カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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「今週の公教要理の錠剤」27 

2012年05月25日 | メッセージ(その他)
B 年 聖霊降臨の主日              2012・5・27
「カトリック教会の教え」から
「死と復活」
キリスト信者にとって欠かせない課題は、死とその後のことです。良く考えてみれば、死は人生の締めくくりというだけではなく、新しい命の始まりなのです。キリスト信者は人生の途上で死のことを考え、その時の為の準備をします。キリスト信者はイエス様と同じように、死んでも神様と一緒に永遠に生きるのです。このような命は神様とのかかわりによって人生の中に始まり、死後もずっと続いています。命は神様から頂いたもっとも貴重な贈り物です。命は実は自分のものであるだけではなく、神様から預けられた神秘的なもので、愛する人の為にも使うべく委ねられていて、神様の計画によって、神様の望まれる時まで大切に持っていなければなりません。心と体の健康を大切にすることも神様から頂いた命を大切にする管理の一つの手段です。死後のことを考えてみれば、よく聞かれる言葉に天国と地獄のことがあります。一般の人の考えでは死んだらどちらかに行くことになります。さて、キリスト信者にとって天国と地獄の意味は神様から離れて生きるか、神様と一緒に生きるかどちらかということで、光の下で、つまり神様と一緒に生きる、神様と人を愛するのは天国、一方光から離れることが地獄を意味します。天国と地獄とは行動と行為の結果、つまり行為に対して罰と報いではなく、信仰によって神様に結ばれて生きる状態を示しています。神様に結ばれることによって天国の喜びとそのあり様を味わうことになります。神様から離れて生きるのは何と辛いことでしょう。神様がいない所は永久の死です。最後に「永遠の命」とは、愛する人の心の中にずっと残ることです。このように神様がわたしたちを愛してくださり、私たちはその愛に包まれて、神様の懐に留められて永遠に生かされるのです。

「今週の公教要理の錠剤」26

2012年05月17日 | メッセージ(その他)
B年 主の昇天の主日    2012・5・20
 「カトリック教会の教え」から
「現代の教会」
イエス様の死と復活の後の初代教会時代と同じように、現代の教会も時を超えてイエス様の心、その言葉と救いの喜びを現代社会の人々に告げ知らせています。教会と現代社会の関わりや接点は、キリスト信者に任せられてとても大切なものです。キリスト信者は日常生活の中で信仰を生かして、自分の家族、自分の地域を特別に愛し、その場所でイエス様の愛、慈しみを宣教します。そして皆をイエス様の所に誘うようにしています。さて、イエス様の姿は皆に隠されていますがキリスト信者はどんな人にも心からの深い尊敬を持ちながら、自分の言葉で、自分の行いでイエス様の心を告げ知らせます。またイエス様に従う者たちは、自分の家族のように自分の教会を愛し、どんなことよりもイエス様から与えられた自分の信仰を優先します。信仰のもとで考え、イエス様が教えられたように自分が愛を注ぐ所を大切にし、日常生活の中で自分の行動の方向性を選択します。自分と家族が暮らす地域の人々とその仕組み、その地域社会の宗教と習慣の対話は欠かせないものです。キリスト信者は自分の信仰の泉とその愛を忘れないで行動し、イエス様の言葉を告げ知らせています。そして、イエス様が再び来られることをキリスト信者は確かに待ち望んでいます。常に目覚めていて、活発な動きで、わくわくしながらイエス様を待ち望み、人々にイエス様のみ言葉、イエス様の心を告げ知らせ続けています。それだけではなく、キリスト信者はイエス様が再び来られる時まで、貧しい人、病気の人、飢え乾く人、これらの人々は裸で牢に入れたイエス様の姿を現しているのですから、仕えるように心がけています。イエス様が来られた時にご自分の姿を映した人々を助けて上げたかどうかが問われるのですから。
                   モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」25

2012年05月10日 | メッセージ(その他)
B年 復活節第六主日   2012・5・13
 「カトリック教会の教え」から
「教会のあゆみ」
イエス様の姿が弟子達の前から消えて天国に昇られた時から、弟子たちはイエス様がおっしゃったように全世界に広がりました。勇気を持ってイエス様に従った信者たちは、当時のあらゆる所に生まれた最初の小さな共同体として、わずかな人数でも集まり、イエス様がおっしゃったように記念として、パンをさいてイエス様の死と復活を思い起こし、イエス様の体をいただきました。イエス様の教会は小さな共同体でしたが問題や苦しみも少なくなかったのです。共同体の中から発生した問題は、イエス様のメッセージを忠実に述べる方法について議論したり、イエス様の心を実行する為にどうすればいいのかなどのいくつかが悩みの原因でした。けれどもイエス様がご自分の小舟のような教会からはなれられないで、ご自分の小さな共同体を見守り、聖霊によって導いてくださいました。しかし同時に力強く聖霊が働く小さな共同体も、所によって迫害されたり、追放されたり、また受け入れられなかった所もありました。時にイエス様の信仰を持った証人が殉教することになりましたが、彼らの血は新しい教会の種になりました。このように教会は少しつつ当時の世界中に広がりました。そして、イエス様の教会は一つの所に留まらないで、時代を渡ってあらゆる形でも広がって成長しました。キリスト信者になった王様達は、自分の国民にイエス様の信徒になるように命令を下しました。それである時はキリストの教会は人間の経済、武器の力で広がると思われたかもしれません。しかし実際にはイエス様が絶えず自分に従う者たちに愛を注ぎ、愛の弱さを通して、ご自分の心と言葉が広がるように教え続けました。イエス様がこのように間違った人間をご自分の方にいつも呼び寄せてくださいました。現在の社会でもイエス様の教会は広がろうとしていますが内的、外的な圧迫で悩みと苦しみは絶えないのが現実です。しかし、それでも今日イエス様がご自分の共同体をご自分の命より愛して、守り、成長させ、全世界に広げようとしておられます。
                        モヨリ神父

「今週の公教要理の錠剤」24

2012年05月03日 | メッセージ(その他)
B年 復活節第五主日          2012・5・6
 「カトリック教会の教え」から
「教会の姿」
外から教会の姿を見てみると、単なる大勢の人の集まりにしか見えないことでしょう。しかし本来教会はイエス様の名によって呼び寄せられた人々の集まりなのです。さて集められた人々は神の民と言われています。神ご自身が一人ひとりを呼び集めて自分の大事な民とされ、自分の花嫁、大切なブドウ園として心を寄せておられます。神様の民は集まると大勢であっても心は一つになり、一つの共同体として共に祈り、共に神様の言葉を聞き、思いとその愛の中で生きるのです。つまりキリスト信者は、旧約聖書のイスラエル人と同じように神の民であり、復活されたイエス様を信じて自分の生き方でイエス様の姿を示しています。イスラエル人達は奴隷としての日々を神様から解放され、砂漠の中で長年神様に導かれ、神様の民として神様に愛の約束でむすばれました。神様は彼らに新しい土地、新しい国を与えました。ミサの時にイエス様の言葉、イエス様の体をいただく共同体は、昔のイスラエル人と同じように神様に愛の約束で結ばれイエス様の体になって、イエス様の腕、イエス様の手、イエス様の足、イエス様の心になって、復活されたイエス様の体を世界に示すようになりました。イエス様はこのように一つの教会を望みましたが、長い歴史のなかで、イエス様の体である教会は分離し、いくつもの宗派に分かれました。それはカトリック教会から離れたプロテスタントのいろんな宗派のことです。しかしそれぞれが違った方法で、神の国を求めてイエス様の愛を示しています。復活されたイエス様は現在の社会の人々にも、自分の唯一である群れのような共同体に属するよう呼びかけられています。祈る共同体がある所、そこにイエス様がおられます。イエス様の教会は聖霊に支えられ、聖霊に導かれ、聖霊の風の力で進んでいます。イエス様の教会の目標は一つだけです。復活されたイエス様の愛をより多くの人々に告げ知らせることです。
                         モヨリ神父