カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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C年 四旬節第三主日

2016年02月23日 | 神父様からメッセージ(C年)

四旬節の間イエス様と一緒に、イエス様の言葉を受け入れながら、砂漠を歩いたり、あるいは泥の道を歩いたりして、けれども振り向いてみると、イエス様が身近にご自分の輝いている姿を見せてくださいます。それに支えられ、慰められてイエス様と共に生きるキリスト信者は、この世で輝いています。キリスト信者は寛大な心で、慈しみと憐れみの心で輝いています。全てを赦し、全てを愛するものですからこの世の中でイエス様と一緒に輝いています。私たちの歩みを進めさせるのは復活の光です。苦しい歩みがあったとしてもキリスト信者はより大きな復活の喜びを目指しています。
「ルカによる福音書13・1-9」
 キリスト信者にとって自分の行いの基準は神様の言葉です。その言葉は無条件で人生の歩みの基本的な導きになります。当福音書では、皆が神様の言葉に回心するように呼びかけています。神様はいつも人間の歴史におられます。しかしその中に「悪」も存在し、それは神様から発生したことではなく、神様はいつも人間を大切にして良い者、悪い者の上にも太陽を上らせて下さいます。皆大きな慈しみの中で抱かれています。人間にとって回心を求め神様の方に向かうのは、自分の人生の基準的な態度になります。さて、当福音書は二つの場面に分けられて同じメッセージを勧めています。一つ目はイエス様が当時の究極的な出来ごと(死亡事件)に対する人の驚きを利用して、心を回心する重要さを強調しています。二つ目は実らないイチジクの例え話です。その例えによって、イエス様が人類のために神様へ回心する、つまり神様の方へ戻る普遍的な期間が得られたことを示しています。イスラエルの歴史の中で、人が神様から遠去かったことは何回もありましたが神様はいつも大きな慈しみを示し、自分の方に戻るように人類に絶えず呼びかけていました。このような神様と人類との関係は当時だけではなくイエス様の時代から現在まで、同じように続けられています。「回」という字は まわるという動作を示しています。さて、この世の中で手近な喜び、物理的な執着から私たちの心はより素晴らしい、精神性を高める世界の方へイエス様に回るように強く言われています。この世から神様の方へ心を回わすと本当の回心が行われることになります。良い人でも、悪い人でも、苦しみに向かう場合があります、それは神様の罰ではありませんが、それを通しても、神様はいつでもどんな時でも皆、絶えず回心するように、つまり自分の方に来るように呼びかけています。実りを持たなかったイチジクにも神様が回心を絶え間なく呼びかけながら待っておられます。罪人にとって、神様を忘れて遠去かった人にとって、いつでも神様のほうへ戻れる、帰れる機会を与えられているのです。
                          モヨリ神父

C年 四旬節第二主日

2016年02月18日 | 神父様からメッセージ(C年)
 
 
 キリスト信者も沈丁花の香りと共に、四旬節の香りのその甘さを吸って復活祭の準備の方へいざなわれ、四旬節の間私たちの歩みも続いて行きます。イエス様と一緒に砂漠を通り誘惑の辛さを感じ、イエス様と一緒に悪魔に打ち勝ち、神様のみ旨を忠実に守る約束をしました。今度、イエス様がご自分の姿を変えて、ご自分の本性を見せてくださいます。その姿は輝く姿で、イエス様が新しい真実を、新しい世界を知らせてくださいます。その姿はイエス様に従うことによって私たちの姿にもなります。それはキリスト信者も自分の人生の様々な出来事の、どのように辛い出来事をも神様の言葉の光のもとで見つめれば、その中で、神様の丁寧な指導、神秘的な跡を見出し、どのように暗い出来事でもそれが変わり輝いてきます。辛くても私たちにとって、ペトロがイエス様の前で言ったように「ここにいるのは、つまりイエス様と一緒にいるのは、いつでも素晴らしい!」
「ルカによる福音書9・28b-36」
 イエス様に従う人は信仰に対する誘惑を受けますが、それを乗り越えるためにイエス様と同じように神様のことを選ぶのです。イエス様のご変容は、誘惑を乗り越えた人に対するこたえになります。イエス様が十字架上の死を予想された後、弟子たちにキリスト信者が迎える理想と喜びを知らせます。それは、光で輝いている姿です。だからイエス様のご変容の意味は誘惑の時、苦しみを迎える時も、イエス様の言葉を聞く人は輝いているものになるということです。イエス様がご自分の姿を変える途中、天からの声は「これに聞け」と勧めます。イエス様を聞くのは素晴らしい人間、輝いている人間にとって欠かせない過程になります。輝いているイエス様の姿が歴史の中にあり、人間と共に歩む神様の存在を示しています。イエス様と一緒にいたモーセとエリアは法律と預言を象徴しています。メシアであるイエス様は旧約の時代から、つまりモーセの時代から人類に期待され、この世を去った時でも皆と一緒におられることを示しています。 同じようにエマオの方へ歩く弟子たちにも、イエス様について旧約聖書に書いてあること、モーセからそして預言者が予言したことも解説されました。ペトロと他の弟子たちはこのような神秘的な場面にとらわれて、大きな情熱の中でイエス様と一緒にずっといたいという希望を示しましたが、実際に神様と一緒にいることは出来ます、それはイエス様のみ言葉を聞くことによって実践されます。キリスト信者にとって、あらゆる形で神様の言葉を聞くことは欠かせないことです。神様は聖書全体に渡って、イスラエル人との愛の約束を述べた時でも、それを人類全体が聞くように勧められています。そうすることによって、使徒パウロが語っているように、私たちの貧しい体はイエス様と同じように輝いている体となります。輝いているイエス様と同じようになったキリスト信者が神様と一つになって、世界に神様の本来の姿を見せることが出来るのです。
                        モヨ神父


C年 四旬節第一主日

2016年02月09日 | 神父様からメッセージ(C年)
 

 最近良く使われる言葉は病院に限らず「ケア」です。英語であり、日本語でも普通に使われるようになって、人に対する憐れみと慈しみを示しています。日本語のぴったり用語は「赤心」、言い換えればボランティアの心です。お年寄りに対して、子供に対しても、困っている人にケアという心は欠かせない現代社会人の態度になっています。けれども、ケアと言うのは名詞だけではなく動詞としても使えば「アイ、ケア」となります。無理に翻訳すると、「興味を持つ、知りたい、関わりある」と言う意味です。しかしキリスト信者は大自然に対して、また人間がかかわるすべての分野、背景などにケアだと言いすぎないことが大事です。なぜならそれは神様の心だからです。神様の心は全てに対してケア、つまり、興味と愛を示し全て温かい憐れみと慈しみで包んでくださいます。キリスト信者も同じように、全てに「ウィ、ケア」「全て、愛している」というべきなのです。
「灰の水曜日」頭に灰をかけられたしるしによって四旬節に入り、つまり積極的に復活祭への準備に踏み込む時季になりました。
「ルカによる福音書 4・1-13」
 四旬節に入って、当時季は私たちの明確な改心のしるしになりました。み言葉に導かれてキリスト信者の共同体は五つのステップによって、復活祭の方へ歩みを進めて行きます。今年の四旬節の五つのステップは、1)イエス様の荒野の誘惑、2)実りを持たないイチジク、3)イエス様のご変様、4)放蕩息子のたとえ話、5)罪を犯した女です。四つの個所はルカの福音書に属していますが、5番目の個所はルカの心を表しているのに今、ヨハネの福音書に属しています。この朗読の背景は大いに神様の慈しみと憐れみを示しています。この四旬節の間、イエス様の素晴らしさを深く知るように誘われています。み言葉によって自分の経験によって、イエス様の心を知る、愛する、経験することが出来れば、確かにキリスト信者もイエス様の心を見せることが出来ます。ルカ福音記者が語るイエス様の荒野の誘惑は、イエス様の全ての公生活をまとめています。イエス様が乗り越えた誘惑は、イスラエル人たちが砂漠の中で乗り越えられなかった誘惑で、それはこれからキリスト信者になる者が乗り越えなければならない誘惑を語っています。イエス様は示された神様のみ旨に対する忠実と愛着によって、そして、神様のみ言葉に支えられて、あらゆる誘惑を乗り越えることが出来ました。四旬節を迎えるキリスト信者も、み言葉に支えられてイエス様と一致して、神様の心と愛に反する日常生活の誘惑を乗り越えるように誘われています。
                           モヨリ神父

C年 第5主日 

2016年02月04日 | 神父様からメッセージ(C年)


 人間は心の悪、体の悪から逃れる希望を持っていますが、そのために医学を頼るだけではなく、宗教を通して解放されるように望んでいます。それを見抜いたイエス様は私たちと一緒に悪と戦って支えてくださいます。むしろ祈るように教えられた時に「悪から救ってください」と神様に願うように勧めてくださいました。2月11日はルルドの聖母の祝日であり、世界の病者の日になっています。私たちも、日曜日にこのようなルルドの聖母の取り次ぎを願って、いろんな悪から解放されるように祈りましょう。病気になること、病気であることを運が悪い、罰があたったと考えてはいけません。悪は神様から出るのではなく、神秘的に善に対立してそれを強調し高めています。神様は苦しんでいる人間のすぐそばにいて慰めてくださいます。事情によって健康が取り戻せない時に、その病気の中でイエス様の苦しみも見出すことができれば、その中で周囲にいるも者たちの愛情と支えにも気付き、感謝の心に変わり、病気の中でもより大きな喜びを見出すことができます。私たちもイエス様と同じように、マリア様の子でありマリア様の腕の中で大きな愛情で包まれているのです。
「ルカによる福音書 5・1-11」
 当主日の福音書でも主役はみ言葉です。誰にでも神様の呼びかけはいつもみ言葉を通して行われます。皆の人生の中で重要な時があり、同時に人生を全うするためにどのような選択をすればよいのか、どのような方向に人生を向ければよいのかを考える時です。場合によって自然にわかることがあり、逆に困難の中で決める時もあります。とにかくいつでもその中に神様の呼びかけがあります。このような神様の呼びかけは父、母、聖職者などを問わず、全ての人間にあります。私たちは自分の人生の中でいろんな役割がありますが、このような呼びかけによって、この世の素晴らしさを完成するまで神様の協力者になります。当箇所ですぐに目立つのは、群衆がイエス様の言葉を聞くことを憧れていることです。他方ではイエス様がペトロの小さな舟であるように、教会の低い立場から話しています。群衆は驚きながら、み言葉を岩の中から湧いている清い水のように憧れて聞いていました。イエス様はファリザイ派の人のように、理屈っぽい言葉で話してはいません、むしろ真実を語り、権威のある言葉を語っていました。その後、イエス様がペトロとその仲間にも、ご自分の言葉の力を持つしるしを与えます。ペトロはイエス様のみ言葉の指示に従って網を下ろし、自分の働きの大きな結果を得られます。同じ権威のある言葉で、それによって群衆に偉大な教えを与えられ、イエス様のみ言葉は頼るべき言葉だと明らかにされます。このような魅力的な言葉に捕らわれたペトロは、自分の足りなさを実感しますが、イエス様の力強い言葉の誘いに抵抗することを諦め、イエス様に全身全霊で従うように決心しました。
                               モヨリ神父