは共同体に奉仕することです。しかしイエス様がそれに以外の目的も注意します。そしてイエス様に従う人は聖霊の導きに従うものになります。それはむしろ、イエス様から選ばれたものなのです。神様の呼びかけは人の現世の関係を消すことなく、しかし神様の関係を優先するように勧められています。イエス様にとって家族関係でさえ、神の国を広めることよりも大切ではありません、しかし、家族の関係は神の国を広めるために重要なサポートになっていると教えてくださいます。

                                モヨリ神父

C年 年間第一二主日 

2013年06月20日 | 神父様からメッセージ(C年)
  梅雨に入って田植えも進み、苗もほとんど植えられて田に広がり、成長する段階に入っています。その小さな苗、風にふるえる弱い青草のような植物の中に大きな希望があります。キリスト信者も小さな祈りの中の、心にある小さい願いに大きな希望が含まれています。皆を大切にされる神様はいつもわたし達の小さな願いに耳を傾けてくださいます。それがわたし達の大きな希望になっています。自分に従った者達にイエス様は、神様になんでも頼むように勧めておられます、愛である神様は信仰を持っている人にとって欠かせない希望となっています。
「ルカによる福音書」8・18-24
イエス様に従う人は、先生であるイエス様の心の通りについて行きます。イエス様が定められた生き方の通りに進むのは欠かせない条件です。自分を捨てて、憎まれて、自分の十字架を背負ってイエス様に従うことは、実際にどのような意味があるのでしょうか。マルコの福音書によると、ペトロの信仰の告白は福音書の中心になっています。ルカの福音書では少し違いますが、マタイの福音書ではイエス様のご受難につながっています。それはどういうことかと言えば、選ばれた弟子がその先生に従って先生に倣って、先生の心をまず知るべきなのです。先生に従う、知る、自分の人生に受け入れるのは、大きな努力や真剣な決定の結果ではなく、祈りの中で生まれてくるものなのです。「イエス様が一人で祈っておられた時…」イエス様は自分のことを弟子たちに知らせわからせる時に、苦しみから喜びへの道を教えられます。このようにイエス様が自分の死と復活を予言し、このように自分の弟子の心とあり様を見ておられます。ルカの福音書によると、イエス様の弟子の特徴は五つあります。1)自由に選択する(わたしについて来たい人は…)2)自分の十字架を受け入れること (自分の十字架を背負って)3)忍耐を持つ(日々)4)従うこと(わたしについて)5)神様のみ旨の通りを考えて行うこと(わたしの為に命を失うものはそれを救うのである。)当福音書の注目すべき事は人間の心の自由です。マタイの福音書の中にも同じことが上げられています(もし完全になりたいのなら… わたしに従いなさい)。イエス様が自分の弟子になりたいわたし達を、暖かい心で無条件に誘っておられます。弟子になりたい人はイエス様の誘いを受け入れて、イエス様が教えられた通りに従うようになることです。
                             モヨリ神父

C年年間第十一主日

2013年06月13日 | 神父様からメッセージ(C年)
キリスト信者には心の中に何ものにも右左されない、命である神様からいただいた沢山の賜物があり、いつもそれを味わって感謝しています。それは本当に幸いなものです。どうしてキリスト信者はこのように幸せでいられるかと言いますと、イエス様が言われたように、貧しい時、悲しむ時、柔和に遠い時、儀を求める時にあなた方は幸せです。なぜなら困った時、より身近に素晴らしい神様の心をみてそれに倣い、それによって神様から大きな慰めを与えられているからです。それだけではなく、イエス様の言葉を参考にするキリスト信者は、自分の人生を振り返って、その中で神様の働き、神様の贈り物、神様に助けられたことに気付きながら、神様の愛に包まれて自分が幸せであることを実感することで大きな喜びを味わいます。
「ルカによる福音」 7・36-50
 初代キリスト信者たちが、赦しの秘跡をいただくのは、現在とちがって特別な出来事であり、人生の中で一回だけでした。しかし教会にはいつも、赦す心とその態度も憐れみ深い背景の中にありました。いつも罪人の回心と救いが求められていました。善行によっても罪が赦されていました。今日の福音書の課題は、イエス様が、罪を犯した女を赦すことによって、わたし達に赦しの素晴らしさを語ってくださいます。当福音書の出来ごとにはイエス様の慈しみに対して、二つの心の態度が紹介されます。最初はファリザイ人であるシモンの態度です。イエス様のやり方を批判し、イエス様のことまで見下しています。次はベタニアのマリアの行動です。マリアは寛容をもって、本当の愛情を見せながら、イエス様に自分の心を開きます。イエス様は皆の心の中にある良いものを評価します。ファリザイ派のシモンの判断も、罪を犯した女の愛情も誉めています。イエス様は罪を強調しないで、むしろ愛の大きさを高めて、ファリザイ派のシモンが示したうすい愛情を見直すように勧めています。このようにイエス様が神様の愛は赦しの泉であることを示しています。神様の赦しはより大きな愛からわきでて、いつでもどんな時でも皆、赦してくださいます。旧約聖書では神様はダビデの罪でさえ赦して、ダビデの命を守りました。新約聖書では、イエス様が大きな愛の中で罪を犯した女を赦して、彼女はイエス様の愛の大きさを知りました。彼女はイエス様の愛に包まれて生き、大きな愛をイエス様に返しました。キリスト信者も神様の愛によって赦されて、その愛を返しながら、より大きな神様の愛に包まれています。                             モヨリ神父

「毎週の公教要理の錠剤」69

2013年06月06日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 復活の第十主日 2013・6・9
 
「み言葉は宝」
現在はいろんな歴史的な事情によって、聖書の新しい発見にも立ち会える恵まれた時だと思います。プロテスタントの兄弟の情熱や、第二バチカン公会議の新しい風によって、聖書は世界的遺産の不思議な本として、皆に身近な書物となり、だれでも読めるような本になりました。豊かな書物である聖書は、いろんな方法や形で読むことができます。不勉強だった人でも、聖書を読んで豊かな思いや知識を得ることが出来るし、研究者でも聖書を読むことによって、豊かな内容を読みとることが出来ます。ましてやキリスト信者にとって聖書は、神様の言葉であり、それを読むといつもどんな時でも神様からの呼びかけとなっています。むしろ愛情を込めた神様との対話、ときによって優しく、また力強く指導される言葉であることを知ることができます。いつも、どんな時でも聖書を読めば、あくまでも神様の言葉ですから、神様のメッセージに触れることができます。しかしその言葉を正確に理解しにくい時が多いものです。当時フィリポが出会った某女王様の司令官は、読んでいた聖書の言葉の解説を願っていた時、イエス様の弟子フィリポに教えを受け大いに喜こんだということです。解読の光を求めることが出来れば、どれほど神の言葉が豊かに心に届くことでしょう。周囲にみ言葉を解説する人があれば、その助けを通して身近に神様の思いを受け取ることができます。実は神の言葉を理解する独特な場があります。それはイエス様が望まれた共同体です。だからイエス様の共同体、あるいはイエス様の教会の典礼の中で使われたみ言葉を深めながら、時と時季にそって、その深い意味を伝えることにしました。それは毎週の日曜日の朗読です。その時適切に選ばれた神様のみ言葉は、その時の為の導き、励ましとなります。
つまりミサの第一朗読は福音書の観点を作り、福音書の分も適切に切り取って、日曜日のテーマを教えてくれます。そして、その流れに沿って教会を通して、私たちは神様の思いを伝えられることになります。                          モヨリ神父

先月のできたこと(2013年5月)

2013年06月01日 | 先月のできごと

・・・菊池教会、5月のできごと・・・

・5月12日(日)
 ミサの中で、母の日のお祝いがありました。また、神父様から母の日のプレゼントとして毎年恒例のミニトマト「アイコ」の苗を各家庭にいただきました。6月中旬ごろには美味しいお恵みをいただけそうです。

・5月26日(日)
 三位一体の主日、この日は、山鹿教会で菊池教会との合同ミサが行われ、聖霊降臨をお祝いしました。ミサの中では「平和の象徴」白い鳩が神父様の手から放たれました。放たれた白い鳩は、ミサの間、お御堂にとどまり、皆さんを見守っていました!!

・5月31日(金)
 念願のお御堂内から車いすで利用できる新しいトイレが完成しました。6月2日のミサの中で神父様の祝福をいただいた後、使用開始となります。工事に当たって、ご尽力いただいた皆さま、ご苦労様でした。