カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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毎週の一言 C年 復活節第五主日

2010年04月30日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

いよいよ春も過ぎようとしている「四月尽」であります。「弥生尽」ともいうが、これは正確には陰暦三月の晦日(みそか)のことです。「惜しむ」と言っても淡い感傷と言ったところか。胸中の思いをとりあえず言葉にしたような感じの季題です。「五月祭り」を迎えるよりも、四月の異動期をかけての「五月病」の方が身近に感じられる昨今であります。旅に出ることも自己の発見や再生につながることだと思います。五月には「子供の日」も迎えます。子供たちの元気な姿と心を願いながら、青空で泳ぐ鯉のぼりが景色をかざるのも明るい心、元気な気持ちを与えてくれます。また五月中にいつも神様の愛で燃えて生きるキリスト信者は、とても綺麗な感動的な祝日を迎えることになっています。それは主の昇天、聖霊降臨、三位一体の祝日、イエス様の聖体の祝日です。このようなお祝いは全てキリスト教の豊かさを語りながら、神様の神秘的な姿を示し、人間と神様の関わりを深めながら、どれほど神様が私たちの日常生活の近くで、どのように私達と共におられるかを経験することになります。最後に母の日は五月の心をかざってくれます。
ヨハネによる福音書10・27-30
イエス様がキリスト信者の愛の基本、模範と目的であることは当福音書のテーマです。普通、愛には命令が出来ないはずです。との名言の意味は言いかえれば、愛には理性で理解できないこともあります(B・パスカル)。確かに自分のことを愛するように人に命令しても無理なことで、人間には情けが自発的に湧いてきます。どうしてイエス様が自分を愛するように命じているのでしょうか。イエス様が勧められている愛は情けに属す愛ではありません、このような愛は私たちの中に宿る聖霊によって燃え、イエス様から頂いた贈り物であり信仰から湧いてきます。イエス様が勧められている隣人の愛は特別であり、神様が一人一人を包んでくださる愛と同じで、それは信仰によって極める愛です。イエス様が情けの中から自発的に発生する愛だけではなく、信仰から実った愛を命じてくださいます。
イエス様に栄光を与えることによって、神様がイエス様の死と復活を通してどのように、どれほど人類を愛してくださったかを見せてくださり、イエス様が成し遂げられた神様のご計画は人類のための愛の手本をくださったのです。そしてイエス様は神様の心の鏡として自分の心の愛を人類に見せられました。「友の為に命をささげる、それ以上に大きな愛はない。ヨハネ福音書15,13」このようにイエス様の栄光(死と復活)を通して神様は自分の普遍的な愛を見せたかったのです。このような愛の形はキリスト信者にとって手本になり、この方法でお互いに愛し合うようにイエス様から勧められています。だからイエス様は愛の泉であり、その基本、その目標です。「マタイ25・40」の中でイエス様が言われるように「このような小さい者にしたことは、わたしに直接してくれたことなのです。」私たちの小さい兄弟たちの中におられるイエス様は、私たちの愛の目標です。自分の人生で身近に神様の愛を経験したキリスト信者は、神様の愛で隣人の中におられる神様を愛します。だから神様の愛の力で信じ、それで生きるキリスト信者は、神様と隣人を愛してその愛をこの世で広げようとします。        
モヨリ神父



毎週の一言 C年 復活節第四主日

2010年04月22日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

牡丹(ぼたん)は「百花の王、百花の神」と称されるほど重量感と気品に満ちた花です。咲き満ちたときの存在感はいうまでもなく、芳香を伴った大輪を目のあたりにすると日輪よりも大きく感じるほどです。気候は暖かくなって蜂たちは飛び回り荘厳な色、甘い香りを持った大きな牡丹に入り込むと素晴らしい世界に入ったように楽しんでいます。散ってゆくときもまるで大地に音を響かせるようで大人の生死を見るおもいです。さて、4月20日ごろが春の終わりの節季で穀雨(こくう)と言います。春雨の降る日が多くなり、田畑を潤すため、穀物の種蒔きとその成長の好期です。復活節中豊かに喜んで過ごしている信者たちは、毎日の福音書の朗読に入り込むと素晴らしい色で光輝く世界を見出し、心をとらえる香りのようにそれを味わうようになります。復活されたイエス様の姿を見た弟子たちは同じように、大きな勇気の力を持って自分の心や自分の愛する共同体も成長させて、全てのものにイエス様の復活の喜びを伝えています。
ヨハネによる福音書10・27-30
時によって、キリスト信者は自分の信仰について問われることがあります。当福音書は私たちの信仰の柱を三つ教えてくださいます。イエス様を「聞くこと、知ること、従うこと」です。このように人はイエス様のことを信じるようになり、ずっとイエス様に結びつきつながっています。人が信じるようになってイエス様に属すようになるのはもう一つの神秘的な理由があります。それは神様ご自身がイエス様と一つであるように、羊のような私たちが神様からイエス様に与えられて、イエス様と一つになってこのようにイエス様とずっと結びついているのです。初代教会の時から弟子たちの声を聞き入れなかった人は、永遠の命の拒否をしたことになっていましたが、それを受け入れた者たちはイエス様の羊の群れに属していることになりました。詩編によると神様と話さない人は、暗いところにいて死んだような者になっています。言葉や創造物、毎日の出来ごと、自分の意識を通して、いつも話してくださる神様につながって聞く人は永遠に生きるのです。実はキリスト信者は「聞く」それは、耳で聞くのではなく、心で、体で、頭で聞くことになって理性、直感、情けを通してイエス様の姿、思い、言葉、行いを受け入れるのです。このような方法でイエス様を聞くことにすれば、キリスト信者はイエス様に従う行動が出来、イエス様を真似しながら自分が置かれた日常生活の中でイエス様とまったく同じように生きることになっています。キリスト信者はイエス様の真似をしてもイエス様の言葉と行いをリピート(反復)するのではなく、キリスト信者は神様に置かれた人生の具体的な立場に立ってイエス様の思いや心をもって、その中で行い、工夫して生活を送っています。このようにキリスト信者はイエス様と深く結びついています。自分が洗礼を受けた時に、聖体をいただい時の経験を考えてみれば、イエス様に従うようになったその時こそ、イエス様と深い結びつきが出来たのです。このようにイエス様と結びついたキリスト信者は、イエス様と一つになり、イエス様と一緒に生きるようになります。それに従って使徒パウロが言ったようにキリスト信者はイエス様と共に死んでイエス様と一緒に生き、永遠に復活します。これは皆に神様から勧められた使命です。
                          モヨリ神父


毎週の一言 C年 復活節第三主日

2010年04月17日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆さまへ、

春の強風を表す言葉に「春疾風」(はるはやて)があります。疾風は急に吹き起こる風のことです。春は寒冷前線の通過前には強い南風、通過後には強い北風が吹きますが突風を伴うこともあり三月は寒い日が多かった印象も強いのですが、寒暖の変動が大変大きく、暖かい日も多かったのです。月全体を平均すると気温は平年より高かかったので、藤の花はずいぶん早く咲いたようです。桜は散り始めたところも多くなってきましたがこれからは初夏の花が楽しめます。
復活祭の実りも上記の自然現象で例えられます。キリスト信者は聖霊の風に吹かれて、つまり復活されたイエス様の息を浴びて、新しい心で、新しく生まれ変わって勇気を出して神様からいただいた人生を大切にします。キリスト信者は生きていても死んでいてもイエス様と一緒になって、復活されたイエス様と一緒に復活して、赦しと慈しみの心を持ち、いろんな苦しみを乗り越えられます。キリスト信者はこのような強い風の翼に乗って人生を送ります。復活祭の時に受けられた恵みも良く見れば自分の人生の中、共同体の中でも当季節の様々な花と同じように見事に咲いています。このように神様の美しさを身近にみられます。
ヨハネによる福音書 21・1-9
先週の福音書の箇所の主役者は使徒トマスでしたが、今度はペトロです。ペトロが漁に行く決意をしめしましたが、陸にイエス様がおられるとわかって、すべてを残して水に飛び込みイエス様のもとに戻ります。その時ペトロがもう一度イエス様の呼びかけで、当時の共同体、すなわち教会の責任を預かります。復活されたイエス様が何度も、不信感をもった弟子たちの目の前に現れますが皆は誰であるかすぐにわかりませんでした。しかし、イエス様の言葉と行い(やり方)によって、弟子たちが知らない姿の人の中に、復活されたイエス様を見出すようになります。当福音書の骨組みはおもに二つに分けられています。聖書の解説とパンを割り分かち合うことです。それに従って、復活されたイエス様との感動の出会いと、イエス様の羊を指導するためのペトロの再派遣です。復活されたイエス様は人の日常の出来事の中で働き、その中で不思議なしるしを通して自分の姿を身近に見せるようにします。今回、イエス様が大量にとれた魚のしるしを通して、自分の言葉の力をしめします。網に掛かった魚153匹は歴史の中でとても面白く解説されていました。1)数字はヘブライ語の文字にかえれば「愛の共同体」のことを示しています。2)153、当時知られた魚の種類の数であって、人類のことも示しています。3)153の数字をたすことによって、「完全」という意味をあらわれています。4)最後に、おそらくいつも自分の福音書の中で完璧を求めたヨハネが、細かいところまでイエス様のみ言葉の結果を示した数字であるということもあります。しかし当主日の典礼で一番大切にされたところは、イエス様とペトロの対話です。ペトロがイエス様の裁判中、三回もイエス様のことを知らないとした発言に対して、今度はペトロがイエス様に対して三回も自分の愛を宣言します。その宣言の中でペトロの回心もあり、イエス様の赦しも明らかにされています。同時にイエス様とペトロの間の対話は、イエス様とキリスト信者の間の対話をも示されています。イエス様は信者に確かに大きな愛を求めていますが、同時にイエス様に従う者が無償、普遍的なイエス様の愛を受け入れるように勧められています。イエス様とイエス様に従う者との関係は見事な愛、回心、赦しの間で定められています。そのようにイエス様に再び任命されたペトロはイエス様に従う者たちに、このようい指導、支え、むしろ心の命を与えるように呼びかけています。                     
モヨリ神父
               

毎週の一言 C年 復活節第二主日

2010年04月07日 | メッセージ(その他)
イエス様のことを愛される皆様へ、

清明、4月5日ごろ「清浄明明潔」を略したものと言われ桜や草木に花が咲き始め、万物に清らかで明るい気が溢れてきます。れんげ畑の花のじゅうたんに座って、摘んだ花で首飾りや冠りを編みながら遊んでいる女の子がいます。昭和30年代までごく普通に見る春の風景だったのです。一面に咲いて薄紫の雲が棚引くように見える花と意の「紫雲英」の字とともに中国から渡来したマメ科の植物です。このような美しい枠の中で復活祭にキリスト信者は自分の心の素晴らしい作品を作り上げました、それは欠かせない復活祭の大きな喜びです。さて、芸術家はどのようなものでしょうか、芸術家は生きている瞬間を愛し大切にしながら、その中で自分の心、体、想像力を尽くしてその神様からいただいた大切な瞬間を感謝を込めて実らせています。その時、偉大な大作が生まれます。同じようにキリスト信者は復活祭の時を生かして、大きな喜びを味わい、神様との偉大な出会いができます。その時、信仰の大作を見るようになります。復活されたイエス様をキリスト信者の共同体の中で見いだすようになり、それは復活祭の大変素晴らしい経験となります。
ヨハネによる福音書20・19-31
使徒たちの間に、イエス様が復活されてから確かに不信感も広がった時がありました。使徒トマスのように仲間の使徒たちの言葉を信じないで、自分の経験によるイエス様との出会いを求めていた人もいました。トマスはイエス様と出会った時に、自分の手を傷跡に当てさせていただいたことよりも、イエス様がもたらした平和にとらわれました。イエス様がもたらした「平和」はめでたき挨拶だけではなく、同時に希望と預言になり、実現された出来事でした。「平和があなた方にあるように」とは、あくまでもイエス様(神様)のみ言葉ですから、人間の為の贈り物であり、おっしゃることは実現されます。それを受け入れる人、その平和を受け入れる共同体は変わり、豊かになって、新しい理想の中で生きるようになります。イエス様の平和の中で生きるキリスト信者は、意味深い喜びで満ちた人生をおくります。当福音書の個所は三つの部分に分けられています。第一部はイエス様が聖霊を贈り物として与えます、第二部はイエス様と使徒トマスとの対話、第三部はヨハネ福音書のしめくくりです。
第一部 イエス様の使命の中で、もっとも重要なところは人に聖霊を送ることです。その贈り物の中身、あるいはその心は罪の赦しです。それに従って、聖霊に支えられた使徒たちの使命は罪の赦しを告げて、それによって、神様の心を見せることです。第二部 使徒トマスの不信仰は当時の使徒たちの共同体の中で問題になってきた不信感を表しています。当時、ある人にとってイエス様の復活を信じるために弟子たちの証言が足りなくなってきて、自分の経験によって信じる人も現れました。しかしその疑問について、イエス様自身がこたえるようになりました。弟子たちの証言によって(つまり、見ないで、自分の経験がなくても)信じる人は幸いです。第三部 ヨハネ福音書のしめくくりは福音書の目標を表しています。福音書はイエス様の人生を語る書物というだけではなく、イエス様は神の子であり、メシアであることを信じる為にいくつの「しるし」を集めてくださった書物です。だから福音書は歴史的な記録ではなく、記録を並べた資料でもなく、信じる為に、永遠の命を生きるために書かれた書物であり、皆の心が大きな喜びで満たされる良き知らせなのです。          モヨリ神父