カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

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今月の祝日・行事予定(2018年3月)

2018年03月03日 | 今月の行事予定

     ≪お御堂前に水仙も咲き出しました。春はそこまで!!≫
           
         
    ◎2018年3月
        
  
  3月 2日(金)          初金曜日            
                                           
  3月 4日(日)          許しの秘跡
                    3月の定例会議                                                    
  3月11日(日)          菊池教会女性の会集い(ミサ後)  

  3月17日(土) 日本の信徒発見の聖母
                       
  3月18日(日)          ミサ後、十字架の道行(本日まで)
                   
  3月19日(月) 聖ヨゼフ
           
  3月25日(日) 受難の主日    フィリピンの皆さんのミサ(15:30)
            (枝の主日)  全体清掃

  3月29日(木) 聖木曜日(主の晩さん)  典礼 19:00            
  3月30金(金) 聖金曜日(主の受難)   典礼 19:00

  3月31日(土) 聖土曜日   復活徹夜祭 典礼 19:00  
       
  4月・・・・・・→

  4月 1日(日) 復活の主日

  4月 8日(日)          4月の定例会議
  
  4月 9日(月) 神のお告げ
  
  
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B年 四旬節第一主日

2018年02月12日 | 神父様からメッセージ(B年)
B年 四旬節第一主日 2018・2・18

 灰の水曜日の典礼で四旬節に踏み出しました。灰の中で火が燃えていると思い、より深い復活祭の喜びを味わいたい私たちの四旬節の過ごし方は大きな課題になっています。イエス様が勧めてくださるのは「自分をして、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」それは日常の奉仕、祈り、小さな犠牲によって、イエス様の足跡を踏みながら、周囲にいる人達の心を思いやり、神の国を作ることです。キリスト信者の労苦は復活祭の光で照らされて軽くなり負いやすくなります。
「使徒ペトロの手紙 3・18~22」
 使徒ペトロの手紙は、イエス様の霊を通して神様に近づくように勧めています。人間は弱い者、間違いやすい者ですから、何度も神様から離れてしまいました。しかし、イエス様の死と復活によって神様のところに立ち戻ることが出来ました。使徒ペトロはこのような神秘的な出来事をノアの物語の人類の救いに例えて明確にします。洗礼の本格的な準備に入ろうしている方々にも参考になるはずです。洪水によって、罪に落ちた人々は滅びてしまいましたが、ノアは船で水の上に逃れ救われました、そして神様とのつながりを作り直しました。さて、洗礼を受ける者も同じように神様の霊から救われています。洗礼の時にかけられる聖水の徴によって私たちの罪は清められて、ノアと同じように神様と新たな深いつながりを作ることになっています。それはイエス様と一緒に復活することです。
 四旬節に入って、キリスト信者は心の回心を求めて祈り、節制し、神の愛の技に導かれて復活祭を迎えようとしています。当マルコの福音書は二つのテーマに分かれています。イエス様が受けた誘惑と、イエス様の宣教活動です。基本的にイエス様が受けた誘惑のメッセージは、人は悪に追われていても神の言葉によって生きるということです。新しい人生の始まりにどのように心の回心を得られるのか、神は導かれながら最高の愛の技を教えてくださいます。それは赦しのことです。神の言葉によってイエス様と同じように人が悪に打ち勝って神の国の素晴らしさを見出すことが出来ます。だから神の言葉はキリスト信者にとって日常の食物になり、心の回心への道になります。確かに私たちもイエス様と同じように日常生活の中で野獣に囲まれています、しかしイエス様と一体となれば神の言葉だけに生き、天使たちは私たちに仕えてくれるのです。さて、神の言葉に目を覚まされ新しい時代が始まったと気付いたとき、神の国はもうすでに私たちの目の前です。なぜなら神の言葉は私たちにとって心の光であり、福をもたらす音だからです。このような言葉に励まされて私たちは砂漠のようだった心の回新を求めるのです。
                            モヨリ神父
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B年 年間第6主日

2018年02月06日 | お知らせ


 この時期になると詩編・103編15節を思い出します。「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風が通り過ぎると跡もなく・・・」 キリスト信者の思いとしては、イエス様と教会のことを人々に告げ知らせ、それが世に広がることは重要な課題になっています。だから、宣伝や、イベントなどの方に走ることが教会のことをより多くの人に知らせることのように思いがちです。しかし、実際には教会の心はそのようには広がらないと思います。神の国は不思議な力で広がります。イエス様自身が自らのみ言葉を、人の心に神秘的に届けます。その言葉は権威と力のある言葉ですから、小さな種であっても大きな実りをもたらします。このような真実に対して、キリスト信者の態度も少し調節すべきではないでしょうか。
「使徒パウロのコリントの信徒への手紙(1)10・31~11・1.」
 使徒パウロは、回心によって大きな光で照らされ、新たな目で人の人生、人の生き方を見、その中に神様の栄光を読み取っています。どんな人間でも、人生の中で修業し苦労して神様の心を得るのではありません。イスラエル人であれ、異邦人であれ、神様の心に適う人生を送れば、すでに心の中で、神様が成し遂げられた技を見ることができます。使徒パウロは自分の人生の熱意の中で一つのことだけを探し求めました。自分の利益ではなく、皆の喜びです。実際に自分の人生を捧げて、人の喜び、あるいは人の救いを探し求めたのはイエス様だけです。だから使徒パウロは、熱い言葉を通してイエス様の生き方に倣うよう勧めています。そうすれば自らの人生を通して、神様の栄光を現わし、人類の救いや喜びをも求めることができます。
「マルコによる福音書 1・40-45」
 当個所でイエス様が成し遂げた徴を深く理解するためにはまず、皮膚病について当時の考え方を知ることが大切です。当時皮膚病を患っている人は、生きていても社会に対し宗教に対し、死んだような者として見られていました。命であるイエス様は、死体のような人の中に新たな命を吹き込んでいます。イエス様が力のある言葉で「清くなれ」と言われ、信じ難い素晴らしい場面を皮膚病の人の目の前に開きました。そして、神の命に取り戻された人に、司祭のところに行くように勧めました。その時、神の命に生かされた人は、社会にも宗教の世界にも取り戻されて生かされています。イエス様の命に生かされた病人は、自分の本来の心身の素晴らしさを再発見し、その中に神様の言葉によってあふれてきた喜びを味わい、素晴らしい経験の証しとして、自らの身に起きた事を皆に告げ知らせる者となりました。そして、イエス様が成し遂げた徴のことは、新しい葡萄酒のように四方にあふれ、皆に知らされて広がりました。 
                                 モヨリ神父
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B年 年間第5主日

2018年01月29日 | 神父様からメッセージ(B年)


 イエス様の苦しみと最も一致している病者はイエス様の力で支えられています。イエス様と共に苦しむ人はイエス様と共に喜びの中に復活します。癒しの油を塗布された病者は、人類の救いである自分の苦しみの目標を見出し、神秘的なイエス様の力で癒されます。
「使徒パウロのコリントの信徒への手紙(1)9・16-23」
 使徒パウロにとっての欠かせない義務は、福音つまり祝福の音であるイエス様を告げ知らせることです。それは教会の欠かせない義務でもあります。福音宣教は使徒パウロにとって自らを誇るものではなく、給料を得られる勤めでもなく、そのための特別な権利を持たず、心から福音を述べ伝えるためだけに特別な力と希望を感じています。それはイエス様です。使徒パウロはイエス様の言葉を伝える為に全ての人の奴隷になりました。弱い人にイエス様を知らせるため、また弱い人を得る為に自らも弱い人のようになりました。使徒パウロの心の中には確かに一つの希望がありました。それは、どんな人をも皆、イエス様のところまで導くことです。使徒パウロにはそのことこそが大きな喜びであり、人生の最高の目標だったのです。
「マルコによる福音 1・29-39」
 聖書の研究者によるとイエス様は、この頃、自分の小教区であったカファルナウムにおられます。つまりイエス様はカファルナウムでいろんな活躍をされました。会堂で話終って、ペトロとアンドレの家に行かれます。少し専門的にマルコの福音書をみてみることにします。まず、イエス様のことを弟子たちと同じようにあまり知らなくて、けれども身近に使徒パウロに係わったマルコはずっと歩き続けるイエス様の姿を描いてくださいます。さて、この箇所は4つの場面に分けられています。A)イエス様が病気のペトロの姑を癒されています。B)イエス様が奇跡を行い続けています。C)イエス様が祈られています。D)イエス様が福音を宣べ伝えています。この四つの場面の特徴を振り返ってみましょう。イエス様がペトロの姑を蘇らせ立ち上がらせています。つまり彼女のためにイエス様が新たな命になります。イエス様の力で生き返った者は人をもてなして奉仕します。次にペトロの姑に注がれた力と恵みは、苦しみ悩む人々にも与えられています。その後、イエス様は自分を知るためには聞いた言葉によるのではなく、自分と出会い深く係わった人だけが理解出来るのだから、自分の行いについては沈黙するように命じています。イエス様はそのためにも祈っています。実際イエス様の正体は人には理解しがたいものですが、イエス様自身が人の癒しや救いであることを教えてくださっています。
                                モヨリ神父
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B年 年間第4主日

2018年01月23日 | 神父様からメッセージ(B年)


「使徒パウロのコリントの信徒への手紙(1)7・32-35」
 世にある多くのラブ・ストーリーは、何故かいつも私たちの注目と興味を得ています。でも、私たち自身にも長い、複雑なラブ・ストーリーがあります。それは神様と人類の間の愛の物語です。神様はいろんな時、いろんな方法で人類に花嫁のようにご自分の愛を示しました。しかし、人類の方は神様の愛に応えなかった時もありました。しかし、神様は絶え間なく忠実に、人類に、私たちに、ご自分の愛を示し続けられました。神様の愛は人間の愛の手本になり、家庭の愛も神様の愛を語るものです。人間間の愛はわずかなものですが、神様は広く豊かな愛を見せてくださいます。さて使徒パウロは、人間の愛を評価していなかったコリントの信徒たちに、人間の愛の尊さを語り、神様の心にある愛を映してくださいます。そして、イエス様に従った者たちは、結婚してもしなくても、自分の人生の中でより高い理想をめざすように努めれば、自分の家族の中や社会の中でも、神様に仕え、より大きな愛を示すことができ、大きな喜びを得ることになるのです。
「マルコによる福音書 1・21-28」
 いつも第一朗読から打ち出されたテーマは、福音書にも含まれています。よく福音書にでてくることですが、イエス様の言葉や教えを聞いた人は非常に驚いたと書いてあります。驚くとは通常起こらない出来事を見ること、いきなり新しい気持ち、喜びや悲しみか発生することです。よくそのような経験をしているのは子供たちです。彼らはこの世に生まれてきてまだ日が浅く、なんでも新しい経験ですからよく驚きます。そして純粋な心で真理を探し求めます。さて、人間でありながら神様の力で悪霊を追い出し、神様の代わりに話す人、言いかえれば預言者の権威のある者の話を聞くと、だれでも驚くのではないでしょうか。イエス様が神様の力、み言葉の力で悪霊を人間の心から追い出しています。イスラエル人は、神様を見る人は生きていられないと信じていました。しかし、イエス様の言葉で追い出された悪霊が、自分の畏れを示してイエス様の正体を叫び続けています。又、神様より自分の弱さを認めていた悪霊は、イエス様の素晴らしさを公に認めています。だからそれを見た人々のように、私たちもどこででもだれにでも、悪霊にさえ勝ったイエス様のことを、大きな情熱をもって告げ知らせましょう。                                         
                        
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B年 年間第三主日

2018年01月16日 | 神父様からメッセージ(B年)


 今年に限りカトリック典礼では、年間の第三日曜日に使徒パウロの回心の祝日が重なっています。そこで使徒パウロの年にあたり、使徒パウロの回心を優先してお祝いすることになりました。全世界のカトリック教会にとって、自分の真の姿を明確にする機会となります。何故使徒パウロは使徒と呼ばれるようになりましたか、キリストの使徒の主な役割は何でしょうか、キリストの教会はどうあるべきでしょうか、このような欠かせない質問に対して、キリスト教会に属している私たちは、使徒パウロの回心によって答えることが出来ます。当祝日の第一朗読は、使徒たちの宣教による使徒パウロの回心を活き活きと感じさせながら三回語られています。ちなみに聖書の英訳では、使徒パウロの回心の文章は英文学の最高に美しい参考文になっています。
「使徒パウロのコリントの信徒への手紙(1)7・29-31」
 自分が生きるのではない、イエス様の中に生きるという回心によって、イエス様と一体となった使徒パウロは、この世に生きることよりも死が利益であることを思い、復活されたキリストと共にいるのは自分にとって真実のすべてであると述べています。人は生きている間、どうしても心は家族のものに、悲しみに、喜びに、この世の全てのものに捕らわれています。心の自由を求め続けた使徒パウロは、この世のすべては無であると知ることを私たちに勧めています。私たちに価値のあるのはキリストのみです。自分の人生を法律に基づいて生きようとした使徒パウロの心の中は、それらが完全に見えなくなったところに新たな素晴らしい光が見えるようになりました。それは神様の恵み、神様の救いだけです。そこから人間の自由と愛が生まれます。人間はいくら法律を守ろうとしても、いつも自分の弱さと欠点だけしか見えないようになります。使徒パウロはその光の中に普遍的な宇宙を見出し、法律の空しさを悟り、キリストの教会である生きたイエス様の姿を見、全世界に素晴らしい出会いの心を宣べ伝える生涯を生きました。
「マルコによる福音書 16・15-18」
 マルコの福音書は、使徒パウロがローマで死刑になったのち書かれた福音書ですから、使徒パウロの書簡の心に特に忠実に沿って書かれた書物であることがよくわかります。マルコは身近に使徒パウロを知り、その情熱に戸惑いつつ感化され、使徒パウロの言葉や働きに完全に捕らわれていたことがあったと歴史からわかっています。そのようなところは当福音書の中によく顕れています。イエス様の使徒である資格は、イエス様の復活の証人であることから発生しています。そのような確信をもった使徒は、復活されたイエス様から全世界に派遣されています。その派遣の目標は人々に福音を宣べ伝えること、そして神様が人の心の中にすでに行われた奇跡を確認し、「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けることです。このような使命を帯びて神様と共に働く人たちは、確実に神様に見守られ、支えられ、勇気と特別な力をも与えられて、神様のみ旨通りを神様と共に行うことになっています。
                            モヨリ神父
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B年 イエス様の洗礼の主日

2018年01月08日 | 神父様からメッセージ(B年)


 教会の典礼では、降誕節とその中のイエス様の公現を締めくくる日曜日を迎えることになりました。それは「主の洗礼」です。この時、イエス様に従うようになった信者たちは自分の洗礼とその時の感動を思い起こします。その時から、私たちの心の中に贈り物のように聖霊が入り込んで教えるようになったことはたくさんありました。私たちは神の子となり、私たちの人生は神様の愛の証しになっているのです。
「使徒ヨハネの手紙5・1-9」
 親子の関係、特に父親と子供の関係はいろんな文化や時代の詩の中で例えられていますが、聖書のなかでは、特別に神様と人類との関係が普遍的な親子(父と子)の物語として語られるようになりました。使徒ヨハネは私たちのことも親子のつながりとして感動を語ってくださいます。イエス様に従う者たちは神様から生まれたもので、神様の愛に特別に包まれています。その愛によって、親子となった関係の中で、それを大切にすれば、私たちの生き方はその愛の答えとなります。神様の愛に応えるためにまず神様のみ旨、神様の希望、(掟)を守ることです。神様の掟を守るなど難しいことと思われるかもしれませんが、そうではありません。愛する人の希望を受け入れることは、人間関係の中でも一番やさしいことではありませんか。同じように神様の希望を守ることは、軽い重荷ではないでしょうか。私たちが与えられた人生の中で、神秘的な出来事を気付くことはたくさんありました。それは神様の愛が私たちの中に「霊」として止まり、気付かせてくれるからです。この世に神様の心を語るために来られたイエス様は、真理を語り、自分の死と復活により私たちに神様の愛を身近に証しました。
「マルコによる福音 2・7-11」
 洗礼によって私たちはイエス様と一つになりました。そのとき天から下った言葉は今日私たちに直接向けられています。「あなたは私の愛する子・・・」と言うこの言葉によって、私たちは父である神様の子なのです。それは私たちの理性で知ることではなく、大きな光で天から幕を取り除いた聖霊から知らされた真実であり、私たちにとって素晴らしい恵みとなっています。そして「・・・私の心に適うもの」という言葉は、イエス様の人生、死と復活に当てはまっていますが、洗礼によって聖霊で満たされた私たちにも当てはまっています。洗礼(水と霊)によってイエス様と一体となった者、つまりキリスト信者は、神様の心を果たすために生きています。人生のその一瞬一瞬を神様から頂いたものと思い、それを大切に感謝を現わしながら、神様の愛の証となるのです。そしてイエス様とともに同じ運命に向って神様のふところに戻るのです。このようにイエス様に従った者たちは、この世の価値観に勝っています。                            
                                   モヨリ神父
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B年 聖家族の祝日

2017年12月29日 | 神父様からメッセージ(B年)
お正月の挨拶

神様に愛されるキリスト信者ゃ良い思いで心を満たされた皆さん!!
新年おめでとうございます!
主はあなた方を祝福し、あなたを守られるように。
主がみ顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。
主がみ顔をあなたに向けて、あなたに平和を賜るように。
                       [民数記6,22-27]

 聖家族の主日を迎えます。キリスト信者は聖ヨセフとマリア様とイエス様のご家族を見習い、同時に自分の家族のために祈りたいと思います。この時に自分の結婚式の誓いの言葉を思い起こし、再び神様の取次と祝福を受けるように、大きな希望を持ちながら、それぞれの家族を大切にできるように神様に願いましょう。忘れてはならないことですが、教会自体も聖家族を見習っている素晴らし皆の家族です。
「ヘブライ人への手紙 11・8-19」
 実はヘブライ人への手紙は、使徒パウロが亡くなってから書かれたものです。この手紙は確かに使徒パウロの心を写しながら、同時に初代キリスト信者の共同体の信仰を語っています。当個所の主役はアブラハムの信仰です。アブラハムの信仰は神様を信じる者たちの信仰の元になっています。アブラハムは神様の手に自分の人生をゆだねました。神様から自分の生まれた故郷から出て行くように言われた時、行先も知らぬまま、神様のみ旨に従いました。又、アブラハムの妻サラは不妊でしたが、アブラハムは神様との約束を信じ子供イサクをもうけました。しかし、神様がイサクを生贄として捧げるように勧められたとき、命の神様はアブラハムの信仰を見て息子イサクを返し、その後数知れない子孫でアブラハムの人生を報いました。アブラハムが生きる神様のことを決して疑わず信じたことによって、死の淵から蘇り普遍的な命を得られたのです。
「ルカによる福音 2・22-40」
 ルカの福音書で、幼いイエス様は神殿で神様に捧げられています。実はこのような習慣はイエス様の時代には普通でした。各家庭に男子が生まれた時、神様に対する感謝として神殿で聖別されていました。イエス様の場合、より深い意味につながっています。この個所ではヨセフ様とマリア様とイエス様は当時の貧しい家族のように、とても素朴な捧げもの(山鳩、家鳩)を通して、イエス様を神様のみ旨の計画におゆだねになりました。この場面を見ると、聖家族はキリスト信者の家族の皆さんにも、より大きな愛の模範になっています。そして皆の命と人生は神様のものですから、いつも各家庭の者たちの命を神様の手に感謝をもってゆだねるように勧められています。典礼の祈りが勧めるように、いつでも家族そろって神様の家で大きな喜びを味わいながら過ごせるように願いましょう。そして命の尊さを大切にしながら、子供たちをいつでも大きな愛情で包むことにしましょう。聖家族は聖霊の力で包まれていましたが、このように神様の救いの計画の最初の雛形になりました。これらのことを、各家庭が神様から与えられた使命を全うするために心に留めましょう。                
                         モヨリ神父
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B年 待降節 第4主日

2017年12月19日 | 神父様からメッセージ(B年)


 このときこそ神様は私たちの人生を大切な贈り物のような希望と喜びで満たしてくださいます。怖れることはありません、洗礼者ヨハネと聖母マリアは、どのように救い主であるイエス様を受け入れられるのか教えてくださいます。貧しい所でお生まれになるイエス様は、世界の貧しい所で生まれる子供たちのことも思い起こさせます。あるいは子供の誕生を望まない所でも、又その一方で子供に恵まれない人たちもあり、その寂しさを思い起こさせます。けれども来られる救い主であるイエス様は、悩みのある所に大きな光によって平和と喜びをもたらします。
「使徒パウロのローマの教会への手紙16・25-27」
 この頃、典礼から勧められた朗読は、特別に神様の心の豊かさを感じさせられる箇所になっています。神様の言葉は福をもたらす音であり、使徒パウロによると、いつどんな時でも私たちの心は強められています。皆の心の中に、愛で満ちた人生のための計画があります。その希望と計画は秘められて一番愛する人に告げられます。それは目立たない徴(きざし、しるし)から始まり、預言者を通して明らかになり、最後にイエス様を通して啓示されました。その計画は皆のための喜びであり、神の命、希望です。それを理解して受け入れるのは素朴な人であり、信じる者であり、どんな神様の言葉をも受け入れる人なのです。
「ルカによる福音書 1・26-38」
 今日の福音書は、すでに無原罪の聖母の祝日の時に朗読されました。しかし、もうすぐイエス様が生まれる出来事を中心にして、今日別の目で同じところを読み取るようにしましょう。特別にこの個所の最後の部分に注目したいと思います。どんな使命を与えられた時でも起こることですが、天使ガブリエルの言葉に対してマリア様は、このような出来事(イエス様を身ごもること)がありうるのかと聞ました。天使はマリア様の身に起るのは、神様の神秘的な計画であり、聖霊によって起こることだと語りました。ちょうど世の創造の時と同じように「光あれ」という言葉によって光があったように、マリア様の心の中で神様の言葉によって神様の計画は実現されました。しかしマリア様は畏れながら天使ガブリエルと次の神秘的な対話に進み、神様は天使を通してマリア様にそのことを確認できるような徴を与えました。それは、もう年をとっていた従姉妹エリサベトが身ごもっていたことでした。その徴は、神様の偉大な力を示した出来事でした。マリア様はその徴の魅力に捕らわれ、従姉妹エリサベトの所に行き、自分の心の中に同じ神秘的な出来事が起こったことを確認します。その時マリア様とエリサベトの心は素晴らしい喜びに満たされて神様の働きを誉め讃えました。

 2017年 12月24日†

喜びで満ちたクリスマス おめでとうございます!
皆様に感謝の心を込めて、恵みであふれた降誕祭を!
良い年を迎えられますように願いながら、神様の祝福をお祈り申し上げます。
                            モヨリ神父


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B年 待降節 第3主日

2017年12月13日 | 神父様からメッセージ(B年)




 キリスト信者は日に日に心躍らせながら、救い主の到来を待ち望んでいます。来られるイエス様は私たちの心の鈍さと体の弱さを癒し、私たちの過ちを赦してくださいます。そして私たちの間に、すでに神の国が存在することに目を覚まさせてくださいます。真冬の間、昼が短く暗い時間が多くなり、人間は光に憧れています。イエス様は私たちの人生の暗闇に来られる救いの光です、だから今日、私たちの心は大きな喜びで満たされます。キリスト信者の望みは素晴らしい光に満たされ、大きな喜びを味わっています。
「使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(Ⅰ)5・16-24」
 使徒パウロはテサロニケの信者に、大きな情熱で神様の望みを伝えています。祈るように、喜ぶように勧めています。感謝の心で生きることです。聖霊で照らされた私たちの人生を、いつも良い事で、肯定的な思いで満たさねばなりません。そのようにすることで神様の心を現わせます。聖霊がイエス様に従った者たちの中に宿っていますから、使徒パウロは彼らに対してご自分の書簡に於いて大きな尊敬を現わし、聖なる者、聖人、神に選ばれた者などと呼んでいます。そして使徒パウロは神様に招かれた者たちに、いつもイエス様に反する思いや行いをしないように願い、いつも神様の思いのままに生きるように勧めています。そうすることによって、来られる光である救い主は私たちの人生を豊かに満たしてくださいます。
「ヨハネによる福音書 1・6-8、19-28」
 ヨハネの福音書の当節は洗礼者ヨハネの姿を描きながら、実はキリスト信者の姿を紹介します。洗礼者ヨハネは「証し」とよばれていますが、ラテン語でこの言葉は「マルチレス」と訳されています。キリストにつながった者はイエス様の光の証であり、イエス様自身の姿を現わしています。そして当個所では洗礼者ヨハネに向けられた質問に特に注目してください、イエス様に従った私たちにも同じ質問が向けられています。洗礼者ヨハネと共に答えるようにしましょう。「あなたはどなたですか」と聞かれた時に洗礼者ヨハネと一緒にキリスト信者も、自分はメシアではなく、予言者でもなく、素朴な立場に立ってイエス様が来られる道を準備している者だと答えます。この世に洗礼者ヨハネと同じように、キリスト信者も神様に遣わされて、神様が宣べる言葉の声になり、神様の方に導く道をまっすぐにする役割を持っています。ヨハネから洗礼を授かるのは、キリスト信者にとって意味深いしるしになっています。イエス様に従った者たちは洗礼によって聖霊で満たされて、この世のどんな人にも来られるイエス様の、心の証人になっています。                  モヨリ神父     
 
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B年 待降節 第2主日 

2017年12月03日 | お知らせ


 教会の典礼により降誕祭の準備も進み、イエス様の到来を期待しながら、私たちと一緒に偉大なものたちも歩んでいきます。12月3日お祝いされた聖フランシスコ・ザビエルと、12月8日お祝いされる日本の保護者である無原罪の聖母です。聖フランシスコ・ザビエルの姿は日本人にとって、日本人の信者にとってかかせない情熱的な模範になっていますが、マリア様はどんな人物よりも、どんな女性よりもイエス様の誕生を期待された方ですから、私たちの降誕祭への準備を支え、導いてくれる方です。このような大きな力で支えられる取次によって、心を変え、目を覚ましていましょう、そしてこの世に来られた神様の愛の鏡であるイエス様を迎えるようにしましょう。
「使徒ペトロの手紙(Ⅱ)3・8-」14」
 いつもと違って今週は降誕祭のための準備として、ペトロの手紙が朗読されました。ペトロは確かに忘れてほしくない重要なことを述べています。それは「この世の存在は永久なものではありません、その終わりの時をふさわしく迎える為に目を覚ましていなければならない」とおっしゃっています。そしていくつかの心の態度が必要です。その時は誰にも知られていません。けれども神様に直接、出会う時になっています。聖ペトロがその時を迎えるために心の準備として勧めていることは信心深い生活を送ること、そして神様の約束に従って待ち望むこと、最後に忍耐をもって神様に認めていただけるように励みながら、平和の中に過ごすことです。
「マルコによる福音書 1・1-8」
 マルコ福音記者はその福音書の入門のところに「キリストの福音」という言葉を使っています。この音はだれにとっても愛(め)でたい音であり、福をもたらす言葉です。祝福を述べる言葉ですから、それを受け入れられる心だけが幸せを感じています。さて預言者のように洗礼者ヨハネは砂漠で叫ぶ声として、直接私たちの心に向かって、ふさわしい心で神様の言葉を受け入れるように勧めています。洗礼者ヨハネはイエス様の先駆者であり、イエス様の到来の準備をしています。これから降誕祭に向かって、花婿であるイエス様が花嫁である人類を迎えようとしています。だから洗礼者ヨハネは花婿の靴の紐をとく値打ちのない花婿の友人として、イエス様の世への入場のための準備をしています。洗礼者ヨハネに「私は道である」と言われたイエス様は、神様に出会う場として私たちの人生唯一の道です。その道は整えられると、イエス様と全く同じような歩みを歩まなければなりません。その道は目標までまっすぐに導くのですから、価値のないものに捕らわれてはいけません。その道の目標は人類の救いで、神様の慈しみから罪を赦されて、イエス様がなさったように、人に苦しみを通してより大きな愛をみせることです。さて私たちが受けた洗礼は、この道であるイエス様との歩みの出発点であり、神秘的な力である聖霊の導きでイエス様と同じ目標までたどることになっています。         
                              モヨリ神父
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B年 待降節 第1主日

2017年11月28日 | 神父様からメッセージ(B年)
 

「使徒パウロのコリントの教会への手紙(Ⅰ)1・3-9」
 今日、朗読される使徒パウロの第一コリントの教会への手紙の始まりは、もうすでに何度も、耳にされたのではないでしょうか。このような表現はミサ、つまり感謝の祭儀の始まりの挨拶として使われています。さて、使徒パウロにとって、人間の人生でさえも典礼的な行動になっています。私たちの生き方は、神様から頂いた恵みによって、感謝の祭儀にそったもののようになっています。それだけではなく、イエス様に信仰によって結ばれている私たちが、イエス様と一緒に神様に対する捧げものになっています。このようにイエス様に愛されて、支えられている私たちが、生きている間に再びイエス様との出会いを待っています。その出会いはいろんな方法で行われています。この世の終わりの時、また私たちの人生が閉じられる時、そして各々の人生の多くの出来事の中でもイエス様に会うことができます。私たちは、使徒パウロの言葉によってイエス様に誘われ従ったのですから、私たちの人生は神様の賜物で満たされています。ですから、神の子となり神様との再開を期待しながら積極的に生きていきましょう。

「マルコによる福音書 13・33-37」
 マルコ福音記者の福音の個所は待降節の雰囲気へと皆を導いています。待降節の欠かせない課題はいくつかありますが、それはマルコの福音書に取り上げられています。まず、いつも目を覚ましているように誘われています。このような誘いは4回も繰り返されています。マルコ福音記者はこの場合だけではなく、イエス様が、ご受難の直前にゲッセマネに弟子たちと一緒におられたとき、居眠りをする弟子たちに目を覚ましているように勧められたと記しています。つまり、気をつける、試練の中で自分の身を守る、真実を理解することです。なぜなら神様が私たちの喜びを求めながら働いています。だからどんな時でも、どんな出来事においても神様と会える場となります。イエス様が語られるたとえ話の主人が、いつ帰ってくるか知らなくても、僕にとって恐ろしいことではありません。むしろ希望と楽しみで満ちた期待となっています。だから、常に信じるこころで祈りながら、再び会える、帰ってくる神様を期待しましょう。            
                                         
                                bモヨリ神
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A年 王であるキリストの祝日

2017年11月22日 | 神父様からメッセージ(A年)


 王である主の日を迎えるキリスト信者は命を讃える日を祝い、共同体の宴会を催す日でもあり、神様は喜びであふれる豊かな時の準備をされています。その中に勤労の感謝の祭日にもあたって、私たちの労働の実りは自分のものになるだけではなく、貧しい人と分かち合う神様の贈り物です。「使徒パウロのコリントの教会への手紙(-)15・20-28」で、使徒パウロはいろんな話題が全てキリストから発進して、キリストに戻ると述べています。言い換えれば使徒パウロにとってイエス・キリストはすべての王であるのです。イエス様は私たち一人一人の永遠の喜びを求めながら、皆が神様の心によって生きるように願っておられます。使徒パウロによるとイエス様が来られたのは死者が命を得るためです。使徒パウロが思う死者とは肉体が死んだ者だけではなく、罪によって神様から離れた者、神様のことを信じない者も死者なのです。しかし復活されて、死に打ち勝ったイエス様は上記のような死者に命を取り戻すためにこの世に来られました。皆を神様の方に取り戻すためなのです。宇宙万物と人類が神様に戻るのはイエス様の目標であり、神様の本願です。だから神様の懐に戻るのは確かに使徒パウロが述べたように順があります。言い換えれば行きやすい順番があります。最初にご自分の命を捧げられたイエス様です、次はイエス様に従った者たち、そしてその他の者全て、最後にどんなことでも神様のところにもどります。このようなことが宇宙万物の王であるイエス・キリストの大きな望みと目標です。そしてイエス様が人間を悩ませる敵も、その中の死にも打勝ち、皆をもともとあったように神様のふところにすべて永久に取り戻したいのです.

「マタイによる福音書 25・31-46」
 ローマのバチカンにあるシスティーナ礼拝堂の天井には、ミケランジェロにより、マタイによって語られる最後の審判が力強く見事に描かれています。(ちなみに、日本の芸術家によって修復された大作でもある)けれどもマタイが福音書に書かれる物語は、あくまでもたとえ話のような話ですから、その中に解説のようなフレームの部分を見分けて、大切なポイントだけを見出さなければなりません。だから、いつもたとえ話を分析するときのように、イメージから少し離れて、メッセージの中身を深めるようにしましょう。大事なことはその中にいくつかあると思いますが、絶対欠かせないのは私たちのすぐそばにいるのはイエス様ご自身であり、その姿を示してくださるのです。そして周囲の困っている者たち、苦しんでいる人に何かしてあげた時、イエス様ご自身にしたことになります。実際にこの思いの中で、そうすることによって人間は最後の喜びを得られるのです。             モヨリ神父
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A年 年間第33主日

2017年11月13日 | 神父様からメッセージ(A年)


 日曜日のミサは、感謝の祭儀でありながら、各一瞬の欠かせない命に対して神様に感謝の心を捧げるべきです。この年間の33主日で典礼による一年のしめくくりを迎えることになりました。それに従って使徒パウロと福音書の内容も、この世と生命の創造としめくくりの時について話してくださいます。命に対する神様に対する大きな感謝の心を持ちながら、神様のみ言葉のメッセージに耳と心を傾けたいと思います。使徒パウロの「テサロニケの教会への手紙(-) 5・1-6」この世の終末について誤った考えに陥って、イエス様の到来を身近に思い起こすことになって悩んだテサロニケの信徒たちに、使徒パウロは励ましの言葉を書きながら、死の時、そしてその後についての考え方を訂正することにします。使徒パウロは世の終わりは「その時とその時期」と呼んでいますが、実はその表現の中に使徒パウロが思いを込めていることは、それぞれの個人の死、あるいはそれぞれの心の中での神様との出会いのことです。このような出来事は未来を知らない私たちにとって、予想の出来ない時です。だから使徒パウロは、その突然の、予想できない時を盗人がくる時のようにたとえています。それに従って使徒パウロは、その時をふさわしい心で迎えるために目を覚ましているように、またいつでも身を慎んで心の準備をしながら生きるように心のこもった言葉で勧めています。使徒パウロが言うようにイエス様に従った者は光の子で、明るいところで生きる者ですから、「その時、その時期」つまり突然、どんな形で神様に出会うことになっても恐れることはありません。
「マタイによる福音書 25・14―30」
 典礼の今年の最後の日曜日に向けて、イエス様はとても綺麗なたとえ話を語ってくださいます。たとえ話を語るイエス様が求めているのは、その聞き手との出会いです。その心を開き、その目を覚めさせるのです。この予言的なたとえによる、旅行に出て再び戻ってくる主人はイエス様ご自身です。さて、再びこの世にこられるイエス様との新たな出会いを求める私たちは、その出会いをどのような心構えで迎えることがふさわしいのか、それがイエス様の今度のたとえ話の目標だと思います。確かに神様は皆に大きな信頼をもって、いくつかの贈り物でそれぞれの人生を満たし飾ります。しかし、それに気付いた人、またその賜物を生かした人だけをイエス様が誉められています。再び帰ってこられるイエス様を大きな希望を持って、努力して、積極的に迎える人になれば、心の大きな報いを得られます。私たちが神様からいただいた賜物は信仰です。それをいただいた私たちが小さなことにも忠実な僕として、信仰に基づいた生き方を送ることができれば、喜んで下さる神様が、さらに大きな報いを準備してくださいます。
                                    モヨリ神父
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A年 年間第32主日

2017年11月11日 | 神父様からメッセージ(A年)


枯葉の上に落ちた霜のように、人生は日光に貫かれるとすぐに消えてしまいます。そのように寿命はとても短いものです。諸聖人の祝日と死者の日を迎える私たちにとって、確かに参考になる事柄だと思います。天の方に目を向ければ私たちの人生も豊かになり、神様の思い通りに日々を送ることが出来ます。秋に木の枝にぶら下がっている枯葉のように、私たちの人生は神様の手に大切にされています。

「マタイ福音書 25・1-13」
当福音書の例えを通してイエス様が神様と人間との出会いを語られています。この出会いはお互い知らない者の出会いではなく、お互いによく知る人の出会いです。神様が盛大な祭りに人間を誘われて、人間はその誘いを受け取りました。神様に誘われた人は心を開き、授けられた知恵を通して目を覚まして、神様の存在や思いや働きに注意深くなり気付き、生きています。福音書の中に出てくる灯火用の油は心の知恵、そして心の期待感を例えています。この頃の典礼全体もイエス様が再び来られることとその時に人間との再会に注目されています。このような背景の中で、イエス様が語られた例えばなしを読みとらなければなりません。初代キリスト信者の共同体では、イエス様の再臨を心から期待していましたが、しかし使徒パウロは「2テサロニケの人々への手紙2・1-2」の中で、イエス様がすぐに来られるのではなく、今はふさわしくお会いする為に心の準備をして期待するのが欠かせないことだと述べています。一所懸命期待するのは大切であり、その期待は簡単なことではありません。だからペトロでも、キリスト信者と支え合いながらイエス様が来られるのを期待するように勧めています。なぜなら、期待する間は神様の慈しみと憐れみを受ける時です。つまり、救いの時です。その時にキリスト信者は回心ができる期間を実感しながら、自分の生き方を改善します。福音書の中に出て来る乙女たちは、おそらく普通に誘われた若い女性ですが、実際にはマタイの福音記者がこの例え話を書く時に、乙女たちことは象徴的な姿にして、当時の共同体のことを示しています。使徒パウロは当時コリントの共同体を「清い乙女」とよんでいます。だから、福音書に出てくる乙女たちはキ
リスト信者の共同体であり、彼女らが持っている灯火は信仰から生まれた良い行いです。花婿はイエス様です。
                          モヨリ神父  
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