カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 A年 待降節第一主日 

2010年11月26日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「他人の前で失敗があった時、なぜ泣いたり、心を乱したりするのですか、自分の不完全な姿を知らせるのをおそれるより、自分が取るに足りない人間であることを、その機会に知ってもらいなさい。」
聖フランシスコ・サレシオ
冬になると、一日の明るい時間が短くなって、夜がどんどん長くなります。しかし長い夜の時間に、暖かい家の中で、その静けさを楽しむことが出来ますね。むしろ家の者達と一緒に、のんびりした時間を過ごすことも出来ます。同時に、明るい時間の間に光の大切さ、その大きな恵みを感じるのです。神様はわたし達にいろんな方法で話してくださいます。まず、ご自分の言葉である聖書を通して話してくださいます。そして大自然の季節の移り変わりを通しても話してくださいます。いつも、どんなときでも、様々な出来事の中で神様は話しかけられています。だからいつも注意して、その神秘的な言葉に耳を傾けましょう。さて、今日から典礼により新しい一年間が始まります。待降節に入って、わたし達の心はイエス様がお生まれになることを期待して準備に入ります。待降節の意味はまず、ふさわしい心で待つことです。つまり、目を覚まして、注意して周囲に起こるしるしを読み取り、現実を見分けるのです。待降節の典礼に勧められているように、神様に近寄りながら、神様の思いに溶け込むことです。神様が一人一人に近づかれることを実感しながら、ふさわしい心でその言葉を受け入れるのです。待降節の間、イエス様とはどのような方であるかを典礼の朗読を通して知らされます。降誕祭は誕生されたイエス様の到来だけではなく、終末の時のイエス様の到来をも象徴しています。さてその時には、イエス様がおっしゃるように、目を覚まして祈りながら待たなければなりません。イエス様が来られることと、その出会いは私達にとって永遠の命の始まりなのです。
マタイによる福音書 24・37-44
この待降節の第一主日からA年が始まり、主にマタイの福音書を読むことになります。おそらくマタイはアンテオケにおいてセミ語で、西暦110年頃初めて福音書を書いたようで、その後ギリシャ語で翻訳されました。教会はこの中から、イエス様の再臨の個所を選んで特別にその期待、目覚めてイエス様との再会のための準備をすることを強調しています。この箇所は三つの部分に分けることもできます。第一部はノアの時代の終末の時、再びイエス様の到来に比べられています。第二部はたとえ話を通して、一人一人それぞれが不思議な運命へ向かっていることです。第三部は目を覚ましていて、この時をわきまえることによってイエス様の到来を期待するように強く勧められています。終末の時にイエス様は神の子として審判としてわたし達を呼ばれます。イエス様の裁きは人を滅ぼす裁きではなく、皆の心と人生の中に沢山良いことを認める審判であり、皆を評価して大切しながら救う審判です。ノアの時には、いきなり誰も知らないうちに洪水が起こりましたが、ノアだけは神様にこの事を知らされました。終末の時も同じようにだれにも知らされずに起こりますが、イエス様に従った者達だけが知らされます。そしてその時イエス様に従った者達は、イエス様と一緒に永遠の命の喜びに入り、イエス様を拒んだ者達は残されます。イエス様と一緒に永遠の命に入るために、目を覚ましていて準備し、その時を期待しなければなりません。キリスト信者は大切な信仰を失わない為に、究極的な誘惑に落ちない為に、目を覚ましてずっと祈りながら準備し、イエス様との出会いを待ち望んでいます。
モヨリ神父

毎週の一言 C年 王であるキリストの主日

2010年11月19日 | 神父様からメッセージ(C年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
「わたし達が自身の心の欠点から立ち直るためには、そのことに腹を立てるよりもそれを素直に受け入れれば効果があります。」
                                 聖フランススコ・サレシオ
美しい紅葉の季節になりました。日本では多くの人達が、その紅葉を見るためだけに出かけますね。是非、この神様が準備してくださった景色を楽しんでください。このような素晴らしい季節も人生に例えられます。 皆さんの人生は、明るい時や暗い時、嬉しい時や苦しい時も色んな色に染められ飾られています。だから人生は美しいのです。 美しいものは必ず神様の作品です。聖アグスチナスは、神様は人間にとって魅力ある美しさだと述べています。聖アグスチナスが言いたかったのは、神様は美しさそのものだ、という事です。
さて、七五三、勤労の感謝の月に、王であるキリストの祝日を迎えます。つまり、イエス様自身、王であると宣言します。実はそれをされたのはピラトの前でした。ちょうど大きな苦しみを迎えた時です。十字架の上部に書いてある通り「INRI」ラテン語で「IESUS・NAZARENUM・REX.・IUDEORUM」(訳):「イエス様はユダヤ人の王です」。謙虚なイエス様が「私は王です」と言っていますが、それを聞いてわたし達は驚きます。けれどそのイエス様の言葉を少し深く考えてみると、真実の愛の素晴らしさを示してくださいます。この世の王様達のことを考えてみましょう。王様とは自国の民の人生の中心であり、すべてを自分から出し、全てが自分に戻ってきます。王様は王国の中心であり、愛の勝利を示しています。国民を愛して一人一人の為に命をささげて、皆を見守っているものです。同時に国民達は王様の姿を見つめながら、その思いの下に生きています。そのように王であるイエス様と神の国の一員である私達も、普遍的で欠かせない大きな愛に結びついています。
ルカによる福音書 23・35-43
使徒パウロによると「王であるキリスト」の意味は、神様の子であるキリストを通して、わたし達は皆、罪を赦されて救われているということです。さて、当福音書は三つの部分に分けることが出来ます。第一、イエス様に対する民衆の侮辱、第二、イエス様と一緒に十字架に付けられた二人の犯罪人との対話、第三、イエス様と犯罪人一人との対話です。何人かの者たちが人類を愛する為に十字架に付けられたイエス様を侮辱しながら、イエス様がメシアと王様であることを認めず拒否しています。イエス様が神様とその愛について話した時に、よく神の国、あるいは天の国という表現を使っていました。その表現の中に含まれたメッセージは、イエス様は神の国の始まり、その国の中心であり、神の国の目標でもあるということです。キリスト信者にとって、イエス様は教会の頭であり、最後に復活されるものたちの欠かせない命ですから、皆の王様なのです。王であるイエス様によって、全人類が救われています。イエス様が人類の救いを望まれる神様の心を果たす為に、自分の人生を十字架上で全うされたから皆の王様であるのです。最後に反省した犯罪人の一人は、イエス様の心に呼びかけながら、イエス様を包む真実を強調します。イエス様と一緒に十字架に付けられた二人の犯罪人は正義による死刑を受けるのですが、イエス様は悪いことを一つもせず十字架に掛けられています。犯罪人の一人は、イエス様が本当に王であることを信じ、人々の救い主であると認めています。それでイエス様に向かって自分の救いも求めて願っています。宇宙万物の王であるイエス様は「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる。」と約束されました。
                              モヨリ神父

※『新 くまもと歳時記 編集委員会編』 (熊本日日新聞社)より一部引用

毎週の一言 C年 年間第三十三主日

2010年11月11日 | 神父様からメッセージ(C年)
イエス様のことを愛される皆様へ
「神に目を注ぎ、自分を眺めなさい。
必ず良さに溢れる神と、みじめさに置かれている自分をみつけるでしょう。」聖フランシスコ・サレシオ

「返り花』とは、小春日和に時ならず返り咲く花のことで、「忘れ花」「狂い花」と言います。本来、返り咲く桜(花)のことを言うので、その他にはそれぞれの花の名がつきます。葉も乏しくなった枝先に灯る返り花には心安らぐものがあります。擬人化されやすい季題で、小さく咲いた様は、いかにも可憐で思いが深い。返り花を仰いで己や歴史を回顧したりもします。
さて、だれでも未来の計画を考える時、人間の思いと希望がずっと永久に続くと思っています。しかし、この世、神様からいただいた宇宙万物も終わりの日、しめくくりの時へ向かっています。それを知る、日常生活の中で体験するキリスト信者は豊かに思いを巡らせ、それに従った有益な人生を送ります。物理的なものは一切人間を縛る権限をもっていません。人間の心は自由であり、より高い理想を目指しています。この世は人間にとって仮の住まいであり、神様のところで永久に生きることをあこがれています。あくまでも大自然やこの宇宙万物は、神様に作られて、それを楽しむため、神様の元に戻るまで人間に任せられています。最終的な目標は人間にとって永久に神様と一緒に生きることです。キリスト信者はこの世の物理的なものに心を執着させないで、この世を通過しながら、一切恐れることなく、より高い素晴らしい、喜びのある目標を目指しています。そのために自分の人生を全て整えなければなりません。
ルカによる福音21・5-19
当福音書はイエス様の長い話の中の一部です。強調されるところはこの世、それに従って宇宙万物の終わりのことです。人間が頼る石で建てられた物は、いつか滅びてしまう時が来ます。イエス様は神様を愛する者たちに、神様の思いを大切にする者たちにも、丁寧に肯定的に話し掛け導かれています。神様を信じる者が安心できるものは石ではなく、イエス様の言葉や特別に聖霊の息吹です。ルカの福音書によると、この世の終わりにイエス様が再び来られることは、身近に起こる出来事ですから、キリスト信者にとって安心できる約束なのです。そこに至るまでに起こるのは、偽メシアの登場、天体のあらゆる恐ろしい現象、イエス様に従う者への迫害などです。偽メシアはイエス様と違って自分がメシアであることを宣言し、自慢するものです。そしてはっきりと未来についていろいろ告げ知らせたりします。未来についてはっきり語られないイエス様でも自分の弟子にその偽者に従わないようにとはおっしゃっています。起こるであろう恐ろしい出来ごととは、戦争、暴動、地震、飢饉などです。イエス様が自分に従った者たちに対して、それらのことを恐れないように勧め、支えられています。一般の人々はこの時に恐れに抱かれるだけですが、キリスト信者はイエス様に、イエス様の言葉に信頼して、恐れる時があっても冷静に乗り越えることが出来ます。そして世間から拒否され迫害されることも、寂しさ、孤独感なども含めて、キリスト信者は聖霊に信頼して、イエス様と同様の経験をしながら、イエス様と同じように死に向かっても復活の喜びの希望をもっています。支えはイエス様の霊に対する大きな信頼だけです。イエス様は約束されたことを完全に守ってくださいます。イエス様に従った者たちや、イエス様の苦しみを同様に体験した者たちは滅びないのです。イエス様がおっしゃっています。:「あなたがたの髪の毛一本もけしてなくならない。」と。言いかえれば、最後までいろんな苦しみを耐えてイエス様の言葉の知恵に支えられた者だけが、復活の喜びを味わうことが出来るのです。
                                        モヨリ神父
※『新 くまもと歳時記  編集委員会編』(熊本日日新聞社、2007~)より、一部引用。


毎週の一言 C年 年間第三十二主日

2010年11月05日 | 神父様からメッセージ(C年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

「自分の好み通り、または思い通りにしたいなら、何をしても立派なことにもならないし、価値もありません。」             聖フランシスコ・サレシオ
「春の霞」に「秋の霜」は、春秋の季節感を表す重要な季語です。霧は、朝霧、夕霧、夜霧、海霧、山霧、狭霧、濃霧と様々な形で生活にかかわり、情調に深い影響を与えています。例えば霧の立つ阿蘇も、変幻自在美を作りだします。また霜は菊池、山鹿の平地では十一月に、阿蘇などの山間地はそれより早く降ります。田の隅のもみがら、また散らばった藁くずの上や草、そして屋根などに降りているのを見ると、冬の到来を実感させる自然の美しさがあります。
さて、だれでも死を考えるとその後に何があるのだろうかと思います。つまりどんな人間にとっても、どんな時代でも、人間が「死の後」について悩み、あちらこちらとその悩みの答えを探し求めました。無神論者の答えは、イエス様の時代のサドカイ派と同じように、死んだら全てが終わり、何もないと思っていました。しかしどんな宗教でも、信仰をもつ者にとっても、死の後は神秘的な世界に入り、永遠に生きることを理解し認めています。キリスト信者にとっても、死の後は神秘的な方法で永遠に生きることです。生きるだけではなく、イエス様の約束によって、イエス様が皆の為に天国で準備してくださり、皆を待ち、受け入れようとしています。ご自分のふところの中に皆が集まるように、一人も滅びないように希望しながら、永遠に大きな喜びを供えてくださいます
ルカによる福音書 20・27-38
使徒パウロは、死後についてこう話しています。「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちのために天国で住む場所を準備された」コリント(1)2―9。ヨハネ3―2も同じようなことを強調しています。使徒たちが強調するのは、人間が死後に素晴らしい真実を迎えるということです。その時にイエス様に従った者たちは、イエス様のいとしい者になるのです。当時のサドカイ派は、社会的に優秀な者で、司祭の一部も属していました。彼らの考えでは、人間の復活を否定していました。それでイエス様に、7人の夫を亡くした女性は死後だれの妻になれるのかと、イエス様を驚かし試す意図で尋ねました。その無防備な質問に対して、イエス様は優しく死後のあり様を、心から理解するように指導します。死後のこと、未来も、頭で理解するのではなく信仰の世界に属しているので、直感で感じる現実となります。イエス様は上記のように具体的な出来事から、聞き手を考えさせて、死後のあり様が現在のあり様と根本的に違っているとわからせようとします。
イエス様はお父さんが子供に話すように死後のことを説明するよりも、ヒントを通して分からせようとします。キリストに従った者たちは、死ぬ時に素晴らしい天使のようになり、イエス様と一緒に復活して神の子のように永久に生きることになります。イエス様はサドカイ派の人が分かりやすいポイントを、もう一つ上げています。死は汚れの世界に属していますが神様は清いもので、聖人達から証されました。神様は死によって汚れるものではありません。神様は命の神であり、永遠に生きています。だから生きておられる神様のところに行く者、そして生きておられる神様に属する者は、神様と共に永遠に生きています。このようにイエス様に従う者は死後、未来に向かい何も恐れることなく、大きな希望と喜びに抱かれることになるのです。                                     モヨリ神父

※『新 熊本歳時記 編集委員会編』 (熊本日日新聞社、2007~)より一部引用。