カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

C年 年間第23主日

2016年08月30日 | 神父様からメッセージ(C年)
 
 ヨーロッパの伝統的な思想では、人の心の中に価値観の階段を作るように目指します。つまり何より大事なことは皆の心の中に欠かせないものがあって、まずそれを探し求めるように勧められています。たとえば、階段の最上階に立つのが愛だとすれば、家族の愛、友人の愛が優先され、その後社会的な義務、次に仕事などと続きます。それとは違って豊かな心をもった日本人にとって、このような価値観は築きにくいと思います。なぜなら、日本人の心の中には何が一番大切だと決めて求めるよりも、宇宙のような心の中に沢山の素晴らしいことの順番を並べるよりも、素晴らしい出来ごと、社会の平和、家族と集落の行事、大自然の現象、美の調和等を全て組み合わせて探し求めています。日本のキリスト信者にとって、いらないものは一つもありません。全て組み合わせて、心の豊かさを示しながら神様の素晴らしさを表します。このような心を持ったキリスト信者も、イエス様に出会って、イエス様に従う方法をより深く考えていきます。
 「ルカによる福音書14・25-33」
 イエス様を信じて従う事は、神様の大きな贈り物です。その贈り物をいただく心が必要です。その受け入れる心がまえには形があります。身内より神様を愛する心、イエス様と一緒に十字架を背負うのを怖れない人、自分の持ち物より神様を大切する人です。確かにキリスト信者でも、完全に完璧にイエス様のおっしゃる言葉を受け入れてもなお、その通りに生きることは出来ません。しかし欠点のあるままで、あいまいな思いのままでも、イエス様がおっしゃる言葉を理想にしてそれを目指していきましょう。
 今日の典礼の中でもイエス様に従う為に、特に人間にとって実現しにくいことが記されています。それは、自分にとって一番大切なものを拒否すること、自分の持ち物を横に残すこと、自分のアイデンティティを最後まで保つことです。当福音書にはイエス様が大変厳しい言葉で、自分に従いたい者たちに、当時の表現を用いながら厳しい選択を(身内を憎むことまで)迫っています。実際にイエス様が何をおっしゃっているのかを少し深めてみましょう。イエス様は、どんな人間観関係の中でも神様との関係を優先すれば、全ての調和である神様の愛の中に、人間の愛と人間関係を包んでくださるということなのです。イエス様の十字架をイエス様と一緒に運ぶのは、イエス様のご受難の苦しみを一緒に背負うことになり、その苦難を乗り越えることです。場合によっては信仰の厳しさを運び続けることです。最後に人間は素晴らしい神様の作品ですから、この世の物理的なものにとらわれてはいけません。イエス様を信じる者たちは、いつも自由な心をもって何ものにも縛られることのないようにして、イエス様にいつでもどこででも、従うのです。
                                     モヨリ神父

C年 第22主日

2016年08月24日 | 神父様からメッセージ(C年)

 厳しい残暑のなかで、もう少し耐えなければなりません。この時期のように「耐える」あるいは「忍耐する」は、独特な宗教的な言葉に聞こえますが、それだけではないと思います。確かに日常生活でそれらの事は大きな課題になりますが、イエス様が勧めているのは忍耐より、他人により大きな愛を見せることです。愛なしでは人生も光と色のない日々になり、苦しさに耐えるだけの無味乾燥なものになります。愛で満たされている心があれば、日常生活の苦しい時でも色彩豊かな人生になります。苦しい時に愛を持って人に向かうことにすれば、相手にとっても素晴らしいことです。その時は人々により大きな愛を示す良い機会なのです。お産の時を考えてみてください、お母さんが苦痛を耐えることよりも、それを通して自分の子を産む、素晴らしい命を自分の愛から生み出すことが出来るということ。それは大きな苦痛でも、乗り越えたその後に、ほほ笑むことが出来ます。
「ルカによる福音書14・1、7-14」
 イエス様の言葉によると、謙虚な心を持った人は、具体的に真実につながるものであり、人の心も理解しやすい人です。謙虚な心を持った人は奉仕と施しをする人に変わりやすくなります。イエス様が勧められる謙虚、謙遜な心は単なる社会的なマナーの心構えではなく、イエス様は「わたしは謙遜なものだから、わたしに学びなさい。」との言葉で自分の心を手本にして、自分のように生きるように勧めてくださいました。当福音書のテーマは謙虚さの価値観についてのイエス様の話です。正義を無視して隣人を見下し、一番になりたい人がなぜイエス様から戒められるのか、イエス様が明らかにしてくださいます。まず、当個所は二つの部分に分けられています。一つはイエス様のたとえ話、もう一つはファリザイ派の人々に教わったことです。注目するところは、イエス様がファリザイ派の人の所に食事に行かれた時の事です。ファリザイ派の人々も皆が悪い者だけではありません、そして話の背景は宴会(食事中)のところです。言い換えれば、キリスト信者の共同体のあり様を示しています。上に記されたように、イエス様は宴会のしきたりを教えるつもりではなく、むしろ神様の心と思いを理解させたかったのです。罪人とファリザイ派の人が神殿で祈った時のように、神様は自己自慢する人を見下し、謙遜な人を高めています。当福音書の第二部では、後の人が先になるのは自らの働きではなく、高めるのは神様の寛大な心です。徹底的に利益を求める現在の社会と違って、イエス様が当時、自分に従う人に無償の心を勧めています。自由な心で行うものたちは(タラントンのたとえ話が参考に)神様にたくさん報われています。イエス様自身、自分を全て無償で、死ぬまで人々に尽くしました。イエス様の心に見習っている弟子たちも、自分の日常生活では自分を捨てて、自分のことを忘れて、無償で隣人に使え相手の喜びだけを求めています。
                                   モヨリ神父

C年 第21主日 

2016年08月16日 | 神父様からメッセージ(C年)

 
 イエス様が自分に従った者達、疲れた者、病気の者、いろんな苦しみに抱かれた者へ暖かい眼差しを向けられ深く憐れまれて、「わたしのところに来なさい、休ませてあげよう」と言われています。その誘いを受け入れるようにしましょう。人間はいろんな時、いろんな理由で心を乱して疲れています。自分の居場所が見当たらない時、愛されていないと感じる時、自己中心的な生活を送る時、過去の失敗を思い悩む時、理想的な未来だけを望む時、自分自身だけで人生の問題を解決したい時、このような時イエス様のところに行きましょう。イエス様が休ませてくださいます。「道、真理、命」であるイエス様が、わたし達の心を照らし、暖かく養い休ませてくださいます。わたし達の心の中に新たな力を吹き込んでくださいます。そのように支えられて、わたし達は人生の素晴らしさを味わい歩み続けることができます。新たな力で蘇ることができます。

「ルカによる福音13・22-30」
 ある人がイエス様に救われる方法を教えてくださいと頼み、また救われる人は少ないのかどうか尋ねました。イエス様が答えて救いの道を教えようとしました。イエス様は「狭い戸口から入るように努めなさい」と言う答えで救いの道をすべての人に教えてくださいます。その狭い戸口は確かに信仰の厳しさ、神様の共同体に尽くすこと、人生の中で愛の為に生きることなどの救いの道を示してくださいます。このような生き方はイエス様の十字架の愛を理想にし、復活の喜びを目指しています。初代キリスト信者の間にも、救いの話、そして神の国で一番になる人の課題は少なくなかったので、イエス様が人々の心に応えようとしています。まず救いに関しては意味のない事柄を強調されています、「ご一緒に食べたり飲んだりしましたし、またわたし達の広場でお教えを受けたのです。」このようなことは救いを得られる資格にはなりません。聖霊によって神様のみ旨を行うこと、また神様のみ言葉に従うことによって、イエス様が話してくださった救いを得られることになります。狭い戸口に関してイエス様の発言は少しずつ明らかにされています。この神様まで導かれる戸口はいつも開いています。どうしても入ろうとすれば確かに神様の喜びに達することができます。イエス様を信じて、イエス様と一緒に十字架を背負い、人と神様を愛することは人間にとって簡単なことではありません、厳しい時も辛い時もあります、それはまさに狭い戸口に立つようなことですが、イエス様がおっしゃったように、どうしても入ろうとすれば神様に導かれて救いの喜びを得ることができます。イエス様はわたし達の救い主、イエス様が救いの道を教えてくださいます。自分の人生の中でイエス様を受け入れることによって心の救いを得られます。
                           モヨリ神父

C年 第20主日 

2016年08月09日 | 神父様からメッセージ(C年)
 
 キリスト信者はお盆に、つまり8月15日を迎えると聖母被昇天を祝い、天におられるマリア様、聖人達、皆のそれぞれの先祖を思って祈ります。このような天国はわたし達の心にまで及んでおり、わたし達もその天国に属しています。実は天国がわたし達の人生の目標になっています。その天国とは神様が住んでおられるところであり、神様に愛された者も住んでおり、神様を愛する人も永遠に住んで生きています。そして、そこに住む皆が大きな喜びに満たされています。皆が身近に兄弟姉妹のように生き、その中に神様に上げられたマリア様と聖人達もわたし達を愛情で包み、見守っていてくださいます。天国に神様から上げられたマリア様がわたし達の希望、理想と一緒にわたし達の苦しみと悲しみも、神様の前で、それを大きな喜びに変えてくださいます。さてある時、聖ヨハネ、マリア、ビアネイ司祭がフランスの小道を歩いていると少年に会いました。「ちょっと、すみませんがアルス市に行く道を教えてくれませんか」と司祭は頼みました。「はい!」と喜んで少年が答えました。それで、司祭も同じ情熱と喜びで「さあ、わたしが恩返しに天国に行ける道を教えてあげますよう!」と言いました。今日、聖母の被昇天にあたり、マリア様が同じ道をわたし達に教えてくださいます。
「ルカによる福音書1・39-56」 
 当福音書の個所は神様が小さなものを通して素晴らしいことを成し遂げられたことを語っています。人間の救いの為に神様がなさったことを、身近に見られたマリア様が感謝と喜びで満ちた歌を歌います。マリア様が自分のいとこエリサベットを訪ねた時に神様の思いを確認することが出来ました。つまり、神様が人間の弱さを通してご自分の心の通り、偉大な思いと行いを見事に成し遂げ、清い心を持った人に表しているのです。神様の存在と働きは小さなしるしを通して皆の人生の中に起こります。それに気づき、天使の声によって確認されたマリア様と同じように、わたし達の大きな喜びのもとになっています。神様が皆の人生に関わっています。聖母被昇天のミサの典礼では、イエス様の教会もマリア様と同じように神様の働きに気付き、それを確認し感謝と喜びの歌をささげます。マリア様は日常の出来事を深く読み取って、その中に神様の働きのしるしを見出し、それを理解して大きな喜びで抱かれていました。福音書の中で記録されたマリア様の歌は、マリア様ご自身と教会の皆の喜びに満ちた感謝が豊かに表現されています。マリア様と同じように教会も現在の世界の中で、神様の存在とその救いの働きを人に示す役割を持っています。またキリスト信者を通して、神様が人類の為に神秘的な救いの計画を気付かせて確認させる任務を与えています。それを受け取って、気付く、理解する人々はマリア様と同じように喜びと感謝で、弱い自分の人生を神様に高められて歌うことが出来ます。
                             モヨり神父

C年 第19主日

2016年08月02日 | 神父様からメッセージ(C年)
 

 今週に「平和の旬間」もはじまります。誰でも心の平和、人生の平和、社会の平和を望んで求めています。よく考えてみれば「平和」は復活されたイエス様の貴重な贈り物です。それは神様の思いのように生きると言う意味です。さてそのような平和を実現するために、キリスト信者は全世界の人々と一緒にこの旬間を大切にし、お祈りします。力が衰えてくる夏の間、体は涼しい木陰や健康を支えてくれる飲み物や、食べ物を欲しがっていますが、実は心も同じような時を迎えています。その時、それを支えて、満たしているのはイエス様です。キリスト信者はイエス様の言葉を受け入れて、イエス様の体にパンとして支えられて、苦しい時でも力強く人生を歩み続けています。イエス様が弟子たちを支えながら彼らに目覚めているように勧め、いつも、どんな時でも心の用意を持つように教えました。その教えに従う者は大きな喜びを迎えられるのです。
「ルカによる福音書 12・32-48」
 当福音書に題名をつけようとすれば、「準備しながら期待すること」。期待するのは時間の流れが大切だし、その時間をどのように過ごしているのかが欠かせない思いになっています。待つ心は以前された約束から生まれてきます。だから期待するのは約束とそれを実現することが結びついています。むしろその熱い期待によって、約束されたこととその実現する期間を短縮します。約束から、その実現の間の日にちは神様から与えられたチャンスであり、大きな贈り物です。上手にそれを利用すれば、約束の実現する時までにふさわしい準備ができます。だからキリスト信者にとって期待する期間は大切であり、使徒パウロにも上手に使うように勧めています。待つ人は信頼を持って期待していますと言っています。さて、当福音書は三つの名言で分けられています。一番目は「あなたがたの富のあるところに、あなた方の心もあるのだ。」二番目は「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕達は幸いだ」三番目は「全て多く与えられた者は、多く求められ、多く任せられた者は、更に多く要求される」。一番目の言葉によってイエス様がご自分の聞き手に安心を与えています。重要なことは神の国ですから、それに皆が属しています。それを信じない人、また神の国に属していない人は空しく、この世の財産を握って大切にします。二番目は普通にはありえないようなことが語られています。僕のように忠実に生きてきたキリスト信者は神様から呼ばれた時、また出会った時に、寛大な心である神様に大切に給仕してもらえることになっています。最後に三番目は神様の憐れみと慈しみは、イエス様に一所懸命従ったものたちに豊かに与えられることになっています。結論として、神様からいただいた贈り物を上手に、感謝の心を持って使用した者たちは豊かに恵まれます。