カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 A年 年間第四主日

2011年01月28日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「なんの善も行わず、一日過ごしてしまうことは、大いなる悪です。」聖フランシスコ・サレジオ

「春隣」は濁らずに「春となり」と読みます。語感の響きの関係からか、伝統的に濁らないとされています。春がすぐ近くまで来ているという意です。一月もこのころになると、風や光は春めき、花のつぼみや木々の芽もふっくらとしてきたように見えます。春はそこまで来ているという気配を感覚的に捉えた季題といえます。また、熊本の春は植木市とともにやってきます。四百数十年前に隈本城主、城親賢(ちかかた)の時代が始まりだそうです。
さて、人間の心を良く知っておられたイエス様は、人間が自分の人生の間に、幸せになることだけを捜し求めていることを受け止められました。イエス様は山上からその道を、新しい指導者としてモーセのようにお話しになり、わたし達にも幸せになる方法を教えてくださいました。幸せになるために一生懸命頑張るという行動ではなく、目が覚めて、つまり気付いて、イエス様の言葉を信じることによって、わたし達はほんとうはすでにもう幸せであることに気付くのです。貧しい時、泣く時、平和を求める時、そして皆に疎外される時に、寂しい時にも、わたし達はその時々に幸せです。その時こそ、神様が慰めてくださるからです。その時に特別に神様をみることができます。その時に神様が大きな報いを準備してくださいます。イエス様が述べ伝えてくださる幸せは、辛い時に自分の心の中に湧き上がり、それを自分の人生の中に見出すことができれば、幸せであることを実感することが出来ます。山上からイエス様は弟子達に、幸せになる道を力強く教え、弱っている大勢の群集に救いの道を述べ伝えました。幸せになりたくてたまらないわたし達にとって、このようなイエス様の話は、人生の参考に、いえむしろ人生の土台になるのではないでしょうか。
マタイによる福音書 5・1-12
旧約聖書では、幸せな人は神様によって解放された者です。奴隷から開放された者だけではなく、神様の掟を守ることによっても悪から解放されています。知恵によって暗闇から解放された者も示されています。 新約聖書では、永遠の命を希望するキリスト信者は幸いな者だと定められています。実は、本当の幸せな人はイエス様と一致した者です。なぜならイエス様自身が貧しい人、悲しむ人、柔和な人、憐れみ深い人だからです。生きている間に、キリスト信者が苦しい状況の中に置かれていたとしても、同時に、神様から未来を約束され、永遠の喜びを味わうことができます。このようなイエス様の幸いの話を理解するために、み言葉を鏡に写すように見てみれば、その深さを発見することが出来ます。最初4行の文章は次の4行の文章を反映しています。又、第1の2行は第5の2行とマ相対し、第2は第6に相対してその後も同じように続きます、このようにして、大いに深い意味も浮かび上がって来ます。山上の話を通してイエス様が、新しい福音を告げ知らせています。イエス様が教えられる救いは、積極的に信仰を守るところから始まります。心の貧しい人と慈しみのある人とのつながりは深いのです。むしろ、貧しい人は慈しみの心をもっています。同じように人生の中で苦しんだ人は清い心の人になり、自分の人生の中で神様を見ることができます。確かに平和を求める人は柔和な心をもっています。正義のために苦しんだ人だけがそれを探く求めています。イエス様が山上の話の時に、人を自分に従うだけではなく、自分のように生きるように、自分といつでも同じ様になるように勧めています。だからキリスト信者はイエス様のように、貧しく、イエス様のように苦しみ、イエス様のように清い心で、柔和で、正義を探し求めています。それに、イエス様のようにイエス様の名によって迫害されることもあります。                      モヨリ神父
※「新 熊本歳時記 編集委員会」(熊本日日新聞社)より一部引用


毎週の一言 A年 年間第三主日

2011年01月20日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「すべての必要事と仕事において、神を完全に信頼しなさい。
そうすれば常に成功するに違いありません。」聖フランシスコ・サレジオ

「南天」は、メギ科の常緑低木で高さは二メートルぐらい、「難を転ずる」といって緑起のよい木とされ、庭先などに植えられています。梅雨のころ白い小さい花を咲かせた後、青い実をつけ、それが晩秋から初冬にかけ赤く色づきます。赤い実の他に白い実の白南天、炎黄色の閏南天、紫色の藤南天などの種類があります。昔から乾燥させた南天の実は咳止めとして用いられています。また、寒椿は冬椿と言い、早吹きの椿のことで寒い冬の間に花をつけます。枯色で占められた景色の中に色鮮やかに咲く椿の花は春を持ち焦がれる人々に元気を与え、明るい気持ちにさせてくれます
さて、今週は教会の伝統により、キリスト教一致祈祷週間にあたり、全世界のキリスト信者の宗派が一つになるように祈ります。イエス様は一つの教会を望んでおられたのに、現在でもイエス様に従うものの中で分裂があったり、いくつもの宗派に分かれています。できるだけこの一週間は大きな夢を持ってイエス様が希望された唯一の教会のために祈りたいと思います。確かに歴史の中のいろんな面や出来事によって、教会の罪、教会の欠点があり、キリスト信者の間の分裂のもとになりました。けれども憐れみの心をもったイエス様を見習って、神様に赦されたように赦し合いながら、キリスト信者はいつでもイエス様が望まれた教会を創るように努めましょう。
マタイによる福音書4章12-23
ミサを立てる時、一年中いつもイエス様の神秘をお祝いし、記念することになっています。典礼には、これからイエス様の公生活が始まる物語が朗読されています。実際に降誕祭の時に宣言された出来事が「暗闇の中で大きな光が現れた」と実現しています。イエス様が始められる公活動は、都であったエルサレムからではなく、そこからはずれで貧しいところであるガリラヤからです。預言者が告げた通りに、イエス様はこのような素朴なところから自分の活動を始められます。そのような暗いところにイエス様が光として来られ、暗闇の中におかれていた庶民が照らされています。イエス様が最初に洗礼者ヨハネと同じように、人生の心構えとして人々に回心するように呼びかけています。その回心の内容は、すこしつつ自分の中にイエス様の姿、イエス様の心と思いをしみ込ませることです。その後、弟子たちの呼びかけは歴史的な出来事でありながら、象徴的な召し出しをも示しています。イエス様がご自分の弟子たちのように皆、どんな人にも自分に従うように呼びかけています。普通の日常生活から呼び出されて、いつも日常生活の歩みの中でイエス様に従うように勧められています。イエス様の人への呼びかけの目的は、自分と一緒に協力者として、人類の救いの為にいつも、どこでも努める者となることです。最後に、イエス様が苦しんでいる人類を癒しています。この時こそ、イエス様は弟子の手本になります。イエス様の弟子の目的は先生の希望を完成するまで勤めることです。イエス様の希望は人間一人一人の、心身の悪からの解放、根本的な救いです。
                               モヨリ神父
※「新 くまもと歳時記編集委員会編」

毎週の一言 A年 年間第二主日

2011年01月13日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「たびたび私たちは、天使になりたいとあこがれを抱きますが、
            まず、素敵な人間になるように努力しなさい」 
聖フランシスコ・サレシオ

風花は、晴天の日にちらつく雪のことで重量感はありません。山脈を越えてきた風に雪片がまじることもあります。ちらちらと一片ずつ落ちてくる雪は美しい自然現象であり「かざばな」という語感もよく好まれる季題です。確かにこの頃の主役は寒さです。それに伴う健康の不調です。実は、日常の痛み、苦しみ「背中の痛み、風邪など」も真珠のようなものです。それを愚痴や文句を言うことで捨て去ってしまわないようにするのは大切なことです。むしろ喜びの中で神様への捧げものにすれば、素晴らしい飾り、素晴らしい贈り物になります。なぜなら、イエス様の十字架の苦しみにより、豊かにに愛されたわたし達が、小さい苦しみを通して神様の限りない愛に小さな恩返しができるのです。その時、イエス様と一緒に輝き、神様の独特な愛をこの世でしみじみと心に広げることができます。愛の中でキリスト信者は、心も体も癒されています。
さて、この頃カトリック典礼の色は緑になり、年間の時季にもどります。この季節は、より大切な他の典礼的な季節の準備になります。「準備中」と言いかえればおかしくないと思います。だから、この時季をも大切にしながら、キリスト信者は大きな希望の中で、より重要な時の準備として過ごすべきだと思います。

ヨハネによる福音書 1・29-34
当主日の福音書は、再び洗礼者ヨハネがイエス様に洗礼を授けることについて語っています。短い個所の中に「見る」と言う単語が5回ほど登場します。中心的なところは、洗礼者ヨハネがこの世で降待祭の時に生まれてきた、メシアであるイエス様を紹介することです。
実はイエス様の真の姿をヨハネに知らされるのは聖霊です。洗礼者ヨハネは、二回ほどイエス様のことを知らないと言います、なぜなら、イエス様を知らせるのは聖霊の独特な贈り物だからです。神様であるイエス様が僕として神様の栄光を表すもので、洗礼者ヨハネにとって初めて知りえたことです。洗礼者ヨハネが受け入れた光、イエス様を知ることも洗礼を授けることも、神様から命じられたこと、与えられた賜物です。イエス様を知ることは洗礼者ヨハネにとって人間同士の経験だけではなく、イエス様が神様であることも知ることによって、人間が神様の世界に属するものであることも知らされたのです。洗礼者ヨハネのイエス様の紹介の方法によって、洗礼者ヨハネがどのようにイエス様のことを知るようになったかが明らかにされています。神様でありながら、人間としてこの世に来られたイエス様を紹介する表現は次の通りです。「神の羊」「世の罪を取り除く」「私の後から一人の人が来られる」「その方がわたしにまさる」「わたしより先におられた方」「聖霊がこの方の上に留まる」「聖霊によって聖霊を授ける」「神の子」です。このような言葉でイエス様が洗礼者ヨハネに初めて紹介されています。だからイエス様は皆の魅力ある神の羊であり、この世の人類の救い主です。イエス様を通して、神様はこの世の罪を無償で全て赦します。イエス様は人間でありながら神様であり、神様に全て結びついて、この世の根本的な弱さをとりのぞく方なのです 
                                                               モヨリ神父  

※「新 くまもと歳時記 編集者委員会」 (熊本日日新聞)より1部引用

毎週の一言 A年 主の洗礼の主日

2011年01月06日 | 神父様からメッセージ(A年)
神様を愛される皆様へ、
「天国と同じような神様の喜びを探し求めるなら、
       この世の惨めさと天国のことも同様に愛すべきなのです。」 聖フランシスコ・サレジオ

筆始めは、書き初め、吉書、試書とも言い、新年になって初めて書や絵をかくこと。多く二日に行う。念頭に自信の大切な言葉を家族に表明する恥ずかしさとうれしさが正月を寿ぐ。筆の穂は、人の神経系を束ねたように繊細微妙な変化を見せ、書く人の呼吸に裏打ちされた一回性の美を描く。そして白い紙は、優しく黒(自我、人為)を包み込む。そういえば、昭和の時代まで「ふで」という名前の女性が多くいた。
さて、書き初めで初めて年の頭に字が書かれたことと考え合わせて、31日のミサの中で詠まれたヨハネの福音書が心に浮かんできます。「始めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」 この言は実際に年が明けると書かれるようになります。とても素晴らしい出来事ではないでしょうか。神である言は皆の心に宿りながら、白い平面の上に浮かんできて美しく読めるようになります。神様である言は人の指導、人の道、人の喜びでありながら、人に筆だけではなく、人生に心で書かれています。人に神様の素晴らしさを語ってくれるどんな言も神様です。日本の文化自体にキリスト教との接点が沢山あります。それを発見する時に感動を覚え、大きな喜びを感じます。また、新年になって最初に炉に掛けられることから「初釜」は、茶の湯の重要な行事で、儀式化された美を作り出し、改めて縁を思い、生を省みる場にすると言います。お茶も心と心が触れ合う場として、大自然の実りで持て成すものです。それをいただく人は神様の愛情をたとえながら大自然の香りに包まれて、とても素晴らしい一年を歩み始めます。

マタイによる福音書 3・13-17 イエス洗礼を受ける
当福音書のエピソードは、洗礼者ヨハネによるイエス様の洗礼と、イエス様が神様の愛された子であるというお告げを語っています。典礼は、祈りを通してもこのような神秘を自分の人生でも深めるように勧めています。さて、福音書は三つの場面に分けられています。一番目はイエス様がヨルダン川で洗礼を受ける、二番目はイエス様と洗礼者ヨハネとの不思議な対話、三番目は聖霊が降りてきて、イエス様は神の子であることを告げ知らせています。 二番目の場面の中で、洗礼者ヨハネはイエス様が自分より偉い方だと認めていますが、実際にはイエス様はそれを無視し、洗礼者ヨハネの前で頭を下げて、洗礼や祝福を求めています。イエス様はこのように、神様から約束された通り、僕としてこの世に使わされて人類の罪を背負って、人を神様のところに連れていく決心を示されています。このようにイエス様は、皆の僕として、皆に使えて神様の約束されたことばを実現されています。三番目の場面は、当福音書の中で基本的なところであり、神様のお告げです。まず鳩のような形で、つまり象徴的な形ですが、聖霊がイエス様の上に降ります。聖霊はイエス様の中にいつも存在し、その力によってイエス様が自分の使命を果たし続けています。そして、イエス様がこの世で自分の使命を全うされた後、同じ聖霊を自分の教会に移します。つぎに神様のお告げは、聖霊が降ってから神様のお声がイエス様の真実の姿を知らせます。イエス様の真実の姿は二つの預言的な表現で明らかにされています。「これは私の愛する子」。このようなことばでイエス様がメシアであり、王であることも昔のイスラエルの王達のように神様に任命されています。「私の心にかなうもの」このことばによって神様は人類に、イエス様がメシアであり神様の愛の計画を自分の人生を尽くして全うされ実現された僕であると告げられています。                            モヨリ神父
※「新 くまもと歳時記 編集委員会編」 (熊本日日新聞社)より一部引用