カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 C年 待降節第一主日

2009年11月28日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

今落ちつつある葉、すでに落ちた葉、共に「落ち葉」といいます、その落ちる様子、その音、散り敷く状態に風情があり無常を感じさせるものがあって、多くの人が心を寄せています。落ちる葉は寿命のしめくくりを例え、人の世の空しさを語っているようです。冬が進むと、陰暦十月は時雨月ともよばれ時雨とは冬場、急に少時間降る雨のことで、日本人の独特の感性を育んでいます。お茶の花も白色五弁のふっくらとした姿をみせます。日本の歳時記から勧められたこのような季節の現象と思いはキリスト信者にも待降節の意味に結びついて、より深い神様の存在を語ってくれます。神様の救いは聖書では雨、雨が降ることに例えられています、雨が降って、土をうるおし大きな収穫の準備につながっているのです。枯葉は落ちても、滅びと空しさのしるしだけではありません、枯葉が落ちることこそ春を迎える準備になり、新しい命を育んでいるしるしです。冬の間に咲くお茶、山茶花の花も冬の間に咲くクリスマスの喜びを例えています。クリスマスまでその準備のため、とても貴重な四週間が残っています。それは待降節(ADVENTUS)と呼ばれて 1600年前にスペイン典礼の中から始まってしばらくの間全世界の典礼に取り込まれています。この時新しい典礼の年が始まり今度C年に入りました。福音書の朗読もほとんど「ルカによる福音書」が中心に朗読されます。
さて、キリスト信者にとって忘れてはいけないのは待降節の精神です。イエス様は約束された通り再び来られます。その出会いを期待する、積極的に待つ、目を覚まして自分の人生の改心を求め、絶えず忍耐の中にあることなどが待降節中の心構えです。
ルカの福音書21・25-36
当福音書のこの箇所はイエス様との再会を期待する人々の心が描かれています。この世の終わりのこと、宇宙万物の破壊のことは一般の人にはそれを想像して、恐れ、不安を起こす出来事ですが、キリスト信者には解放と安心の時になっています。キリスト信者は安心して人類に慈しみのある審判(イエス様)を期待しながら、色々な悪から自由にされる時、完全に赦されることを待っています。その時イエス様から、喜びのしるしとして目(頭)を上げるように勧められています。実は目(頭)を下げたのは神殿で祈る罪人でしたが、この時、イエス様に目を上げるように勧められたのは完全にイエス様から赦されて、悪から解放されたことを示しています。イエス様の再来を期待するキリスト信者は地上的な心配に追われないように神の言葉を読み、それを大切にし、深めながら待っています。それに従って、欠かせない心の態度は二つあります。目を覚ますことと祈ることです。このような心の態度をしっかり持つことにすれば、キリスト信者にとって最大の誘惑が現れる時に、つまり信仰を失おうとした時に耐えることが出来ます。それだけではなく、目覚めて祈るのは共同体の中で隣人愛、分かち合いをも実行して神様の愛に倣うことです。このようにキリスト信者は神様に愛されています。イエス様の再来は人類を裁く時でありながら同時に皆、全てが神様の慈しみと憐みに包まれる時になります、その時に皆、神様の懐に大きな愛情の中に受け止められるのです。
                          
モヨリ神父

毎週の一言 B年 王であるキリストの主日

2009年11月20日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

イチョウが美しい黄色に染まる季節になりました。気象台では、イチョウに緑色の葉がほとんどみとめられなくなった日を「黄葉日」として観測しています。熊本では、11月27日、昨年は11月29日でした。最近は秋の気温が高いため黄葉がやや早まる可能性もあります。この時季として非常に強い寒気が流れ込み、冬の寒さがやってきました。この寒さは勤労感謝の日も続きます。朝晩の冷え込みは今週後半にかけても強い見込みです。早霜の恐れがあるため、農作物の管理にも注意すべきです。少しずつ冬の足音が大きくなります。
さて、王であるキリストの祭日を迎える時になりました。キリスト信者に欠かせない選択を語ってくれる時だと思います。私たちの人生には重要なことが多いと思います、たとえばテレビ等のコマーシャルで宣伝する品物はまるで世界一大切なもののようですが、しかし自分のことを宣伝しないイエス様、自分の弱さを十字架で自慢するイエス様は私たちの、唯一絶対欠かせない王です。私たちにとって一番大切な存在です。私たちの王は苦しみの茨の冠をかぶり、侮辱の赤いマントを羽織り、良い牧者の杖を手に持っています。私たちのすべて、それはイエス様、愛を語ってくださるイエス様です。すべてのどんなことよりも大切であり、私たちの人生、私たちの思いの中心です。
次に当祭日は私たちの信仰も飾ってくださる豊かな思いをもたらす、日本の文化の勤労感謝の祝日です。皆、仕事に対して又住居や、着ること食べること等生活のすべてに対しても、神様に大きな感謝を捧げるべきだと思います。すべての人類が豊かな生活を送っているわけではありませんが、日本は国民の大きな勤労の力、また神様の恵みによって安定した生活を送れるようになりました。私たちの王であるキリストにいただいた恵みのために、今日は心をこめて感謝を捧げましょう。
ヨハネによる福音書 18・33-37
イエス様はピラトの前で王であることを宣言します。その時、イエス様が霊による王であることを示しながら神様が支配される世界の証となっています。イエス様の国は勝利の国であり、普遍的です。王であるイエス様は自分の敵までも大きな慈しみで受け止める心を示しています。王であるイエス様は人類のための神様の賜物であり、赦しの賜物、命をもたらす賜物、神様に対する祈る場です。このようなイエス様に倣い、キリスト信者は自分の人生を奉仕して捧げ、イエス様の国の支配のことを覚えて生きるのです。当福音書のこの箇所では二つの流れを示しています。一方でピラトはイエス様の犯罪を論争し、他方でイエス様はご自分の国の心を語っています。イエス様がイスラエルの王であることを宣言したので律法学者たち、ファリザイ派の人が反論して訴えました。ピラトはイエス様が潔白であると思ってもイエス様のことを保護しません。しかしイエス様は自分の国について明確に愛に満ちた心で語ってくださいます。「わたしの国はこの世には属していない。この世に属していればわたしの部下が戦ったはずです。」聖アウグスチヌスが次のようにイエス様の言葉を強調しています。イエス様の国はこちらにあるのにこの世に属しておりません。同じように、キリスト信者はこの世に暮らすが国籍は別の国(天の国)にあります。イエス様は天国の証であり天国の喜びを語ってくださいます。イエス様に結ばれることによってキリスト信者は王であるイエス様に支配され、真理の中で生きるようになり、より素晴らしい天国にあるものの証になっています。                     モヨリ神父

毎週の一言 B年 年間第三十三主日

2009年11月13日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

七五三は11月15日に、3歳5歳の男児、3歳と7歳の女児を祝う行事です。男児、女児とも三歳の髪置き、4歳の紐解きに当たる子が、親に付き添われ着飾って産土神(うぶすな神)に参拝し、お世話になった方々を招き小宴を張ったりします。今まで息災に育ってくれたことへの感謝と、これからの健やかな成長を祈ります。思いのこもった晴れやかな祝いごとです。同時に日本人のキリスト信者も日本の伝統的な文化を祝いながら、神様から頂いた命のため、また子供を与えてくださったことに対して大きな感謝を持ち、弱い、特別に神様が愛される小さい者たちのために祈ります。確かにどんな文化の中でも、神様の種がまかれており、その中から成長します。子供達は神様の大きな贈り物ですから、大切に受け入れて、宝のように預からなければならないのです。神様からいただいた命を大切に育てながら子供たちに一番おいしいもの、一番綺麗な服を準備し、一番素晴らしい理想を与えるようにしながら、その中に一番価値のある心の喜びを与えるようにしましょう。それは、私たちに洗礼式の時に神様が下さった信仰の宝です。この時こそ日本の文化が人間の命を尊ぶように、キリスト教はその命が神様からの欠かせない贈り物である事を目が覚めるように悟るのです。
マルコ福音書13・24-32
典礼による一年間の最終の年間の主日を迎えることになりました。今度の日曜日(22日)の「王であるキリストの祭日」で完全にイエス様の生涯、行いと言葉の朗読などの典礼も閉幕になります。典礼が最後に強調するテーマはこの世の終末、イエス様の再びの来臨、最後の審判、そしてそれに従う救いの時の始まりです。この世の終わりを考えると、人間は不安な思いにかられるのですが、今この時、この一瞬もその時と同じように神様のみ旨に属している事だと考えれば、すべての出来事は神様の計画に属しているとわかります。だから人間はどんな時でも神様から頂いた時間だと心に留めれば、世の終わりの時も心からそれを受け入れられます。そして再びイエス様が来られる時にイエス様に従った者たちは自分と人の救いのために人生を尽くしたのですから、自分の名前がもうすでに命の本に記されたことが聖書からわかります。その時キリスト信者は大きな信頼に支えられて、大きな希望で満たされて、永久に神様と共に大きな喜びを味わうことになります。当福音書では旧約聖書の預言とイメージを借りて、神の子の到来が語られます。天地創造の時には暗闇から光に照らされる世界になりました。反対にこの世の閉幕は大きな光から暗闇に戻る形で語られています。この最後の到来にイエス様は神の子でありながら、人の子と呼ばれています。そしてその形で人類を裁くために来られ、神様に近い者を皆、救うことを宣言します。当福音書は恐れ、心配を与える目的の言葉ではありません、むしろ目を覚まさせて心の準備を勧めています。イチジクの木のたとえ話が、聞き手に夏が近づいたしるしを語ってくれるように、その時もいきなり来るのではありません、注目するいくつかのしるしによってこのような予想された出来事が確かにいつか起こります。イエス様がこのような言葉で自分に従った共同体の心を支え、心の準備をさせています。神様だけが歴史の主ですから、イエス様に従った者たちは心して最初から終わりまで、どんな時でも神様の働きを見極めているべきです。
                               モヨリ神父


毎週の一言 B年 年間第三十二主日

2009年11月07日 | 神父様からメッセージ(B年)
イエス様のことを愛される皆様へ、

11月8日頃は冬の季節に入る最初の節季で、日差しも弱くなり冬の気配が増します。朝晩冷え込み、大地は凍りはじめます。霜は熊本の平地ではこの頃、阿蘇などの山間地ではそれより早く降ります。田の隅の籾殻(もみがら)また散らばったわらくずの上や草、そして屋根などに降りているのを見ると、冬の到来を実感させる自然の美しさがあります。さて、鴨にはいくつかの種類がありますが、湖沼、河川や海で見られる渡り鳥で、秋にやってきてつがいをつくり、春に北方の繁殖地に帰ります。群棲しその中に見張り役がいるといいます。「初鴨」とは4~5羽のグループで渡ってくる一番手の鴨をいいます。また11月は死者のことを思い偲ぶ月になっています、永遠の命を讃えるキリスト信者にとっては悲しむ時ではなく、むしろ亡くなられた親類とお祈りの中で新たなつながりを築くようになります。すでに天国におられる私たちの身内やご先祖様は私たちを見守っていて、私たちが彼らとお祈りの中でつながり、ずっと一緒に神様の懐にいることができます。キリスト信者には天に神様が備えられている住み家があるので、死は体の滅びではなく新たな命への門であります。
このような思いの中、カトリック教会では憐み深い寛大な心によって、信者で無い方でもお葬式を執り行う事ができます。わずかな献金で、事情があって教会でお葬式を希望される方の願いに心から応えることができます。
マルコによる福音12・38-44
神様はルールを守る人自分の努力を自慢する人よりも、人の心を見て評価します。当福音書は真の信仰の道について話してくださいます。ファリザイ派の人たちは自分の行いの表面的な結果を探し求めていますが、福音書に出てくる未亡人は神様が好む心をみせてくれます。イエス様が人の様子に注目されていました、大勢の人はあり余る中から献金していましたが未亡人は「すべて」、自分が生きるための持っているもの全てを神様に捧げました。イエス様は特別にこの未亡人の心を喜ばれ尊まれています。イエス様はご自分の言葉の力を通して皆に向かって、ファリザイ派の人々の考え方に注意するように言われています。当時のユダヤ人の学者たちが論争したようにイエス様も人のやり方を比較します。登場する人物のふたつのタイプとも、神殿で神様に献金を捧げていたのですが心の態度は完全に違います。自分のやったことを自慢しながら、人の注目を求めて、それと知らずに神様を侮辱しているのがファリザイ派の人の行動でした。
反対に未亡人は心の自由な、財産から縛られていない心を示して神様に自分の貧しさを捧げものにします。未亡人は神様に対して大きな感謝の心をもって自分の弱さの中からすべてを、自分の命でさえ神様に捧げます。このように行動を比較しながらイエス様が今日も私たちにより深いことを教え続けています。はっきりと私たちにも、神様がどのような心を好むかを教えてくださいます。
                           モヨリ神父